亡き夫の遺言書を、ようやく開封いたしました
「父上を殺した魔女に、これ以上この屋敷に居座る権利はない」
義理の息子セルジュ様が、銀の燭台を握りしめてそうおっしゃったのは、夫の四十九日が明けた朝のことでございました。
わたくしクラリス・モンタロン――25歳。15歳でロベルト・モンタロン侯爵へ嫁ぎ、10年後の冬に夫を病で看取った、若き寡婦でございます。
「セルジュ様。お父様は、長らくお胸を患っておいででした」
「黙れ。父が亡くなる前夜、父の寝室から出てきたのは貴様だろう。何を飲ませた」
「リンデンの花の、お薬湯でございます。お父様がお好きでいらした」
夫はわたくしより16歳年上の、二度目の結婚でございました。先妻に先立たれた折、わたくしを娶ったとき、夫はすでに20歳をひとつ過ぎたセルジュ様という嫡子をお持ちでした。
寝室を共にしたことは、一度もございません。夫はわたくしを「もう一人の娘」とおっしゃって、慈しんでくださいました。けれど世間はそれを信じてくださいません。
「金目当ての後妻」
「先代を毒殺した魔女」
「夜ごと夫の寝室から出入りしていた」
囁きは、夫が病に臥されてからの10年間ずっと、わたくしの背中を刺し続けておりました。「あの方の妻である」という事実だけで、なんとか足を保てていた10年でございました。
その夫が、もういらっしゃらない。
「セルジュ様、お話を伺います。けれど、ご懐刀をお下げになってからにいたしませんか」
「これは燭台だ」
「左様でございますか。形が似ておりましたもので」
息子の手から、銀の燭台が床に落ちました。
カランと、思いのほか軽い音でございました。
それから一週間が経った夕刻、わたくしのもとに、一通の封書が届けられました。差出人の名は、ヴェルニエ伯爵レオン――亡き夫の、生涯の親友であられた方のお名前でございました。
★
封蝋を割りますと、白紙が二枚、丁寧に折りたたまれて出てまいりました。
一枚目は、流麗な筆跡のお悔やみでございました。
『親愛なるクラリス殿。
ロベルトのご逝去から四十九日――心よりお悔やみを申し上げます。長くお声を控えてまいりました無礼を、まずお許しくださいませ。』
これだけならば、亡き夫の親友からの儀礼的なお手紙でございました。
けれども、二枚目は別のお手紙でございました。
『二枚目を、ご無礼を承知でお書き申し上げます。
ロベルトの喪が明け次第、正式な手続きを踏み、ヴェルニエ家の名において、貴女に求婚を申し上げたく存じます。
公の場ではなく、まずは私信にて、貴女ご自身のみに、この意志をお伝え申し上げます。
ご返答は、ご都合のよろしいときに、いつでも構いません。
もしご無礼を働いたのであれば、本書状はそのまま火に投じてくださって構いません。
私は、貴女のご返事を、いつまでもお待ち申し上げます。
ヴェルニエ伯爵 レオン・ド・ヴェルニエ』
便箋を、二度読み返しました。
三度目に、わたくしはようやく、自分の手が、便箋の端を握りつぶしかけていることに気がつきました。
レオン様。
亡き夫が三日に一度はお名前を呼んでおられた、最も古いご友人。
わたくしが嫁いでまいりました15歳の春、夫の代理として馬車を迎えに来てくださった方。
当時20歳でいらして、わたくしより五つ年上――いまは30歳の独身の伯爵。
馬車を降りた折に、レオン様はただひとこと「お疲れさまでした」とだけお仰いました。
それから10年。
夫の親友として、レオン様はモンタロン邸を季節ごとにお訪ねくださいましたが、その10年で一度も――一度も、わたくしを「奥方様」とお呼びになりませんでした。
「クラリス殿」。
お名前のあとに「殿」を付けて、10年でございます。
その距離の正確さを、わたくしは、ずっと有難く頂戴してまいりました。誰もがわたくしを「金目当ての後妻」と囁く中で、お名前で呼んでくださる方は、夫を除けば、レオン様お一人でございました。
夫の葬儀で、棺に向かって長く長く頭を垂れておられたあの方の背中を、わたくしはいまも覚えております。
