表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
地に落ちて死なずば  作者: 本条謙太郞


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/56

始まりの終わり

 正教新暦2055年の秋は、驚くほど見事に夏を駆逐した。

 シュトロワにおいて。サンテネリ共和国の光輝ある首都において。


 新市の川沿いに、一軒の軽食屋がある。

 昼は周辺企業の会社員を相手に軽食を提供し、夜は酒を出す。

 創業から300年を優に超える老舗。

 数えきれぬほどの政治的、経済的、文化的活動がここを舞台に繰り広げられた。時には国家の命運を決める話し合いさえも持たれたことがある。

 しかし、その偉大な歴史に比して、店の佇まいは至極平凡なものだ。

 伝統的な上流階級の居場所たるルー・サントルに立ち並ぶ、宮殿と見紛うばかりの玄関を備えた高級料理店とは比ぶべくもない。


 フロールの店。

 それは明らかに、凡庸な店であった。

 遙か昔、旧市がまだ”汚濁の坩堝”と蔑視された時代、古史の時代の最後のときに、この店は生まれた。

 環境に対する意識など欠片もない、生活排水で溢れ、悪臭を絶えず吐き出していた頃のロワ河。その河岸は明白に劣悪な立地であり、だからこそ、そこにこの店は作られた。賃料が割安であったがゆえに。

 客もまた、店の格と同様にあった。壮麗な新市の周縁に生きる人々と古く汚れた旧市の中にあって一部の上澄みが主な利用者だった。


 やがて時代は変わった。

 第二共和国成立から数十年を経て、首都大改造を機にロワ河が浄化されると、その展望は垂涎のものとなった。

 シュトロワ市民は街を誇る。

 古くは「ルロワの城」と。サンテネリ王国の権勢拡大に比して、次はこう呼ばれた。「世界の中心」。しかしいつの時代も変わらない呼び名がある。

「ロワ河の息子」。

 市民達にとって、ロワ河は母であった。

 その母が、たおやかな首筋を、心安まる四肢を、フロールの店に見せつけている。


 シュトロワ市民が手軽な観光に訪れる名所の一つとなって以降も、店は昔ながらの営業を続けた。

 馴染みの客といえば1代2代のものではない。もう5世代、6世代に渡り通う者達がいる。

 つまりフロールの店は平凡な店であった。凡庸な。

 しかし凡庸で在りながら、その様は偉大でもあった。とにもかくにも、()()()()()ことによって。





 ◆





 川べりの際まで張り出した野外席に1人の男が座っている。深い紺の上着を着た、痩せ気味の、中年の男だ。柔らかい金の髪は無造作に刈られ、無造作に下ろされている。

 彼は人を待っていた。


 待ち人はやがて来た。

 その姿を見て取った男は、左の手首に巻いた小ぶりな金時計で時間を確かめる。

 時刻は18時を回ろうとするところ。


「悪い。遅れた」

「ああ、構わないよ。お陰で久しぶりにゆっくり本を読めた」

「それはうれしいね。俺の遅刻がきみの知性の糧になったわけだ」


 大して悪びれもせず、勝手知ったる仕草で男の対面に腰を下ろしたのは、深い茶の髪を短く切りそろえ額を出してなで付けた壮年の男だった。


「いや、いや、まさに。その上、栄えある共和国の議員たるあなた様にお時間を割いていただけるなど、身に余る光栄に存じますよ」


 金髪の男は手に持った葡萄酒の瓶を軽く掲げ、対手の前に置かれた空の酒杯に注ぐ。


「そうだ。感謝してもらわなければ。最近ほら、農業関係がきな臭い。使い走りのおれはあっちへ飛ばされこっちへ飛ばされ、農業組合の頑固な皆さんと丁々発止の日々だ」

「大変だろうね。新聞で見る限り。しかしまぁ、いいじゃないか。それは偉大なことだよ。ユリス・レスパン政務参与殿」


 2人は硝子の酒杯を軽く掲げ、飲んだ。

 サンテネリの人々が気の遠くなるほどの昔から愛しつづけた葡萄酒を。

 サンテネリの人々は、古くはそれを飲みながら隣町の畑を劫掠する算段をつけた。近くはそれを飲みながら新大陸植民地の差配を話し合った。そして今、2人の男もまたそれを飲んだ。


