せんすいトイレ1
トイレと言うと兎に角臭い。後始末も面倒だし長居したい場所でないどころが用がすめばさっさと立ち去りたい場所である。
それは庶民の暮らすボロ屋だろうと街にある宿屋だろうと貴族の邸宅だろうと変わらない。もしかしたら王族のトイレは快適かもしれないが、どのみちトイレという場所に長居をしたくなる人間はいないだろう。
だから、そのトイレを見た時、私はどう使うのか分からずに店の主人に声をかけたのだ。
「おい主人、トイレは何処だ」
「今旦那がいるところですが」
「どう使うんだこれは」
私の質問に主人は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐ理解した表情を浮かべて「お客様は外の街から来ましたか」と頷いた。
「洗水トイレっていうんですよ」
「せんすいトイレ?」
「最近この街で出回ってる魔具でしてねぇ」
宿屋の主人は得意気にトイレについて語りだした。私は股に力を入れて膀胱を宥めつつ、主人の話を聞く。
なんでもこのトイレは座って用を足したあと、後ろにあるレバーを回すと勝手に水が流れ後始末をするのだという。
「流れたものはどこへ行くのだ?」
私はとある街で糞尿の始末を道に落として済ませていたのを見た事があり眉を寄せる。
あの街は最悪という他無かったが、私の出身である街も肥料にすると街の一ヶ所に集めていたので臭いは似たようなものだった。
そう言えばこの街はあまり臭くはない。
「それがすごいんですよ!」
宿屋の主人はさらに得意気に胸を張り、私の膀胱は悲鳴を上げる手前までいく。
「設置するときに巨大な壺を地中に埋めるんですがその壺の中で綺麗にして、綺麗にしたものは流すのにまた使うという便利なものでして!」
いや意味がわからないと思ったが、私は限界だったのでとにかくレバーを回せば後始末ができるのだと言う事を理解しトイレから主人を追い出して変わった形をした椅子に座り、そこに我慢していたものを解放した。
ひとしきりすっきりした後、宿屋の主人が言っていたレバーを回してみる。
ゴポゴゴジュゴッという音をたて椅子に空いた穴に水が勢いよく流れていく。私が出したものもその水と一緒に綺麗に流れていった。
「……なんと」
その鮮やかなまでの始末を眺め、私はトイレだと言うのに一種の感動すら覚える。
衛生的であり、簡単であり、なにより臭くなく清涼感がある。
まさかトイレを素晴らしく思う日が来るとは思わなかった。これは是非ともこのトイレを我が家に設置したい。
私はトイレから出て宿屋の主人に再び声をかける事にした。
あの魔具はどこに売っているのかと。
■■■■■
翌日、私は一軒の店の前で奇妙な看板を見上げていた。その看板には大陸共用語で「魔具店」とあったが、その後に続くおそらく店の固有名であろう文字は見たこともない形をしていて読めなかった。この国の文字でもないし、隣の大陸にある文字の形とも違うそれはどこか全体的に丸い形で四つ並んでいる。
首を捻りつつ、魔具店とあるから間違ってはいないだろうとやたらに古びている扉に手をかけた。
カラカラと木で作られていたドアベルが鳴る。店には雑多に使い方の検討もつかないものが並んでいた。すべてがうさんくさく見える。そもそも店の立地からして、あのトイレを作ったとは思えないものだった。
普通店と言えば街の商人区にあるものだが、この店は商人区も職人区からも外れた居住区にあり、しかもわざとしか思えない程細い路地を入った非常にわかりにくい場所にあった。
具体的には朝宿屋を出て迷って迷って昼の鐘を飯も食わずに聞き流して歩き回り、見付けたのは貴婦人達がお茶を楽しむ時間になってからだった。土地勘がないとはいえ本当にわかりにくい場所に店をかまえたものだと鳴る腹を放置して逆に感心してしまった。
