地に落ちて死なずば
En vérité, en vérité, je vous le dis,
si le grain de blé tombé en terre ne meurt pas,
il demeure seul ;
mais s’il meurt,
il porte beaucoup de fruit.
[Jean 12:24]
◆
「知っているもなにも『この人を見よ』の舞台と主人公だ。——だから知ってはいるよ。サンテネリも、グロワス13世も」
そういう話ではないのだろうと半ば確信しながら、ぼくはそう答えるしかなかった。
嫌な話の始まりには予感がある。何とも表現しがたい空気がある。
ぼくははっきりと、それを感じ取っていた。
「ええ。そうです。何もかもでたらめで陳腐なあのお話には、たった一つだけ意味があります。サンテネリの存在を、グロワス様の存在を、この異郷において白日の下に晒したのですから」
異郷。
まるでサンテネリが故郷であるかのような言い方だね。
三沢青佳さん。
つい数ヶ月前までうちの会社の社員として働いてくれていた日本人女性だ。25歳の。なのに彼女は今、明らかに別種の存在として立ち現れる。ぼくの前に。
「現実の出来事とは似ても似つかぬお話です。でも、全ての呼称だけはなぜか正確でした。ブラウネ・エン・ルロワ、わたくしの名も。マルセル・エネ・エン・フロイスブル、父の名も」
青佳さんの謎めいた独語の後を継いだのは、ぼくの背後からの声。
「中学生の頃にあのお話を読んで気づきました。少なくとも1人、この世界にあの世界を知る者がいる。だから私は日本に来ました。あのお話は日本語で書かれていましたから」
アナリースさんに呼応するように知子さんが言う。溌剌と。
「はい! おかげで、もう長くご無沙汰だったお友達と会えたんです。アナリゼ姉様と。この異世界で!」
不可解な、怖気を振るう一連の告白を締めたのは茉莉さんだった。
彼女はぼくの元に一歩踏み出し、決然と目を合わせた。
おそらくは虚ろであろうぼくの瞳に。
「陛下、覚えていらっしゃいますか? 私が中学生の頃。陛下と初めてお会いしたときのこと。私はあのとき、メアリになったばかりでした。メアリ・エン・ルロワに」
「なった?」
「はい。私は下川茉莉です。兄さんの再従兄妹の。そしてメアリでもあります。陛下の妻、サンテネリ王妃の1人でも。私はあの時、中学2年生のとき、そうなりました」
知っているだろうか。夏の盛りとはいえ夜は意外と冷える。ぼくの家はちょっと高いところにあるからなおさら。
知っているだろうか。お酒を飲むと一瞬身体が熱くなる。でもその後に、熱は放出される。過剰に。それは必要な体温さえ吐き出してしまう。
そして知っているだろうか。ぼくは今4人の女の人に囲まれている。皆一様に、自分のことを『この人を見よ』の登場人物であると思い込んでいる人達に。
「なるほど。……それで、ぼくの配役はなんだろうか。皆さんの話を総合する限り、ぼくは王なのかな。グロワス13世かな」
青佳さんの笑顔には艶やかさがあった。
リビングから漏れる光と月明かりに照らされて。
「はい。ブラウネが世界で唯一心からお慕いする方。——グロワス様」
◆
ぼくたちはベランダの椅子に腰を下ろした。
長い話が始まった。
つまりこういうことだ。
ここではない、別の世界が存在する。中央大陸という、地球で言えばヨーロッパのような大地があって、いくつかの国がある。
中でも中心的な大国であるサンテネリ王国。
その国の王、グロワス13世。そして王の4人の妃。アナリゼ、ブラウネ、ゾフィ、メアリ。
由理くんの書いた『この人を見よ』の設定そのものだ。
それがね、現実に存在するのだと彼女達は主張する。
おもしろいね。
で、問題はここからだ。
本物のグロワス13世——つまり、彼女達の夫である——は、由理くんのお話のような偉大な王様、英雄ではなかったらしい。物腰穏やかで、何事も性急であることを避ける調整型のリーダーだったみたいだね。でも、ただの事なかれ主義者というわけでもない。心の中には何かの理想を強く抱いていて、それを達成するために人生をかけたという。
