青、黒、灰褐色のコンポジション 3
ぼくの時計は金無垢だ。
表面も中身も金で、ずっしり重い。
ぼくが金無垢の時計を愛する理由はつまりそれなんだ。表面も中身も同質であることをぼくはこの上なく愛する。
なぜなら自分が決してなりえない様態だから。
ぼくのメッキは薄い。
ちょっと擦っただけですぐに剥がれてしまう。情けないことにね。コストカットが行きすぎてる。
遊歩道の中程、人工池を一望する位置に置かれた木のベンチに腰掛けながら、そんなことを考えていた。
知子さんはこれまで見たことがないほどの大人しさ。
もう情けなくて消え入りたくなる。彼女の楽しい一時をぼくは台無しにしてしまった。本当に申し訳なく思う。
夏の午後、木陰が直射日光を防いでくれるとはいえ、心地いいとは言いがたい。
ぼくたちは戻るべきだ。
車に戻ってエアコンをガンガン付けて、静かに帰ろう。この状況では彼女も夕食を食べたいなんて言い出さないだろう。
たかが絵を一つ見ただけで挙動不審になるような男と食事をしたい人はいないよ。それが例え一瞬のことであったとしても、ぼくは確かに感情を剥き出しにした。
生の。
たとえ1秒でも、0.1秒でも、未加工の情動は怖い。それは不気味な他者性そのものだ。
彼女は優しい人だ。
動転したままこの暑さの中を遊歩道に連れ出したぼくに、黙って付いてきてくれた。長く歩くのには適さないヒールを履いているのに。足も痛んだろうに。
「考え無しだった。本当に申し訳ない。林道だから大丈夫かと思ったけど、やっぱり暑いね。そろそろ戻ろう」
ぼくは失態を誤魔化す台詞をなんとかひねり出して立ち上がった。
「……白鳥」
「ん?」
「白鳥……いませんでしたね」
「ああ、4月か5月に来たときには見たことがあるんだけど、さすがに今は居なかった。残念だけど」
ロシアの寒さを逃れるために温暖な日本に飛来する白鳥は、春頃には再び地元に戻ってしまう。今度は日本の暑さから逃れるために。
だから夏も盛りの今、いないのは当たり前のこと。少し考えれば分かりそうなことをぼくは意味も分からず口走ったんだ。
「いないのは、残念ですか?」
「そうだね。池で泳いでたり芝生で休んでたり、本当に可愛らしい姿なんだよ」
知子さんは依然ベンチに腰掛けたまま、じっと池を見つめている。
ぼくも無言で待った。かける言葉を見つけられなかったからだ。
やがて彼女はゆっくりと、何かを思い出すように語り出した。
歩き出す代わりに。
「昔、犬を飼っていたんです。金色の毛並みのミニチュアダックスフンド」
ぼくは犬や猫を飼えない。
心の底から飼いたいと思うけど、絶対に飼えない。彼ら、あるいは彼女らを幸せにしてあげる自信がないから。さらに言えば、幸せかどうか知ることすらできないから。だから知子さんが羨ましい。その恐怖に打ち克つ勇気を持つ彼女が。
「私たちは一緒に育ちました。子どもの頃の写真は彼と私のツーショットばっかりなんです」
「可愛かっただろうね」
「はい。とても。……でも、彼は私が15歳の時に亡くなりました」
黙って聞くことにする。辛い話だけど、彼女はそれをぼくに伝えたいんだろう。ならば聞くべきだ。罪滅ぼしのためにも。
「せんぱいには本当のことを教えちゃいますね。——実はわたし、彼が病気になったときからお別れする覚悟が出来てたんです。昔は元気に走り回っていたのに、もう歩くこともできなくなった彼を見て、私は心を整理しました。心の準備万端でした」
こういう話の展開は意外だな。普通は別れの辛さとか、そういう類いの思い出が出てくるものだろうから。
知子さんは強いね。
彼女はバッグからハンカチを取り出し、首筋と額に軽く当てて汗を吸い取った。
ぼく達の午後は奇妙な午後だ。
きっと太陽のせいだろう。彼女がこんな話を始めたのは。
それは人を狂わせる。