「奥様。お顔の色がよろしくないようでございますが」
侍女のマリアが、扉口で控えめにお声をかけました。
わたくしは、ようやく息を吐きました。
「マリア。書斎の、亡くなった夫の私物の中に、封印された箱があったでしょう」
「ええ、ございます。『妻の手で開封するまで、誰も触れぬよう』と仰せつかっていた、あの黒檀の箱でございますね」
「あれを、こちらへ運んでもらえる?」
マリアは、一度わたくしの顔をじっと見て、それから、深く一礼いたしました。
「奥様。10年、お待ち申し上げました」
その一言で、わたくしはようやく、マリアが、わたくし以上に「あの箱が開かれる日」を待っていたことを知りました。
夫が亡くなられる前夜、わたくしの手に小さな真鍮の鍵をお渡しくださりながら、夫はこう仰いました。
「これは、お前が望んだときに、開けなさい」
「望んだとき」。
そのお言葉の意味を、わたくしは10年、考え続けてまいりました。
正しくは、考え続けるふりをしていたのでございます。
10年、わたくしには「望む」ということが、何一つございませんでした。
夫の妻でいられること――それ以上を望むことが、わたくしには恐ろしうございました。
何かを望めば、世間が囁くとおり「あの女は欲深い」と、自分で自分を証明してしまう気がいたしました。
けれども、今夜、初めて、わたくしは何かを「望んで」しまいました。
レオン様の二枚目のお手紙を、火に投じてはならぬと――そう「望んで」しまいました。
ならば、開けるべきは、夫の遺言書でございます。
机に向かい、白紙を一枚、わたくしは取り出しました。
レオン様への、返信でございます。
『レオン様。
過分なるお申し越し、確かに頂戴いたしました。
ご返答を申し上げる前に、わたくしには、開かねばならぬ封がひとつ、ございます。
開封いたしましたのち、改めて、こちらからお伺いを差し上げます。
火に投じてはおりませんことを、お伝え申し上げます。
クラリス・モンタロン』
短い返信を、封蝋で閉じました。
モンタロン家の印章ではなく、嫁いでまいりました折に母から託された、わたくし自身の印章で。
10年で、わたくしが初めて自分の名で押した封蝋でございました。
蝋燭の火が、ゆらりと揺れました。
書斎の最奥に運ばれてまいりました黒檀の箱は、10年分の埃をかぶって、わたくしの机の上に置かれておりました。
マリアが、その埃を、長く長く、白い布で拭ってまいります。
「奥様。お一人になられたほうが、よろしゅうございますね」
「ええ。けれど扉の外で、しばらく控えていてもらえる」
「承知いたしました」
扉が閉まる音を、わたくしは聞きませんでした。
聞いていたのは、自分自身の心音だけでございました。
蝋燭を一本だけ残して、ほかの灯りはすべて落としました。
そして、夫から10年前に頂戴したあの真鍮の小さな鍵を、初めて、鍵穴にお差しいたしました。
★
鍵は、思いがけないほど、軽うございました。
蓋を、ゆっくりと持ち上げますと、中には、三重に包まれた書状が一通。
小さな天鵞絨の袋がひとつ。
そして、銀の鎖に通された、青い宝石の指輪が一つ、入っておりました。
書状を、最も外側の封から、ゆっくりと開いてまいります。
最初の封蝋は、王宮法務院の正式な印でございました。
公正証書――夫が、法的に有効な形で、生前に整えてくださっていた遺言書でございました。
わたくしは、一度大きく息を吸い、それから読み始めました。
―――
『我が妻クラリスへ。
これを開封されたとき、おそらくわたしはもう、あなたのお傍にはおりません。
まずは、お詫び申し上げます。
あなたが本当に必要としていた言葉を、生きているうちに贈ることができなかったことを。
クラリス。
あなたは、わたしの妻ではございませんでした。
籍の上でも、寝室の上でも、わたしは一度たりとも、あなたを「妻」として扱ったことはございません。
あなたは、わたしのもう一人の娘でございました。
七年前に病で亡くした、わたしの実の娘ロザリンドは、15歳の春までしか生きられませんでした。