 豪快に、一口で酒杯の半分を空けた短髪の男、ユリス・レスパンと呼ばれた共和国国会議員は、椅子の脇に置いた鞄の中から分厚い封筒を取り出す。


「頭の痛くなる話はやめにしよう。それで、これだ。これの話をしよう。おまえにしか書けない、この珍妙な物語について話そうじゃないか。——当代枢密院主催者(コントゥール)殿」


 円卓の上に置かれた茶封筒を見ながら、男は微かに笑った。

 つい先年父を亡くした男。

 サンテネリ共和国が存続する限りにおいて、ルロワ家当主のみが名乗ることを許された「枢密院主催者」の称号を引き継いだ男。グロワス・ルロワである。


「読んでくれたか。……どうだろう、ぼくの話は。……ああ、これほどに緊張することはないよ。よりにもよってきみに読まれるなんて」

「何を冗談を。おまえが読めって寄越したんじゃないか。で、ガリアールから出すのか?」

「ありがたいことにね。でもよく分かったな」


 ユリスはいかにも尊大な仕草で足を組み、背もたれに体重を預ける。

 初秋の夕は、その傲然たる仕草に相応しい落ち着きを纏わせていた。


「簡単な話だ。出版社の名前だけ()()()()()を使ってるんだから。事情も分かる。創作とはいえ他社の名前を仄めかすと面倒だからな」

「まぁね。……それで、感想を聞きたいな。ぼくは。きみに」


 ユリス・レスパンのそれと対称的に、グロワスの居住まいは大人しいものだった。

 行儀良く、何気なく、野外用の硬い鉄椅子にすっぽり納まっている。その姿は友人から発せられる評価に緊張する内心を、あるいはよく表していたかもしれない。


「これはつまり、なんだ? 幻想小説といえばいいのか。ああ、発想はとてもいい。例の『黒冊子』を土台に、”偉大なる王妃達(ロワイユ・グローエ)”をグロワス大王(グロー)の妄想の世界に飛ばす。そこの住人にしてしまう。大衆小説としてとても出来が良い。『黒冊子』を下敷きにした作品は多いが、この方向からのものは見たことがない」


 18期初頭、サンテネリ王国の玉座を占めた王グロワス13世はその治世の最初の4年を日記に綴り残した。中央大陸のどこの言語とも異なる、謎の言葉で。通称『黒冊子』である。

 5冊の大判冊子に纏められたその「遺物」の大筋が解読されてからまだ10年に満たないが、内容の奇矯さと衝撃的な先進性は贋作を疑うに相応しいものであり、一方でその私生活描写は偽造を不可能なものと結論づけざるを得ないほどに精密であり正確であった。


 歴史学者たちの専門的な議論と並行して、一般向けにも大量の書籍が書かれた。

 それは余りにも甘美な毒であった。

 後のサンテネリ共和国——光輝ある祖国——の礎を一代で築き上げた英主グロワス大王(グロー)の内心の記録というだけでも驚異的なところを、さらにこの冊子は読者全ての好奇心と空想を刺激する「異世界」の記録でもあったのだから。


「意外な好評だね。ぼくはてっきり抗議されるかと思ったよ。大指導者(コントゥール・グロー)——きみの先祖の扱いが酷すぎるって」


 グロワスは自身の言葉が冗談であるとはっきり示すべく、敢えて声を上げて笑った。

 当然のことながら、彼はユリスがそのような些事に拘泥する人間であるとは考えていなかった。グロワス9世校で出会い、それ以来20年近い付き合いの、いわば親友と言ってもよい相手である。

 大衆の耳目を集める出自の因縁——ルロワの裔とレスパンの裔。それを意識するあまりぎこちなくなった時期もあったが、結局のところ縁は続いた。

 要するに相性が合ったのだ。

 才気煥発で物怖じしないユリスと物静かで人見知りのグロワス。互いが互いに自身の欠落する部分を相手に見た。ユリスはグロワスに自制の徳と沈思の知を、グロワスはユリスに果敢の徳と対話の知を。