そして『この人を見よ』で悪役として描かれるフロイスブル侯爵やガイユール大公だけど、実際は王が信頼する重臣であり、彼らと共に王は国家運営を行っていたという。ああ、作中仇敵扱いされているアキアヌ大公もね。
興味深いことに『この人を見よ』の陰の主人公であるジュール・レスパンは意外にも存在感が薄い。王との関わりがあったことは事実らしいけど、表舞台で活躍するのは王が死んだ後。それも、王政を破壊する「大改革」——ようするに革命かな——の立役者として。
『この人を見よ』が描くような”無二の友”でも”身分を超えて結ばれた同志”でもなかったようだよ。
グロワス13世には子どももいたらしい。
アナリゼさんの息子は次の王になった。そして革命で国を追われ、成り行きから新大陸に渡り、そこで死んだ。
ブラウネさんには息子と娘。息子は王政復古で王となった。娘はアングラン——これも『この人を見よ』に出てくる敵国。ようするにイギリスだ——の王妃となった。
ゾフィさんには娘。地球でいうところのプロイセン王国、プロザンの王妃に。
そしてメアリさんにも娘が一人。その娘は長じて軍人、政治家となったらしい。
なるほど。グロワス13世は子だくさんだ。
とても幸せなことだと思うよ。
あらましを聞き終えて、ぼくは彼女達に尋ねてみた。当然の疑問を。
「ああ、なるほど。じゃあ由理くんもまた、その現実のサンテネリ出身ということなのかな。なにせ『この人を見よ』は彼の作品だ」
ぼくの問いに答えてくれたのは青佳さんだった。
「それは分かりません。確実なことは何も」
はぐらかすつもりではないんだろう。本人のいないところで秘密を暴露するのはよくないと考えたのかな。
ただね、ここまでくれば、由理くんもまた彼女達と同様のやっかいな疾患を抱えていることは容易に想像が付く。そして、彼が自分を誰に配役しているのかもまた。
さっきまで極彩色の光をまき散らした花火は終わり、空は元の黒に立ち戻った。
いや、正確じゃないな。
本当はね、夜空はグラデーションだよ。地の灯から星明かりへと濃淡をつけて移ろう。少なくともぼくが生きているこの世界においては。
彼女達の生きている世界がどうかは知らないけれど。
その空を、当て所なく眺めていた。
有楽町のレストランで言い争った由理くんと彼女達は、要するに彼、彼女らが生きたと思っている世界の因縁から、ごく自然に罵声を投げ合ったんだ。
話を聞く限り、現実のジュール・レスパンと4人の王妃の仲が良好だったはずはないんだから。
でもね、許して欲しい。
皆、許して欲しい。
仇敵を向かい合わせる酷い夕食をセッティングしたぼくを許して欲しい。
ぼくは知らなかったんだ。何も。
ああ、うれしいこともあるよ。
青佳さん、茉莉さん、アナリースさん、知子さん。
皆ぼくの奥さんだったらしい。一夫多妻だね。
ということは、この世界のぼくもきっと念願を成就できるぞ。
皆を独り占めできる。
彼女達は別の世界の常識の元に生きてきた。だからぼくの多情を当たり前のものとして受け入れてくれるだろう。
社会的なカモフラージュは後で考えるとして、ぼくは幸せな生活を送ることができるだろう。綺麗な4人の奥さんに囲まれて、毎日を楽しく過ごすんだ。
うれしいね。
「ぼくは、あなた方の夫なのか。グロワス13世という……」
問いではない。ぼくは誰にも問わない。もう答えは聞いた後だから。
ベランダのテーブルはそう大きいものではない。手を伸ばせばお互いにぎりぎり届く。
ぼくは順に彼女達を見た。視線を回した。
ブラウネさん、メアリさん、アナリゼさん、ゾフィさんを。
こんなにも惨いことがあるだろうか。
存在が無視されることは限りなく辛い。辛さの上限。その一つだと思っていた。でも違う。最も残酷で惨めな境遇は、上書きされることだ。
それをぼくは知った。
彼女達をどう呼べばいい。
ブラウネさんと、メアリさんと、アナリゼさんと、ゾフィさんと。そう呼べばいいだろうか。
そして彼女達はぼくをこう呼ぶのか?
