上機嫌
何かを書くことで心を癒やす。
なるほど。いいね。
アリストテレスじゃないけど、書くことは精神の嘔吐だ。吐いたらすっきりするのは当然。なんでぼくはこんな単純な解決策に気づかなかったんだろう!
そんなわけないよね。
少なくともぼくの場合、断じてすっきりしない。
確かに書いている間は余計なことを考える隙がないから、その点は効果的ともいえる。
でも思い出してほしい。ぼくは大体泥酔状態で書いてるんだ。だから、文章を書く書かない以前に思考のほとんどが霞がかっている。つまりあまり意味がない。
じゃあなんで書いているのかと自問してみれば、なんだろうね。
一つは何かを遺すためだろう。何でもいいから自分が存在した痕跡を。物体ではなく概念を。物質の世界ではなく精神の世界に。
他にはなにかあるかな。
ああ、きっと明確なゴールが欲しいんだろう。踏ん切りとでもいうべきか。
ちゃんと終わらせることには意味があるよ。物語は始まった以上必ず終わるものだから。生み出した以上、あるいは産み落とされた以上、終わらせること、終わることは使命だ。
できる限り、美しく。
で、10話まで書き進んだ。
大体世界の状況を説明し終えて、ヒロインそれぞれの背景を描いたところ。
形式としては主人公アントワン3世の内面独白とヒロイン視点の三人称、そして完全な神の視点としての三人称を織り交ぜる形で書いている。
こういう複雑な形式は読み手を混乱させる可能性が高いからあまり採用するべきじゃない。分かってはいるんだけどね。でも出し惜しみはしたくない。ぼくが出来る書き方を全部使おうと思ったんだ。
アントワン3世はいつもぷるぷるしてる。
状況をなんとなく理解して、これはどうしたものかと頭を抱えてる。
リュテス王国は積年の放漫財政で金がない。というか過去には何度かカジュアルにデフォルトしてる。よってその辺りをどうにかするために緊縮財政に舵を切る。
手始めに軍をリストラする。ただこれも主人公が意図的に動いたというよりは、既に周囲が計画していて、彼は王としてその道に進むことを許可するだけなんだ。こうします、ああしますという計画が全部目の前にある。それを見て——あまり理解できないけど、皆が頑張って作ったものなので理解しようと努力はする——「やれ!」って一言言うだけ。
なんだこれって感じだよね。
分かる。だけど実際こういうものだから仕方ない。
主人公は”ぼく”だからね。”ぼく”は賢いので、余計な口を挟んでも事態は悪化するだけだって知ってるんだ。賢いので!
さぁ、それを脇で見ているヒロイン達はどう思うだろうか。
ブリューベルさん(23歳・元秘書の某女史似)は父である首席国務卿と王が和解した——”ぼく”が転生する前、アントワン3世と彼の仲は険悪だったんだよ——ことを喜んで、王をちょっとだけ見直す。だけど、実際に王がやっていることがただ許可を出すだけ、要するに判子マシーンであることも見てる。秘書なので。というか秘書ゆえにその部分ばかり見えてしまうというべきかな。よってやっぱり評価は低い。
「自分の父さんの頑張りに乗っかってるだけの盆暗」的なね。
その……悲しいことに事実なので仕方ない。
もう一人のヒロインであるジャスミナさん(25歳・親戚のバリキャリさん似)の方は、職場の軍が縮小され国家元帥であるお父さんの体面も傷つくわけだから、好意的になれるわけがない。
ただし彼女は有能な軍人ゆえ、軍縮が王ではなく重臣達の発想であり、その中に自分の父ドゥ・レナール侯爵も入っていることを理解している。で、複雑な気持ちを味わう。王への評価? しゃべる置物みたいな。
でもこれだけだとつまらない。
だから、ブリューベルさんもジャスミナさんもちょっとだけ王に関心を向けるようにした。いわゆる「勘違いもの」的な。駄目なヤツに見えるけど実は? みたいなフレーバーを挟んでいく。あ、ただしこの話は「勘違いもの」ではないので、実際は純然たる二人の勘違いです。
創作だから主人公はモテた方がいい。しかたないね。
誠に残念なことに、この物語において王と二人が結ばれることはないから、フレーバーはあくまでも微かに。
さて、10話時点の結果を発表しよう!
