意思の勝利
刃物には不思議な魅力がある。
キッチンから持ってきた、ほぼ新品に近い包丁を眺めながらしみじみ思う。
これは食事を作るための純然たる器具だ。そうであるように決まっているから。ぼくたちの世界においては。これはそのために作られた道具だと。
でも、一旦そのラベルを剥がしてみると、親しげな様態は不気味な何かに一瞬で転化する。これは日用品であると同時に非日用品でもありうる。致命的な程度に。
ぼくたちを生かすための道具はぼくたちを殺しうる。
火もそうだし縄もそうだ。ぼくたちの身の回りの物は、大体ぼくたちが生きるためにも使えるし、死ぬためにも使える。ただ、刃物はそれが本当に分かりやすい形をしているからね。ついつい惹きつけられてしまう。
さて、余計なことを考えていないで、さっさとやろう。
刃のステンレス素材が持ち手まで続いているタイプの安包丁をぼくの手は掴み、握る。
ぼくの右手は刃を逆さに持ち、胸に向けて切っ先をゆっくり振り下ろす。
ゆっくりと。
そしてぼくの左手は、胸に迫り来る刃先を握りしめる。
その振りをする。
ああ、なるほど。
こういう感じか。
大体の動きを掴んで、再び静かにそれを机の上に置いた。
そして相棒の安ワインに口をつけ、望むがままに流し込んだ。
ぼくの机の上での赤ワインの瓶と包丁とキーボードの出会い。
とても詩的でとても絵になる光景だね。シュルレアリスムな感じだ。
◆
深夜になんでこんなことをしているかというとね、お話を書き進めるのに必要だからなんだ。
物語最初の山場に手を付けなければならない。
リュテス王国で代わり映えのしない日々を送る我らが主人公の身に、ついに最初の試練が訪れる。
暗殺未遂という。
王国はカジュアルにデフォルトするって前に言ったね。その煽りを喰らってとある商家が破産する。主人は自ら命を絶ち、息子達も戦争で亡くした奥さんは、当然のことながら自身も死にたいと願う。彼女は色々方法を検討した末にそのうちの一つ、最も陰惨で最も確実な方法を選んだ。
王の暗殺とその後の刑死。
お付きの武官であるジャスミナを伴い宮殿の庭を散歩していたアントワン3世は、突如現れた刺客に襲われる。幸運なことに、あるいは不幸なことに、暗殺者たる奥さんは人を殺めた経験なんてもたない素人だ。だから殺すのが下手。おかげで王は命拾いをすることになる。
彼は暗殺者が突き出した両刃のナイフを両手で掴み、握りしめ、すんでの所で難を逃れた。
こういう場面だね。
元ネタは数日前に知子さんと立ち寄ったブランドブティックでの一幕だった。
個人にはどうすることもできない社会の巨大な変化が、そのどうすることもできない個人の元に突如降ってくる。こんなにも酷い、そしてありふれた話もない。
こういうタイプの社会と個人、マクロとミクロを混ぜ込んだ問題に対して人はどう向き合うべきか。ぼくには分からない。創造主であるぼくが分からないんだから、物語の主人公である”ぼく”にも分からない。彼は途方に暮れる。
ちなみに、ほぼ同一の存在と言っていい二人だけど、現実のぼくと物語の”ぼく”には一つだけ違いがある。分かるかな。
ぼくは死を未経験で彼は経験済み。
死を経験した人間が、再び死に臨んで何を思うのか。
この点において、創造主であるはずのぼくは彼の心内を完全にシミュレートすることができない。ただ、未だ纏まりを欠きながらもうっすらとした輪郭は把握している。
多分彼は恐れるだろう。死を。
最初の死、つまり転生の切っ掛けになった自殺は彼が選択したものだけど、今回彼に突き出された刃は自身が納得の末に選んだものではないからだ。
この「納得」というのは死に際して重要な要素なんじゃないかとぼくは考えている。
前にも話したとおり、ぼくは自死を否定しない。むしろ人に与えられた究極の権利であると認識している。ただし、納得の末になされたならば、という条件付きで。
行動自体は衝動的にならざるをえないだろう。
人は死を直視できない。太陽と同じく。ラ・ロシュフーコー曰く。
だから行為には勢いがいる。お酒とかの力を借りてね。
でも、死に向かう意思は考え抜かれた上のものであるべきだ。理性の極限において「そうあるべき」という納得をしたい。そこにおいて初めて自死は完結する。
意思の勝利が訪れる。
さて、そんなわけで、我らが主人公アントワン3世は思わぬ2度目の死に直面して心底驚くんだけど、まぁなんだかんだ一度経験済みなので、表面上は比較的冷静。