「眠るように彼は亡くなりました。本当かどうかは分かりませんけど、そう聞きました。実は私、看取ってもいないんです。学校から帰ってきたらもう亡くなっていたから」
「ああ、それは、残念だった」
「でもそこまで悲しみませんでした。覚悟していましたし、もうお別れも済ませていたから」
「……」
「なのに……亡くなって何年も経った今でも、毎朝起きる度に感じるんです。彼の不在を」
膝の上で両の拳を握りしめる彼女をぼくは半歩後ろから眺める。
暑さに耐えかねて避けた髪の隙間から見える真っ白な首と、昂然と伸ばした背筋を。
「せんぱい。——私は、生きていることに価値があると思います。存在することに」
「ああ、うん。もちろん私も同感だ。その……彼が生きていたら、知子さんを悲しませなかっただろうから」
心にもない言葉を平然と返せるくらいにはぼくは大人だ。
さらに言えば、自分をごまかせるくらいには大人だ。過去の偉人たちの思いつきをパッチワークしてそれっぽい理屈を創り出すことができるくらいには。
ぼくは怖い。
この世から居なくなることが怖い。
でも居なくならなければならない。居るべきではないからだ。
でも居なくなるのは怖いんだ。
だからいっぱい口実を拵える。
ぼくは果断に事を成すべきだった。なのに、それを引き延ばし続けている。
叔父さんの言葉にぼくは縋った。何かを書き、遺すことに意味があるとぼくは信じた。
不思議に思わないかな。
それを心底信じるならば、ぼくは明白に生きようとしたはずだ。なのに心の中には死への志向がしっかりと根を下ろしている。
ぼくが『地に落ちて死なば』を書き、凡庸な人の善を描くことに意味があると心の底から感じるならば、ぼくは生きるべきだ。『地に落ちて死なば』を書き終えたら次の作品を書き始めればいいだけの話なんだからね。
この自己欺瞞を、ぼくはついさっき見事に暴かれた。
ぼくはあのポロックの作品に、何一つ心を動かされなかった。描くこと自体の結晶といえる作品を目の当たりにして、その価値をどこにも見いだせなかった。
つまらないものだと思ったよ。
ああ、要するにね。ぼくは死にたいけど死にたくない。死にたくないけど死にたい。
理性と感情の綱引きを延々続けている。
「納得」ができていないんだろうね。
それは当然のことかもしれない。マルクス・アウレリウスだかセネカだか忘れたけど、こういう言葉があるよ。「人の生涯は立派な死への準備である」って。
「納得」には長い時間がかかる。
太陽は人を狂わせる。
たとえ木陰に隠れても、それはぼくを暴き出す。ぼくの本性を。
加えてここにはやっかいなアシスタントもいるからね。可愛らしい女の子の。
「本当に、そう思いますか?」
「もちろん」
「じゃあ、なんで、さっきあんな風に言われたんですか? せんぱい」
「ああ、そうだね。どうかしてた。深い意味はないよ」
「本当に?」
知子さんが立ち上がり、振り向いた。
そしてじっとぼくを見つめる。一時もその視線を外すことなく。
「変に思わせぶりな言葉になったけど、本当に他意はないんだ。ちょっと思い立ったくらいで。知子さんは心配性だな。……取りあえず車に戻ろう。これ以上外にいると熱中症になるよ」
歩き出そうとしたぼくの足を、彼女は見事に縫い付けた。言葉の槍で。
「もう言っちゃいますね! せんぱいのこと、青佳さんに聞いていますから。全部!」
◆
なるほど。
それならもういいかな。
もういい。
「何を聞いたかは分からないけど、そこまで聞きたいのなら本心を言おう。——きみが疑っている通り、ぼくはただ生きることに価値を見出していない。存在に意味はない。人は無意味に、無目的にこの世に現れ、無意味に、無目的に存在している。ぼくはそう思う。特にぼくのような無価値な存在は」
「意味はありますよ?」
「どんな? どこに?」
