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月の鏡の中で

挿絵(By みてみん)


今夜のように、月の大きな夜だった。


見上げていると

空がこちらへ降りてくるような月だった。


私はその光に誘われて、散歩に出た。


夜の森へ入ったことは、それまで一度もなかった。


けれど、その夜は何人もの人が

森へ向かって歩いていた。

月を見上げる人、誰かと話しながら歩く人

何も持たず、何も言わずに歩く人。


私も、そのあとについていった。


森の小道は白く、木々の影は深かった。


風が吹くたび、枝の隙間からこぼれた月明かりが

地面を移動する。


まるで、森そのものがゆっくりと

寝返りを打っているようだった。


やがて、木々の間に丸い空き地が現れた。


そこだけ、昼間のように明るかった。


誰かが歌い始めた。


月の鏡が裏返し

こちらの世界も裏返し

月の中から出られずに

夢の中から帰れない


歌に合わせて、手を打つ人がいた。


踊る人がいた。


私の知らない歌なのに

どこかで聴いたことがあるようだった。


やがて踊りの輪はほどけ、長い列になった。


人々は歌いながら森の奥へ進んでいった。


私は少し離れて、そのあとを追った。


列は一本の大きな木の前で消えた。


ひとり、またひとり。


最後の人が消えたあとも

しばらく歌だけが残っていた。


木の根元に、うろがあった。


そこから、淡い光が洩れている。


身をかがめて覗くと、奥は思いがけず広かった。


部屋ほどもある空間に

大きな丸い鏡が一枚、立てかけられていた。


月によく似ていた。


そう思った。


それだけだった。


鏡に触れた覚えはない。


足を踏み出した覚えもない。


ただ、月が急に近づいてきて

私のいる場所がなくなった。


⸻


「よすまみずしがきつといならえかくやは」


声がした。


私は大きな木の前に倒れていた。


先ほどの人々が、心配そうに顔を覗き込んでいる。


何か言われているのに、意味がわからなかった。


言葉の一つ一つは聞こえている。


けれど、どこから聞けばよいのかわからない。


私は礼を言い、立ち上がった。


誰かが笑った。


誰かが首をかしげた。


月が少し傾いていた。


暗くなる前に帰らなくては。


そう思って、森の小道を急いだ。


道は覚えていた。


曲がり角も、低い枝も、途中にある石も。


けれど、歩くほどに何かが違っていた。


帰る道なのに、どこかへ向かっている。


右手にあったはずの木が左にあり

左にあったはずの小川が右にある。


森を抜けると、街灯も、店の入口も、植え込みも

みな反対側にあった。


家に着いた。


玄関のドアノブが、いつもと違うところにあった。


鍵は反対に回すと開いた。


部屋の中では、時計の針が逆に進んでいた。


私はしばらく、その針を見ていた。


逆に進んでいるのは時計なのだろうか。


それとも、私なのだろうか。


窓の外には、いつもの月があった。


いつもと同じ月なのに、何かが違う。


私はもう一度、森へ向かった。


⸻


反対向き。


反対向き。


歩きながら、誰かがそう言った。


声はすぐそばから聞こえたようでもあり

ずっと遠くから届いたようでもあった。


振り返っても誰もいない。


反対向き。


私も小さく繰り返した。


道は不思議なほどよく見えた。


月が沈みかけているというのに

足元には白い光が残っていた。


大きな木は、さっきと同じ場所にあった。


同じ場所。


私はそう思った。


けれど、その木を初めて見たのは

ほんの少し前のことだ。


何をもって同じと言えるのだろう。


うろの奥には、やはり丸い鏡があった。


私はその前に立った。


鏡には何も映っていなかった。


それなのに、向こう側から

誰かに見られている気がした。


私は目を閉じた。


そして、もう一度目を開けた。


そこは、丸い広間だった。


⸻


広間の壁には、十二枚の鏡が並んでいた。


どの鏡も、私より大きかった。


一枚目には、何も映らなかった。


私が立っているのに、誰もいない。


二枚目の私は、右手を上げると右手を上げた。


こちらを真似しているのか

それとも私が向こうを真似しているのか

わからなかった。


三枚目の私は、手を上げると足を上げた。


四枚目の私は、背中を向けたまま振り返らなかった。


五枚目の私は、逆立ちをしていた。


六枚目には、知らない人がいた。


その人は私を見つめていた。


何か言いたそうだった。


私は少し待った。


けれど、その人は何も言わなかった。


七枚目には、赤ん坊がいた。


八枚目には、年老いた人がいた。


どちらも私の目をしていた。


九枚目では、うさぎが跳ねた。


十枚目では、象が長い鼻を揺らした。


十一枚目では、魚が水のないところを泳いでいた。


私は十二枚目の前に立った。


そこには、見慣れた私がいた。


右手を上げると、向こうの私は左手を上げた。


笑うと、向こうの私も笑った。


私はほっとした。


なぜほっとしたのかは、わからなかった。


鏡の中の私は、しばらく私を見ていた。


それから、ほんの少しだけ首を傾けた。