これはよくあるよね。巨大な危機をすんでの所で脱したとき、人は意外と冷静だったりする。で、ダメージは後から来る。だから彼も暗殺直後は意外と落ち着いてる。
でも、脇に控えた武官であるジャスミナにとってはそうはいかない。
自身の役割を果たせず王が傷ついた。
責任感が強い彼女は償いを望み自死を図る。
さぁ、ここからメロドラマだよ。
お察しの通り、王が彼女を止める。
放っておくと死のうとするので、しかたなく夜通し部屋に二人きり。王が彼女を見張るんだ。ご都合主義なのは分かってる。そんなの部下がやることでしょって。その通りなんだけど、それじゃ物語は盛り上がらない。ここは王が頑張る。
彼は自分が内心考えていることを彼女に語る。
たとえば、責任を取って死ぬのはおかしい、みたいなね。
死が偉大な、価値のあるものに昇華するのはそれが納得の上で自発的に為された場合だ。外的要因から導かれる死は自死の形を取っても実体は他殺と変わらない。
そんなことをつらつら言いながら夜を明かす。
そして二人は眠ってしまう。
朝目を覚ますと、王が寝そべるソファーの足下にジャスミナがぺたんと座り込み、王の身体に頭を預けて眠っている。王の両手——縫合処置の末包帯ぐるぐる巻き——に自身の手をそっと重ねて。
これだ!
非常にいい。ちょっと知的な感じもするし、適度に情感もある。
これは来たね。
ひょっとしたら話題になって100PVとかたたき出してしまうかもしれない!
ご想像通り、この流れは茉莉さんのちょっとアレな襲撃事件に着想を得ている。
さすがに手錠は出さなかったよ。「ノベルライターになろう」の規約に抵触してBANされたら嫌だからね。
それにしても面白い。
ぼくの身の上に起こったしょうもない出来事が、こうやって架空の世界で新たな意味を獲得していくんだから。物語が完結したら後書きで知子さんと茉莉さんに謝意を捧げたいくらいだよ。しないけどね。
むしろ二人に読まれることだけは避けたい。本当に避けたい。恥ずかしすぎる。
ばれたときの情景を想像して身もだえていると、ふと気づく。
あらすじがよろしくないな……。微妙に個人特定可能なワードがいくつか入ってる。
そこで急いで弄った。
『父から会社を引き継いだ一人の男が、自身の無能に耐えかねて死を選んだ。
そんな彼が何の因果か異世界に転生し、またお飾り社長(国王)をやるはめに。収支は真っ赤、国内は階級闘争寸前、周囲は敵国ばかり。独身の彼を取り巻く見目麗しの令嬢たちだけが彼の癒やし…のはずもなく。
使える現代知識なし、じんわり近づく革命の気配と始終暗闘ギスギス私生活を乗り切るべく、彼は今日も玉座で物言わぬ置物になる。』
こんな感じ。業種とかその辺りはざっくり消した。本文中にはばっちり設定が残っているけど、そもそもあらすじ自体目にとまることがありえないので、本文が見られることなんてさらにないはず。
自意識過剰なのは十分承知の上。理解している。でも本当にキツいからね、知られるの。
このテーブルの包丁が火を噴きかねないほどに。
◆
並木通りの一角、比較的小規模ながら一階の路面店。
これまでずっと、この通りに来ると心が弾んだ。お目当ての時計を買うときはもちろんだけど、何も買わないときも、並び立つお店に適当に入って試着させて貰うだけで楽しかった。
もう何年になるだろう。
ぼくが時計を好きになったのはまだ大学生の頃だ。特に理由があったわけじゃない。美容院で待ち時間に読んだガジェット系の雑誌に紹介されてた軍用時計を見て、かっこいいと思った。それだけだよ。
当然のことながら高いものなんて買えなかった。だから銀座に来ることもなかったかな。
上野とか御徒町とか、あの辺りにあるお店で逆輸入の国産品を漁ってね。年季の入った店員さんに色々聞いて初歩的な知識を教えてもらったり。思えば悪くない時間だった。
就職しても状況はそこまで劇的に変わらなかった。ただ、一応社会人なので、頑張って二桁万円の時計を手に入れた。学生の頃から憧れていたドイツの軍用時計ブランドのもの。手に入れた時は本当にうれしかったな。誇らしくもあった。
だから本格的に銀座をうろつくようになったのは会社を継いでから。まだ10年も経たない。有名なブランドは大体手にしたし、中には結構なプレミアがつくものも買った。それはそれで面白かったね。ビジネスの観点からは各社のブランディング戦略が興味深かったし、物自体を見るならやっぱり「工芸品」の存在感がぼくを惹きつけた。
そんな一つの趣味が今死のうとしている。
