日々の泡 2
滑稽であるためには生真面目でなければならない。
まるで大したことのない状況に対して、渦中の人間があまりにも深刻に向き合う。問題の矮小さと登場人物の苦しみの落差こそが笑いを生む。誠に残酷な、しかし真理である。
ほぼ一ヶ月ぶりに男の家を訪ねた青佳は、意外にも綺麗に整えられた室内に驚いた。
実際には綺麗との形容は少々不正確かもしれない。空の酒瓶だけは大量にあった。自然が常にそうであるように、一見無秩序に、ダイニングの食卓とリビングのローテーブルにそれは林立する。
枯死する森とでも名付ければちょうどよい、寂寞たる静けさがあった。
勧められたスリッパを履く青佳の足は、うっすらと埃の積もった床の上を歩く。空気は淀みながら臭気はほとんどない。室内換気が常時稼働しているために、生活の匂いはたちどころに追い出されてしまうからだ。
よって淀みは明らかに物理的な事象ではない。女の五感が取り入れ、脳内で再構成した印象に過ぎない。
旅に出て、長く留守にした部屋。
類似の景色を探せば思いつくのはそれだ。酒瓶の森を除けば。
彼女は一通り全ての部屋を案内された。
リビング、ダイニング。この二つは以前招かれたときに通されて記憶にある。
今回はそれ以外の部屋——寝室と書斎、そして物置として使われているらしき多目的の部屋までも見て回った。
3LDKの間取りは恐らく家族用のもの。
男はそこに独りで住んでいた。
寝室に目立つ物はベッドしかない。少し乱雑に、しかし見苦しくならない程度に覆われた掛け布団。枕。壁に設えられた扉の向こうは恐らくウォークインクローゼットになっているのだろう。彼女はそこまで覗きはしなかったし、男もまた開けなかった。
書斎には大きな机とノートパソコン。そしてメモ帳といくらかの筆記用具。読みさしの本が数冊。そしてオフィスチェア。
机の背後の壁は一面が本棚になっているが、立派な建て付けに比して中身はほとんど空だ。
数百冊はゆうに収納可能なスペースに5〜6冊の本がポツリと置かれている。空のスペースが広すぎるため、本はもはや直立せずドミノ倒しの体で横たわっていた。
静かに、行き倒れたように。
物置部屋には、彼女の肩幅ほどの一辺を持つ直方体の、あるいは立方体の箱が大量に、几帳面に、ある種のパズルのように積上げられていた。上面に描かれたブランドのロゴからそれが時計の化粧箱であろうことが分かる。
壁面には彼女の胸元まで届くほどの高さの不思議な収納家具が置かれている。ガラス張りの両開き扉の向こうに何かが等間隔に並んでいるのが見えた。
「オートワインダーだよ」と男は説明した。
自動巻きの時計を止めないように、時計をセットした台座をモーターが回す。すると、時計内部の錘が回転し、着用していなくてもゼンマイが巻き上がる装置だという。
初めて見る不思議なチェスト。
ざっと眺める限りでも20本以上の時計が格納されていた。
かくして青佳は「職場見学」を終えた。
そして率直に思った。
ああ、これは駄目だ、と。
そこにはもはや混沌がほとんど残されていない。混沌が死に瀕している。
人が生きるとき、そこには必ず猥雑さがある。なぜなら人の肉体こそが無秩序の極みであるのだから。どれほど整理整頓に気を遣い、掃除をしたとしても、そこには人の——動物の息づかいが残る。几帳面な彼女とて、自身の部屋にそれはある。
男の部屋にはそれがない。
「とても……綺麗にされているんですね」
彼女は何とかそう口にした。さりげなさと少々の驚きを装って。
彼は事もなげに答えた。
「物を減らしたんだ。ミニマルな暮らしというんだろうか。こう見えて私は流行りに弱いから」
◆
男の部屋は心象そのものに感じられる。
片付けが終わりつつある。
客観的に見たとき、男の生は不幸なものとは言いがたい。
青佳は正直にそう感じる。
外から眺める彼は、人々が好ましいと感じる属性の多くを兼ね備えている。
そこそこの規模を持つ企業の代表者という社会的地位。生活に困らないだけの金銭。比較的優れた知性と学歴。容姿とて十人並みの域は出ないものの、特に見劣りするようなものとは思われない。彼女が知る限りにおいてでしかないが、性格も至って落ち着いている。