陛下。グロワス様。
そんな風に。
それでもいいよ。
じゃあ教えて欲しい。
”ぼく”はどこにいるんだ?
彼女達が愛する男性は、『この人を見よ』に描かれたほどではなくとも、そこそこにまともな王だったらしいよ。大国の。しかも聞く限り、専制君主国の。
茉莉さんが教えてくれた。
「陛下は20の歳に、人が変わられたようになられました」って。
なんかね、ぼく”みたい”になったらしい。
すごいね。
話を総合するとこういうことだ。
王妃の皆さんはサンテネリで死に、この日本に目を覚ましたという。死後の世界というやつかな。
それが可能ならば、逆もまたあり得るんだろう。彼女達の中では。
つまり、ぼくがここで死んで、サンテネリに生まれ変わることが。
なんと素晴らしいことだろう。
死への恐怖は未知への恐怖だ。とびきりの。不可逆性の、決定的な「無」への恐怖だ。
彼女達はぼくからそれを取り去ってくれた。
ぼくの存在は死後も無に帰さないことが保証されている。サンテネリとかいう謎の国の王になって、素晴らしいお妃様達を娶り、君主として国家を動かすのだ、と。
うれしいね。
ぼくの価値はつまり、この生の後にこそある。
ああ、なるほど。
吐き気がする。
◆
『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ独りにて在らん。もし死なば、豊かな実りをもたらすべし』
ぼくはあるフランスの作家が書いた自叙伝的作品のタイトルからこの一節を知った。高校生のときかな。後に大本は聖書の名句と分かって、そこから原文も一通り読んだ。
この言葉をぼくは恐れる。限りなく恐れる。
何が怖いかって?
「地に落ちて死なずば、ただ独りにて在らん」だよ。
死後の豊かな実りは取りあえずどうでもいい。でも、生きている間のことは気になるからね。
地に落ちて死なないぼくは、独りなのか。
ずっと抱えてきた疑問は、今ここに解決しつつある。
地に落ちて死なないぼくは、独りだ。
ぼくは彼、彼女らに囲まれて生きている。ぼくに好意的な、おかしな人達に。
皆が求めるものはぼくではない。皆が「同一の存在」であると信じる謎の人物、グロワス13世だ。
ぼくが地に落ちた後、つまり未来のぼくなんだ。
脱力するし失望もする。全身から力が抜けていく。
でも、急速に「物」と化していく身体の最奥に、まだ燃え続ける存在がある。
ぼくはそれを抑えきれないだろう。
「みなさんの言いたいことは分かった。分かったよ。あなた方が望むことは。——ぼくに王であれという」
怒気を露わにするなんてよくないことだ。人を不快にする。
でも、さすがにこの瞬間くらいは許して欲しい。
「皆さんの望みは可能だ。すぐにでも。ああ、すぐにでも! だけどぼくに一言だけ言わせてくれ。——ぼくの死はぼくのものだ。あなた方のものではない。あなた方がそこから来たという、サンテネリとかいう謎の国のものでもない」
ぼくは立ち上がる。暴れ出す代わりに。
豊かな実りのために、地に落ちよとぼくに望む人々に対して。
独りであることに耐え、握りしめた最後のものすらも手放せと願う人々に対して。
「ついさっきまで、ぼくはあなた方に執着していた。ぼくと共にいてくれる人達であってほしいと願っていた。皆さんに。それは思えばとても失礼な発言だ。常識的にあり得ない。だから、ぼくはあなたたちと別れようと思った。——ところが、話しを聞く限り、それでもあなたたちはぼくと共に居てくれるんだろう。グロワス13世の元に。光栄なことだよ。金目当てならそれでもいいし、会社目当てならそれでもいい。なんでもいいよ。そんなこと普通だ。でも、他人に塗りつぶされることにだけは、それだけは、ぼくには耐えられない」
本当のぼくを見て欲しいと願うことはあるけど、それは原理的に不可能だ。ぼくも他人に対してそんなことはできないよ。
だからぼくに纏わり付く様々な属性に魅力を感じてくれるだけで十分だ。お金持ちだからでもいい。あるいは、ちょっと間抜けな目元が気に入ったとか、そういう理由でもいい。
でも、グロワス13世なる人物の依り代にはしてくれるな。
ぼくは容れ物じゃない。
どれほどに卑小で、どれほどに愚かで、どれほどに陳腐であれ、中身が存在するんだ!