そして15歳のあなたが、初めて馬車を降りられたあの春の日。
わたしはあなたを見て、神様がもう一度、あの子を遣わしてくださったのだと、勝手にそう思いました。
それから10年。
あなたは、わたしが失ったものを、毎日少しずつ返し続けてくださいました。
このことを、わたしは生きている間、誰にも申しませんでした。
申せば、世間は「形だけの結婚」と嘲り、あなたを再び傷つけたでしょう。
それゆえわたしは沈黙を選び、結果として、あなたを「金目当ての後妻」「先代を毒殺した魔女」という濡れ衣の中に、10年閉じ込めることになりました。
このことを、まずお詫び申し上げます。
わたしの臆病が、あなたから10年を奪いました。
―――
クラリス。
ここから先は、亡くなったわたしから、生きるあなたへの、最後の処分でございます。
第一。
先妻カトリーヌは、毒殺されたのではございません。
彼女は12年前、長年患った肝臓の病で逝きました。
そして彼女は、亡くなる三年前から、わたしの友人グランジエ伯爵と通じておりました。
息子セルジュは、それを知っております。
そして母を庇うために、その事実を「父の若き後妻が毒を盛った」という偽の物語に置き換えました。
わたしは息子の悲しみを尊重して、10年それを訂正しませんでした。
けれど、それがあなたを苦しめている限り、もはや沈黙は罪でございます。
本遺言書の正式な写しは、王宮法務院に保管されております。
必要があれば、いつでもご請求ください。
第二。
セルジュは、わたしが病に臥した三年前から、モンタロン家の財産を私的に運用しております。
わたしは病床から、黙ってそれを見ておりました。
彼が母の影と戦っている間は、せめてそれくらいの余白を残してやりたかったのでございます。
けれど、もし彼があなたを屋敷から追い出そうといたしました場合は、もはや余白は不要でございます。
ヴェルニエ伯爵レオンに、その時点での財産監査を委ねてございます。
彼は法務院の評議員ですので、適正に処理してくれるはずでございます。
第三。
そして、これがもっとも、わたしがあなたに伝えたかったことでございます。
レオンを覚えておいでですか。
あなたが嫁いでこられたあの春の日、わたしの代理で馬車を迎えに行った、五歳年上の若者でございます。
彼は、あの日からずっと、あなたを見ております。
彼自身がそう申したのではございません。
わたしが、20年来の親友として、そう察したのでございます。
彼は、わたしの妻となったあなたに、ただの一度も、感情の言葉を漏らしたことがございませんでした。
それゆえわたしは、彼の沈黙を、人として尊敬しております。
クラリス。
あなたが望まれるならば。
そして、もしあなたの心に、もう一度春をお望みになる場所が残っておられるのであれば。
彼にお会いください。
わたしは、あなたが二度目の人生で、初めての結婚をされることを、心から望んでおります。
二度目――それは、亡き娘ロザリンドではなく、クラリスご自身として生きる春のことでございます。
同封の蒼玉の指輪は、あなたが嫁いでこられた折に、お母様の遺品の中にあったものを、わたしが密かに研磨し直したものでございます。
わたしから差し上げるには、10年遅うございました。
どうか、あなたが望まれる人の前で、初めて指にお通しください。
クラリスへ。
あなたを娘として迎えられたことは、わたしの人生で最も静かで、最も明るい10年でございました。
どうか、ご自分のために、お幸せに。
ロベルト・モンタロン
追記。
セルジュへは、本遺言書の写しのうち、第二項のみが届くよう手配してございます。
彼が本当にわたしの息子であるならば、最後にもう一度、自分の足で立とうとするはずでございます。』
―――
読み終えたとき、わたくしは、自分が泣いていることに気がつきました。
10年、流したことのなかった涙でございました。
それは悲しみの涙ではなく、ようやく、自分のために流すことを許された涙でございました。
夫は、すべてご存じでいらした。
わたくしが先妻カトリーヌ様の不貞を知っていたことも。
