享楽的であること
正直に言おう。
ぼくは世間的には誠に鼻持ちならない、アレな感じの趣味を持っている。
元はね、仕事の付き合いで駆り出された商工会議所青年部(大体ぼくみたいな境遇の二代目三代目の飲み会グループ)で教えてもらったんだ。ほら、よくない趣味嗜好は大体よくない先輩から習うものでしょ。タバコとか、ちょっとここには書けない(一応合法の)不思議な粉とか。
同じようなタイプのアレ。
つまり時計趣味だ。
時計って実用性が低い割に装飾品としてはよくできてるから、昔から富の象徴として使われてきた。現代の言葉でいえば直球でマウントツール。
金額もね、ちょっとね。
皆が知ってるロレックスとかは値段だけで位置づけするなら入門品。一歩間違うと消耗品に近い扱い。もちろんそれは金額だけから見た話で、物としては外装も機械も凄いんだよ、ロレックス。ブレスレットと本体の嵌合部の詰め方しかり、尋常じゃない安定精度をたたき出すムーブメント(中に入ってるゼンマイ機械のことね)しかり。あと、よくマンガとかでネタにされる成金的なフルダイヤのやつもダイヤの質が桁違いにいい。現代時計の極北といっても過言ではない。物自体は。
残念なことに最近はマネーゲームの商材になっちゃってるからどうしても色眼鏡で見られがちだけど、まぁ間違いなく物は最強。
ぼくも人に相談されたら第一のお薦めは絶対ロレックスだ。
で、趣味の世界になると事情がまた異なる。最良が最善とはいかない。
これは他の趣味でも似たようなことがあるね。車だって物としては日本車がいいのを十分理解しつつ、あえて壊れるイタリア車とかを選ぶ人は後を絶たない。アルファとか警告灯がついてからが本番。
時計に話を戻そう。
ロレックスやオメガは確かにいい。最高にいい。でも何かが足りない。分かるだろうか。
ぼくは公園に遊びに行ったら中央砂場の滑り台には目もくれず、暗がりのベンチの下を覗き込んで石をひっくり返すタイプの子どもだった。誰にも存在を知られることなく生きるダンゴムシたちを白日の下に晒す快感を求めて。
そういう子どもが大人になると、同じようなことを大人のスケールでするようになる。
つまり、一般に余り知られていないマニアックなブランドを漁り出す。
ちょっと実名は避けるけど、ぼくはマニア界のメジャー的存在ともいえるあるブランドが好きだった。Bで始まるやつ。
で、そこの工房を仕切る超有名な時計師エストブール氏(博士号持ちだぞ)と知り合う機会を得た。彼と話したときほど、フランス語を勉強していて良かったと痛感したことはない。時計界の公用語は英語じゃなくてフランス語なんだ。最近は英語も普通に使うけど。
さて、水曜日の19時。
銀座はいい感じに暖まってくる。客層がちょっとずつ入れ替わっていく。
海外からお越しの観光客の皆さんがいなくなって、代わりにサラリーマンとかサラリー出す側マンとかが出没し出す。大体サラリー出す側マンの方が多いね。あと、夜モードでイカ釣り漁船みたいに電飾を煌めかせて空ぶかしするランボルギーニ。
まぁいつもの世界。
ぼくは目的地に向かって颯爽と歩く。並木通りを。
二人の美女を伴って。
伴って……。
◆
お酒って怖いね。自白剤の別名かな。
3人でチョコレートケーキを食べたあの日。夕方までは本当に素晴らしく健全な集いだった。クラッカーのCMイメージの若い子達がパーティしてる場面に使えそうな爽やかさ。何せ被写体がいいからね。ぼくを除いて。
それが夜になると状況は一変した。
お寿司をたくさん食べて、ちょっとお洒落な飲み屋に繰り出して。翌日は月曜だというのに皆しっかり終電間際まで飲んだよ。
そこでついついエストブールのイベントの話をしてしまった。
「まぁ! 社長、なにかうれしいことが?」
「うん。その、確かにいいことがあった。ただ、大したことでは……」
「えー、聞きたいなっ。ねえ、茉莉さん」
三沢さんが茉莉さんに話を振ると、彼女も心得たもの。
「兄さん。幸せは分かち合ってこそですよ」
カッコいい台詞は彼女も酔いが回りつつあるせいだろう。
だからぼくは語った。
ぼくもシャンパン→シャンパン→赤と着実に階段を上りつつあったからね。
「今度、凄い時計ブランドが新しく立ち上がるんだけど、その発表パーティに呼ばれてね。これは凄いことなんだ。エストブールさんっていう時計師なんだけど……」
と、ここからざっと5分。
時計業界の現状からエストブール氏の得意とするムーブの機構、外装のポイントまで語り倒した。
で、ふと我に返る。
普通はさ、こう思うよね。
気持ちよく演説を終えてみたら、二人とも明白な愛想笑いを顔に貼り付けたままスマホいじってた、みたいな光景を想像するよね。
そうだったらぼくは安心できた。
実際は真逆。身を乗り出して頷きながら聞いてくれる。ワインを継ぎ足してくれる。ときどき「すごい!」「そうなんですね。知りませんでした」みたいな台詞を添えて。
正直に言おう。ぼくはちょっと疑った。
お二人とも、昼のお仕事の後でちょっとした副業とかなさってるのかな、って。
それくらい優しい反応だったんだ。
さて、そんなわけで往時の勢いに急ブレーキをかけたぼくに、狙い澄ましたように三沢さんが話しかけてくる。
「わたしも大人ですから、そろそろちゃんとした時計欲しいな、って思っていたところなんです」
そうなんだ。いいね。素晴らしいと思うよ。
「兄さん詳しそうですから、お薦めを教えてください」
