真贋 2
由理・レスパンが「物語」を書こうと思い立ったのは、男と知り合ってほどない頃のことだった。
初めはクライアントの一人として、後には年の離れた大学の先輩として、そして友人として親密に付き合う中で、青年は男の中に「友」を見た。
男は明白に、かつてジュール・レスパンが唯一自身の「友」であると認めた男——サンテネリ国王グロワス13世であった。
痕跡、あるいは萌芽は至る所に見られた。
男は哲学を好む。
実存主義と構造主義の角逐——構造による実存の超克という、もはや歴史の1ページになってしまった古くさい哲学論争について今でも考え続けている。青年はその時代遅れを揶揄したが、男は意にも介さず答えた。
「きみが”時代遅れ”というならば、それはつまり論争が抽象論の世界を離れて、アクチュアリテを持つようになったということだ。思想に現実が追いついた。80年近く前に思想の王たちが戦った最前線で、今は我々一般人が戦ってるんだ」
男の語り口調は時折持って回った、あるいは芝居がかったものになる。
日々一企業の代表として乾ききった会話を重ねているであろう彼は、青年と話すとき、酒精の勢いを借りて弁論家になる。時代遅れの。
その口調は古代ギリシャから現代に至るまで様々な、いわゆる「名演説」を読みあさった痕跡を感じさせた。
自身の奇矯さを棚に上げて、由理は男の「特殊性」を楽しんだ。
一面で男は驚くほどに無味乾燥な、世知に長けた、常識的な、大人の振る舞いをする。しかし、内面にはこれもまた驚くほどに、瑞々しいまでの感情が渦巻いている。
いい歳をした大人の男が考えるようなことではない。
世界とは何か。人とは、物とは、生きるとは、何か。そういった子供じみた思考を充満させているのだ。平然と。
まともな大人の仮面の下に。
男はまさに王冠を脱ぎ去った王だった。
自身がもはや貴族会付帯法院の上級判事でもなければ国民会行政委員長でもない、ただの青年に過ぎないのと同様、男もまたサンテネリ国王ではなかった。
サンテネリにおいて彼が生涯をかけて希求し、恐らくは王も心から望んだであろう状態、つまり、グロワス・ルロワ氏とジュール・レスパン氏の友誼が、この日本において実現している。
それは至福のときであった。
だが、この生が自身に与えられた「余録」「補遺」であるという事実もまた、容赦なく知らしめられる。
日本において町屋由理は凡人として生き、凡人として死ぬだろう。そして男もまた。
彼がサンテネリにおいて希求したもの、そして王が体現したもの——「偉大さ」はここにはない。彼らは世界の中に埋没し、やがて消え去っていく。
平安は退屈である。
この名状しがたい贅沢な空しさの感覚を青年が漏らしたとき、男はしばし悩んだ末にこう答えた。
「”物語”を書けばいい。一人に届けば一人を、百人に届けば百人を、一万人に届けば一万人を、きみの物語は変えるだろう。不可逆的に。彼ら彼女らの中にきみが生み出した”何か”は生き続けるんだ。——思想と同様、物語も時代を超える。畢竟両者は同根だ。別ちがたく結ばれてる。どちらも時代を超える。それは素晴らしいことではないかな? 偉大なことでは?」
ワイングラスを片手に、若干赤らんだ顔をレストランの重い照明にさらしながら、男は言った。恥ずかしげもなく。
由理は書くことを決めた。
王ではない男、取るに足らぬ市井の男が放った一言は、まさに彼が欲するものであったからだ。覆いを剥がされ、素の青年となった自分にとって。
◆
何を書くべきか。そこに悩みはなかった。
彼が今生において持ち得ず、感じ得ないであろう唯一のもの——偉大さを書くべきだ。
偉大とはつまり、人がその意思によって世界をより良い方向に変えてゆく状況の総体である。
よって偉大さを書くことは人を書くことだ。
では、どのような人物を描くべきか。
候補は二人思い浮かぶ。
ジュール・レスパンか、グロワス・ルロワか。
どちらが偉大だろうか。
どちらが偉大であっただろうか。自分と彼は。
それは難問と言える。
グロワス13世は何も成し遂げなかった。ジュール・レスパンは成し遂げた。
客観的に見ればその通りだ。当時を生きたサンテネリの人々は皆同意するだろう。
”賢いコントゥールと愚かなコントゥール”
その言葉は”大改革”の中期以降、ほとんど常識であった。つまり真実と見做されていた。
諂いと追従をたっぷりと纏わせ、この言葉を自身に向かって献上する者達を、彼は常変わらぬ微笑を以て迎え入れた。それを何年も続けた。
怒りが湧くこともついにはなくなった。
ただただ、哀れみがあった。
あまりにも空疎な時代、滑稽な時代の記憶を掘り返し、その時覚えた感情を追憶した瞬間、彼の心は定まった。
どちらが偉大であるかは問題ではない。
どちらが偉大であると自分自身が考えているかが問題なのだと。
青年はグロワス・ルロワを選んだ。
主人公がグロワス13世であるのならば、舞台はサンテネリをおいて他にない。
この日本においてサンテネリは架空の世界である。グロワス13世は存在せず、ジュール・レスパンもまた存在しない。
つまり、由理青年の精神の全てにして一部であるところのもの、ジュール・レスパンの記憶はすべて、日本においては「物語」なのだ。
サンテネリを描くことはつまり、物語を作ること。
ではどのように?