じっとぼくを見つめる4人の視線を一身に受けながら、ぼくはこの下らない寸劇に幕を引く。
彼女達には帰ってもらう。
ぼくはリビングに戻り、酒を飲む。独りで。
そして書こう。『地に落ちて死なば』を。最後まで一気に。
この最低の結末を最高の物語で塗り替えよう。
アントワン3世は幸せな王になる。
ブリューベル、ジャスミナ、サジェシア、エリザベトの4人の妃とともに。
彼は生き抜くだろう。
地に落ちて死んだ彼は。
その先のことは分からない。地に落ちて死なぬぼくのことは。何も。
「あなたたちがどんな思想を持ち、どんな意識を秘めているかは知らない。ぼくは自分のことしか分からない。だから分かることだけを言おう。——ぼくはグロワス13世ではない。サンテネリも知らないし、あなた方も知らない。……皆さん、サンテネリの”昔話”はこれで終わりだ」
ぼくは部屋に戻ろうと動き出した。
でも叶わなかった。
女の手が、ぼくの腕を捕まえたからだ。鋭い刃の付いた罠のように。
◆
「兄さんはすぐに早合点をしますね」
茉莉さんの左手は、ぼくの右手を握りしめる。握りしめながら、彼女は静かに立ち上がる。
「兄さん、私はメアリです。でも、茉莉です。気がおかしくなりかけていた中学生のあの日から、ずっと隣にいてくれた、一緒にいてくれた親戚のお兄さんを、茉莉が好きになってはいけませんか?」
ほとんど肌の触れる距離でぼくにそう告げたのは、茉莉さんだった。紛れもなく。
左の手もまた何か——誰か——に絡め取られた。
そして両方の手は、牽かれていく。先刻離れたはずのところへ。テーブルへ。ぼくの椅子へ。
「お話はまだ全然終わっていません。確かにサンテネリの昔話は終わりましたけど、青佳とのお話はまだです。これから、そのお話をしましょう? 茉莉さんの子どもの頃の淡い思い出はさておき、社長と私はもう長いお付き合いですから。大人として」
ぼくを引き戻した後、茉莉さんと青佳さんの手のひらは対照的な存在として在る。片や鋭く握りしめ、片や優しく包み込む。
「これから? さっきも言ったように、ぼくはあなたたちの想い人じゃない。グロワス13世じゃないんだ」
振り払おうとも振り払えない。
力尽くならいくらでも可能だけど、それを戸惑わせる何かが明らかに存在した。2人の手のひらから感じる、熱が。
現実にある。
この世の存在として。
茉莉さんと、青佳さんの。
「そんなの当然です! せんぱいはせんぱいですから。そして私は島津知子です。ちょっと混乱することもありますけど、それでも! あ、茉莉さんも青佳さんも手を離してください。せんぱいは優しい方ですから、たとえお嫌でも振り払えません」
知子さんは爽やかな宣言の後、流れるように生き生きと煽り出す。
怖いもの知らずの女子大生感が凄い。
「青佳さんはとても良いことをいいましたね。ええ、これからのお話をしましょう。パートナーとして。私たちの子どもをどう育てるか、ちゃんと考えましょう?」
私たちの子ども?