 よって2人は友人であった。30も半ばを過ぎてなお。


「ああ、しかも俺の名前を勝手に使って好き放題書きやがって。まぁいい。そこは目を瞑ろう。友の作品に登場できる光栄を噛みしめようじゃないか。——ただね、一つだけ言いたいことがあるとすれば、この話には残念ながら奥行きがない。いや、そうじゃないな。これは一見大王の”妄想世界”を描いたようで、主題がそこにない。おまえは社会を書かなかった」

「おっしゃるとおり。出てくる地名や固有名詞は全部『黒冊子』に典拠がある。トウキョウもギンザもロッポンギも。でも、それ以上の何かを作り出そうとはしなかった。付け加えようとは」

「大王陛下の”会社”もね。あれは実際どうなんだ? おれは『黒冊子』の解読版を読んだことがないからよく知らないが、本当に何も書かれていないのか?」

「ああ、いや。多少の記述はあるよ。でも精密なことは何も。無理もない。18期サンテネリの王が、どうやったら商会の些細な仕組みやら人間関係やらを想像できる?」


 グロワスの視線が注がれるロワ河の水面は、街灯の光を全て吸い込んでしまう。漆黒の空間がそこにはある。

 友の口ぶりと仕草はユリスに一つの疑念を与えた。


「おまえ、実は信じていないだろう?」

「何を?」

「『黒冊子(あれ)』が空想の産物、ただの手慰みだと」


 今代の枢密院主催者は俄に黙り込んだ。瞑目して。

 しかし頬に浮かぶ微かな笑みは、明らかな満足を示しているように感じられた。友に心の内を暴かれたことに対する。


「なんでそう思う?」

「”ニホンコクケンポウ”やらをでっち上げる方が、商会の仕組みを描くよりよほど難しいはずだ。技術的にもそうだ。”スマホ”やら”ネット”やら。今でこそ当たり前に似たようなものがあるが、1700年代、18期に? それだけの不気味な、恐ろしいほどの偉大な空想の翼を持ちながら、商会一つ描けないなんてありえないことだ」

「ああ、ああ、なるほど。”ニホンコクケンポウ”はほとんどそのままの条文が『黒冊子』にあるから別として、他はまさにご明察の通り。——きみの言うとおり、ぼくは心の底では信じている。『黒冊子』は”(グロワス13世)”の中において真実であったと。もちろん公言はできないけどね。おかしくなったと思われてしまう。でも、そんな”信念”からこの物語は生まれたんだよ」


 卓の中央に無造作に置かれた茶封筒——作品原稿——を軽く指で撫でながら、グロワスは静かに話し続ける。


「『黒冊子』によれば、ニホンにおいてグロワス13世は自死したことになる。そして我々の生きる()()()()()にやってきて、我が国の礎を築いた。じゃあ、陛下が元いた世界で亡くならなければどうなったのか。生き続けていれば」


 ユリス・レスパンは空の杯に新たな葡萄酒をつぎ足した。大きく頷きながら。


「そこだよ。グロワス。おれはそこにおまえの姿を見る。普通の人間なら幻想小説を書くとしてもこう考えるだろう。大王という偉人がやってこなかったら、()()()()()()()()()()はどうなっていただろう、って。意識は()()に向かう。でもおまえは逆を想像した。元の世界で生きる大王は、どう生きるだろうか、と。()()()()()に焦点を当てた」

「うん。そうだね」


 グロワスは言葉少なに同意した。





 ◆





「で、読み進めるうちにおれは思った。ここに書かれたグロワス13世は、実のところグロワス13世じゃない」

「……」

「おまえだろ? グロワス・ルロワ。おまえだ。これはおまえがグロワス13世の空想世界に迷い込んだ話だ。つまるところ」

「どうしてそう思う? ぼくはあれほどにわけの分からない性格をしていないよ」

「なぜか? ではお答えしよう。枢密院主催者殿。——おれもまた、”ぼく”の心情に共感するからだ。おれたちはいつもそうだ。何をしてもしなくても”大指導者の血縁者”。おまえの方が酷いはずだな。”サンテネリ王位請求権保持者”なんだから。おれたちはおれたち個人として見られることはない。いつもそうだ。覚えてるだろう? 大学で、おれとおまえはいつも一緒に写真を撮られた。広報とかね。()()()()()()()()()()()()。”大指導者の子孫”と”サンテネリ王の子孫”が撮られたんだ」