幾つもの案があった。
彼が体験した「真の歴史」の一場面を切り取り、その中に象徴性をたっぷりと込めた寓話。たとえば彼が王と初めて対話を為したアキアヌ邸の一夜などはちょうどいい短編になるだろう。
あるいは架空歴史小説。設定も辻褄も全て完璧なものを作り出すことができる。なぜならそれは「本当にあったこと」なのだから。こちらは大長編になるだろう。
両者のあらすじを書き出し、実際に冒頭部を書いてもみた。
どちらも十分高品質に書き進めることが出来るだろう。見通しは立った。
ただし一つ、非常にやっかいな問題がある。
どちらも「受けない」ことが明白であるという。
前者を取れば純文学になる。専門家や好事家の評価は得られるかもしれないが、それ以上に大きく広まることはない。
後者を取った場合、主人公の振る舞いが障害となる。グロワス13世の行動は極めて分かりづらい。それこそまさに同時代を生きたであろう人々すらもその意義と意図を把握し切れなかったほどに。
『一人に届けば一人を、百人に届けば百人を、一万人に届けば一万人を、きみの物語は変えるだろう』
男の言葉が木霊する。
彼は自身の物語を一万人に、あるいは百万人に届けることを望んだ。
ジュール・レスパンはかつて王から学び、やがて身を以て知った事実を想起する。
——大衆こそが正しい。
一般書のファンタジーでは地味に過ぎる。ならば派手にすればいい。
血湧き肉躍る「分かりやすい」物語であればいい。
それをするとなるとジャンルの自由度が欲しい。多少子供じみても、多少ご都合主義でも、多少陳腐でも構わない。面白ければ全てが許される世界がいい。
そうして彼が辿り着いたのが、これまで全く縁遠かった世界である。
出版されている人気の作品を片端から読みあさり、業界の現状を知った。
当時始まったばかりのムーブメント、ウェブ小説の書籍化についても学んだ。
最大手の投稿サイト「ノベルライターになろう」を知った。
そこで彼がやったのは至極単純でありながら、ほぼ誰も真似できないことである。
自身の作品が当てはまるジャンル「異世界ファンタジー」のランキングを1位から500位まで全て読み、ほぼ全ての文章を覚えた。
そして記憶の中から「人々に求められているもの」を抽出した。
政治とはつまりそのような営みである。
大衆が求めるものを正確に把握し、それをうまく使うこと。うまく使うとは、大衆が求めるものを自分が求めるものにすり替えていく行為。あるいは自分が望むものを大衆に「自分たちが求めるもの」と信じ込ませる行為である。
彼は身に染みついたその行為を物語製作においても実行した。ほとんど無意識に。呼吸をするように。
人々は「凄い人物」の「凄い行い」を求める。
「凄い人物」が「多くの凄い人々」から敬意と愛情を受けることを求める。
そして「凄い人物」は幸せになる。
その全てを満たすことにした。
由理・レスパンがユリスというペンネームで書いた作品は、かくしてこのようなものに結実した。
グロワス13世は偉大な王である。
彼は政治・軍事における天才である。そして「不正を憎む気高い心」を秘めている。彼は王でありながら、全ての人々の平等と尊厳を信じている。なぜなら彼はそれらが当然のものと見做される現代日本からやってきた人格だから。
偉大な王の下には多くの有能な部下が集う。そして物語に華を添えるヒロイン達も。
そして彼は歴史に例のない業績——サンテネリ王国に空前の繁栄をもたらす——を打ちたてたのち、宿願の大業をなす。民主制への道を拓くという。
この物語において由理青年が伝えようと望んだことはただ一つである。
一人の人間の意思は世界を変えうる、という。
彼が創り出したグロワス13世は全くの虚像である。
現実の王とは似ても似つかぬ姿だ。だが表面の差異などどうでもよい。表層は大衆が望むものだ。政治家たる彼が価値を置くのは、グロワス13世というキャラクターの中心に在る一本の骨である。