セルジュ様の悲しみを尊重して、わたくしが沈黙を続けてきたことも。
そして、レオン様の存在も。
それでも夫は、最後の最後まで、わたくしに「望むかどうか」を問うてくださいました。
「望むならば」――この言葉の重さを、わたくしは初めて知ったのでございました。
天鵞絨の袋を、初めて開けました。
中の蒼玉は、わたくしの記憶よりも、ずっと深い青をしておりました。
わたくしの母が、亡き祖母から受け継ぎ、夫に託したという、その色。
夫が10年磨き続けてくださっていたという、その色。
けれど、わたくしはまだ、指にはお通ししませんでした。
夫の遺言書には「望まれる人の前で、初めて指にお通しください」とございました。
それまでは、銀の鎖のままで、首から下げて参ろう。
そう、決めました。
蝋燭が、深夜の風で揺れました。
机の上には、夫が遺してくださった一通の書状と、開けたばかりの天鵞絨の袋と、まだ指にはまっていない指輪が、それぞれの位置で静かに光っておりました。
これらを、明日の朝、ヴェルニエ伯爵レオン様にお見せいたします。
それが、わたくしが「望んだ」最初の意志でございました。
★
遺言書を読み終えた翌朝、わたくしは、まず家令のティボー殿をお呼びいたしました。
「ティボー殿。ヴェルニエ伯爵レオン様に、本日ご来邸を願えるか、お遣いをお願いできますか」
ティボー殿は、わずかに眉を上げられました。
「奥様。レオン様は、すでに昨夜のうちに、ご来邸のご予定を入れてくださっております」
「……いつ、お決めになったのですか」
「四十九日の翌朝、私信のお手紙とは別に、ヴェルニエ家からティボー宛にもお手紙が届いておりました。『クラリス殿よりお呼びがあった折は、いかなる先約も差し置いて、即日参上する』と」
わたくしは、しばらく言葉を失っておりました。
レオン様は、わたくしがいつ「お呼びになるか」を、四十九日明けの翌朝から待っておられたのでございます。
「ティボー殿。本日午後三時に、広間にお越しいただくよう、お伝えくださいませ。
それから、ヴェルニエ家の財産監査官の同行を、お願いできるかとも」
「承知いたしました」
「もう一つ。レジス公爵閣下に、お名代様一人のご派遣をお願いしたく――」
「お名代の手配は、すでに整っております。閣下から、四十九日に間に合わなかった御弔問の代わりに、いつでも一人お遣わしになるとのお申し越しが、先月から入っておりました」
ティボー殿は、半歩下がって深く一礼されてから、こうお続けになりました。
「奥様。10年で初めて、奥様からの正式なご差配を頂戴いたしました。
お声をかけられるのを、お待ち申し上げておりました」
そう申されると、ティボー殿はわたくしの返事を待たずに、扉の外へ歩み去られました。
家令のお話しになる足音は、廊下を曲がってもなお、長く屋敷の奥へ響いてまいりました。
―――
午後三時。
広間に最初にお入りになったのは、レオン様でございました。
正式な伯爵としての盛装でいらしたのに、その装いを「お見せに来た」というご様子は、まったくございませんでした。
ただ、一通の遺言書のことを、わたくしに代わって背負いに来てくださった――そういう背中でいらっしゃいました。
その後ろから、ヴェルニエ家の財産監査官三名と、レジス公爵閣下のお名代様お一人が、静かにお入りになりました。
最後に呼ばれたのが、セルジュ様でございました。
「父上の遺言書だと?」
セルジュ様は、扉口で、まず革表紙の帳面に目を留められました。
「何だ、それは」
「モンタロン侯爵家の正式な遺言書、ならびに、ヴェルニエ家による財産監査報告書でございます」
調査官団長が、淡々とお答えになりました。
「監査だと? 誰の許可で」
「ロベルト侯爵閣下ご本人の、生前のご署名でございます。ご病状が進まれる三年前――本遺言書の原本作成時に、付帯条項として」
「父上が……?」
セルジュ様は、椅子の背に手をお置きになりました。
その手は、お置きになったのではなく、お掴まりになったのでございました。
「お座りになりますか」とレオン様。
