色を視る令嬢
「気味が悪い」と嗤われ続けた力が、誰かの命を救ったとき。
婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。
シャンデリアの光の下で、人は嘘をつく。
けれどクラリス・エルフォードの目には、その嘘が全部、色になって見えていた。
喜びは淡い黄。怒りは赤黒。悲しみは、深く沈んだ青。
伯爵令嬢である彼女が生まれつき持っていたのは、人の感情と体調の乱れが「色」として視える力だった。
「相変わらず辛気くさい顔をしているね、クラリス」
声をかけてきたのは、婚約者のギルフォード・レイニス侯爵令息。磨き上げた金髪を光に流し、口元だけで笑っている。
「ごきげんよう、ギルフォード様」
「今夜も何か視えているのかい?ああ、言わなくていい。君のその……まやかしの話は、聞いていて気が滅入る」
周囲でくすくすと笑いが起きた。ギルフォードは満足げに肩をすくめる。
彼から立ちのぼる色は、いつも同じだ。表面は取り繕った薄い乳白色。その内側で、他人を踏みつけるときにだけ濃くなる、ぬめった緑。
「気味が悪いと、何度言えばわかるのかな。淑女が持つべきものではないよ、そんな力は」
「……はい」
クラリスは静かに目を伏せた。卑屈になったわけではない。ただ、この場で言い返す価値がないと判断しただけだ。
私は、この目を恥じてなどいない。恥じるべきなのは、視られて困る色を抱えている人のほうでしょう——そう思っていたが、口にはしなかった。
その夜会で囁かれていたのは、別の話題だった。
「第二王子殿下が、また床に伏せられたそうだ」
「もう三月になる。毒でも病でもないと侍医団は言うが、日に日に痩せられていくとか」
「呪いではないか、という声もある」
ラファエル王子。黒髪の、まだ十七の若さの第二王子。
体は健康。なのに衰弱していく。王宮の侍医団はすでに匙を投げていた。
異変が起きたのは、その翌週の王宮の茶会だった。
病床から一時的に起き出したラファエル王子が、支えられながら短く姿を見せたのだ。
貴族たちは口々に「ご快癒をお祈りします」と述べた。淡い黄——喜び。青——同情。それらしい色が場に散っていた。
だがクラリスは、息を呑んで動けなくなった。
王子の全身を覆っていたのは、見たことがないほど濃い、濁った灰色だった。
毒の色ではない。病の色でもない。それは——人が心を長く長く削られ続け、逃げ場を失ったときにだけ現れる色。追い詰められた人間の色だ。
しかもその灰色は、王子ひとりから湧いているのではなかった。周囲に立つ数人の貴族から、細い糸のように伸びて、王子に絡みついている。
その糸のいちばん太い一本が、どこから伸びているのか。
クラリスは、視てしまった。
金髪の、婚約者の背中からだった。
「——恐れながら、殿下」
気づけば、クラリスは進み出ていた。ざわめきが凍る。
「クラリス!下がりなさい」ギルフォードが低く鋭く言った。「君のまやかしを、殿下の御前で披露するつもりか」
「まやかしかどうかは、確かめてくださって構いません」
クラリスはまっすぐに王子を見た。
「殿下。お薬は、もう効いておりませんね。夜は眠れず、朝は起き上がれず、食事は喉を通らない。……けれど医師の前では、大丈夫だとおっしゃっている」
ラファエルの黒い瞳が、大きく揺れた。
「……どうして、それを」
「殿下を蝕んでいるのは毒でも病でもございません。人の言葉です」
場が、爆ぜるようにざわめいた。
「無礼だぞ!」
「侍医団が匙を投げたものを、令嬢風情が——」
だが、それを制したのは王子自身だった。
「聞かせて」
かすれた、けれどはっきりとした声だった。
「僕は……ずっと、誰にも言えなかった。体はどこも悪くないと言われるたびに、じゃあ弱いのは僕の心なのだと、そう思うしかなかった」
クラリスは静かに頷き、そして言った。
「殿下から伸びている灰色は、四人の方から来ております。とりわけ濃いのは——」
彼女は振り返った。
「ギルフォード様。あなたです」
悲鳴のような声が上がった。ギルフォードの顔から、みるみる血の気が引いていく。
