補遺:Gloice
「理解ある彼くん」
こんな言葉を知っているだろうか。
『地に落ちて死なば』出版を決めてから、ぼくも勇気を出してSNSアカウントを作ったんだ。作者としての。アイコンはアルパカにした。ぼくの命を救った——現在進行形で救っている——恩人なのでね。
正直気が進まなかったけど、堀田くんが作れっていうから仕方がない。最近は作者がSNSで自著を宣伝するのは普通らしくてね。
ああ、ご想像通り、ぼくの『地に落ちて死なば』も彼が担当することになった。かわいそうなことに。
ユリスさんにぼくと、面倒な作者ツートップ担当になってしまって申し訳ない。いや、ぼくは別に面倒ではないな。前者と比べれば圧倒的にマシだ。
で、そのSNSアカウントなんだけど、記念すべき「初めまして」挨拶ポストが秒速でユリスさんのアカウントにリポストされてね。
それを切っ掛けに、なんかたくさんの人がフォローしてくれたよ。
うれしいね。
判別できる限りだとアナリースさんがフォローしてくれた。彼女は実名アカウントだから分かりやすい。フォローに加えて「”個人的にも”お世話になっている素敵な男性」みたいな引用リポストまで。
お陰でアナリースさんファン?らしき、南米で白い粉製造業に従事されてる方とか、巨大な猫をたくさん飼ってる中東の王族みたいな方とか、フェラーリ20台くらいコレクションしてるヨーロッパの富豪っぽい方にもフォローして貰えた。フォローというか、監視なのか?
こわいね、時計界の姫。
あと多分、ぼくが懇意にしている他の女性陣の皆さんにもフォローされている予感はある。判別できないけど。
フォローというか、監視なのか?
そんなわけで作ったはいいものの、書くことが特にない。
お話を更新したときの告知くらいだろうか。あとは時計の写真とか時々上げてる。
それはさておき、SNSを本格的にやってみると色々な情報が流れてくるよね。
ぼくの方からフォローしているアカウントはほとんどない——だって誰をすればいいのか全く分からないんだ——から、見るのは自然「おすすめ」タブになるんだけど、あれ、アルゴリズム優秀だよね。30代男性で登録していると、なんか恋愛とか結婚とか、そういうのにまつわるツイートがたくさん流れてくる。
そこで知ったんだ。
「理解ある彼くん」
これ、ようするに、”精神的な不安定さを抱えた女性を受け止める懐の深い彼氏”という意味のようだ。若干皮肉っぽいニュアンスも含んでるんだろう。
で、最近思うようになった。
ぼくはひょっとしてこの「理解ある彼くん」なのではないかと。
たとえばぼくのマンションのリビングには、今日も4人の女性陣がたむろしている。その表現が余りにもぴったりくる雰囲気がある。くつろいでる。
この部屋の住人かな?
まぁそれはいいよ。
問題はね、彼女たち、時々ぼくが分からない例の言葉で話り出すんだよね。あのフランス語っぽい言葉で。
正しくは「サンテネリ語」というらしい。青佳さん曰く、”世界で最も美しい言葉””歌の言葉”なんだそうだよ。
彼女達は自分たちの病をカミングアウトしてから吹っ切れたようで、もう全然隠さない。今日みたいに複数人が集まると、当たり前のようにサンテネリ語と日本語を行きつ戻りつしゃべる。
たとえば、キッチンにいる青佳さんが他の女性陣に例の言葉で何かを問いかけ、皆さんもそれに滑らかに答える。で、ぼくの返答を待ってる。ぼくはその謎の言葉を知らないので答えられない。
ちょっと間が空いて、気がついた彼女が日本語で聞く。
「社長、紅茶飲まれますか?」
って。
でも、そういう日もあれば、ずっと日本語で進む日もある。
法則が全く見えない。
一度聞いてみたんだけど、ようするに完全なバイリンガル状態で思考もシームレスに両言語を行き来しているらしい。普段は日本語話者の中で生きてるから日本語固定されているものの、4人が集まるともう1つの言葉に引きずられる模様。
ぼくはね、もう慣れた。
これは人知を超えた事象だよ。そういうもの、と棚上げするしかない。
しかるべき科に受診を勧めようかと思ったこともあるけど、言葉以外特に支障はないしね。自分たちが作りあげた(?)言葉で会話することが病気かと言われればそうとは断じがたい。
このぼくのスタンスは、実に「理解ある彼くん」ではないだろうか。
あ、正確には「彼」ではない。「異性の友人」と言ったところだ。まだ。
さらに、彼女達の世話なんて全くしてない。逆にお世話されてる立場だよ。
ただ、少なくとも「理解」は示している。
人には誰しも他者と少し外れたところがある。もちろんぼくにもね。むしろ「標準」の存在自体を疑うべきだよ。フーコーじゃないけど。