私も首を傾けた。


どちらが先だったのだろう。


鏡に手を伸ばすと、向こうからも手が伸びてきた。


指先が触れた。


冷たくはなかった。


⸻


「早く帰らないと、月が沈みますよ」


誰かが言った。


私は大きな木のそばに座っていた。


森は静かだった。


歌も踊りも、もう聞こえない。


「誰?」


返事はなかった。


「どこにいるの?」


木々の間を風が通った。


それから、声がした。


「はやくお帰り」


やさしい声だった。


「ありがとう」


私は言った。


「あなたは、誰なの?」


返事はなかった。


けれど、しばらくそこに

誰かがいてくれるような気がした。


私は立ち上がった。


森を出ると、街灯はいつもの場所にあった。


店も、植え込みも、家のドアノブも。


鍵は、いつもの向きに回った。


時計の針も、いつもの方へ進んでいた。


私は安心した。


安心したあとで、少し不思議になった。


何を確かめて、安心したのだろう。


⸻


その夜、夢を見た。


大きな木のうろの中に、ひとりの少女がいた。


月の光の中に立っているのに、影がなかった。


「あなたは、ここに住んでいるの?」


私は尋ねた。


「そうですよ」


「ここは、どこ?」


「月の鏡の中です」


少女は笑った。


「では、私はまた来てしまったの?」


「また、というのは?」


私は答えられなかった。


少女は鏡の前に座った。


「あなたは帰りたいのですね」


「ええ」


「どこへ?」


「私の家へ」


「家には帰ったのでしょう?」


「そうだけれど……」


少女は黙って私を見ていた。


私は急に不安になった。


「帰ったと思ったのに、まだ帰っていないの?」


「さあ」


「では、どうすれば帰れるの?」


「帰る道を探しているのですか?」


「もちろん」


少女は少し考えてから言った。


「道は、ひとりで歩くものとは限りません」


私は少女の顔を見た。


「あなたを探している人がいます」


「誰?」


「あなたも、その人を探しています」


「私は誰も探していないわ」


そう言った途端、なぜか胸が苦しくなった。


少女は何も言わなかった。


「その人に会えば、帰れるの?」


「帰れるかもしれません」


「帰れないかもしれないの?」


「そうかもしれません」


私は泣きたくなった。


「そんなの、困るわ」


「でも、会えるかもしれませんよ」


少女は、そう言って微笑んだ。


「その人も、あなたを探しているのですから」


私はしばらく考えた。


「どこを探せばいいの?」


少女は鏡を見た。


鏡には、私たちの姿が映っていなかった。


「探している人がいると

道ができることがあります」


「どこに?」


「歩いてみないと、わかりません」


私は、もう一度尋ねようとした。


けれど少女は、鏡の向こうを見ていた。


私には何も見えなかった。


ただ、誰かの足音が聞こえたような気がした。


⸻


目が覚めた。


私は自分のベッドにいた。


窓の外は明るかった。


台所も、時計も、玄関も、いつもの場所にあった。


それから何日かして、私は昼間の森へ出かけた。


大きな木は見つかった。


根元には、小さなうろがあった。


手を入れることはできても

体を入れることはできない。


鏡もなかった。


私は木の前に座って、しばらく待った。


何を待っているのかは、わからなかった。


風が吹くと、葉の隙間から光が落ちた。


小さな丸い光だった。


それがいくつも地面に揺れていた。


私は一つに手を重ねてみた。


光は手の甲に移った。


どちらがこちら側なのだろう。


そんなことを考えた。


⸻


あの夜、私はどこへ行ったのだろう。


帰ってきたのだろうか。


それとも、初めから

どこにも行かなかったのだろうか。


鏡の向こうにいると思っていた私は

こちら側にいたのかもしれない。


こちら側にいると思っている私は

まだ鏡の中にいるのかもしれない。


確かめようと思えば、確かめる方法は

いくらでもありそうだった。


けれど、何を確かめればよいのか

私にはわからなかった。


月の大きな夜には、ときどきあの歌を思い出す。


月の鏡が裏返し

こちらの世界も裏返し

月の中から出られずに

夢の中から帰れない


そして、あの少女の声を思い出す。


あなたを探している人がいます。


あなたも、その人を探しています。


私はまだ、その人に会ったことがない。


会っていても、気づかなかったのかもしれない。


あるいは、その人も私と同じように

帰る道を探しているのだろうか。


月が昇る。


私は窓を開ける。


どこかで誰かが、同じ月を見ている。


その人が私を探しているのか。


私がその人を探しているのか。


それとも、互いに探していることさえ

知らずにいるのか。


わからない。


ただ、今夜は少し歩いてみようと思う。


道があるから歩くのか。


歩くから道ができるのか。


その答えも、まだ知らない。


私は靴を履いて、外へ出た。


月は、いつもと同じ場所にあった。


たぶん。

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