その体を包む色が、乳白色から一気に赤黒く濁った。怒り。そして、その底に滲む黄土色——露見の恐怖の色。
「なっ……何を、言い出すんだ君は。侮辱にもほどが——」
「あなたは殿下の御前では礼を尽くしておられます。けれど、その裏で」
クラリスの声は、少しも震えなかった。
「『第二王子は病弱で王家の恥だ』『兄君と比べるまでもない』『あの方に近づいても得にはならない』——そう言って回っておられましたね。殿下の周りから、人が一人ずつ消えていったのは、そのためです」
沈黙が落ちた。
そしてその沈黙を破ったのは、意外にも貴族たちのざわめきだった。
「……私、聞いたことがある。レイニス様がそのように」
「私もだ。あれは冗談だと思っていたが」
証言は、ひとつでは終わらなかった。クラリスが指し示した残り三人の顔色も、次々と変わっていく。
体裁と評判のために積み上げた噂は、体裁と評判のために、あっさりと裏切られた。
「違う!私はただ、事実を——」
「事実?」
ラファエルが、侍従の手を払って自分の足で立った。
「僕が食事を摂れなくなったのは、去年の冬からだ。誰も僕と目を合わせなくなった、あの冬から」
ギルフォードは、何も言い返せなかった。
それから半月。
王子付きの侍医団は、クラリスの「視た」内容をもとに療養の方針をすべて組み替えた。薬を減らし、人を入れ替え、王子が安心して眠れる環境を整えた。
三日で王子の顔に赤みが戻った。十日で、庭を歩けるようになった。
クラリスが再び王宮に呼ばれたその日、大広間には多くの貴族が集められていた。
そして、その中央に、ギルフォードが立っていた。
「クラリス・エルフォード」
彼は、かつての優雅さをかき集めるようにして言った。
「私は君との婚約を破棄する。……君のような、人の内側を暴き立てる女は、レイニス家の名にふさわしくない」
最後の見栄だった。捨てられる前に、捨てた形にしたかったのだろう。
彼の体からは、もう緑も乳白色も消えていた。残っているのは、くすんだ灰。追い詰められた者の色。皮肉なことに、それは彼が王子に押しつけていた色と、同じものだった。
クラリスは、深く、美しく礼をした。
「謹んでお受けいたします」
そして顔を上げたとき、彼女は笑っていた。晴れやかに。
「三年間、私の目を『気味が悪い』とおっしゃってくださって、ありがとうございました。おかげで私は、この目が誰のためにあるのかを、ずっと考え続けることができました」
ギルフォードの唇が震えた。
「——ようやく、わかりました。あなたのような方の嘘を暴くためではなく。声を上げられない方の色に、気づくためです」
拍手が、どこからともなく起こった。それは波のように広がっていった。
ギルフォードは何かを言いかけて、結局何も言わず、背を向けて広間を出ていった。
「クラリス嬢」
声をかけたのは、ラファエルだった。頬に血の色を取り戻した黒髪の王子は、まっすぐに彼女の前に立った。
「王宮に、君の力を必要とする場所を作りたい。侍医団の誰にも視えないものが、君には視える。……それは、まやかしなんかじゃない」
クラリスの視界の中で、王子から立ちのぼる色が変わった。
あの濁った灰色は、もうどこにもない。代わりにあるのは、朝の光のような、澄んだ淡い黄。
喜びの色だ。
「僕を助けてくれた目を、僕は誇りに思う。……君さえよければ、だけど」
クラリスは、少しだけ目を見開いて——それから、静かに微笑んだ。
「はい、殿下。喜んで」
その瞬間、彼女は自分の胸の内側にも、同じ淡い黄が灯るのを感じた。
自分の色は、自分では視えない。けれどきっと今は、とても綺麗な色をしているのだろうと、そう思った。
シャンデリアの光の下で、人は嘘をつく。
けれど、本当のことを視てくれる人がひとりいれば、それでいい。
お読みいただきありがとうございました。
「気味が悪い」と言われてきた力が、誰かの命を救う話が書きたくて。婚約破棄は、彼女にとって喪失ではなく解放でした。
少しでも胸のすく気持ちになっていただけたら幸いです。