総合評価 12pt
評価者数 2人
ブックマーク 0件
もう慣れた。そういうものだ。
むしろ評価してくれる人が2人も現れたのがすごい! ブックマークまではしてくれなかったから、きっと途中で読むのを止めてしまったんだろう。でも、事実がどうあれこの2人の頭の中に一瞬でも”ぼく”や”アントワン3世”の名前が残ったことは間違いない。すぐに忘れられてしまったかもしれないけど、それでもね。
そして肝心のPV!
ぼくは正直こっちばかり見てる。評価やブックマークをされれば最高だけど明らかに無理そうなのは薄々分かっているので、それよりもPVを見る方が楽しい。心の支えと言うべきだろうか。
で、これが意外なことに、そこそこある。
大体1日に平均して20近くある。
凄いことだよ! 5話時点で8だったのがここまで増えた! これは少なくとも10人くらいの人が読んでくれているはず。精密なことはよく分からないけど取りあえずそう思うことにした。ほぼ毎日更新しているから、その分を読みに来てくれている人がいるはずだ。多分5、6人は。あとは一見さんかな。
つまり、ぼくは5、6人の「固定読者」を得たことになる!
UA? 怖いから見ないよ。毎日1とかだったら危ないからね。ぼくの精神の平衡が。
さぁ、最後に大発表。
感想が来た! 来た!
内容はまぁ「ちょっと話が後ろ向きだけど、そこそこ読めるので頑張って」みたいな感じ。このリアルさがまたグッとくる。これで「凄い面白いです!」とか言われてもぼくには信じられないからね。もちろん自分では傑作だと思って書いているんだけど、その感性が皆と同じだとは欠片も思ってないので。
極言すれば、これはぼくの「同志」を探す旅だ。似たような感性を持った人を。
チョウチンアンコウみたいなものだろうか。
深海で微かな光をぼんやり点して同類を待ってる。広大な海の底で。
”物語”は大体50〜60話くらいで完結を予定している。だから最大で見積もって後50話。
多分今年の冬には終わるだろう。
◆
仕事だったり生活の諸々だったり、やらなければならないことを処理する以外の時間をほぼ全て物語制作につぎ込んだ2週間だった。
最中、プライベートなメッセージもいくつか来たよ。
その中でも驚いたのは島津さんからのものだった。あんな真正面から謝られるとは思ってもみなかったから。
彼女とはあの日に初めて会ってそれきり。いわば一期一会の関係だ。大学生ということもあるし、そもそも出来事自体覚えてもいないだろうと想像していたんだ。
ぼくの心内がどうあれ、普通に見れば酒の席でのちょっとした繰り言。殴り合いになったわけでもないし険悪に終わったわけでもない。主催者であるぼくも一度は中座したけど、その後は頑張った。最後は皆落ち着いて、ギリギリにこやかに終わらせることができた。
だからこそ、本当に怖い。
島津さんは自身の行為が引き起こした問題の意味をよく理解していた。大人の面子だったりぼくの内心だったり、そういうのをしっかり慮って長文の謝罪メッセージを送ってきたんだ。
恐怖ポイントは2つあるね。
1つは、恐らく世間慣れしていないであろう大学生の彼女に見透かされるほどに、ぼくの擬態が稚拙であった可能性。茉莉さんや他の皆さんが気づくのは何となく分かる。社会人だからね。あっ、ちなみに青佳さんとアナリースさんからも色々働きかけがあったけど、その話はまた後でしよう。
もう1つは、彼女が想像以上に「しっかりしている」ところだ。大学時代のぼくはとてもこんな行動は取れなかったはず。
酔い混じりだったあの日は別として、冷めた後の冷静さ、観察眼、行動力、誠意、どれもすごい。
そんなわけで、ぼくはもう一度彼女と会うことにした。
失敗を失敗と認め、それを真摯に謝罪しようと思ってくれた彼女に、ぼくも誠意を以て答えなければならない。大人として。ああ、より正確には大人を装う者として。
幸い今なら精神的にも耐えられそうだ。
本当にPV様々だよ。PV20!
