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地に落ちて死なずば  作者: 本条謙太郞


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ブランド

「こちらこそよろしくお願いします。——それにしても驚きました。お嬢さんがいらっしゃることはお父様から伺っていましたが、まさかCMO(最高マーケティング責任者)としてブランド運営に携わってらっしゃるとは。ひょっとして、今日のこの会場も?」

「はい。全体の方向性はわたしが定めました。細部はスタッフの皆さんです」


 照明の輝度を落とした店内。深緑を基調にしたインテリア。エイジングを施した分厚い黒革のソファ。なんと表現すればいいだろう。深い森の中にいるような、そんな錯覚を感じさせる上品さだった。


「エストブールのブランドイメージにぴったりだ。お父様の時計の真髄は軽やかな文字盤ではなくて、その下に眠る重厚な機械ですから」


 この辺りも説明がいるね。

 機械式時計の中心はご存じの通りスイス。というか9割方スイス。じゃああとの1割はどこかといえば、それは日本とドイツなんだ。まぁこれもそこまで違和感ないね。両国とも精密機械に強そうなイメージがある。

 日本のことは取りあえずおいておいて、ドイツだ。ドイツの場合東西に分断された不幸な過去があるから時計の歴史も結構ややこしいんだけど、ここでは一つだけ理解しておけばいい。ドイツの時計産業はその歴史ゆえに、スイス的スタンダードとはちょっと趣の異なる独自性を墨守してきたという。

 エストブールさんは元々オーストリア出身(なんでも貴族の出とか)でね。そこからドイツの某超有名ブランド(組み上げた時計を一度全部ばらして再び組み上げる”二度組み”で有名なところだよ)で頭角を現して、その後ぼくの大好きなBのつくフランスブランド(残念なことに工房はスイスにある……)に転職。そこの主任技師兼設計者として名声を博した。

 なんでそんなこと知ってるかって? 

 もう隠すつもりはないよ。マニアなので。

 マニアってそういうものでしょ。


 で、今回彼が立ち上げた『エストブール』、機械がドイツ系の設計なんだ。文字盤意匠は例のB社が代表するようなアンシャン・レジーム期由来のザ・クラシックながら、裏は重厚極まる4分の3プレート。つまりドイツとフランスのいいとこ取り。融合。

 これ、いわゆる業界ゴロ的な仕掛け人が小手先でやったら見向きもされなかっただろうけど、なにしろエストブール博士のフルハンドメイドだからね。

 正直なところ、ぼく程度のライトファンでは手に入れるのは難しい。まぁ無理だろう。


「エストブールさんはとても流暢な日本語をお話になりますね。不躾で恐縮ですが、日本語はどちらで?」

「ありがとうございます。わたしは子どもの頃から日本が好きでした。ずっと自分で勉強して、大学時代は交換留学をしました。だから、わたしの子ども時代は時計作りと日本語学習の思い出ばかりです」

「なるほど。それは凄い。時計作りということはエストブールさんも製作を?」


 日本人に比べて表情豊かな西欧の人には珍しく、アナリースさんはとても抑制的。今日のような晴れの舞台でも真顔。

 だけどこのとき、ほんの少しだけ、彼女は笑みを見せた。


「アナリースと。お呼びください」

「ああ、ああ、そうですね。確かにファミリーネームではお父様と混同してしまう」

「いいえ。——ただ、そう呼んで欲しいのです。あなたに」


 彼女の鳶色の瞳がぼくを射貫く。

 目力が凄い。思わず何か深い意味があるのではないかと勘違いしそうになるほどに。

 でもね、ヨーロッパの人って(アメリカもかな)相手の目を見て話す習慣が徹底してるから、彼ら彼女らの普通が日本人には重く感じられることもある。


「もし私が奇跡的にこちらの時計を手にすることができたら、その時は長いお付き合いになりますからね。友人に自慢しますよ。”私はエストブールのCMOとファーストネームで呼び合った仲だぞ”って。——お許しいただけますか? アナリースさん」


 ぼくはちょっとおどけた素振りで答えた。

 まぁ一期一会、いい思い出になった。

 今回発表される時計は2タイプ。三針とパーペチュアルカレンダー。三針は時針、分針、秒針という時計の基本機能のみのやつ。パーペチュアルカレンダーはゼンマイさえ巻いておけば、毎月の末日不揃いはおろか閏年の2月も日付調整が必要ないという複雑機構のこと。

 受注生産で年産は多く見積もって三針が10〜20本くらい、トゥールビヨンが3〜5本程度だろうか。工房に投資をしていればもう少し生産数出るだろうけど、メジャーを目指しているわけでもなさそうだからその線はない。

 で、今この時点で予約が数百本は入ってるパターンだね。

 つまり悲しい結論に辿り着く。

 ぼくは買えない。


 前に「初回で注文する」って言ったのは事実だけど、ここで資本主義の残酷な現実が立ちはだかる。一日のお小遣いが1億円みたいなアラブの富豪とぼく、どちらが優先されるか、分かるよね。

 だから今日はエストブールさんと旧交を温めにきたようなものだ。

 そこに娘さんともお知り合いになれるなんて、最高のサプライズだね。


 ん? 名前の話に意識が行って流したけど、彼女、時計作ってるの? え?