ああ、ちょっと通俗的解釈過ぎるかな。
◆
さて、今日はね、皆さん目的があって来てくれてる。
お祝いの日なんだ。
何のって、ぼくのお話『地に落ちて死なば』の書籍化情報が公式にリリースされる。
別に大した動きではないよ。
レーベルの「刊行予定」のところに名前が載って、公式SNSでポストされるくらいのもの。
ぼくはそのポストをリポストして「皆さんよかったらお手にとってやってください」って書くだけ。
この情報を前にポロッとアナリースさんに漏らしたら、そこからトントン拍子で話が回って今に至る。
で、皆さん優雅にお茶会してる。
ぼくの家のリビングで。
青佳さんがフィナンシェを作ってくれてね。それを食べながら。
「せんぱい、何時ころに発表になるんですか?」
知子さんがリスみたいに可愛らしい仕草でフィナンシェを一個食べ終えて尋ねる。
「そこまでは聞いていないな。たぶん昼あたりじゃないかな」
そう、そろそろお昼だ。日曜の。
出版社の皆さん、休日出勤大変だな、と一瞬思ったけど、よく考えてみれば予約投稿できるしね。SNSもサイトも。
「実はちょっと緊張してますね? 兄さん」
「そんなことはないよ。こんなの、大したことは……」
「まぁ! ”こんなの”だなんて。おめでたいことなのに。——”本当の歴史”を描いた作品が世に出るのですから」
「確かに青佳さんの言うとおり、やっと”本物”の陛下に出会えます」
緊張しているかと言われれば正直している。若干手が震えてる。
ちょっと前に目の充血と手の震えで検索したら肝硬変の初期症状の一つって出てきたんだけど、まさか、ね。
ほら、よく言うよね。ネットで検索したらただの風邪も肺癌疑いに早変わり、って。その類いだろう。
まさか……ね。
今回の震えは、だから緊張によるものだよ。肝硬変ではない。決して。
「本物といえば、由理くんも呼べば良かったかな」
彼も世界で超稀少な「サンテネリ語話者」だから、会話相手は一人でも多い方が良いだろう。有楽町ではひどく険悪だった仲も、今はマシになっていると思う。なってるよね? だって皆、去年の夏にはすでに「もう過去の話」って言ってたし。
「冗談ですよね?」
さっきまで仲良く草原で草食べてる羊の群れみたいだったのに、知子さんのひんやりした一言を合図に、皆一斉に眼光鋭くぼくを見つめてくる。
サバンナの動物たちを記録したドキュメンタリー映像とかで、不意に数頭のライオンがくるっと後ろを振り向いてカメラの方を見つめてくる瞬間あるでしょ。
あれ。
「え? でも……」
「冗談ですよね? せんぱい」
「ああ、いや、ほら、皆サンテネリ語話者だから、こういう機会でもないとなかなか集まれないと思って……しゃべれる人は多い方が」
知子さんが、今度は不自然に明るい声で再びぼくに尋ねる。正確には尋ねてない。念を押している。
分かってるな? って。
彼女はその愛らしい外見に比して、意外なほどにその、なんというか、たくましさを備えていらっしゃることはここ数ヶ月の付き合いの中でよく分かったので、ぼくはできる限り刺激しないように弁解を試みた。
駄目。
予想外のところから投げ縄が飛んできて、ぼくはあっさり捕まってしまう。
「まぁ! なんて素敵なこと! そうですね。しゃべれる人はたくさんいた方がうれしいですもの。つまりサンテネリ語を習得してくださるんですね! 社長」
「いやいや、そういう意味じゃない。由理くんも、その、サンテネリ語をしゃべれるだろうから……」
そしていつものように、ぼくの抵抗は圧殺される。黙殺じゃないよ。圧殺。
「では文法書は私が作りましょう。勉強は得意分野です」
アナリースさんが肩に掛かる髪をふわりと手でさばき、ちょっと得意げに言い放つ。
それはそうだろうね。彼女はグランゼコール出てるわけで。
「いや、いや! ぼくは語学は得意じゃないんだ。恥ずかしい話だけど。ああ、ほら、資格も英検3級しか持ってない。TOEICなんて受けたこともないくらいだよ」
嘘は全くついていない。英検3級は中学生のときに取った。それ以降受けてない。TOEICもね。
「兄さん、大丈夫ですよ。一時期留学を考えて、フランス語のすごい資格を取れたって喜んでいた兄さん。そんな、語学が苦手な兄さんでも大丈夫ですよ。たくさん会話の練習をしましょう。いくらでもお付き合いしますからね」
ぼくは調子に乗っていた大学時代の自分を責めたい。余計なことを色々と教え子に語ってしまった愚かな青年を。でもね、人間誰しも虚栄心はある。ちょっとかっこつけたいじゃないか。
若気の至りというのかな。
「じゃあ善は急げです! せんぱいの”サンテネリ名”を決めましょう!」
「サンテネリ名?」