 長い語りの中には興奮も憤慨もなかった。ユリス・レスパンは政治家である。彼は自身に与えられたその属性と「運命」を既に受け入れていた。政治家とはまさにその「運命」を仕事道具にする類いの職業なのだから。

 つまり彼は、既に分別盛りを迎えていた。


「ああ、うん。なるほどね。言いたいことは分かる。——『黒冊子』が解読されて、ぼくはすぐに、飛びつくように読んだ。皆は冊子自体の真贋や中身の先進性ばかり見るけど、ぼくにとってはそんなところどうでもいいんだ。あのグロワス大王(グロー)は、ぼくたちと同じ人間だった。凡庸な。だから同じく凡庸な人間であるぼくと『黒冊子』が語るグロワス13世は本質的に同じなんだ。そのことに気づいたとき、ぼくはこの話を書こうと思った。『黒冊子』が王の空想か別世界の現実か、それもどうでもいい。あの冊子に描かれているのはもっと普遍的なことだよ」

「それは?」


 グロワスは瞳にかかる前髪を両腕で掻き揚げる。そのまま頭蓋に手のひらを置き、しばし沈黙を続けた。


「個であること。個人であること。……個人で在り続けることは難しいからね。すぐに世界に絡め取られてしまう」

「絡め取られたとして、それは悪いことか? そうして人は偉大なことを為す。グロワス13世がそうしたように」

「悪くはない。善悪の問題じゃない。これは試験じゃないんだから正解もないよ。ただ、ぼくはグロワス13世(ぼく)がどのような存在としてあるのかを知ってほしかった。()()()()()()()類型の人間が、どのようにして生きているかを」


 そして唐突に沈黙が訪れる。2人の男は暫し無言で視線を合わせた。


「つまりアルパカか! アルパカを浴びるほど飲んで生きるのか?」


 レスパンの笑いは明るいものだった。裏には何もない。揶揄も侮蔑も。

 ゆえにグロワスもまた答えた。


「ああ、ああ、そうだ。アルパカを飲んで耐える。それしかない」





 ◆





 小ぶりな円卓に並べられた肴を摘まみながら、会話は2時間を越えた。

 ()()もまた、終わりを迎えようとしている。長い物語も。


「ただまぁ、少し残念でもある。”あの”グロワス大王の、あれほどに情けない姿が現実ではないなんて。4()()()()に怯える草食動物みたいな”ぼく”が、後年”あの”グロワス13世になったのだとしたら、それほどに面白いことはなかったのになぁ」


 酔いの回った赤ら顔でレスパンは言う。それは独語に近い。

 しかし()()はあえて答えた。()()に対して。


「ああ、それは違う。ユリス。違う。確かにぼくはあれを書いた。でも、書かれたものはね、もう作者のものじゃない。あれはあれとして存在するんだ。『地に落ちて死なずば』は。——()()()()()()()()()()()()1()3()()()()()()()()。地に落ちて死んでいれば、ぼくたちの世界にやってきたはずの男かもしれない」

「おかしな理屈だな。だっておまえが書いたのに……」

「でもね、ぼくたちが知っている史実のグロワス13世の姿だって、結局誰か他人が書いたものだ。同時代の人間が目撃した記録さえも王の内心を正確に描く事なんてできない。()()ブラウネ妃ですら、王が何を思っていたか、本当のところは知り得ない。——とすると何が違う? ぼくは『黒冊子』を元に(ぼく)を描いた。歴史家達はまた他の資料を元に彼を描いた。歴史に客観はないよ。歴史家達だって、彼らの頭の中にある王の姿を書いたんだから。そこには必ず偏向がある。程度の差はあれど、原理的には変わりはない」


 杯に注がれた葡萄酒は「黒冊子」にその名を残す安酒よりも上等なもの。だが、グロワスはそれを安酒のように飲み干した。そうあるべき状況において。


「分かった。いいだろう。おれには人文学はさっぱりだ。それはおまえの領分だから口では勝てそうにない。で、結局どうする? この本が出るとして、本格的に作家として生きていくのか? 会社はどうする?」

