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地に落ちて死なずば  作者: 本条謙太郞


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片割れ

 仲良きことは美しきかな。

 三沢さん、茉莉さん、そしてアナリースさん。3人で楽しくお話なさるということで、ぼくは本来お目当てのエストブール氏のところへ顔を出した。

 ぼくらマニアと時計ジャーナリストの方々でエストブールさんを取り囲み、新作を手に取りつつわいわい。童心に返って楽しいトーク。時間を忘れるとはまさにこのことだね。


 それにしてもアナリースさんが好意的な人でよかった。

 ぼくがこの様だから、彼女がいなかったら三沢さんたちを放置することになっていたかもしれない。

 時計なんて完全に門外漢の二人、身の置き所がないだろう。それをなんとも運良く同性のアナリースさんがガイドしてくれたわけだ。時計と服との合わせ方とか女性ならでは、しかもプロの指南を聞けるなんて彼女達は幸せ者だと思う。たぶんエストブールがどうこうではなく、一般論を講義してくれただろう。


 まぁなんやかんやあって帰り際、アナリースさんに別れの挨拶をする。

 もちろんメインの目的は「小グロワス」をどうにかすること。

 どうにかというのはつまり、買うという。


 アナリースさんはただでくれるといったけど、それは彼女の意識がまだプロの物になっていないことの表れだ。

 恐らく処女作であろう「小グロワス」。

 彼女は自身が作り手であるだけに、他人には気づかない小さな瑕瑾もしっかり把握している。つまりその価値を低く見積もっている。だから、その「大したことない物」に正当な値段を付けるのを恐れる。

 今日会ったばかりのぼくに渡したのも低い自己評価の延長線上にある行動なんだろうな。

 エストブールのローンチパーティには業界では知らぬ者のないビッグネームが何人も来てる。業界のリファレンスといっても過言ではない()()()()の編集長も、世界的に有名な()()()()()()()()()のディレクターも。なのに彼女は名も知れぬ一山いくらのライトファンに時計を贈った。尻込みしたんだろうね。大物に見せて失望されるのが怖かった。

 その気持ちはとてもよく分かる。ぼくも自己肯定感なんてものは欠片も持ち合わせてないので。

 同病相哀れむに近い。


 だから、そんな「同志」である彼女を勇気づけたい。

 あなたの作った物には価値があると伝えたい。

「素晴らしい!」「売りに出たら買います!」そんな言葉では駄目なんだ。

 物が目の前にあるなら買わなければならない。行動こそが真情であるような状況は確実に存在する。

 それは今だ。


「アナリース。私は心から、あなたの小グロワスを気に入りました。でも、ご厚意に甘えて無料で頂くわけにはいきません。私はこれを堂々と身につけたい。だからこれに()()()()()()()()()()。——ああ、でもその、私の懐事情を考慮していただけるとね、うれしいです。はい」


 超カッコいい台詞から急転直下の哀願へ。

 言い訳をさせてもらうとね。エストブール博士の一番弟子がハンドメイドした一点物(おそらく一部お父さんの手も入ってる)、しかもエボーシュ(出来合の機械)ではなくワンオフ。

 これはもう言い値の世界。一応4桁は覚悟してるよ。その場合、明日からカップ麺がぼくの友だ。

 恥を忍んで三沢さんにご飯を集ろうか。

 いや、それは不味いな。冷静に考えれば彼女とはお見合いしてる間柄。旦那(になるかもしれない男)が後先考えずに4桁の時計を買って金欠って完全なるお祈り案件。SNSに長文ツイート連投される未来が見える。RT20000、いいね50000。令和の最低男No1としてトレンドに乗りかねない。

 やっぱりカップ麺で行く。家事代行サービス? 解約待ったなし。


 ぼくの胸中を知ってか知らずか、彼女は落ち着いて、一語一語、噛みしめるように答えた。ぼくの真摯な申出に、彼女もまた真正面から。


「わたしは子どもを手放しません。どれほどの大金を積まれても。どれほどの名誉、どれほどの偉大さと引き換えにしても。もう。決して。——だからこれは取引ではありません。ただ、あなたに贈ります」


 銀座並木通りに面した時計店のエントランス付近、街路の明かりと部屋の明かりが混じり合うその境界で、アナリースさんの顔は凄惨なほどに峻厳に際立つ。

 ぼくもさすがに気づく。

 自己否定とかそういうのではないね。事情は分からないけど、彼女には彼女なりの理屈があるんだろう。

 恐怖を感じる。誤魔化しようがないほどの不気味さも。理由の分からない好意ほどに恐ろしいものはない。敵意よりもずっと怖い。敵意は気まぐれに生まれる。身振り手振り、あるいは口調が勘に障る。人はそれだけで他者に憎悪を抱けるようにできてる。お手軽な回路。

