補遺:être-en-soi 後 ー幸福な死ー
由理くんのために注文したベルトは3日後に届いた。今回は受注品じゃなくて、在庫がある品から選んだからね。
それにしても、一個人が趣味で作った手製の品が見ず知らずの他者のもとに3日で届く。考えてみれば、これは驚くべきことだよ。
注文時、ぼくと由理くんに茉莉さんを交えてわいわいやった。
ベルトの世界は本当に奥深い。色と素材、形状——これは厚さや長さを指す——の組み合わせで、驚くほどに多様性が出る。色を黒に決めたとして、例えばコードバンとカーフでは風合いが全然違う。カーフの中でも型押し、プレーン、あるいはサフィアーノのような細かい目が入ったもの。色々ある。
3者3様の候補が出そろう。
面白いのは茉莉さんのチョイスだね。長い紐状になっていて、腕に二重で巻けるトープのやつ。某H社の定番ブレスレットを模したようなデザインは明らかに女性向け。さらに、C社の黒いプラスチックケースの色と形状を考えるに、その……結構チグハグ。本人曰く「今は男性もパールを着ける時代ですから」とのことだけど。
まぁ由理くんの容姿がある種「女性的」と形容しておかしくないものであることは認めよう。でもね、彼、物体としてはかなり大きいからね。身長も軽く180センチを超えてるし、近くで見ると腕も結構太い。モデルってすごく細いイメージあるでしょ。実際は全然違う。
茉莉さんだって彼を間近に見ているんだからミスマッチは分かっているはず。だからぼくは最初、なにかの”あてつけ”かと邪推した。でも、その後の口ぶりを聞く限り、彼女は本心から「それがよい」と思っているようだ。
ここだけの話、茉莉さんはなんというか”独特”の感性をもっている。
大人気の手製ぬいぐるみも、顔がね、ちょっとブサカワ。いや、直球でブサカワ。間が抜けてる。
身なりはすごくスタイリッシュなのに、明らかに丸の内を闊歩するシゴデキカッコいい系女子なのに、そんな彼女の頭の中から「ブサカワ」が出てくる。面白いね。
誠にもって勝手なことながら、ぼくはそこに彼女の幸福、その一端を垣間見る。つまり彼女は持って生まれた感性を矯正されなかった。嗤われることもなかった。
才色兼備で運動もできて、性格もいい。そんな彼女が選ぶ「ちょっと変わった」小物は、多分周囲から好意的な反応を得たはずだ。ギャップというのかな。
単体で見ればおかしな、あるいは場違いなものも、それを選んだ人間のキャラクター次第でいとも簡単に「おしゃれ」へと転化する。
ああ、逆か。
物自体には何の属性も付与されない。物は物だ。そこに何らかの意味を付与するのは人だよ。ようするに、茉莉さんがそれを選んだ、あるいは創ったという一事において物は「おしゃれ」になる。
この事実を、多分彼女は無意識ながら理解している。だから堂々と自身の選択を衆目に晒すことができるんだ。
ぼくには出来ない。怖いからね。センスを馬鹿にされるんじゃないかって不安でしょうがない。
よって、ぼくは違う方向に向かう。姑息な方へ。
ぼくが選んだのは黒いマットアリゲーター。若干ヌバック加工が入っているそれは、茉莉さんの選択に比べれば圧倒的に「正統派」だろう。
アリゲーターは素材のイメージとして高級感が強い。だからヌバック加工をして——いわば荒らすことによって使用感のある本体と調和させてみた。芯の入っていないフラット形状で、厚みも純正ウレタンとほぼ同じ。色も。
先人たちが築いてきた王道パターンに、ほんの少しだけ”自分の味”を加える。かすかに。「通」と呼ばれるための最短のやり方だ。
みんなが見知った情景を最初に見せることで人を引き込み、引き込んだ上で”差異”を見せる。ああ、いや、見せない。見る人が差異を自発的に”発見した”と思わせる。「よく見ると手が込んでいる」「神は細部に宿る」。こういうやつを狙った。
結局の所、ぼくには何もない。
茉莉さんは自身の存在によって「物」を色づける。