最後を飾るのが、これからまさに花開いていこうとするブランドのお店というのは感慨深いね。
ぼくは今日、まだオープンしていないエストブールのブティックに来たよ。
預かっていた物を、返しに来たんだ。
◆
内装の外形だけは一通り揃った店内でアナリースさんが出迎えてくれた。一人で。
彼女も忙しい盛りだろうに、ぼくのために時間を割いてもらって申し訳ない。なるべく手短に済まそうと思う。
ぼくは鞄から携帯用ケースを取り出して、彼女の目の前に置いた。
ビジネスモードのアナリースさんはライトグレーのセットアップ。典型的なビジネススタイルなのに彼女が着るとそれだけでお洒落に感じられる。
「ブランド立ち上げでお忙しいところ、お時間をいただいて恐縮です。アナリースさん」
ぼくは単刀直入に話を切り出した。定型句ではなく、とても忙しいであろう彼女に対する本当の謝意だ。
「こちらこそ、わざわざご足労いただいてしまって……」
流暢な日本語が返ってくる。語尾を濁すところとか相当に高度だよね。
アナリースさんは形の良い眉の端を微かに落としてぼくを見た。なんというか、特に何もしてないのに謎の罪悪感があるな。
「短い間でしたが本当に楽しませていただきました。何度も機械を見てはその美しさに見とれました。ですから名残惜しいのは事実です。そして光栄でもあった。——でも、これは私が持っていてよいものではありません」
「それはあなたのためのものです。あなたのために私は作りました」
「ああ、そう言っていただけることがどれほど幸せなことか。ですが、メールでも申し上げたとおり私はこれに見合う対価を提供できない。『エストブール』が日本に進出するための市場調査をお手伝いできればと思いましたが、やはり私では力不足ですから」
それに尽きる。
由理くんに着けてもらって話題作りを狙った提案は彼女に明確に拒否された。それ自体は問題ない。問題は、ぼくが今後、長いお付き合いをできそうにないことだ。
ブランドの立ち上げと定着には大手資本でさえ最短でも5年はかかる。エストブールのような独立系の場合、本気でやるならもっと時間をかける必要があるだろう。残念ながら、その年月をぼくは付き合うことが出来ない。
「私は小グロワスを売りません。ですから、それは市場調査の対価ではありません」
同じ事の繰り返し。
ピントの合わない押し問答を繰り返している。
彼女が本当に真摯に、真心をぼくに伝えようとしているのが分かるだけに、このやりとりは苦しい。
「それは光栄です。本当に。だが納得はできません。もう一度お聞きしますね。——なぜ私なんですか? アナリースさん。あなたとわたしは先日エストブールのパーティーで会ったばかりだ。接点も何もない。見ず知らずの私にこの貴重な時計を下さる理由が見いだせない」
「理由ですか? 理由はあります。……私は何年も前からあなたを知っています」
さぁ、わけが分からなくなってきたぞ……。ぼくを知ってる? 何年も前から?
「なぜ? どうやって? フランスにいたあなたが、なんで有名人でもなんでもない日本の一個人を知ることが出来るんですか? 世界的に名の知れたコレクターの方ならそれもありうるでしょうが、生憎私は違う」
「父から聞きました。あなたのことを」
極小ながら可能性があったのは彼女の日本留学時代くらい。でも、ぼくは卒業以来大学に顔を出す機会なんてほぼなかったから、その線もまず無いだろうと思っていた。
それが意外なところから答えが返ってきたよ。
確かに彼女のお父さん、エストブール氏とは何度か会って話したことがある。込み入った話もした。でも、それが彼女に伝わったとして、記念すべき初の自作時計を贈ろうとまで思うだろうか。
「ああ、なるほど。その……お父様はなんと?」
薄らと疑いを秘めたぼくの問いに彼女は即答した。
「あなたは父がB社で昔作ったトゥールビヨンをこう表現しました。『創業者は意味のあるものを作ったが、あなたは意味のないものを作った。それこそが偉大なことだ』と。私は父からそう聞きました。これは正しいですか?」
ああ、うん。はい。
改めて他人から聞くと相当にアレな台詞だな……。確かに言った覚えがある。エストブール氏と最初に会ったときだね。もう5年以上前。
憧れたブランドを率いる憧れの時計師と会えてちょっと舞い上がってしまった。それでね。シャンパンもちょっと入っていたので。
思えば若き日の蛮勇だよ。