結婚相談所にでも登録すれば相手が殺到することは間違いない。
しかし、整然とした豪華な外面が人の幸福を測る物差しになり得ないことを青佳はよく知っていた。青佳が、というよりも、その人格の一部でありながら全てでもある存在、ブラウネが。
彼女の夫もまた何不自由ない生活を送った。大国の王として。
夫は幸せだっただろうか。それは分からない。
幸せだった可能性は十分にある。息子と娘を抱き上げ笑う姿も、家族で囲む内輪の食卓で見せた雄弁も、彼女の胸の中に顔を埋め眠る一時も。全て幸せであったはずだ。
だが、幸せではない時期もあっただろう。
彼女が26の年、正教新暦1715年から16年にかけて、夫グロワスは深刻な危機の最中にあった。
念願の枢密院体制は貴族会による前代未聞の勅令承認拒否によって頓挫した。同盟国たる帝国との駆け引き、明白な敵国たるアングランからの干渉。ガイユール公領の不安定な状況。騒擾の気配が漂う首都。
その中で、彼は帝国の中心国家たるエストビルグ王国と領土を巡って対立するプロザン王国の国王フライシュ3世と単身会見し、両国を和解に導いた。サンテネリは調停者として国際社会において大きな威信を得た。
そして王は明らかに失調した。
当時感じた焦燥を彼女は今でも鮮明に覚えている。王の異常は明白だった。手と、時折そこから波及する全身の震えは隠しきれぬほどに大きくなっていた。
毎夜の深酒は度を超して、もはや自傷に近いものとなっていた。
彼女は十分に理解できた。
男が背負った重責がどれほどのものであったかを。
10数年に渡るエストビルグ・プロザンの係争を収め、中央大陸に例を見ない政治改革を無血で実行した若き王。4人の王妃を娶り、子に恵まれた王。
その外観が何一つ保証しないことを。幸福を。
翻って青佳が感じるのはより矮小な、しかし地に足の付いた驚きであった。
彼女が秘書として付いたとき、男はすでに「暇」を持て余しつつあった。
先輩達に聞くところ、昔の彼は毎日分単位の予定をこなす「精力的な若手経営者」を絵に描いたような存在であったという。各地の支社を頻繁に訪れ、多くの会議を主催し、他社や利害関係にある団体、あるいは政治家との会合に積極的に参加する。幹部のレイヤーに留まらず一般職員と面談することも多い。始業の時間から深夜に至るまで、平日休日の別なく、男のスケジュールは埋まっていた。
総務の先輩職員の1人は訳知り顔で、暇になった男の現状をこう評した。
「色々やってみて、やっと分かったんでしょ」
悪性の感情はそこにはない。ただ何とも言えぬニュアンスがあった。子どもの失敗を苦笑交じりに眺める母親のような。
先輩の言に対して青佳は特段の感慨を持たなかった。男は自身の上司であり会社の社長である。部下からどう思われようがそれは甘んじて受けるべき評価であるし、また本人も気にかけはしないだろう、と。
2年の時間を掛けて青佳は男と距離を縮めた。ほんの少し、歩幅にすれば一歩に満たないほどの接近。仕事の会話の隙間に時折現れるちょっとした軽口の類い。その蓄積。
彼女は人間としての彼を微かに知った。
——この人は、意外と普通の人だ。
そう。彼はごく普通の男だった。自分と同じ、ごく普通の。
そして今、彼は幸福そうではない。明らかに。
何を悩むことがあるのか。
彼を苛むものは何もないはずだ。
だって彼は「社長」なんだから。
だって彼は「特別な人」なんだから。
人の心が常にそうであるように、青佳の心内も絶え間なく湧き上がる矛盾に満ちた発想に溢れていた。
王の責務に比すれば地方の商会の立場など大したものではないはずと考える一方で、その重荷に理解と共感を覚えもする。
しかし、一貫する思い——あるいは予測——もある。
彼は、王になれば王の責務に悩み、社長になれば社長の責務に悩み、下男になれば下男の責務に悩むのだろう、と。
つまり立場がどうあれ彼は悩むのだ。そう在るように在るのだ、と。
それは存在の骨格そのものだ。
何はともあれ、彼は悩むのだ。
では、自分はどうすればよいか。
青佳は考える。
単純な話である。
自分が関心を持つこの男がいなくなることを阻止しなければならない。