「他の人にとって。——私にとっても、青佳さんにとっても茉莉さんにとってもアナにとっても、せんぱいが居ることには意味があります」
これはとても嬉しい言葉だ。
ぼくの存在は「他者にとって」価値——意味があるという。
ドラマとかでよく聞く台詞だね。
死を決意した主人公にヒロインが言う。「私のために生きて!」って。
この台詞がどれほどに怖いものか、皆は知らない。いや、想像はしているけど深く考えないようにしている。
この台詞は2つの意味で醜悪だ。
まず、他者のために生きるということは、自身の存在理由を他者に求めること。つまり、自分の生の責任を他人に押しつけることに等しい。
「私のために生きて」を受け入れる以上、その後の生の責任はそれを要求した人に求められるだろう。
次に、「私のために」と要求することは、相手の生を道具と見做すに等しい。”私”が心地よくあるために使用する道具として。
「ぼくはね、知子さん。ぼくの生の責任をあなたたちに押しつけたくない。あなたたちに望まれたことを理由に生きれば、辛いときはあなたたちに文句を言うだろう。あなたたちのせいだ、って。——そして、あなたたちが幸せになるための道具にもなりたくない。ぼくの生死はぼくの意思によってのみ定める」
こんなことを口に出すべきじゃない。
でも、もういいよ。
ここまでぼくのことを心配してくれる人たちにだからこそ、ちゃんと伝えなければならない。
「せんぱい、それはおかしいですね! 一つお聞きしていいですか? その考え方はせんぱいだけに適用されるものなのか、それとも、皆がそうあるべきものなのか。教えてください」
「皆がそうあるべきだ。今言ったように、ぼくたちは自分の存在の責任を他者に押しつけるべきじゃない」
「分かりました。皆がそう考えるべきなんですね。私も」
「そうだね。そう考えるべきだ。それが意思するということだよ」
彼女はベンチを迂回して、一歩一歩、ぼくの方に近づいてくる。汗まみれの顔を拭いもせずに。堂々と。
「じゃあ私たちは皆、ずっと独りですね。困ったときに人に助けてもらうことはできません。協力して何かをすることもできないはずです」
「……意味が分からないな」
「だってそうですよね? 私がここで躓いて倒れたとき、私はせんぱいに助けを求められません。それはせんぱいを道具にすることなんですから。助け合うこともできません。それはお互いを道具にすることですから」
言いながら彼女は地面に座り込んだ。
しゃがみ込んだんじゃない。文字通り、尻を地に着けて、足を横に流して張り付いた。
スカートが土で汚れるのも気にせずに。
そしてぼくに手を差し出す。
「話が飛躍してる。ぼくが言っているのは存在の……」
「何が違うんですか? 行動するためには、その前提として存在が必要なはずです。私を助けおこすためには、せんぱいが居なければなりません。誰も助けず誰にも助けられず、独りで完結するような、そういう世界がいい世界ですか? 皆が独りぼっちでいるのが。——夫に先立たれた妻のように、ずっと独りで生きることが、理想の世界ですか?」
「ああ! ああ! 知子さんの言うとおりだ。そうだ。ぼくはこれまでずっと、色々な人たちに助けられてきたよ。つまり他人を道具にしてきた。善意を掠め取ってきた。そういう人間だ。でも誰を助けることもしなかったし、何の役にも立たなかった。行動はおろか、その存在すら誰の役にも立たなかったんだ……。だから、そういうよくない状況はもう終わりにしたい」
厳重に封をしていたはずの蓋が外れてしまった。否、力尽くで引き剥がされてしまった。
ぼくは大人のはずだった。
でも結局装いきれなかった。
惨めにも、一回り以上歳の離れた知子さんにこんな泣き言を言い募ってる。
どうすべきだろうか。
いっそもう、目の前の池に飛び込んでしまいたくなる。