「結構だ」
「お座りください、セルジュ殿」
レオン様の声は、お命じになる声ではございませんでした。
ただ、長年の友人の息子に向かって「いまは座ったほうがよい」とお伝えになる、そういう静かな声でいらっしゃいました。
セルジュ様は、しばらく抵抗するように立っておられましたが、結局、椅子に深くお腰を下ろされました。
レオン様は、わたくしの方を一度ご覧になり、それから遺言書の写しを、テーブルの中央にお置きになりました。
「セルジュ殿。遺言書の本文は、もう既に、貴方のお手元にも届いているはずでございます。第二項のみが、ロベルトの計らいで、貴方にだけ別送されておりました」
「……第二項」
「父上の財産の運用について。ヴェルニエ家による監査を委任する、という条項でございます」
セルジュ様は、テーブルの上の革表紙を、長くご覧になりました。
「父上は」と、セルジュ様はようやくお口を開かれました。「父上は、なぜ、これを直接私に仰らなかったのか」
「ロベルトは」とレオン様。「貴方が、ご自分の足で立とうとなさる機会を、最後まで残しておきたかったのでございます」
「……機会?」
「本日この場で、貴方に三つの選択肢がございます」
レオン様は、指を一本立てられました。
「一つ。貴方が、過去三年の財産運用に関するすべてのご署名を、ご自分の手でご確認になり、不適切な箇所を貴方自身でご指摘なさる。その上で、ヴェルニエ家との間で、三年分の損失補填について、私的なご相談に応じる」
二本目の指が立ちました。
「二つ。本日この場で、ヴェルニエ家による監査結果を、客観的にお聞きになる。その後、レジス公爵閣下のお名代様の立会いのもと、適切な処置を協議する」
三本目の指が立ちました。
「三つ。貴方が、ご自身の正当性を立証する証言者を、本日この場にお呼びになる」
セルジュ様は、三本の指を、長くご覧になりました。
それから、わたくしの方を、初めて、本日まっすぐにご覧になりました。
「父上の妻に……いえ、父の妻に。
何か、申し開きはあるのか」
それは、初めて、わたくしを「父の妻」と呼ばれた瞬間でございました。
「魔女」でも「卑しい娘」でもなく、ただ「父の妻」と。
わたくしは、自分の手の中の遺言書の写しを、机にお戻しいたしました。
「セルジュ様。わたくしから申し上げることは、ございません。
申し上げる必要のあることは、すべて、亡き旦那様が遺言書に記されました」
「……お前は、何も言わないのか」
「はい。何も申し上げません。
セルジュ様が、ご自分のお口で、ご自分のことを、お話しになる機会でございます」
セルジュ様は、しばらく、わたくしの顔をご覧になっておられました。
それから、椅子の肘に置かれた手が、ゆっくりと拳になり、また、ゆっくりと開かれました。
「……三つ目を」
「三つ目を、お選びになりますか」
「父上の周囲には、毎日、彼女が……いや、父の妻がいた。
父の病状を、最も近くで見ていたのは、彼女と、屋敷の使用人たちだ。
彼らを、呼んでもらいたい」
レオン様は、わずかに、お目を細められました。
「セルジュ殿。本当に、それでよろしいか」
「呼んでくれ」
「承知いたしました」
レオン様は、扉口に控えていたティボー殿に、合図をお送りになりました。
ティボー殿は、深く一礼されてから、廊下の奥へ歩まれました。
廊下の奥には、10年、この屋敷を支えてまいりました八人の使用人が、すでに控えてございました。
★
ティボー殿が呼びに行かれてから、まもなく――広間に集まる人数が、最初の倍になっておりました。
ヴェルニエ家からお越しの調査官団長が、革表紙の帳面を、静かにテーブルへお置きになりました。
「モンタロン侯爵家の財産は、過去三年間で、ヴェルニエ家の試算で4,200ルーヴル分が、正当な目的以外に支出されております」
セルジュ様の手が、テーブルの端を握りしめられました。
「父の意思による運用だ。生前から、私に裁量を許された範囲だ」
「ロベルト侯爵閣下の生前のご署名は、1,800ルーヴル分にとどまります。残りの2,400ルーヴルにつきましては、ご署名の偽造の形跡がございます」