「ああ、話が逸れてしまった。——先ほど時計を作られているとおっしゃいましたね」

「はい。わたしも作ります。父に習いました」

「かのエストブール博士の指導を受けられるとは、アナリースさんは幸運な方だ」


 親子だからね。作るというか、組み立てとか一通り教えてもらったんだろう。

 時計のメカニズムを一通り分かっている人が経営陣の中にいるのはいいね。ブランドの軸が安定する。時計を知らない銀行マンとか投資ファンドが牛耳る経営サイドがわけ分からん動きをして、ブランドを滅茶苦茶にする事例は結構多いから。


「アナリースと、お呼びください」

「ええ。もちろん。アナリースさん」

「”さん”は不要です。最近はヨーロッパでも敬称はほとんど付けません。付けると、少し距離を感じます」

「なるほど。分かりました。では敬称なしで呼びましょう。——アナリース」


 彼女の大きな瞳が一瞬見開かれ、満足げに弛緩した。

 ヨーロッパもアメリカナイズ著しい様子。現代感ある。


 ぼくが勝手に納得していると、彼女がおもむろに左腕を差し出してきた。

 手首に巻かれているのは直径34mmくらいの無垢三針スモールセコンド。波打つギヨシェ文字盤の繊細な模様が店内の弱光さえ拾い、柔らかく浮かび上がる。


「……シークレット、ですか」


 時計ブランドはね、結構こういうの好きなんだ。昔某テックブランドの代名詞だった「one more thing」みたいに未発表のモデルをさらっと出してくる。大体は上顧客に対してだけ。

 それにしても、このコンパクトさ、薄さ! 女性であるアナリースさんの手首周りだから少し大ぶりに見えるけど、たぶん36mmまではいってない。今回エストブールが発表した三針時計は38mm。二回り小ぶり。

 あー、これは!!

 これは凄いね。素晴らしい。34mmに入るワンオフの機械。


「最高に好みだ……。まさかこんなサプライズがあるとは思わなかった」


 彼女が中空に掲げた左腕に巻かれる時計から目が離せない。ぼくはここで理性を総動員せざるを得ない。だって、女の人の腕に顔を近づけて舐めるように眺めるって完全にアウトでしょ。

 アナリースさん、ベルト外して、ぼくに渡してくれないかな。じっくりと、じっくりと見たい。


 そんな欲望に満ちた心内は、更なる驚きで塗りつぶされることになった。


 彼女の右手が突然ぼくの右手を掴む。そして、あまりにも自然に自身の左手にそれを導いた。ぼくの手を。

 そして彼女の左手の指は、ぼくの右手指を()()した。


「……アナリースさん?」


 このお店、ちゃんと監視カメラついてるよね。頼むぞ。

 逮捕されたときに弁護側の証拠として使いたいからね。()()()()()()ではなかったことの証拠に。


「アナリース、です。——こうすれば、もっとしっかりと見られますから」

「ああ、ああ、うん。そうだね。……申し訳ない。突然のことで少し驚いてしまった」

「緊張されていますか?」

「そのようです」

「では、慣れてくださいませ」


 もう意味が分からない。

 ぼくは旧知の時計師さんに新ブランド発表のお披露目パーティに呼ばれた。そこで彼の娘さんに出会って儀礼的な挨拶を交わした。

 で、なぜかいきなりシークレットモデルを見せられ、なぜか手を握られている。

 ”慣れてくださいませ?”

 え?


「知り合った方と手を握るのは、フランスでは()()()()()ですから」


 アナリースさんは抑揚のない、だけど歯切れのいい日本語でぼくにそう告げた。

 確かに映画とかでよく見るね。ハグしたり肩組んだり。ちょっと勘違いしそうになった。


「なるほど。あまり外国の方と接する機会がないからちょっと驚きました。——それにしても素晴らしいモデルだ。今回発表は2本だけだと思っていましたが、こんな最高の隠し球があるとは」

「『エストブール』の発表は2本だけです」

「ええ、分かります。シークレットでしょう。本来は見ることができない私にまで見せていただいて、ご厚意に感謝します。アナリース」


 アナリースさんが瞼を閉じる。長い睫毛が揺れている。そんな錯覚すら覚える。

 ほんの一瞬の瞑目を経て、彼女は再び目を見開いた。何かを決意したように。


「シークレットでもありません。これは、私が作りました」

「あなたが? これを?」

「はい」


 彼女が「企画」したということか。

「企画」というのはつまり、汎用部品を組み合わせて時計を作ること。ケース、ガラス、文字盤、機械。全部汎用部品なんだけど、それらを上手く組み合わせて思い描いたとおりのイメージを表現するやり方。簡単なようでいて、組み合わせ方が下手だと途端に凄く安っぽくなってしまう。逆にうまくやれば見栄えのいいものが出来上がる。センスが物を言う世界。