一方ぼくはね。ぼくは多くの人たちがそうやって作り上げてきた偉大な「物」の塔、そのてっぺんにエレベーターで上って、床に石ころを一つ積むだけ。
ぼくは価値を生み出せない。あるのは知識だけだ。姑息な。
さて、結果はどうなっただろう。
由理くんはどうしたかな。何を”選んだ”かな。
◆
「それで、ヌメ革を選ばれたんですか。レスパンさんは」
ぼくの家は時々賑やかになる。女性陣の皆さんが示し合わせたようにやってくるタイミングがあるんだ。
「悪くないチョイスだと思うよ。経年変化で色が変わっていくのがいいらしい」
青佳さんの言葉に首肯を返しながら、ぼくは大皿に山盛りになった唐揚げに箸を伸ばす。
彼女はいつも素敵な食事を作ってくれる。イタリアの地名が織り込まれたサラダとか、フランス語で優雅に表現される「煮こごり」とか、そういうのは出てこない。
「意外ですよね。経年変化なんて一番嫌いそうな方なのに!」
知子さんが箸を繰り出しつつ直球の茶々を入れる。
意外といえば彼女の嗜好の方がぼくにとっては意外。
知子さん、唐揚げ好きなんだよね。
お嬢様の中のお嬢様、ご実家のテーブルは縦15メートルくらいあって、毎晩フレンチのフルコースが出てくるような、そんな分かりやすいタイプの属性を持つ彼女が唐揚げ好き。
今もね、自分の取り皿に3つくらい取ってる。
富の占有。資本家の強欲。ゆるされない……。
ぼくの分も残しておいてほしい。
「人は変わりますよ、知子」
すまし顔で唐揚げにレモンをどばどばかけていくアナリースさん。
ああ、実はね、ちょっと前まで由理くん居たんだ。彼の時計に付けるためのベルトなんだから、肝心の彼がいなくては始まらない。
梱包を解いて、彼が選んだベルトを取り出し、さぁ換装しようというところに第一陣のアナリースさんが来た。
特に約束はしていない。平日の夕方なのに、みんな、ふらっと来る。
で、ぼくは辛い思いをした。
何がって、アナリースさんに一挙手一投足を見つめられながらベルト換装をするという。
「上手ですね……。それに丁寧」
独り言のように彼女が呟く。
彼女は本体、特に機械を制作する職人だ。ベルトの脱着はどちらかというと制作の最終仕上げ段階に属する仕事だから、おそらく彼女は関わっていない。とはいえ彼女はプロだ。私物の付け替えなんかは当たり前のようにやるだろう。
「上手いかどうかは分からない。ただ、今日は丁寧にやっていますよ。なんといっても人様の時計だから」
そう、今回ぼくは、脱着時のミスでケースに傷が付かないように、ラグの周囲にマスキングテープを貼っている。自分の物を弄るのであればこんなことしないよ。面倒くさいから。
「別に気にしないのに。もう既に傷だらけなんだから」
「ああ、きみはそう言うけど、自分で付けた傷と他人に付けられた傷は違うんだ。今は良くてもあとで思い出す。寝る前あたりに。……私に対する怒りがふつふつと湧いてくるよ」
「そんなわけないでしょうに!」
ぼくのしょうもない冗談を由理くんは大げさに笑ってくれた。
そんな男二人の戯れ言を尻目にアナリースさんが尋ねる。由理くんに。
平板な声で。
「ところで、なぜヌメ革を選ばれたのですか。ケースと同色の黒の方が統一感が出ますよ」
当然の問いだろう。
実際にケースに付けてみても、予想通り、ヌメ革と黒いプラスチックケースの相性はあまりよろしくない。染料もなく、まだ焼けもないヌメ革はクリーム色。白寄りの。対するケースはくすんだ黒。質感だって滑らかとガサガサで統一感に欠ける。
「その死体を他人が好きな色に染め上げることが……俺には我慢ならない」
由理くんは慎重に言葉を選んでいる。事実がどうかはわからないけどぼくにはそう感じられた。
「それを言うならヌメ革もだめだろうに。鞣しの工程が入ってるんだから」
「もちろん。分かりますよ。俺はおかしなことを言ってますね。でも……後世の人間が、物言わぬ死者を自分の好む色に染め上げるのは、それは傲慢ですよ」