断固として。
「この調子だと冷蔵庫の中も期待できませんね」
「ああ、うん。その……飲み物はあるよ?」
「お茶ですか?」
「いや、まぁ……」
「分かりました。ではお仕事にかかります。ちょっとお付き合いくださいね?」
彼女は男を促し玄関に向けて歩き出す。
「どこへ?」
「スーパーへ」
開いた扉から這い入る光を受けて、青佳は言い放つ。その声は戦場に向かう戦乙女さながらに勇壮な響きを含んでいた。
◆
駅前のスーパーは品揃えはいいが値付けはそこそこ高い。
彼女は肉、野菜、米、その他副菜の状態と値段を吟味しながら、釣り合いの取れたものを手早くカートに放り込んでいく。
一方男は全く役立たずだ。カートを押しながら彼女の後を機械的について回るのみ。
「お菓子も買いますか? お好きなものを入れていいですよ」
「いや、ぼくは別に……」
食料品の支払いは彼なのだから、青佳に「カートに入れることを許す」権利はない。しかしこの場において彼女は王妃である。下男は従わなければならない。
「ちゃんと選んでください」
反論を許さない口調で厳命されて、男はきょろきょろと棚を見渡し、ポテトチップスの袋を一つ手に取った。
「社長、しょっぱい系がお好きなんですね」
「うん。嫌いではないよ」
「甘いのはどうですか?」
「それもあれば食べる」
「では、甘いのも一つ選んでください」
菓子と茶は絶対に確保しておくべき物資である。
茶を飲み菓子を食べるようになれば酒量が減る可能性がある。たとえ変わらないにしても、つまみとともに飲む方がいくらかはマシと考えた。
「じゃあ、これで」
彼が差し出してきたのはチョコレートで包まれたパイが個包装でいくつか入った箱。
「あ! これ、私も好きです」
「三沢さんもか。ぼくは子どもの頃よく食べた。本当に久しぶりだから妙に心が躍るね」
「最近はあんまりですか?」
「うん。お菓子を自分で買うなんていつ以来だろう。そもそもスーパーに来ること自体なかったから」
感慨深げに手に持った菓子の白い箱を眺めながら男は言う。
「これからは一緒に来ましょうね」
「え?」
「ひょっとして助けてくださらないんですか? そんなことはありませんよね? まさか」
青佳は笑顔で彼の顔を見やり、次いでカートの中身に視線を落とした。
見てみろ。そう言わんばかりに。
カートに放り込まれた食材はかなりの量になる。5kgの米袋、牛乳、調味料の瓶。重さがある品も多い。いかに徒歩数分の距離とはいえ女性一人で持ち帰るのは難しい量である。
「いや、まさか。ぼくがちゃんと持つよ。こう見えてそこそこ力はある」
「よかった! 私、ちゃんと分かっていましたよ。社長がお優しい方だって」
何らかの目的を達成するための口実であろうことは男も理解している。
今回買う量が多いのは現状食糧が払底しているからに過ぎない。重いものも一度買い込んでしまえば、今後は小まめに買い足すだけで済むのだ。わざわざ二人で赴く必要はない。
「ああ、三沢さんの助けになることなら、できることならぼくは何でもする。ここまでぼくに心を砕いてくれるあなたのためなら」
男の一人称が「私」から「ぼく」に変わっていく様を、青佳は無上の快感と共に受け入れた。そしてまた、男が自身の意図をある程度理解しているであろうことも。
彼は決して鈍感ではない。そう見えるときは、そう思わせようと装っているに過ぎない。そして、察していることを示そうとするときははっきりと示す。
今回彼は明言した。
青佳はその様を好ましく感じる。
思えば彼女が男に関心を持つようになったのはこの姿勢ゆえかもしれない。
彼は自身のために為された行為に敏感であった。どれほど些細なことであっても、真心を感じさせる感謝の言葉を彼女に告げた。
たとえば書類の中の重要な部分に付箋を貼って渡したとき、彼はその一手間に必ず謝意を示した。青佳からすれば文章を見やすくするためのちょっとした工夫に過ぎない。だが、誰のための工夫であるかを男はしっかりと理解していた。
一方でブラウネは知っている。
相手を見て尊重しようと望むことは、相手からそう扱われたいと願うことの裏返しでもある。彼は心の中に確かにその願いを秘めている。