「偽造……だと」
「印章を、左右逆に押した跡が37枚ございます。閣下はお病が篤くなられた後も、お利き手は右で、印章は必ず右下に押されるご習慣でいらっしゃいました。これはモンタロン家の20年分の文書に共通する癖でございます。37枚の偽造印は、すべて左下――」
調査官は、淡々と、けれど一切の余白なくお話しになります。
セルジュ様は、テーブルの端から手を離されました。
その手は、もはやどこにも置きどころがないように、空中で迷っておられました。
「……父上は」セルジュ様は、ようやく声を絞り出されました。「父上は、ご病気で、ご判断が不明瞭であられた。証言する者がいる。父上の周囲には、毎日、彼女が……」
セルジュ様の視線が、わたくしに向けられました。
その視線を、わたくしは、初めて、まっすぐにお返しすることができました。
ヴェルニエ伯爵レオン様が、静かにお口を開かれました。
「セルジュ殿。いま貴方が〝証言する者〟と仰った、その方々を、お呼びしてもよろしいか」
「……どうぞ」
「では、モンタロン侯爵家の使用人各位に、お入りいただこう」
扉が開かれ、わたくしの10年を見てこられた方々が、一人ずつ広間に入ってこられました。
最初は、老侍女マリアでございました。
「セルジュ様。10年でございます。10年、わたくしは奥様のお部屋に毎朝お入りいたしました。
奥様は、10年で、一度も声を荒げたことがございません。
ご自分のために何かをご要求になられたことも、ございません。
お夜食をご所望されたのは、年に二度。お風邪を召されたときと、先代のお嬢様ロザリンド様のご命日のときだけでございました」
二人目は、厨房長のグレゴール。
「セルジュ様。先代様のリンデンのお薬湯――あれは、奥様がご自分で書斎の蔵書から薬草書をお引きになり、わたくしに調合をご依頼くださったものでございます。
書斎の薬草書、72頁目に、奥様のお手書きの覚え書きがございます。
『胸の患いに リンデンの花 三匙、ベルガモットの葉 一匙、湯は八分目』――三年前の冬のお書付でございます。
毒草の頁は、開いた形跡が、一度もございません」
三人目は、庭師のジャン。
「奥様は、毎年三月、ロザリンド様のお墓に、薔薇をお供えになります。
ロザリンド様は奥様にとって、お会いになったこともない先代のお嬢様でいらっしゃいますのに、10年、一度も欠かされませんでした。
セルジュ様。
御母堂カトリーヌ様のお墓の薔薇も、10年、奥様がお手入れしておられたことを、ご存じでいらっしゃいましたでしょうか」
四人目は、馬丁長のピエール。
「奥様は、領地巡視に同行されたことが、10年で、一度もございません。
モンタロン侯爵夫人のお立場であれば、年に四度は同行されるのが慣わしでございます。
奥様は『わたくしは奥方様ではなく、お預かりされている娘でございますから』と、10年お断りになり続けました」
五人目は、図書室司書のアグネス。
「奥様は、ご自分の名で書物を借りられたことが、一度もございません。
すべて『ロベルト侯爵閣下のご蔵書を、お預かりしている』というお形でございました。
書斎の蔵書台帳には、奥様のお名前が、一行も載っておりません」
六人目――洗濯番のエロイーズ。
七人目――先代付き従者でいらしたアンドレ。
八人目――王都別邸の門番ベルナール。
一人、また一人、と、10年を共に過ごした方々が、ご自分の見たままを、お話しになりました。
誰一人として、セルジュ様の側に歩み寄られませんでした。
「奥様は、10年、何もお取りになりませんでした」
「奥様は、10年、何もご要求になりませんでした」
「奥様は、10年、お亡くなりになったロザリンド様の影として、ただ静かにお暮らしになっただけでございました」
最後にお入りになったのは、先代から続く家令のティボー殿でございました。
ティボー殿は、わたくしより、セルジュ様の方を、ずっと長くご覧になりました。
「セルジュ様。10年前、わたくしは閣下にお尋ねしたことがございます。