茉莉さんが乗っかる。
これ、楽しいようでいて実は結構むずかしい話題なんだ。
というのも、ちょっと生々しい話になるけど、時計はそこそこ高い。本当に相手のための最善を考える場合「買えるかどうか」まで考慮に入れなければならず、必然的に予算を聞くことになる。
聞けばいいって? それはそう。茉莉さんはまぁいい。親戚だしね。十分稼いでるはずだから聞かれても嫌な気持ちにはならないだろう。問題は三沢さんだ。茉莉さんにだけ聞いて彼女に聞かないわけにはいかない。
たとえば茉莉さんがさらっと「300くらいまでなら大丈夫です」と答えたとしよう。三沢さんはどう思うだろうか。彼女は無職になったばかりだからね。しかも前職は地方中小の事務職だ。正直給与額も大体知ってる。これは仕方がない。つい数週間前までうちの社員だったわけで。
「お薦めは難しいな。女性の場合、時計そのもの以上にファッションとのマッチングが大切だと思う。残念ながらおれはそのあたり疎い。時計ばかりに意識がいって、結果的にちぐはぐなものを勧めてしまうかもしれない。——だから、自分でお店に行って気に入ったものを選んだ方がいいと思うよ」
面白みがない答えだけど、真摯なアドバイスをしたつもりだ。
「まぁ! そこまでちゃんと、わたしたちのことを考えてくださるんですね」
三沢さんがほんのり赤く染まった顔で褒めてくれる。うれしいね。
「たしかに兄さんはときどき妙に真面目です。でも少し足りません。——私たちはどこのお店に行けばいいのか、そこから分からないんです。そうですよね、青佳さんも」
「ええ。茉莉さんのおっしゃるとおり。——どうしましょう」
別にいいと思うよ、時計とか気にしないでも。女の人の場合、指輪やブレスレットが充実してるから時計の重要度は男に比べて格段に低い。
「本当に。……どうすればいいでしょうか? ——陛下」
嫌な仇名が蔓延し始めたな。
「ああ、うん。じゃあルミネとかのセレショに……」
「陛下! そのエストビルグのお披露目パーティー、どなたと行かれるんですか?」
「エストブールね。一人だけど?」
三沢さんの言い間違いをサラッと直して自明の答えを発する。時計はね、一人で静かに楽しむ物だからね。
「陛下。それは常識と異なります。夜会に殿方一人とあっては格好がつきません」
茉莉さんが被せてきた。皆いい感じに酔ってロールプレイが始まってる。この居酒屋が個室あってよかったよ。
「では共に行こうか。かくもお美しい姫君方のお供をできるとは、これに勝る幸せはない!」
この際ぼくも悪乗りしていく。みんな大分お酒回ってるから明日には気持ちよく忘れているだろう。
そう思っていた。
「はい。陛下。ブラウネがお供いたしますね。侍女として」
両手のひらを合わせ、莞爾たる笑みで歌うように宣言する三沢さん。そして
「私も参ります。陛下をお守りする使命がございます。侍女として」
ちょっと恥ずかしくなってきたね。30代男性1名、20代女性2名でマンガのロールプレイごっこしているという。
ただね、二人とも妙にその……演技がお上手でいらっしゃる。
しかもその……かなり飲んだはずなのに、口調がはっきりして……。
やっぱりあれかな。仕事の後に源泉徴収表出ないタイプの副業とかされてたんですかね。酔ったふりが上手くなるような。
◆
夕方の銀座。
中年の冴えない男。
モデル事務所に所属してそうな美女とアイドル事務所所属っぽい美女。
あっ。
察されてる感がある。
でもさすがは日本一の高級繁華街だけあって、そこまで浮かない。
でも違うんだ。そういうのじゃない。
たまたま時間が空いていた友達同士、連れ立ってパーティーに来ただけなんだ。
ぼくは時間はなんとでもなる。三沢さんは無職。茉莉さんは職場から電車で1駅。
たまたまね。
で、目的の時計店。黒服をビシッと着こなしたドアマンが恭しくガラス扉を開けてくれる。
室内に足を踏み入れると、ドレスアップした男女が結構たくさん。
これ、PRの撮影入るパターンだね。芸能人っぽいひとも何人か。
正直全く興味が無いので、二人を誘導しながらショールームの中程に進んでいく。すると、ぼくでも知っている有名時計ジャーナリストと話し込んでいるエストブールさんを発見。白髪の混じったひげ面が似合うイケオジだ。
彼もぼくに気がついたようだけど、生憎話し中。ぼくは手の平を押し出すジェスチャーで、「そのまま続けて」と合図しておいた。
すると彼、きょろきょろと辺りを見渡して誰かを探している。お目当てのその人を見つけると、右手を軽く振って、ぼくの相手をするよう指示をした。彼女に。
人体が為しうる限りの優雅な足取りで、人混みを見事にさけてしなやかに歩いてくる。
まるで高貴な猫のように。
艶やかなダークブラウンの髪をなびかせて。深い青のカジュアルドレスを身に纏って。
白磁の肌と鳶色の瞳は顔の無表情と相まって独特の——人工物のような雰囲気を見る者に感じさせる。
彼女はぼくたちの前に速やかに、しかし驚くほどにゆっくりとやってきた。
そして微かな笑み。あれ、この人、結構若い?
欧米の方の年齢って外見からは分かりづらいんだけど、笑顔に残る若干の幼さが感じられる。
「エストブールのCMO(最高マーケティング責任者)をしております、アナリース・エストブールです。以降よしなにお願いいたしますね」
流暢な、でもちょっと古風な日本語で、彼女はそう述べた。