 一方好意の回路はもっとずっと複雑だ。もちろん顔が好みとかで一目惚れすることはあるけど、それは表層に過ぎない。より正確には()()()と称するべきだろう。

 じゃあ、()()()で4桁は下らない時計、しかも自身の処女作をプレゼントするようなことがあり得るだろうか。ないね。

 だからとても怖い。


「なぜ私に?」

「——あなたのために、作りましたから。あなたの腕に巻かれるべき”証”として」


 これはその、つまりあれかな。ぼくは今、結構危険な状況にいるんだろうか。

 ハリウッド映画とかの冒頭シーンに近い。この後なんやかんやあって、彼女が抱える何らかの問題に否応なく巻き込まれつつ、銃で撃たれたり()()()()()()()()()で後頭部を強打されたりしつつ、南地中海の島で最終決戦するやつだ。


 大きく息を吸い、彼女の瞳をじっと見つめる。目は口ほどにものを言う。

 まだ若い、恐らくぼくよりも一回りは若いこのフランス人女性は明らかに覚悟を決めている。


 この場においてぼくにできるのは彼女の思いを尊重することだけだ。

 次の瞬間真っ黒なコンバットスーツに身を包んだどこかの特殊部隊っぽい敵にマシンガンを乱射される未来を覚悟して。

 ぼくはとっさに彼女を抱きかかえて床に伏せる。そして逃避行が始まる。キャスティングを間違えてると思うよ。ぼくの役回りは流れ弾を受けてその辺に転がるモブのはずなんだけど。


「ああ、それはうれしいな。ではお預かりします。あなたが時計師として踏み出された、その”証”を」


 ぼくにできるのは、いつか彼女の心の中に後悔が訪れたとき、黙ってこれを返してあげること。つまり傷つけないように保管しておく必要がある。金無垢はすぐ傷が入るから日常使いはできそうにない。


「はい。お願いします」

「ありがとう。アナリース。ああ、私にできることがあれば言ってほしい。大したものではないけど、時計好きには何人か知り合いもいますから、もし『アナリース』を正式に立ち上げるときは言ってください。できる限り宣伝するし、SNSにも……」


 情けないほどに()()()()お返しの台詞を彼女は見事に断ち切った。


「では、今度わたしを連れて行ってください」

「もちろん。観光の案内でしたら喜んで。京都かな? それとも……」

「いいえ。——()()()()()()の、あなたの行きつけのお店へ」


 “Rue Centrale”。

 このフランス語、直訳すると「中央の通り」になる。

 要するに銀座「中央通り」ね。

 本場の発音だと「サントラル」じゃなくて「サントル」に聞こえるのか。勉強になる。アナリースさんとはフランス語で話した方がぼくの会話力向上に繋がるのかもしれない。


 というか、ここ並木通りから歩いて2分くらいなんだけど。中央通り。

 彼女は日本に来たばかりだから知らないのかもしれない。今指摘すると恥をかかせてしまうので黙っておく。

 でもまぁ、彼女が望むならお付き合いするよ。


「それでよければ喜んで。日本にはいつまで滞在されますか?」


 ぼくも予定を空けなければならない。悲しいことに時間はなんとでもなるけどね。置物なので。


「ずっと」

「ずっと?」

「はい」




 ◆




 ぼくが大混乱を来していると、彼女の背後からエストブール博士(お父さん)がぬっと顔を出した。


『日本に直営ブティックを出すことにしてね。アナリースに回して貰う予定だ』


 彼、英語かフランス語しか話せないのでぼくが合わせるしかない。よってぼくのしょぼいフランス語が火を噴くことになる。


『”回す”とは経営を?』

『その通り』

『あなたもお分かりの通り、日本は厳しい市場ですよ』

『もちろん分かっているよ。分かっていないのはあなただ。アナリースの優秀さをね。この子は Sciences-Po 出だぞ。凄いだろう! うちのアナは!」


 Sciences-Po (シアンスポ)。

 うん。フランスの教育制度はちょっと分かりづらい。一般にフランスの大学というと「パリ大学」とか「ソルボンヌ大学」とかが有名だよね。日本でいう東大、京大みたいな感じだと思うでしょ。

 実際はちょっと違う。

 フランスでは大学よりも上(エリート養成機関という意味で)に「グランゼコール」という括りがある。

 Grandes Écoles。日本語に訳すと「高等専門学校」。

 この中でも政治経済系のトップがさっき言った Sciences-Po。正式名称は「パリ政治学院」。日本だとどこだろう。東大法学部かな。実際はそれより全然狭き門だけどね。

 ヨーロッパ、特にフランスの場合、政財界の上級ポストに就くためにはこのグランゼコール出身であることがほぼ必須条件になっている。学閥社会の完成形みたいなところなんだ。