 彼女がいいセンスをしているのは間違いない。デザインの方向性も明らかに趣味人好みでちぐはぐさもない。『エストブール』のセカンドラインとして30〜50万くらいで売るのかな。


 比較的安価な機械式時計は中の機械に汎用品を使うのがほとんどだ。でも大量生産品だけあってサイズは売れ筋のもの——大体直径36〜40mm用——が大半を占める。だからそれより小さいサイズで安価なものは珍しい。中には小さい時計用の汎用機械もあるんだけどね。プゾーはその一つ。


「中身はどこのものを? このサイズだと汎用はなかなかないでしょう。プゾーかな?」

「いいえ。私が作りました」

「機械を?」

「はい」

「……」


 もう無言。

 作った? 機械を? 設計して、部品を加工して、装飾して、組んだということ?

 え? 本当に? 普通ならありえないことだけど彼女はエストブール氏に「学んだ」。つまり弟子だ。

 あり得る。


 ということはつまり、目の前の彼女は()()()時計師ということになる。

 独立時計師ということに。


「それは……。もうなんと言えばいいか。今日一番のサプライズです。見せていただけて本当に光栄だな。ブランドを立ち上げる際には私にも列に並ぶ権利をくださいね。『アナリース』ブランドのこの……ナンバーいくつか分かりませんが」

「ナンバー制にはしません」

「ではシリーズ毎に名前を。これは何というんですか?」


 アナリースさんの無表情がほんの一瞬歪んだ。唇が引き締まる。

 完全にぼくの思い込みだろうけど、その顔は少し悲しそうに見えたんだ。辛そうに。不思議なことに。

 そんなはずはない。自分で製作した自慢の逸品を披露する場だからね。


 彼女はこれまで同様、抑揚を抑えた口調で静かに言った。


「——(プティ)グロワス」


 なるほど、グロワス。

 最近ぼくの周りによく出てくる単語だ。例のマンガの主人公もグロワス13世だし。グロワス13世は壮年以降「大グロワス」として各国の敵から畏怖されるようになる。ちなみに彼の子どもは後に「小グロワス」と呼ばれるんだ。グロワス14世。


 こういう偶然の一致って重なるものだね。

 たぶんマンガ、あ、原作は小説だから、小説の作者はヨーロッパの人名からキャラクター名を取ったんだろう。


「とてもいい名前だ。では、(プティ)を作った以上、将来(グラン)グロワスも作らなければなりませんね」

「ええ。……いつか作ります。必ず」


 彼女の手がぼくの右手を離れる。そこで気づいた。かなり強く握りしめられていたことに。アナリースさんも緊張したんだろう。

 一応ぼくも時計好きの端くれ。処女作がカスタマーに受け入れられるかどうか、気にならないわけがない。

 ちなみにぼくは本当に気に入った。でも多分買えないんだろうな。辛い。


 諦め半分で会話を終えようとすると、彼女が再び不思議な行動に出る。小グロワスをそのほっそりした腕から外して、ぼくの手のひらに載せたんだ。


「試着してもいいんですか? それはうれしいな!」


 急いで自分の腕時計を外そうとするぼくを彼女は優雅に押しとどめた。優雅に。しかし断固として。


「いいえ」

「ああ、申し訳ない。先走りました。では、機械だけ拝見して……」


 サファイアガラスの蓋を通して見える機械を観察しようと動き出したぼくを、彼女は再び遮った。決定的に()()()言葉を以て。


()()()に差し上げます。——()()()()()()()()()方に」


 腕時計はフランス語で une montre。montreは女性名詞なので、代名詞で置き換えるなら「彼女」と言うべきだ。でも、時計の名前が男性名の「グロワス」だから「彼」でもおかしくない。「時計」に重点を置くか「グロワス」に焦点を合わせるかの違いだね。

 彼女は日本語のネイティブ話者ではない。頭の中でフランス語を日本語に翻訳している以上混乱は当然あるよね。


 そんなことよりも、もっと重要な問題がある。

 ぼくは真剣に隠しカメラを探さなければならない。

 これは多分どこかテレビ局のドッキリ企画だろう。ああいうのって本当にアポなしでやるのか。てっきり全部やらせかと思っていた。

 それにしてもこの広報はいただけない。『エストブール』は民放のバラエティ番組で露出させるのが効果的なタイプのブランドじゃないはずだから。


 エストブールさん(お父さん)もなぜこんなのOKしたのか。確かにアナリースさんはテレビ映えどころか映画映えだってするような超絶美人だ。でも、そういう売り方はどうなんだろう。ビジネスだから綺麗事じゃないのは分かる。分かるけど巧拙ってものがある。

 どこの広告代理店だよ、このふざけた仕掛け考えたの。


 間違っても落とさないように「小グロワス」を握りしめながら、ぼくは内心かなり頭に来ていた。


 そんな心の内などお構いなしに、アナリースさんがぼくの「後ろ」にいる人たちに声を掛けた。

 涼やかに、凛として。


「三沢さん、下川さんも、こちらへ()()()()()()()()()()。一緒にお話いたしましょう?」

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