「分からない。全く」


 迷いに満ちた内容を、迷いなく彼は言い放った。


「会社はこれまで通り。名前は置いておくけど、それだけだ」


 サンテネリを1000年以上に渡って支配した王家の家長として、膨大な資産を管理する諸団体の役員に名を連ねるグロワスだが、そこに何か大きな仕事があるわけではない。いわゆる「社交」の一環として舞踏会に出席し、各種講演に顔を出すくらいが関の山である。


「……グロワス……おまえ」


 吹っ切れたような友の返答は瞬間ユリスの意識を冷やした。彼の()()は状況から考えて当然の帰結である。

『地に落ちて死なずば』の主人公は”ぼく”。つまり彼の友——グロワスであるのだから。


「ああ、いや、違うよ。きみの想像とは違う。断言はできないけどね」

「冗談はよせ」

「ぼくは真心をさらけ出してる。きみにだからこそ。決して冗談じゃない。()()は麻薬なんだ。一度心にその選択肢が浮かんだら欲求が消えることは絶対にない。常に在る。頭の片隅に。ただ、今のぼくは毎朝起きる度にそれに打ち勝つことができてる。これは偉大なことではないかな」


 友が昨年に父親を亡くしたことは知っている。

 単なる名誉称号に過ぎない「枢密院主催者」を受け継いだことも、ルロワ本家の家長となったことも。

 レスパン家に生まれたとはいえ、ユリスの場合、その光名の元たるジュール・レスパンの直系ではない。ジュールは実子を残さなかった。ゆえにレスパンの一族はジュールを疎み無視した——ジュールもまた相応の対応をしたが——本家の血縁である。

 一方、グロワスは復古王ロベル3世から続くルロワ王家嫡流の独り子である。共に家名の重みに苦しみながら、その度合いはグロワスの方が彼よりも何倍も大きい。

「枢密院主催者」の称号に実はない。だが、名が重すぎる。


 友の少しとぼけた、茫洋とした表情の裏に隠された懊悩を、ユリスは薄々感じてきた。そして今、不安は言葉に結晶した。


「おまえは打ち勝っていると言った。それはなぜだ?」


 渡された原稿を読み進めながら、時折吐き気をこらえたことをユリスは思い出す。王妃達と融合したヒロイン達の鞘当てや主人公の戯けた内心描写の底に流れる——蓋をされた排水溝を泳ぐ下水よろしく——死への渇望は、あまりにも濃密なものに思われた。


 だが、最後には希望があった。

 ”ぼく”は()()()()()を選ばなかったのだから。


「……書いたからかな。ぼくはとにかく書いた。例の高名なご先祖様(グロワス13世)には及びも付かないながらも、ぼくはぼくとして何かを生み出すことができた」


 グロワスの口ぶりには衒いも高揚もない。ただ事実を告げている。それを理解した後に、ユリスが返す言葉は一つしかなかった。


「じゃあ次の話を書けよ。読者(おれ)のために。——”少数の幸運な人々のために”」





 ◆





「ところで話は変わるがね、おまえ、()()()とはどうなってるの?」

「まぁ、別に、何もないよ」

「何もない! 彼女ももういい歳だろう? 大学終わったあたりか」

「妹みたいなものだから。彼女が10かそこらの頃から知ってるんだ」


 肩をすくめる友にユリスは追い打ちを掛ける。


「”グロワス兄様(エネ・グロワス)!”って。大学に遊びに来たこともあったじゃないか」

「ああ、あったね。でもそれは子どもの頃のことだよ。彼女も本気じゃない」


 心からの言か、あるいはそう思い込もうとしているのか、ユリスには判断が付かない。ゆえにこう言い添えるに留めた。


「おまえがどう思っているかは別として、もう無理だと思うよ?」

「無理ってなにが」

「いや、おれの口からはこれ以上は」


 勘定の合図と手を挙げてウェイターを呼びながら、ユリスは親友に最後の一言を告げた。



「そういえば『地に落ちて死なずば』にこんな言い回しがあったな。()()()()()……だっけ?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