『奥様を、奥方様としてではなく、ご令嬢としてお迎えになるのは、なぜでございますか』と。
閣下は、こうお答えになりました。
『カトリーヌが遺した傷の前で、15歳の娘を、もう一度傷つけることはできない。私は、あの子の父でいたい』
奥様は、10年、そのことをご存じありませんでした。
けれど閣下は、10年、それを守り通されました。
セルジュ様。
奥様を屋敷からお出しになるならば、まずわたくしが、50年の家令の職を辞してから、後を追わせていただきます」
広間に、しばらく、誰も声を出される方がございませんでした。
レジス公爵閣下のお名代様が、はじめてお口を開かれました。
「セルジュ殿。レジス家としては、本日の証言を持って、モンタロン家の財産監査をヴェルニエ家に正式に委任する。あわせて、先代カトリーヌ夫人のご逝去に関する記録の見直しを、王宮法務院に申請する」
セルジュ様は、椅子の上で、初めて、人らしい姿勢に戻られました。
両手を膝に置き、頭をお下げになる、というその姿勢に。
「……父上の、お墓に、参ってまいります」
それが、その日、セルジュ様が最後にお話しになったお言葉でございました。
セルジュ様が広間を辞された後、調査官団長は、横領記録の写しをレオン様にお渡しになりました。
レオン様は、その厚みのある書類束を、暖炉の前へお歩きになりました。
「これは、モンタロン家の恥でございます。表に出すべきものではない」
そして、火に投じられました。
紙束は、思いのほか速やかに、青い炎で燃え上がりました。
「ヴェルニエ家としましては、三年分の損失補填を、セルジュ殿ご本人に求めさせていただきます。
公的処罰は、伴いません。ただ、これからの10年、ご自分の足で帳簿をお書きいただくことに、相成りましょう」
調査官団長は、わずかに、口の端をお上げになりました。
レオン様は、わたくしの方をお振り向きになり、それから、初めて、わたくしのお名前を呼ばれました。
「クラリス殿。ロベルトの遺言の、第三項について。お返事を、頂戴できますでしょうか」
わたくしは、ようやく、10年閉じていた口を、開きました。
「レオン様。あの、ひとつ、お願いがございます」
「はい」
「黒檀の箱には、もうひとつ、開けていない袋がございました」
「はい」
「そろそろ、開けてもよろしいでしょうか」
レオン様は、10年待たれた人の顔で、ただ静かに、うなずかれました。
★
証言を終えた使用人たちが、それぞれの持ち場に戻られた後、わたくしは自室で、ひとり鏡の前に立っておりました。
夫の四十九日が明けてから、ひと月。
わたくしは、まだ黒を脱いでおりませんでした。
正確には、脱いでよい日を、自分で決めかねておりました。
寡婦の喪服は、家令や使用人が「お脱ぎなさいませ」と申し上げるものではございません。
夫の親族が「もうよろしいでしょう」と告げるものでもございません。
それは、本人だけが決められる、たったひとつの服でございました。
鏡の中のわたくしは、15歳でこの屋敷に嫁いでまいりました日のままの色をしておりました。
あの日も、黒に近い濃紺の旅装でございました。
あれから10年、わたくしは色というものを、ほとんど身につけてまいりませんでした。
机の引き出しから、銀の鎖を取り出しました。
蒼玉は、深夜の海の色をしておりました。
夫が、わたくしの母から預かったまま、10年密かに磨き続けてくださっていたという、その色。
「望まれる人の前で、初めて指にお通しください」
夫の遺言書の一行を、わたくしはもう、暗誦することができました。
扉を、控えめにお叩きになる音がいたしました。
「奥様。ヴェルニエ伯爵様が、お見えでございます」
マリアの声でございました。
「広間にお通しして。少し――いえ、すぐに、参ります」
鎖を首から外し、指輪を掌にお移しいたしました。
蝋燭の火に翳しますと、蒼玉の奥に、何か文字のような筋が見えるような気がいたしました。
おそらく気のせいでございましょう。
けれども、その筋を、わたくしはたいへん長く眺めておりました。