もはや日が落ちる前に帰る自信は皆無だが、来たからにはなんとしてもあのトイレを我が家に持って帰りたい。
私は雑多に物が並ぶ棚を縫うように歩き抜け、カウンターで何やら書き物をしている店主らしき人物に「トイレをひとつ頂きたいのだが!」と勢いこんで言った。
店の主人らしき男は怪訝な顔をして書き物をしていた手を止め、私を見上げてきた。どういう訳か私をしげしげと眺めた後「いらっしゃい」と、とても歓迎してなそうな声を出して言う。
なんとも愛想のない主人であったが、あの素晴らしいトイレを前に私は店主の態度ごときで文句を言うつもりはない。
「で、なんだっけ?」
「トイレだ!」
間延びした問い掛けに私は勢い込んで宿屋で体験したトイレの素晴らしさを語り、さらにそれがどれだけ欲しいのかを語って聞かせたが店主はどうでも良さそうに「はぁ」とやる気のない声を出した。
「と言う訳で私の屋敷にもあれが欲しいのだ。売ってくれ!」
「売るのはいいんだけどさ」
店主は深いため息をつき、何やらカウンター内をごそごそと探り一枚の紙を出した。しわくちゃになっているその紙をカウンターへ広げ、珍しい黒い髪をガリガリと掻いたあと「いいか」と面倒そうに口を開く。
「まずありゃあ設置するのに、床に大穴をあけなきゃならんのよ」
「宿屋の主人も何やら巨大な壺を床に埋めると言っていたな!」
「あーまぁそうね。壺じゃねーんだけどまぁいいや。で、その壺を設置するのに床に大穴をあけたあと、便器を設置する工事をせにゃならんのだがその工事がまた面倒で、俺が贔屓にさしてもらってる大工の職人さんじゃなきゃ多分工事ができやしねぇ」
「ふむ」
「家にやたらめったら穴を掘るもんじゃねぇし、よしんば穴をあけたとして設置する職人がいなきゃ始まらねぇの」
「雇おう」
「まじで買うの?」
「まじ?」
「あー……本気で買うの?」
「私は本気だとも!」
「あーそう。わかったわかった。職人には俺から話を通しておくからアンタは明日、自分の家の図面をもってこい」
「図面?」
「家の設計図だよ」
「ふむ」
私は店主の話に暫し日にちを計算したあと「三ヶ月後になるが」と困りきって店主を伺い見た。店主は眠たそうな目を見張り「どこに住んでるんだよ」と聞き返してきたので、山をひとつ越えた先にある隣国の王都だと言えば頭を抱えてカウンターへと倒れた。
「うわめんどくせぇ」
「旅券は職人の人数分用意し、旅費ももつが」
「なんでトイレにそこまで……」
店主は困ったように呟いたが、あのトイレの快適さを考えたら多少の面倒や費用など些細な問題だと私は思うのだが。 さて、三ヶ月待つのは構わないが工事には二月を要すると言われて私は大いに悩んだ。なんでも店主が住むこの街ならば馴染みの職人も作業をわかっていて手も速いが、問題は地下に埋め込む壺だと言う。
「そもそも地下に埋め込む壺のようなものの大きさは馬車の荷台より少しばかり小さいってくらいで、悪路を馬車に積んで運べるようなもんじゃねぇのよ」
「そうなのか」
「重量があってなぁ。出来たものを埋めるんじゃなくて、掘った穴の中で作るんだありゃ」
「なんと! 窯もないのに壺が作れるのか!」
「だから壺じゃねーんだって」
魔具の類いに詳しくはないが、基本的に魔具の製作工程というものは開発者によって秘匿されるものである。製法が漏れればあっという間に真似をされ、開発した人物に研究費用を回収しきるまで儲けられない場合があるからだ。
故にこの店主の説明がどこかざっくばらんなのは当たり前の事なのだ。むしろこの店主はよく説明してくれている方であると言える。
「なんとかならんのか店主」
魔具師相手に「ならばあとは勝手に作るから製法を寄越せ」と言う訳にもいかないので、私はどうしてもあのトイレが欲しいのだと店主に涙を目に浮かべながら訴えた。