肉を望む人々には肉を見せるべきだ。それでよい。
なぜなら、その肉の中に、骨は確かに存在するのだから。
由理・レスパンは自身の物語に名を付けた。
『この人を見よ』と。
思惑通り、彼の作品は瞬く間に人気をさらった。
彼は百万人に物語を届けたのだ。
◆
そして今、由理・レスパンは猛烈な憤怒の中にある。
正確には、憤怒と混乱と恐怖のただ中に。
たまたま流れてきたSNSのポストから、自身の作品が「パクられている」との情報を得たとき、それについて彼は何の感慨も覚えなかった。
極言すればどうでもよい話だ。
完全なコピーであれば法律の問題として対処すればいい。
ストーリーやキャラクターのコピーならば気にする必要はない。『この人を見よ』がここまで巨大コンテンツに発展した以上、何がオリジナルであるかは明白なのだから。
そして、コピーでない、つまり「似ている」だけならば、そもそも別の作品である。
彼が口を出すことではない。
ただし、ユリス——由理青年は作品の原作者である。
ある作品が盗作であるかどうか微妙なラインにあるとき、原作者としてスタンスを決定しておく必要があった。それは甚だ面倒なことながら、彼の作品は書籍とコミックになり、アニメ化が決定し、実写化も決まっている。多くの関係者が『この人を見よ』の周囲に存在する。つまり利害が生じる状況にある。
彼はドラマ撮影の隙間時間を使って当該の作品を検索し、「ノベルライターになろう」に辿り着いた。
『父から会社を引き継いだ一人の男が、自身の無能に耐えかねて死を選んだ。
そんな彼が何の因果か異世界に転生し、またお飾り社長(国王)をやるはめに。収支は真っ赤、国内は階級闘争寸前、周囲は敵国ばかり。独身の彼を取り巻く見目麗しの令嬢たちだけが彼の癒やし…のはずもなく。
使える現代知識なし、じんわり近づく革命の気配と始終暗闘ギスギス私生活を乗り切るべく、彼は今日も玉座で物言わぬ置物になる。』
あらすじと作品情報をざっと眺める。
よくある設定だ。
そもそも戦記物の場合、物語冒頭から自国が最強、完璧であることはほとんどない。むしろ酷い状態からそれを復興していく快感こそが皆の求める面白さなのだ。
彼はここでスマートフォンのブラウザを閉じることも出来た。
実際のところそれでよかった。あらすじを見る限り、他者の文章を丸々コピーするタイプの作者ではないのは明らか。単純にあらすじの文章が「普通」だったからだ。ならば本文も「普通」に書けるだろう。
しかし、一応冒頭部は読んで確認しておいた方が良い。大した手間ではないのだから。
そして彼はクリックした。
第1話を。
その後、撮影をどのようにこなしたか——あるいはこなしたかどうかすら——彼は覚えていない。
仕事が終わった後は家に直行した。送迎の車にはマネージャーが同乗しているため読み進めることができない。逸る心を抑え、翌日以後の予定確認を含む当たり障りのない会話を交わした。
帰宅するや服を着替えることもなくノートパソコンを立ち上げ、大画面で読み始める。分量的には30話に満たない。字数として文庫本1冊程度。
すぐに読み終わる。
服を着替え、帰宅途中に買った弁当を食べる。
そして再び読み始めた。
2周目を読み終えたときには時刻は23時。
彼はビールの缶を開け、飲み口から直接喉に流し込みながら、リビングをぐるぐると歩き回る。何かを求めての行動ではない。ただ歩くために歩いた。
彼は混乱していた。
まずはこの作品の作者について。
5話まで読み進めたあたりで書き手をうっすら想像した。10話を超えて確信に至った。
作者は「先輩」だ、と。
それ自体に意外性はない。元々が自分に物語を書くよう勧めたのは「先輩」なのだ。これまでの付き合いから「先輩」が十分な創作能力を備えているであろうことは容易に推測出来た。
よって問題は内容にある。