B社の創業者が数百年前にトゥールビヨン機構を作った時、時計の形状はまだ懐中だった。ゆえに重力の均一化を図る機構には精度向上という意味があった。でも、腕時計の時代にトゥールビヨンを新たに作ることには意味がない。この辺り説明が複雑になるから省くけど、原理的にトゥールビヨンは精度向上に寄与しないことだけ理解しておいてほしい。
にもかかわらず、エストブール氏は完全新設計でそれを作った。
トゥールビヨンは機構として派手だから、今でこそ毎年各社色々なモデルを出すようになった。でも、B社がリ・ブランディングを始めたばかりのころ——もう何十年も前だ——にはまだかなり珍しい、一般にあまり知られていない機構だった。だって極言すればあれは「無意味な装飾」に過ぎないものだからね。
それを若き日のエストブール氏は全身全霊を込めて作ったんだ。
無意味なものを。
「確かに私が言いました。今振り返れば失礼な物言いかもしれません。ただ、貶める意図は無かった……」
「父は言いました。『おれのトゥールビヨンを精度や設計の点で褒める顧客は山ほどいるが、無意味なものに取り組むことの真の意味を理解して賛辞を寄越した客は初めてだ』と。うれしそうに言いました」
「本当に? それはよかった。私の言いたいことがちゃんと伝わったわけですから。なにせ私のフランス語は本当に酷い」
エストブール氏がぼくの言いたかったことをくみ取ってくれたのは本当にうれしい。冗談ではなく、ぼくのフランス語は悲惨なものだからね。
「私はそれを聞きました。父の言葉を。そして驚きました。私が心から尊敬する人と、同じ考えを持つ人がいたことに。日本に。そして私は知りました。——あなたを」
心から尊敬する人。お父さんのことかな。こういう欧州言語の言い換えはいつ聞いても混乱する。
アナリースさんは言い終えてなお、ぼくの瞳を見つめ続ける。仮設のテーブルを挟んで対面にあって、視線を外すことがない。
鳶色の大きな瞳は高貴な猫のそれを思わせる。
ちょうど今日の彼女はライトグレーの服を着ているから、イメージとしてはロシアンブルーみたいな感じだろうか。
ぼくが昔、若さに任せて熱弁した言葉が、遠く離れたフランスの彼女に届き記憶に残った。そして、その記憶のために時計を製作しようとまで思ってくれた。
とてもうれしいことだけど、結局の所それは幻想に過ぎない。
鍵となる一つの言葉「無意味であることに価値がある」を起点として彼女が膨らませたぼくの姿——虚像に過ぎない。つまり現実のぼくとは似ても似つかぬ存在だ。
「ああ、なるほど。理解しました。そうするとやはり私の考えは間違っていなかった。この小グロワスはアナリースさん、あなたが持つべき物です。あなたがかつて思い描いた私は実際の私とは大きく異なります。残念ながら悪い方に。——もうお気づきかも知れませんが」
自虐で締めるのは楽でいいよね。お手軽すぎて癖になるから多用はよくないんだけど。まぁ今回は冗談ではなく本心なのでいいだろう。
なんというか、諸々すっきり収まった感がある。
かなり前にぼくがエストブール氏に言った一言を娘の彼女が聞き、感銘を受けてくれた。そして「想像上のぼく」のために時計を作ってくれた。そういうことだ。
ぼくは改めて小グロワスを彼女の方へ押し出す。
話は終わり。
だけど、帰り支度を始めようと動き出したところに返ってきた言葉はかなり意外なものだった。
アナリースさんはいきなりフランス語でぼくに語りかける。
軽やかに、しかし明瞭に。誤解無く。
それは官能的ですらある。控え目な笑みには挑発的な色合いさえ見える。
『では、これから時間をかけて、本当のあなたを教えてください。私に教えて? ——そして答え合わせをしましょう』
ぼくが高性能な危険センサーを持っていることはご存じのことと思う。
今、猛烈に点滅してる。
言葉は偉大だよね。
日本語を話している時の彼女はなんというか独特のほんわかした雰囲気があるんだ。間とイントネーションなのかな。非母語としては驚くほどに流暢にしゃべるんだけどね。
それがね、母語であるフランス語になると空気がガラリと変わる。
高貴な猫がちょっとだけ大きくなるんだ。
しなやかで俊敏で優雅。加えて獰猛に。
不用意に背中を向けると頭から食われるタイプのネコ科の動物。
ライオンの雰囲気が出てくる。
あ、雌の方ね。
雄はあれ、ちょっとだるそうなおじさんっぽさがあるけど、雌はシュッとしてるからね、ライオン。
まぁ、大きな猫と表現できないこともない。