一瞬何のことか分からず、無言になって、やがて気づく。
ぼくの作品とアナリースさんの時計か。要するに一緒に仕事をしようということかな。
彼女達と知り合うなかで分かったこと。
基本的に皆、人の話を聞かない。
そういう自分だってなんだかんだ我を通すタイプだ。分かっている。でも、彼女達はぼくの上を行く。余裕で。
皆人当たり良く、優しく、思いやりがある。
表面上はね。
でも芯の部分には、あまりにも強靱な骨格がある。
子どもの頃に、親に連れられてどこかの博物館に行ったことがある。
そこにシャチの全身骨格が展示されていた。
それはそれは禍々しい姿でね。ぼくは最初、恐竜の化石かなにかだと勘違いしたくらいだ。
あれに比べると、海中の捕食者代表みたいに言われるサメなんて、本当にか細い、華奢な存在でしかない。
それが面白いことに、肉を纏い、皮膚にくるまれると、シャチは途端に可愛らしい姿を見せる。ぷっくり丸く、目の辺りも優しげで、一緒に楽しく泳げそうな雰囲気を醸し出してくる。
人も変わらないね。
なかでも女の人の方が落差は大きい。このたおやかで、ふんわりとした空気を作り出す生き物たちの中にあるものは、余りにも太く、硬い。
「これからの話をする気はないよ。ぼくにはもうない。ぼくはグロワス13世ではない。断じて。でもアントワン3世ではあるんだ。——あれはぼくだ。ぼくが抱いたあなた方への欲望そのものだ。にもかかわらず、あなた方はそれを受け入れるだろう。あなた方が生きたという、例の世界の常識に従って。でもそれは……」
だからぼくはもう一度こんなことを言わなければならなかった。アントワン3世が抱く姫達への醜悪な独占欲を。
でも、言い切ることはできなかった。
「は?」
にこやかな笑みからはとても想像が付かないほどの低声で、知子さんがぼくの言葉を遮ったから。
「せんぱい? ここは日本ですよ! 私はせんぱいを誰とも分け合いません。——独占します!」
「ん?」
なんか変な流れになってきたな。
ぼくの危険度センサーが爆音で鳴り響いている。ただね、いつものことながら、発動が遅いんだ。遅すぎる。
「知子さんの言うとおり。ここは日本ですからね。ですから、34歳の男性と28歳の女性は本当に社会的にぴったりの釣り合いです。ここは日本ですから」
「まぁ! 茉莉さんがおっしゃることに同感です。ただ、社長は家庭的な女性がお好みですよね。安らげる家庭が。茉莉さんのように優秀で凛とした方がお相手だと、お家では少し気疲れされてしまうかも……」
途端にね、ぼくを挟んでお二人が能面のような表情で見つめ合っている。あ、”にらみ合う”とまでは言いたくない。
ぼくも現実を直視したくない瞬間がある。
「青佳さんの言葉は少し時代遅れに聞こえます。夫婦はプライベートにおいてもビジネスにおいても対等なパートナーであるのが国際的な常識です。彼は現代に生きる男性ですから価値観も現代的なはずです。そうですね? mon chéri」
いつもの少しとぼけた真顔で、しかし強烈な一言をアナリースさんが放り込んでくる。
「ああ、その、つまり皆は、ぼくの独占欲を認めてはくれないということかな?」
こんな台詞を真剣に言う機会が来るなんて思いもしなかった。
だって内容的に、彼女達がぼくの多情を受け入れるであろうとの前提が覆された事に対する確認なんだから。
一夫一婦制が当然の日本で、そんな前提を元に話をするシチュエーションなんて普通あり得ないでしょ。
「もちろん。全く認めません。ここは日本ですから。——サンテネリではなく」
茉莉さんが断固たる口ぶりで宣言した。皆の意見を代弁するかのように。
薄暗がりの中、生暖かい風がぼくたちを撫でる。
隣の部屋のベランダから微かに流れてくる、意味にも結実しない生活音がぼくの耳に這い入ってくる。
両手を握りしめる二つの肉塊——手。
血の通った、人の。ぼくの肌はそれを感じる。熱を。
音と熱。
最後に残されたものはそれだけだった。
◆
夜の街をぼくは歩く。