 よってアナリースさん、本当ならばマイナー時計ブランドのローンチとかやってる場合じゃない。ヨーロッパ中の超大手企業を選り取り見取りだし、行こうと思えば政治家も官僚も狙える。


 つまり彼女、ヤバい才媛だ。それはお父さんが自慢するのも分かるわ。


『よく手放そうと思いましたね』

『アナの望みならしかたがない。"人の意思は何より尊い!" 我が家の家訓だよ』


 カッコよく頬から顎に繋がった髭を撫でながら、エストブール博士は大仰な仕草で言い放つ。フランス人はほんと、人生是芝居みたいなとこある。あー、この人国籍はオーストリアか。でも雰囲気がフランスナイズされてる感ある。


『なぜ日本に?』


 ぼくは率直にアナリースさんに聞いてみた。お父さんとの会話の流れからフランス語で。

 時計が好きだからというのは分かる。家業を切り回したい気持ちもあるだろう。でもそれなら高級時計最大の市場であるアメリカでもいいはず。中国は……最近ちょっと勢いが落ちてるけど、それも悪くない選択だ。もちろん日本も規模はまだ大きいから分からないではない。ないんだけど、ちょっともったいない気もするね。


『日本に住みたいと思っていたんです。子どもの頃からずっと。なぜでしょうね。きっとアリストファネスの言うように”片割れ”を探して(Chacun cherche sa moitié)かしら。”そこにいる”って勘が働いたんです。——片割れではないけれど今は友達も見つけました。大切なお友達』


 高学歴フランス人感ある。プラトンではなくアリストファネスの言というところがまた。

 これ、プラトンっていう哲学者の『饗宴』って本に出てくる有名な一節だね。昔人類は男と女が一体になった存在だったんだけど、神様がそれを切り分けてしまったたものだから「半分」の存在である男と女は自分の「片割れ」を探し続ける、っていう。で、見つけると「完全体」になれる。

 アナリースさんが言うと超知的でお洒落な会話に見えるけど、分かりやすく言えば「運命の人を探しに」ってところ。

 上手く出会えることを心から祈るよ。その片割れ(moitié)と。


 で、実際のところは最近流行りのアニメ、ゲーム系趣味が高じてのパターンなのかな。

 それはそれで本当に素晴らしいよね。ソフトパワーは侮れない。パクス・ロマーナもパクス・ブリタニカもパクス・アメリカーナも、すべてソフトパワーに支えられてきたんだから。


「そうか。お友達とはネットで知り合ったのかな」


 好きなアニメの話題で、SNSで意気投合とかそういうパターンだろうか。本来はそこまで踏み込むべきじゃないんだけどネットの交流は危険性もある。「小グロワス」を贈られるほどの厚意を受けたんだから失礼にならない範囲で世話を焼いておきたい。たぶん彼女はまだ若いはず。年長者としてできる限りのことを。

 そんなぼくの心配はうれしいことに杞憂に終わった。


「いいえ。大学で知り合いました。留学したときにホームステイ先で」

「それなら安心ですね。ちなみにどちらに?」

「K大学です」


 あー、なるほど。ぼくの母校だね。経済強いからね。あそこ。あと文学も強いよ。特にフランス文学が。


「K大学の学生さんなら私の後輩でもある。いつか機会があったら紹介して欲しいな」


 完全なリップサービスです。ぼくは人事担当ではないので。大学生と語り合うとかちょっと遠慮したいところ。話が合わないからね。全く。

 でもアナリースさんは本気にした様子。パッと満面の笑顔を見せた。本日初の。


「はい! ルー・サントルに行くときには()()()も誘いましょう」

「ああ、うん。チカコさんね。それでいいと思うよ……」


 これはなんというかね、極めてパパ活に近い何かなのではなかろうか。

 不安に思ったぼくは、隣で話に耳を傾けていた頼りがいのある大人の女性陣にアイコンタクト。

 お二人ともにっこり。


 まぁ、目がちょっと無機質なのが気になるけど。


「銀座デート、いいなぁ。いいなぁ! ねぇ、茉莉さん?」

「ええ。でも、兄さんと大学生の女子二人だと、少し()()を生む可能性がありますね。あらぬ()()を受ける可能性があります」

「誤解を避けるためにはどうしたらいいんでしょう。ねぇ、茉莉さん?」

「難しいですね。——たとえばですが、()()()()()がつきそうとか」


 あー。ぼくは願ったり叶ったりだよ。諸手を挙げて歓迎する。

 アイドルグループとそのマネージャーみたいな立ち位置でいける。

 サインとか写真は事務所を通してもらわないと! 


 で、アナリースさんにチラリと視線を投げてみた。


 彼女もにっこり笑顔。


 ”友達”が増えてうれしそうだ。ぼくも紹介した甲斐があったよ。

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