だが、立場は彼にそれを許さない。
王は敬われ畏れられる。そして利用される。だが決して尊重されない。望むことすら許されない。王であるがゆえに。
よって彼女は慎重になった。踏み込むには時宜がある。失すれば惨事が起こる。
今回「何でもする」との言質を得てなお、自身が欲することを言わなかった。できる範囲のことであれば彼は為そうとするだろう。無理をしてでも。
たとえば国家と彼女たちを生かすために、自分を殺すことも。
「まぁ! では考えておきますね。社長にしていただきたいことを」
「ああ、それは怖いな。ぼくは不器用だから。複雑なことはできないよ」
彼は笑った。
——不器用だから。
その台詞はあまりにも正確な自己認識であろうと彼女には思われた。
◆
男が家事代行サービスを解約したとの情報を「お友達」の茉莉から聞いたとき、彼女は即座に「後任」を狙うことを決めた。
そのためにはある程度のスキルがいる。
掃除、洗濯と一通りの家事はできるし料理も作ることが出来る。だが、家族と同居していることもあり食事のレパートリーだけはどうしても「お洒落なよそ行きメニュー」に偏りがちだった。日々の料理を作るのは母親であり、彼女の出番はアクセントに過ぎなかったからだ。しかし実際に毎日の食事を作るとなれば話は違う。いわゆる「普段の家庭料理」をバリエーションに加える必要がある。
幸いなことに彼女は失業中。時間は大量にある。
母からのアドバイスとネットの動画、料理本を頼りに大体の定番料理を習得した。元々複雑な料理を作れる能力を素地として持つため、時間はそうかからなかった。
自身の技量向上と同時に男の好みを探った。
レストランで食事をして観察を重ねること数回。彼は食にあまり興味がないことを知った。企業の代表者として宴席に顔を出すことも多い彼のこと、舌もそれなりに肥えているだろうと想像していたが、推測は大きく外れた。
男は単調なものを好む。
好むというよりも、それが一番マシとでも考えている節がある。
手頃なファミリーレストランには2度足を運んだが、彼は2回とも同じメニューを頼んだ。ハンバーグとスパゲッティ。ちょっと捻ったエスカルゴやらムール貝には興味を示さない。
定番のものを淡々と食べる。
ゆえに今回初仕事に臨んで、青佳は手間のかかる料理を作ろうとは思わなかった。
定番の名も無き家庭料理。肉野菜炒めとでも適当に名付けられる代物を作った。複雑な味付けは一切ない。塩、胡椒、ソース、さらに中華風味の素を加えて炒めただけ。
味噌汁も副菜も、簡潔に言えば「適当」。
それこそが青佳が男に提供したいものであった。
普通であること。適当であること。
それはまさに彼女が男に対して提供できる唯一のものであり、また彼が最も欲するものであろうと考えたからだ。
果たして彼女の推測は当たった。
彼は普段通りの薄い笑顔を絶やすことなく料理を完食した。ご飯をおかわりさえした。
もう一つの切実なメッセージとして出したビールを美味しそうに飲んだ。
青佳は仕事を成し遂げた。
「ああ、うん。凄い。本当に美味しかった。ごちそうさまでした」
ビールの酒精が回り始め、薄らと赤くなった目元もそのままに、彼は女に謝意を述べる。そして時を置いて何か言いたげな素振りを見せる。
そう。それこそが彼女が望んだものである。
男は短い逡巡の末に、彼女が望むものを提供した。
「その、作ってもらう立場で言うのも変だけど、もしよかったら、その……」
「なんでしょう?」
「ああ、私だけが食べているのは申し訳ない。できたら一緒に食べてくれると嬉しい」
男がそう言うであろうことは予測していた。その言葉を言わせるために、敢えて自分の分は配膳せず、食べる彼の姿をじっと眺めていたのだ。
「まぁ! いいんですか? ごちそうになっても」
「ごちそうというか、あなたが作ってくれた料理だ。ぼくがごちそうしたわけじゃない。もちろん外で食べたいこともあると思うから、時折ね」
それは明確なごちそうである。男は青佳を家事を代行する人間として雇用したのだ。材料費も労力も全てに対価が支払われる。つまりその行為は料理人が客に2人分の料金をもらい、自分の分も作って食べるに等しい。