あるいは、力尽くで、この女を黙らせてやりたいとすら思う。
太陽は人を狂わせるから。
「せんぱい。人のために生きたとき、その責任を相手になすりつけたいですか? この人のために生きようと望むほど好きな相手に」
「もちろんそんなことはしたくない」
「じゃあ、しなければいいんです。それをしないと選択するのが意思だと思います!」
言いたいことは分かる。でも釈然としない。
言葉の奔流が脳内を駆け巡っている。
ああでもない、こうでもないと理屈の山が築かれていく。まず言葉の定義から検討し直すべきか。それともうやむやにされている存在と行動の差異について精密に論じるべきか。
体中の水分が抜け落ちていく。あるいは血液まで沸騰しそうなほどに、ぼくの頭は熱暴走を起こしている。
何かを言わなければならない。
とにかく何かを。
でも、ぼくは「強制終了」させられた。断固として。
彼女が半ば叫ぶように要求したから。大地の上、ぼくの足下から。
「さぁ、せんぱい! 助けてください! 手を引いて!」
伸ばされた腕は、ぼくの手を待ち構えていた。
それを握るかどうかは、まさにぼくの意思そのものだ。
理屈を越えたところにそれはある。
ぼくは彼女の手をとった。
◆
車に戻るまでの道中、ぼくたちは疲労困憊の極にあった。途中見つけた自販機でスポーツドリンクを買い、貪るように一気飲み。
ぼくは上着を脱いで久しく、彼女もニットタイを緩めて襟のボタンを外している。
こういうとき女の人の服装は不便であり、かつ便利だ。
上は脱げないけどスカートは涼しい。たぶん。はいたことないから分からないけど。
どうにかこうにか林道を歩ききって駐車場に辿り着き、車内に入るやいなやエアコンをフルパワーで稼働。
ぼくはね、もういい歳なので本当に死にそうになってる。
暑さと熱暴走の総攻撃を食らって耐えられるほど30代半ばの身体は頑強じゃない。
一方で、その体調を危惧した知子さんは意外と元気。
二本目のペットボトルを空にしたあたりから、いつものように元気よく喋り始めた。
今回の出来事はぼくにとって一つの転機となった。
それは明らかだ。
少なくとも知子さんがぼくに何を望んでいるのかを理解することができた。
ここまではっきりとそれを突きつけられたのは初めてかもしれない。
正直なところ、この数時間で全てが変わるなんてありえない。
パウロの回心よろしく目の前にキリストが現れでもしないかぎり、人が全人格的に変わることは不可能だ。
冷静になれば、日常に戻れば、いつもの悩みがいつものように湧き出してくるだろう。
彼とはもう長い付き合いなのでね。
女の人にちょっと言われたくらいで親友と疎遠になるなんて、格好悪いでしょ。
ただ、彼女が——皆が——望んでいることは分かったよ。
皆はぼくが幸せになることを望んでいる。望んでくれている。居てほしいと。
それだけは分かった。
完全に活気を取り戻した知子さんが、写真を撮りたいという。
またリストショットかと思ったけど、今度は二人の自撮りをご希望らしい。
車から出るのは辛いんだけど、無理をさせた手前言うことを聞くしかない。腹を括ってドアを開けようとしたところで止められた。
彼女は助手席から腰を浮かせ、センターコンソールの肘置きを超えてぼくに身体を寄せる。
ぼくも合わせて彼女の方に寄った。
そしてスマホの自撮り用カメラが無事二人の姿を捉えた。
写ったものを見せてもらったけど、まぁ酷い有様だよ。
ぼくも彼女も汗で髪は張り付いてる。知子さんなんかネクタイ緩めて胸元ギリギリまでシャツが開いてるという。
「こんなのでいいの?」
「はい! これでいいんです!」
そしていつものように彼女はスマホを弄り出す。
お友達に送るのかな。
この習慣は本当に理解に苦しむ。よくまぁ撮ったもの撮ったもの、なんでもすぐ送る……。
ん? 送るの?!