これこそがぼくを守る最強の鎧だから。
で、銀座で会った。
ここは彼女の通う大学からアクセスがいいし、ぼくも暇を潰せる場所をたくさん知っている。
平日の午後だけど彼女は授業が無い時間帯。ぼくはぼくでその後色々なお店を回ることができる。もちろん新しく買うことはないよ。市場調査に行くんだ。売価のね。
時計は他の宝飾品に比べてリセール率が抜群に高い。たとえば叔父さんが愛用する例のブランドなんて、何年も酷使したやつが新品定価以上で売れたりする。すごいね。
翻って、残念ながらぼくが大好きなBのつくブランドとかはまぁ、ね。
定価の5割行けば御の字だろう。ただ、この5割って数字も宝石とかに比べれば全然いいらしい。時計以外はニュースサイトでちょっと読んだだけだから本当かどうかは分からないけど。
いずれにせよ、山奥の巣に籠もるドラゴンよろしく溜め込んできたぼくの「財宝」の数々は、しかるべきところに売却すればそこそこの額になるはずだ。
次はもっといい人の手に渡り、愛用されてほしいな。
2週間ぶりに出会った島津さんは驚くほどに「良家のお嬢様」だった。
前回がギャルソンとかJWアンダーソンとか好きそうなアート系少女って感じだったから、そのギャップにまず驚いた。次に、適度に上品で上質な服装があまりにも見事にはまっていることに衝撃を受けた。それはつまり、そういうものを着慣れてるってことだからね。
ぼくの危険センサーが激しく反応している。
彼女は良家のお嬢様っぽいんじゃなくて、正真正銘「良家のお嬢様」である可能性が高い。つまり、後ろにはしかるべき「お家」がある。
後ろ暗いことをしたわけではないし変な下心も全くないけど、ぼくたちの関係が外からどう見えるかは別の話だ。
さぁ、考えてみよう。
大切に育てた娘が得体の知れない30代半ばのおじさんと知り合いになったというこの状況。親御さんはどう思うかな。
あー。ぼくがお父さんなら調べるね。そのおじさんが何者か。当然。
で、田舎の中小企業の社長(世襲)で、かつ無能なヤツであると判明する。もうその時点でよろしくない。
いや、もちろんどんな企業であれ、創業者であれ世襲であれ、真面目で有能でまともな社長は山ほど居る。というかそっちの方が明らかに多い。でも稀にぼくみたいなのが紛れ込んでいて、それが界隈の評判を下げてしまう。
ぼくの場合派手な遊び——つまり接客のプロの皆さんとシャンパンタワーをするような——は全くしないから素行面は大丈夫だけど、それにしてもね。
ぼくがどう思われるかはこの際どうでもいい。
だけど島津さんの名誉に傷がつくのは避けたいところだ。「お家」がしっかりしているところは、普通ならそこまで気にしない些細な事象にもやたら敏感なので。
辛いね。
◆
ぼくは高性能の危険センサーを持っているくせに、それを有効活用するのが絶望的に下手だ。
小一時間レストランで話をして和やかに解散するつもりが、結局なぜか銀座をふらついてる。島津さんとともに。
上目遣いで「せんぱい」を連呼され、敬語を止めるように優雅に促されつつ。
ぼくも一応ビジネススーツをちゃんと着てるから、ギリギリ会社の同僚関係と見られる可能性は残っている。危ないところだった。ゆるめのセットアップとかで来たら即死だったな。これは。
うん。そうだね。ぼくはどこかの会社の係長で彼女は新卒2年目。同じチームの上司と部下。そんな雰囲気を出していこう。ギリギリ行けるだろう。
客先からの帰り、新橋から電車に乗って帰社する予定。このイメージだよ。
駄目でした。
「せんぱい、表参道とかよく行かれるんですか?」
「いや。ほとんど行かないけど。なぜ?」
「青佳さんにこの前お聞きしたんです! 表参道でデートをして、とっても楽しかったって。いいなぁ! 大人のデート。そういうの憧れです。——いいなぁ!」
あー、なるほど。なるほど。
確かにそんなこともあった。もう何年も前のことのように感じるけど、1ヶ月も経ってない。確かにあれはデートだった。
「ああ……うん、そういうこともあった。ちょっとした買い物に付き合って貰ったんだ。だからデートというわけではないよ」
嘘はあんまり言ってない。物を買ったのはぼくだからね。着るのは彼女だけど。
「そうなんですね! ちょっと誤解しちゃいました。——せんぱいと青佳さん、付き合ってるのかな、って」
「まさか。それは彼女に失礼だ。三沢さんはとても素敵な方で私も憧れるから、光栄なことだけどね」
ぐいぐい来る……。
何となく危険な雰囲気があるな。