「ほら、海外で生活するとき、サブネームのようなものを付けることがありますよね。現地の人に呼びやすい仇名のような。大学の留学生のお友達にも何人かいます」
ああ、そういう。あるよね。現地の人が呼びづらい本名ではなくて現地っぽい名前を自称するパターン。最近は子どもの名付けでも考慮するみたいだよ。グローバルに活躍できるように、って。なるほど。
でもさ、ぼくはサンテネリに住むこともなければそこで働くこともないんだ。必要ないよね。
とはいえ、知子さんの発案に対して過敏な反応を示さなくなくなったあたり、ぼくは明らかに変わった。ちょっと前なら本格的に考え込んでしまっていただろう。
見方を変えれば「サンテネリ名」とやらは仇名なんだ。ただの。
そう思えるようになった。
ぼくは彼女達の過去もサンテネリなる国の存在も実感することができない。物質的存在——現実——としてはあり得ないことだと考えている。
だからこう思うことにした。
ぼくの大切な人達——もちろん由理くんもね——が共有している世界は、少なくとも彼女達、彼の頭の中には確実に存在している。非物質的な概念として。
ぼくが現実だと実感するこの日本と、彼女達の頭の中にあるサンテネリ。突き詰めていけばそこに違いはない。カントの思想を雑に援用するならば、ぼくはこの世界自体——「物自体」に辿り着くことは決して出来ない。ぼくはぼくの精神の中に自分が作りあげた世界を生きている。
ならば構図は同じじゃないか。サンテネリも日本も。
「じゃあ、ぼくを仲間に入れてくれ。あなたたちの世界に」
彼女達の精神の中に存在する”ぼくの似姿”に、名前を付けてくれ。ぼくはそれを受け入れるだろう。それによってぼくが変わることはないんだから。このぼくだけのもの。ぼくだけの意識は。
なにも。
ぼくの受諾を受けて知子さんは他の3人と視線を交わす。ゆっくりと。
そして宣言した。
「——グロワス!」
「ああ、うん。多分そうだろうと思っていた。あなた方の意識の中にある世界としてのサンテネリにおいて、そこに生きるぼくの似姿をそう呼んでいい。——ぼくはそれを受け入れるよ」
思えば単純な話だ。
彼女達は”ぼく”を見ると言った。つまり、皆の意識の中に生きるぼくの姿は、今のぼく自身なんだ。それなら満足だよ。どう呼んでくれても。
ぼくはそう思えるようになった。
「ではグロワス様、スペルはこうしましょう? サンテネリ語はフランス語に似ているところがありますから、無理矢理アルファベットで書くならこうなりますね」
アナリースさんがソファに置いた自分のハンドバッグからオレンジ色のメモ帳を取り出し、鮮やかな青軸のペンでさらっと書いた。青いインクで。
Gloice
そして、その下にもう1行。
Gloice en Estbourg
アナリースさんの手元を覗き込んだ3人が刹那の沈黙。
そして一斉に発する低声はまさに地獄の呻き。
いつ聞いても背筋がスッと寒くなる。
「は?」
◆
こうしてぼくは、齢30も半ばにして新たな外国語を勉強することになった。
国際化の時代、使える言葉は幾つあってもいいのでね。
ぼくはこれまでにいくつかの言語を勉強してきた。でも全部有名どころだ。
そこに今回、初のマイナー言語が加わる。
現存する話者5人の超稀少言語。
英語とかと違ってマイナー言語は需要が少ないから、就職口もあまりないけどライバルも少ない。考えようによっては就職に有利だ!
さぁ、頑張って勉強してサン検(サンテネリ語検定)3級取得を目指すぞ!
そんな話で盛り上がりつつ、ぼくは何気なくスマホのタイムラインを開いた。
液晶を下にドラッグすると、画面は最新のものに切り替わる。
そこに、それは在った。
新作情報!
『地に落ちて死なば』出版決定!
ガリアール・パブリッシング公式アカウントのポストだ。
著者名——ぼくのペンネーム——とイラストレーターさんの名前が並んでいる。
しばし無言で、ぼくはそれを眺めた。
その反応を見た彼女達も、悟ったように自分のスマホを確認し始めた。
お話を書き始めたのはちょうど去年の今頃。
初夏だった。
1年が経ち、ぼくはなんとか生きている。奇跡的なことに。
さらに驚くべきことに、こうして皆とささやかな喜びを共有している。
誰とも、何も、分かち合えなかったぼくが。
なんと素晴らしいことだろう。
なんと偉大なことだろう。
◆
ああ、ぼくの”子ども”はどうやら無事生まれるらしい。
うれしいね。
この存在。
ぼくの精神から生まれ出たそれは、独立して存在しつづける。
彼か彼女かは分からないけど、その存在がかくあることを願うよ。
願わくば、皆に愛されて、想われて、幸せであれ。
皆を楽しませ、皆の精神の中に、その痕跡を残したまえ。