「泣くほどのことかよ」
店主の呆れた声を流して私はどうしても、どうしても! あのトイレが欲しいのだと訴える。
「とりあえず簡易式で我慢してみねぇ?」
「簡易式?」
面倒そうに立ち上がった店主がカウンターの奥へ消え、程なく宿屋でみた便座を持って戻ってきた。だがその便座は形状と材質が宿屋のものとは違うようで、私はしげしげと店主が抱えるそれを眺める。
「あのトイレとは違うようだが」
「こっちは移動用というか、持ち運び出来るように簡単にしたもんだ。主に馬車移動とか、船とか災害時なんかに使ってんな」
「なんと!」
そんな便利なものが存在するとは。私は衝撃と感動に頬が赤らんでいくのを感じつつ、鼻息荒く店主に「売ってくれ!」と叫ぶ。
「まいど銀貨十枚で」
「やす!」
私はその価格にも驚愕を覚え、こんな価格設定でよくこの魔具店は潰れないなと目を見開く。本来魔具とは高級品でありその価格もピンキリあるが大体銀貨百枚からが相場だ。
「簡易式だからな。長持ちしねーもんにあんま金とんのもねぇ?」
「しかし魔具が宿屋二泊分とは安いな」
「庶民には二泊分でも悩む金額なのよ? これは移動を考えたもんだから消耗品だし、そもそも魔具じゃねーし」
「なんと! 魔具ではないのか!」
動力に魔石と呼ばれる魔力を発生させる石を使用するものが魔具と呼ばれる道具だが(ちなみに魔具の値段が高いのはこの魔石の原価がそもそも高価だからである)この簡易式トイレなるものは魔具ではないと店主は言う。
「では、水は流れないのか」
「流れないんだなぁこれが」
水が流れないのでは意味がないではないかと眉を下げた私に、店主は「まぁ説明だけ聞けよ」とその簡易式トイレの使用方法を説明しだす。
「基本的に使い方はお前さんのいう宿屋にあったトイレと一緒だ。汚れが気になるんじゃ自分で水を流しゃいいし、水がなくても使える。座って出す、これだけ」
「しかし始末はどうすればいいんだ」
「移動中に使う場合は適当に地面に穴掘って、その上にこれを置いて、出し終ったら穴を埋める。家で使いたい場合はこいつだ」
店主は便座の土台部分をぱかりと開け、引き出しのようなものを取り出してみせた。
「なんだこれは」
「外で使うにはこいつを外せばいいし、家で使うならこいつを設置して終わったあと庭なりとにかく土に埋めればいい」
「私が求めるものと違うが便利には違いない。二つもらう」
「まいど」
しかし持ち運び移動出来るトイレとはこの店主の発想は素晴らしいものがあると私は感心した。これならば馬車で移動する際、茂みに座って踏ん張るというなんとも言えないもの哀しさを味あわなくて済む。
「しかし店主よ、私はやはり宿屋にあったトイレが自宅に欲しいのだ! あれは素晴らしい。勝手に始末をつけ、何より臭わない!」
「その為に作ったからねぇ。あのトイレが普及してから街がきれいになってよかったよかった」
「まったく素晴らしい! 本当に素晴らしい!」
「ちなみに公衆トイレとして街に何ヵ所か設置してるの気付いた?」
「な、なん、と」
あのような素晴らしいトイレがこの街には公衆場として設置してあるのか。ならば市民は自宅にトイレがなくともそこに行けば不快な思いをせずに用が足せるというものである。
「使用料は?」
「掃除すること」
「素晴らしいシステム!」
私は感動にうち震えながら、店主の腕を取る。
「店主よ! 是が非とも我が国へお越しください! そうして私の家と街にトイレを、トイレをっ!」
「簡易じゃだめ?」
「せんすいトイレを是非にー!」
その後三時間の説得の末、店主の「職人と前向きに相談してみる」という言葉を勝ち取った私は意気揚々と宿屋へ戻ったのである。あたりはすっかりと暗く、昼も夕食も食べ損ねたが私の気持ちはかつてない程に高揚していた。