兎とか馬とか、草食動物の目って顔の両側に離れてついてるでしょ。あれは捕食者の肉食動物の存在を探知するためらしい。
ぼくは横目に知子さんの表情を観察する。
少なくともぼくのことを嫌ってはいないだろう。変に煽っているわけでもない。
じゃあなんだろう。
彫りの深い、どちらかといえば凛とした顔立ちの割に可愛らしい雰囲気を漂わせて笑顔を浮かべる21歳の女の子。
やっぱり考えすぎだね。
彼女は誰にでも優しく明るく振る舞う子なんだ。
周囲に対して常に上機嫌な状態を見せることの重要性をしっかりと教えられてきたんだろう。
島津さん本物のお嬢様説がどんどん補強されていく。
そんなことを考えながらゆっくり歩いていると、突然彼女が足を止め、ショーウィンドウを食い入るように見つめだした。
「あ、これ! もう出てるんだ! 綺麗! ちょっと寄り道してもいいですか? せんぱい」
彼女の視線の先、マネキンが纏うのは白と紺の入り交じった色のワンピース。素材の感じからいって秋冬物か。
地は白だけど、青色で転写された細密な絵柄の密度が濃いために一見紺にも思われる。
ジュイ布だね。
ぼくには全く縁が無いながら、時々脇を通るといつも行列が出来てる人気のブランド。それが今日は平日ということもあってか列が無く、すぐに入店できる模様。
ぼくたちが本当に上司と部下なら話は早いんだけどね。
「おい、島津! そんなところで油を売ってる場合じゃないだろ。次のプレゼンの準備だ。帰るぞ」
とか言い放てば済む。
だけど現実はね。
「え? ああ、うん。そうだね。せっかく銀座まで来たんだから……」
と、もごもご言うことしかできなかった。ぼくには。
そういうものだよ。現実は。
◆
こうしてぼくは地獄に居る。
なんで銀座のど真ん中に地獄があるんだろう。上野の美術館から例の門が転移してきたのか?
まさか思わないよね。
平日の昼下がり、銀座の高級ファッションブティックでこの空気を味わうなんて。
カルチャーショックといってもいい。
簡潔に言おう。
超塩対応。
入店。放置。
まぁこれはいい。こっちも楽なので。
時計店だともう瞬間移動の勢いで店員さんが寄って来るものだけど、さすが間口の広いファッションブランドは余裕があるな、くらいに思ってた。
知子さんはゆっくりと一階の棚を眺める。バッグとか飾ってあるところだね。
時々「あれ、かわいいですね!」とか言ってくる。確かにかわいい。布地の模様に色々な動物が描かれてて牧歌的だ。寝そべってるライオンとかね。
ただ、ぼくと彼女が棚に近づいていくと、店員さんが微妙な距離を保ちつつ見てるんだよね。ぼくたちを。声掛けのタイミングを計っている風でもない。
なんというか、監視?
どこからどう見ても万引きするような風体には見えないと思うんだけどな、我々。彼女はもちろんのこと、ぼくも(今日は)ちゃんとした格好をしてる。髭もしっかり剃ってる。
真相に気づいたのは知子さんが店員さんに声をかけたときだ。
彼女はショーウィンドウに飾られてる服を見たいと頼んだ。
それに対して20代半ばとおぼしきちょっと疲れた感じの店員さんが何気なく放った一言。
「お服は2階以降になります。……でも、大丈夫ですか? 彼氏さん」
ぼくは会話の当事者ではないので何も言わなかったけど、気だるげな、そして微かに迷惑そうなニュアンスで色々察した。もう完膚なきまでに。
要するに知子さんは尋ねられたわけだ。
「おまえが引っかけてきたパパはうちの服を買えるお金持ってるの?」って。
あー、そう見えるのか。
懸念はゼロでは無かったけれど、正直なところ本当に「そう見られる」可能性は低かろうと思っていた。ぼくの外見はさておき、知子さんだけ観察すれば明らかだからね。
服もバッグも靴も、ブランドの名前はどこにも書かれていないながら全てがかなり上質な物であることはすぐに分かる。その上、彼女は全部「身につけ慣れている」。
門外漢のぼくでさえ分かること、このレベルの高級店でスタッフをしていればすぐに察するはずなんだけどな。そういう系統の子ではありえないって。
だから意外だったね。
高級ブランドの仕事に携わる人たちは横の繋がりが強いって話を前にしたよね。
ぼくが懇意にしているある時計ブランドの担当さん、奥さんが某ファッションブランドで働いてるんだ。世話話をしているときに「妻から聞いた話ですが」と前置きしつつ彼が言っていたよ。
「一般的には”売上が立って最高だろう”と見られていますけど、ああいったお客様、実は結構迷惑がられているらしいですよ。そういう色がブランドに付いてしまいますから」