「ああ、となると、きみは革のベルトも靴も鞄も全部ヌメ革で揃えるつもりかな」
「いや。確かに極端です。俺も訳が分かりません。……ただ、ただその、ふと思っただけです」
由理くんは両手で髪をかき上げて宙を見つめる。
「あなたが得意とするところでしたね? それは」
しばしの沈黙を破ったのはアナリースさんだった。
最近だんだん飲み込めてきた。
彼ら彼女らが共有する空想の国サンテネリにおいて、皆の間には何か因縁深い出来事があったらしい。その何らかの出来事が想起されたとき、こういう雰囲気が生まれる。極めてシームレスに。
「ああ、ああ、もちろん忘れはしない。私はそれを得意としましたよ。だが、得意であることとそれを好くことは全く異なるでしょう。——正妃殿」
「ええ。その通りです。私はあなたの先刻の言葉を真情と信じましょう。この日本に生きるあなたの言葉を」
ときどき思う。こういう思わせぶりな台詞の応酬はサンテネリ語でやってくれないだろうか。類い希な完成度を誇る人工言語なんだから、もっと積極的に使っていこう。
「よく分からないけど、とりあえずきみが気に入ったんならそれでいいよ。ほら」
彼はぼくの手から受け取ったデジタル時計を腕にはめる。そして言った。革の感触を指の腹で確かめながら。
「これでこいつと、もう少しいっしょに生きられます」
◆
「ところで社長? その時計は?」
ぼくが唐揚げに食らいつこうとするまさにその瞬間、狙い澄ましたように青佳さんが問いかける。動物は食事時、最も無防備になる。狩人はその習性をよく知ってる。
「あ、私も気になってました! 新しいヤツですね、それ!」
「デジタルを着けてる兄さん、少し新鮮」
知子さんに加えて茉莉さんも参戦してくる。
彼女もね、いい感じで時計への解像度が高まってきている。昔はどんなものを着けていても気づかなかったのに。
人は興味の有無で物の見え方が大きく変わるんだ。
例外がいるとすれば青佳さん。
彼女、時計に欠片も興味がなさそうな割にやたら詳しい。ぼくの持ってるやつを全部、完璧に把握してる。不思議に思って一度理由を聞いてみたことがある。
こう言われたよ。
「お台所を預かっているのですから当然のことです」
時計と台所に何の関係があるのか、ぼくにはよく分からない。
お台所。日本語は奥深いね。
念のため、ちょっと銀行に電話しておこう。貸金庫の空きがないか、ちょっと確かめておく。他意は無いよ。
ほら、高価な品を家に置いておくのは防犯上良くないから。時計目当てに強盗が入って、万が一青佳さんが襲われるようなことがあったら事だ。彼女の身の安全のためにもね。しかたない。彼女のために。
決してその、気がついたら売り払われてて、そのお金でハワイ旅行をプレゼントされたりするのを恐れているわけじゃない。決して。
もちろん冗談だよ。彼女はそんな無礼なことをする人じゃない。それはよく分かっている。いつもぼくのためを思って行動してくれる、優しい人なんだ。
「ああ、うん。これは由理くんにもらった。今回のベルトの御礼に、って。彼も気の利く男になった。まさに大人に……」
「は?」
刹那4つの顔がぼくに向かい、8つの瞳が一斉にぼくを射貫く。とても美しい、黒と茶の宝石。だけど時々、妙に赤く見えることがある。
「え?」
「それなら普通の純正品でいいはずですね? でもベルトが違いますね?」
アナリースさんの疑問形はときに妖艶で、ときに刃。
あ、綺麗な形容でごまかしたけど、実際はドスに似た何かだよ。こう、腰から力を入れて、体重をかけて対象を刺すのにちょうどいいタイプの。
「うん。ベルトは同じヌメ革のやつを2本頼んだんだ。彼に言われて。てっきりスペアにするのかと思ったら……」
「趣味悪いです!」
間髪を入れずに会心の一撃。
知子さんは飾らない人柄が魅力だから。率直なところが、その、ね。