ゴミ捨てに出るとき用の適当なサンダルを突っかけて、マンションの敷地を出て、戸建てが並ぶ住宅地の路地を進んだ。
等間隔に並ぶ電灯は、小さな羽虫や蛾を飽きることなく誘引する。
あの後、彼女達はそれぞれぼくと「次の約束」を取りつけて帰って行った。より正確に言えばぼくが帰した。
なんというか、促さなければ朝まで帰らない雰囲気すらあったからね。
ぼくは駅の改札まで彼女達に付き添ったよ。見送りにね。
時折こちらを振り返り手を振る皆の姿が、ホームに上がるエレベーターの中に溶けて、ぼくの今日は終わりを告げた。
そして歩き出した。
この世界の夜を。
この街には駅を取り巻くようにコンパクトな商業地区がある。ぼくの住む家もそこにある。でも、ちょっと歩くと風景は様変わりする。
一軒家の連なる空間へと。
人がそこで安らぎ、そこで眠り、そこで老いていく空間へと。
手ぶらの中年男性が一人、当て所なく歩くにはあまり相応しい場所ではない。怪しまれても仕方がない。
でもね、ぼくは敢えて歩きたかった。
そこは普通の人の生きるところだ。
結婚して、子どもができて、庭が欲しくなる。子ども部屋も用意しなければいけない。便利ではあるけれど手狭なマンションを売って、駅からちょっと離れたところに戸建てを買う。
カーポートに車を一台止めて。脇には家族の自転車を置いて。
それが彼らの生きるところだ。
ぼくの住んでいる部屋と郊外の一軒家、共通点は一つしかない。どちらも人が住めるという。
他は全てが違う。
ぼくが憧れながら諦めていたものが全て、この規格化された建売住宅の群れ、一房、一粒に詰まっている。
中でも最も好ましいところを告げよう。
ここは地に近い。目の前に地面がある。
つまりね、地に落ちない。
一方、ぼくの部屋は地面から遠すぎる。
綺麗に整備された区画の細道は、静かなようで意外と賑やかだ。各家から漏れる笑い声やテレビの音。カーテンの隙間から溢れた室内の光。それすらも音だ。
そして暑い。
地面から照り返した熱——昼間蓄えられ、夜放出される——がぼくの身体を包み込む。
真夏がここにある。
31階のベランダには決して存在しなかったものが。
音と熱。
最後に残されたものはそれだけだった。
結局のところ。
◆
さぁ、ぼくは考えよう。
しゃくりあげるのを堪えながら、しかしあふれ出る涙は留めようもなく、ぼくは歩いた。早足で。
青佳さん、茉莉さん、知子さん、アナリースさん。
彼女達はぼくを受け入れなかった。
ぼくの貪欲を。
なんと素晴らしいことだろう!
つまり、彼女達は今、ここに生きている。
皆、物語の登場人物じゃない。ぼくがぼくの欲望を満たすために創造した人形じゃない。
彼女達はぼくを望んでくれた。独占したいと。
独占したいと!
ぼくは誰と深い仲になるだろうか。
あるいは誰ともならないかもしれない。
それは分からない。
でもね、ぼくがこれから好きになろうとする相手は、少なくともぼくを見てくれる。1人の女性として、1人の男性を。だからぼくも彼女たちを見よう。そして努力をしよう。好きになってもらえるように。
ぼくと一緒に居たいと思ってもらえるように。
『地に落ちて死なずば、ただ独りにて在らん』
地に落ちて死なずとも、ぼくは誰かとともに居たい。他者と。
だから努力をしよう。
それは皆が当たり前のように行っていることで、ぼくがどうしてもできなかったことだ。
それは凡庸でありながら、ぼくにとって偉大なことだ。
ぼくはそう在りたい。
◆
ズボンのポケットに入れたスマホが震える感触に気づいて、画面を確認する。
しつこくこぼれ落ちる涙で濡れた液晶の表示は、ところどころ滲み、映る文字を歪に拡大させていた。
「社長、秋になったらお約束を果たしてくださいね、ちゃんと」
「約束? さっきの?」
「ええ。紅葉狩りに。筑波山に」
ぼくは震える指で文字を打った。ゆっくりと。
恐らく初めて。真心から。
「ああ、うん。行こう」
こうして新しい”物語”は始まる。
ちょっと気弱なぼくとちょっと電波な彼女(達)の不思議な物語が。