「はい。じゃあ、今度からお言葉に甘えますね」
彼女は満面の笑みを浮かべ、声高らかに言う。
それは一つの勝利であった。
青佳は理解している。
一見彼は押しに弱い。そう見える。
しかし実際のところ操られるタイプの男とはほど遠い。男の中には「ここまでは押されても良い」というラインが明確に存在する。その線まではいくら押してもいい。彼は照れたような、困ったような顔をして退く。しかし、ラインを越えるものは拒絶する。婉曲に、しかし断固として。
つまり、彼にとって青佳の手料理を共に食べるという行為は許容できる範囲にある。
今回青佳がとった家事代行という見え透いたアプローチにしてもそうだ。それが受け入れられるということは、まだ十分に改善の余地はある。
囲い込んで、がんじがらめにして、縫い付けて、手放さぬ余地が。
あるいは——青佳は思う——彼もまたそれを欲しているのかもしれない。無意識に。
ならばもう少し楔を打ち込んでおきたい。
彼女は決断した。
「そういえば、さっきエントランスの掲示にお知らせがありましたけど、もうすぐ花火大会があるんですね?」
「ああ、そんな時期か。毎年やってるよ。ベランダからよく見える。まぁ、ぼくはほとんど見ないけど」
「社長。——もしよろしければその日、私もここから見たいです」
「ここで? それはいいけど……。でもその、夜にね、二人きりとなると、ちょっと。いや、ぼくが何かをするわけではないけど、社会通念的にね」
声色を聞く限り、迷惑とまでは感じていない。
だが、夜に男女が二人きりで、となると色々と差し障りが出る。彼らはともに成人しており独身でもある。だが見合いをした間柄でもある。その二人が夜に逢瀬となれば明白なメッセージとなる。見合いの形式をとった以上、個人の問題であると共に「家」の問題でもある。男の側はよいとして青佳の両親がどう考えるかは予測しがたい。
「まぁ! ……でも、そうですね。じゃあ、私の『お友達』も呼んでいいですか?」
「ああ、うん。それなら。なんならぼくは外に出ていようか? ぼくはあまり花火に興味がないから。場所を貸してもいいよ」
これが婉曲な拒絶なのか、それともまだそこまでは至っていないのか、判断が付きかねる言葉。
進むべきか退くべきか。
一瞬の思考を経て心を決めた。
事に臨んでは果断であるべき。
ブラウネは、元は武門の名家、サンテネリ王国譜代筆頭フロイスブル侯爵家の長女である。始祖ブラウネの名を受け継ぐ女だ。
「私たちと一緒はお嫌ですか?」
彼は意識の届かぬところで求めているはずだ。自分を縫い付けてほしいと。
彼女はその予測にかけた。
「ああ、いや、そんなことはないよ。もちろん。ぼくがいてもその……お友達の皆さんが大丈夫なら」
「もちろんそれは大丈夫です。『お友達』もみんな喜ぶと思いますよ。社長と花火を見られるなんて」
青佳は物事に優先順位を付けて的確に処理する能力に長けている。そう上司から褒められたこともある。
今この状況下において優先順位は明白であった。
まずは皆で囲み、縫い付けなければならない。
縄も錨も多い方がいい。
自分一人では少々心許ない。
独り占めするのはそのあとでいい。縫い付けた後で。
かつて同じ事をした経験は彼女の記憶にしっかりと刻まれている。
二度目はもっとうまくやる。
◆
部屋の掃除をして翌日の食事を一食分作り終え、彼女はアルバイトの初日を無事終えた。
帰り際、玄関先で男に手を差し出す。
「ん? ああ、日払いの方がいいかな。それなら……」
今日の料金を要求されたと勘違いした男は慌てて財布をとりに書斎に戻ろうとするが、彼女は断固としてそれを押しとどめた。
そもそも給与は月払いの振込と決めてあったのだから、土壇場で日払いに変えるなどありえないことだ。
彼女が要求したもの。それは給料などという、そんな些細なものではない。
「鍵を預けていただかないと」
「鍵? なぜ」
「家事代行サービスでは鍵を預けるんですよね」
「ああ、うん。でもあれは前にも話したとおり、不在の時の……」
「不在の時もあるかもしれませんね?」
「あるの?」
「あります」