決して悪気は……いや、あるな、これは。
「兄さん、私がもっといいのを選んであげます。こう見えてもセンスにはちょっと自信があるんです」
否定はしない。確かに服の趣味はいいし、謎の小物とかぬいぐるみも彼女が持てばおしゃれに見える。でもそれって、結局のところ茉莉さん本人の魅力ではないだろうか。
「皆さん、そんなことを言うのはやめましょう? 社長が”お友達”から頂いた大切なお品なんですから」
ほんわかした笑顔でぼくを、そして皆を見やる青佳さん。
「そうですよね? 社長」
「ああ、ああ、うん。そうだね。彼とは長い付き合いだけど、こんな風に物を贈りあったことはない。男はそういうものだよ。皆さんのように、頻繁にお菓子を交換したりは……」
「ええ、ええ! 存じています。大切なお品ですもの」
青佳さんはぼくの空いたグラスに静かにビールを注ぐ。注いでくれる。
ありがたいことながら、こういうのはあまり好きではない。自分のことは自分でやりたい。
あとね、青佳さんのお酌はときに怖い。
「大切な大切な時計ですから、ちゃんとしまっておきましょうね。汚れたら大変。——時計ケースに入れて飾りましょう」
莞爾として笑う青佳さん。幼子に何かを優しく言い聞かせる母親の口ぶりに近い。
「さぁ、汚れてしまいますから、外してくださいね。あなた」
◆
人は他者を通じて自己を知る。
鏡を見たところで分からない。鏡が教えてくれるのは物体だけだ。肉の。
では心は?
自問自答はあてにならない。自己意識が自己意識に問う。自分は変わったか、と。でも、自己意識は別たれているようでいてその実同期している。問う意識と問われる意識、片方だけが変わることはありえない。変わるときは両方変わる。よってあてにならない。
だからぼくが自分の変化に気づくのは、彼ら、彼女らと対するがゆえなんだ。
1年前のぼくは先刻の会話を決して許容しなかっただろう。
ぼくの好みはぼくのものであり、他者に踏み込まれる筋合いはない。断固として拒絶する。
ぼくの周りにいてくれる人々はみんな賢い。そして鋭い。だから絶対に、そこに踏み込んでは来なかった。今日のようには。
でも1年後の今、皆一歩踏み込んでくる。
台所で洗い物をしている青佳さん。ダイニングテーブルで例の人工言語で高速おしゃべりを繰り広げている知子さんとアナリースさん。そして居間でソファに転がる茉莉さん。
そしてね、ぼくのスマートフォンの画面に映し出された写真。由理くんのSNSアカウントだね。
『尊敬する先輩とお揃いで』
そんなキャプションがついた、二人で撮ったリストショット。
つまりこれが今のぼくだ。
彼ら、彼女らを受け入れた、ぼくのなれの果て。
ぼくはみんなと楽しくやってる。
なんだかんだ言いながら、ぼくは友達の輪の中で暮らしている。
疎遠になった者といえばアルパカくらい。
南米原産の、もふもふの、頼れる親友。昔は毎日一緒にいた。ぼくは彼と暮らしていた。でも今はたまに会うくらいのもの。ぼくは彼が好きだった。
でもね。何かを得るためには何かを手放さなければならない。
この現実にどんな名前をつけるべきだろうか。
気の利いた言葉は出てこない。だから素直に「幸せ」と名付けよう。
それが「瞬間」に冠する語であるがゆえに。
決して永続しない、この場所この時にぼくの心の中に隆起した感情であるがゆえに。
ぼくはこの瞬間を生きている。過去も未来も考えず。
極小の、面積を持たない数学的「点」をいくつも連ねて生きている。
ぼくはもう、人であることを止めてしまった。
未来も過去も考えないのなら、それは「物」だよ。
◆
戯れにコアラを撫でてみる。
羊毛の柔らかい手触り。茉莉さんがぼくにくれたぬいぐるみ。
彼女を摑んで引き寄せて、抱きしめる。
リビングの巨大なソファに体重を全て預けて、この小さな生き物をぼくの身体の中に包み込む。
そして祈った。冥福を。
かつてのぼくの。
それは幸福な死だった。