由理にとって、この作品の内容は絶対に許容しえないものである。
なぜなら、そこには意思がない。
主人公の王アントワン3世は状況に流されるばかり。延々泣き言を零し、戸惑い、恐れ、怯え、日々を過ごしている。周囲の登場人物達もまた、それぞれに思惑と恐れと不安を秘めながら王と対する。
重苦しい、何の起伏もない日常が続く。
時折事態は動き、状況は変化する。
だがそれは王の意思によって為されたものではない。意思が存在することもあるが、それは変化の起点としては余りにも弱く、か細いものだった。
もはや物語ではない。記録だ。
彼は単純にそう理解した。
この作品は何一つ語らない。語るべき物を。
ただ状態だけがある。
重責に押しつぶされ、他者に怯える矮小な人間の日常記録。
ただ目の前の問題をやり過ごし、なんとかうまくやることだけを考えるつまらない凡人のくだらない内面に過ぎない。
そこには目的がない。
生き延びること自体が目的であるのならば理解できる。よくあるサバイバルもの。だが、この作品の主人公にとって自身の生存すら窮極の目的とはなりえない。なぜなら、彼は冒頭ですでに一度死んでいるのだ。
つまり徹頭徹尾、何もない。
小説の形態をとっている以上、話の筋に多少の起伏はある。
だが骨の部分が歪。より正確に言えば「骨がない」。
作者の技量不足ゆえ纏められないというのなら理解できる。ありふれた駄作に過ぎない。
だが、この著者は明らかに十分な能力を備えている。文庫本1冊分の文章を一気に読ませるだけの。そしてなによりも、由理に物語の書き方を教えたのが、まさにこの著者なのだ。
よって、この作品はこう在るように意図して書かれたものだ。
苛立ちと虚無感に苛まれる。
にもかかわらず、由理はモニターから目を離せなかった。
彼は読んでいるのではない。読まされている。
理由も分からぬままに。
かつて、ワイングラスを傾けながら男が緩やかに放った言葉を思い出す。
「不条理が存在しない場所があるならば、私はぜひとも移住したい。たとえそこが地獄であっても気にしないよ。灼熱した血の海も心地よい温泉みたいなものだからね。意味の不在に比べれば」
由理にとって、この作品は断じて許容できないものである。嫌悪の極地にある。
にもかかわらず、彼は読まされていた。
意味もなく。
千々乱れた精神を抱えてひたすらリビングを回遊し続けた。
それは一つの恐怖であった。
この作品を読んだ後で、青年は男の中に「友」を見なかった。
ゆえに不安に駆られる。
もし彼が王でないならば、王は一体誰なのか。
もし彼が王ならば、作品の主人公アントワン3世こそが、まさにグロワス13世であることになる。
もし仮にそれが真実であるならば。
——おれが書いたグロワス13世は一体何者なのか。……おれは、誰を書いたんだ!
放心と焦燥を繰り返した後、彼はローテーブルに放り出したスマートフォンを取り上げると、自身のSNSアカウントを開き、胸中に充満する恐怖を吐露した。指先から。
つまり、彼を苛む元凶たる作品のアドレスを貼り、投稿した。
その行為がどのような状況を招くか、彼は理解しつつ、かつ理解しなかった。面倒な問題が発生する可能性を頭の片隅で捉えながら、それを押しのけても今すぐ吐き出したかった。
どこかへ。
この混乱と恐怖と、怒りを。
数秒をおいて、タイムラインに自身のポストが反映される。
アドレスの無機質な文字列が「ノベルライターになろう」の仕様で画像に変換されていた。
横長のそれにはあらすじの冒頭部が一面に描画されている。
『父から会社を引き継いだ一人の男が、自身の無能に耐えかねて死を選んだ。
そんな彼が何の因果か異世界に転生し、またお飾り社長(国王)をやるはめに。収支は真っ赤、国内は』
画像下部の左端には小さな文字で作品のタイトルが浮き上がっていた。
黒地に白抜きの、小さな文字で。
『地に落ちて死なば』
と。