黒い喪服のリボンを、首元から、ゆっくりと解きました。
衣装室の最奥に仕舞われていた、白い昼下がりのドレスを、10年ぶりに袖に通しました。
母が、嫁ぐ前夜に「いつかこれを着る日が来ますように」と申しまして、わたくしに持たせてくださった一着でございました。
その日が来るとは、わたくし自身、10年信じてはおりませんでした。
階段を降りますと、広間の扉が半分だけ開いておりました。
レオン様は、暖炉の前で、こちらに背を向けて立っておられました。
その背中は、夫の葬儀で長く頭を垂れておられた、あの背中と同じ高さでございました。
足音で、お振り向きになりました。
そして、わたくしの装いをご覧になったレオン様は――何も仰らず、ただ、お口を一度、深くお閉じになりました。
10年、感情の言葉を内に閉じておられた方が、その10年分を、ひとつの呼吸で吐き出されたような、長いお口の閉じ方でございました。
「お待たせいたしました」
「いいえ。私のほうこそ、10年待たせていただきました」
それが、10年お会いしてまいりました中で、レオン様が初めてお漏らしになった、感情の言葉でございました。
「レオン様。一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
わたくしは、掌の中の蒼玉の指輪を、レオン様に差し出しました。
「これを、わたくしの指に、お通しいただけますか」
レオン様の手が、初めて、わたくしの手に触れました。
指輪は、思いのほか、すんなりと収まりました。
母から夫へ、夫からわたくしへ、そしてレオン様の手を経て、わたくしの指へ――10年と少しを旅した蒼玉が、ようやく落ち着くべき場所に落ち着いた、というような収まり方でございました。
「黒は、もう、わたくしの色ではございません」
「はい」
「亡き夫が遺してくださった二度目の春を、わたくしは、いただいてもよろしいでしょうか」
レオン様は、ようやく、10年待たれた人の顔で、お笑いになりました。
「ロベルトの遺言書には、もう一つだけ、私が読まされていない条項があるはずでございます」
「ございます」
「お読みしてもよろしいか」
「どうぞ」
わたくしは、上着の内側から、四つ折りにした最後の一葉を取り出しました。
それは、遺言書の本文には含まれず、別添でわたくしひとりに宛てられた、夫の最後の追伸でございました。
『追伸。
レオンに、これを読ませる日が来ましたならば、私からも一言、お伝えください。
――ありがとう、と。
10年、君がクラリスを言葉で求めなかったことを、私は、君が私の親友であることの何よりの証として、受け取っておりました。
ロベルト』
レオン様は、その一葉を二度お読みになり、それから、暖炉の方へお目を移されました。
「ロベルトは」と、レオン様はようやくお話しになりました。「ロベルトは、最後まで、私の親友でございました」
「ええ」
「クラリス殿。私の名は、レオンでございます」
「存じ上げております。レオン様」
10年で初めて、「殿」のないお名前を、わたくしは口にいたしました。
蒼玉が、暖炉の火を映して、ほんの一瞬、青く強く光りました。
それは、夫の指輪ではもう、ございませんでした。
わたくしの指輪でございました。
―――
黒檀の箱は、書斎の机の上で、空になっておりました。
蓋は、もう閉じる必要がございません。
わたくしは、空になった箱を、夫の書斎の最も高い棚に、自らの手でお戻しいたしました。
10年、埃を被って待っていた箱が、これから先は、わたくしの手の届かぬ高さで、静かに眠ることになります。
「ようやく」――この三文字を、わたくしは、夫から10年かけて頂戴いたしました。
そして「初めて」――この三文字を、わたくしは、本日、自分自身に贈ろうと思います。
ヴェルニエ家の春に間に合わせるには、少しばかり急がねばならないと、わたくしは初めて、自分のために、微笑みました。
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