ぼくが懇意にするその時計ブランド(B社ではない、別の所だよ)は、いわゆる「ああいったお客様」がいらっしゃるタイプではない。属性的には正反対の、時計マニアというか機械マニアが顧客の大半を占めるところ。だから彼もぼくが「ああいったお客様」ではないと分かった上で零した小話だったんだろう。
「今は現場も疲弊してますから。あれだけお客様が大量にいらっしゃるとスタッフをしっかり教育する暇もなくなります。ですから、ちょっと驚くような対応をしてしまって問題になるケースもあるようです」
そして如才なくこう付け加えた。
「もちろんうちはそんな心配はございません。ご覧の通りですから!」
ガラガラの、ほぼ貸し切りの店内を眺めながら、ぼくと彼は軽く笑った。
ちゃんと冗談で締めたものの、彼自身が高級時計ブランド旗艦店の店長——つまりスタッフを教育する責任者でもある——なわけで、心中は他人事ではないだろう。微妙に力がこもってた。
実をいえばぼくも他人事とはいいがたい。それどころか、むしろ当事者の親玉だ。
うちの会社が属する広義の建設業界は一昔前と打って変わって好景気に沸いている。仕事の量に対して請け負える会社と人が足りないほどに。
それはとてもありがたいことなんだけど、一方でクオリティの維持が本当に頭の痛い問題になっている。仕事を取れば取るだけもうけが出る。でも、結果働いている人たちの負荷も高まり余裕がなくなるからね。
ではもっと人を入れればいいかというとそう簡単にもいかない。新卒中途問わず求人は完全に応募者優位の状況。つまり人が来てくれない。たとえ来てくれたとしても気軽に雇うわけにはいかない。仕事がなくなったときに気軽に解雇できないので。
じゃあ仕事をえり好みする? それも怖いよ。今の好景気がいつまで続くかは誰にも分からないんだから。かき入れ時に一銭でも多く稼いでおきたい。銀行も公的機関も全く頼りにならなかったどん底の時期を知っているとなおさらそう思う。
こういう問題に美しい解決策はない。少なくともぼくには思いつかない。
もうその場その場で手当をしてバランスを見ていくしかできない。
優秀な経営者なら、バシッとビジョンを示して明確な指示を出して、すごい結果を出していくんだろう。でもぼくにはできない。いつも弥縫策だ。
そんなわけで、ぼくは店員さんの不躾な対応に怒りを感じなかった。
彼女だって本来はもっとクオリティの高い仕事をしたいだろう。世界的ファッションブランドを背負っているんだから、その誇りも自負もあるはずだ。接客においても最高品質でありたいという。
でも色々な、それこそ世界経済の動向までを含んだ巨大な流れが、末端において小さな個別の問題を大量に生み出して、いつしかそれは個人の中に沈殿していく。一つ一つは捌けても根本的な解決はできない。そして疲弊する。
よって、この場での立ち回りは結構難しい。
ぼく一人店を出て行くのは角が立つし、残される知子さんがかわいそうだ。一方で、そのままのこのこ着いていくのもそれはそれで、彼女がそういうことをしている女性という印象を決定づけることになる。
もういっそ、さっきのカバーストーリー(上司と部下ね。新橋駅から帰社するやつ)をストレートに話そうかとも思ったけど、唐突な自分語りもちょっと変だね。
さてどうしようかと迷う刹那、彼女の明るい声が響いた。
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。——あ、今日は店長さんいらっしゃいますか?」
怒鳴るわけでもなく、かといって腰が引けてもいない。なんといえばいいのかな。
超堂々としてる。
「あいにく店長は不在にしておりまして」
「そうですか……久しぶりにお会いしたかったんですけど、残念です。ではまた来ますね! ありがとうございました」
ああ、これは駄目だ。
危険センサーがマックスで鳴ってる。
彼女は本物だ。
本物のお嬢様襲来。
凛と背筋を伸ばし、陽気を消さず、歯切れ良く、しかし柔らかく、彼女はそう告げてきびすを返す。
もうここまでくれば大体分かるよ。
このお店も彼女か、あるいは彼女の家の誰かが上得意なんだろう。でも、それを笠に着て威圧的になることもなければ不機嫌になることもない。
すごいね。
ぼくが察したのと同じ辺りで、遠巻きにやりとりを見ていた別の店員さんが凄い早足で飛んできた。ベテランっぽい女性が。
「お客様! 店長に申し伝えますので、もしよろしければお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「島津知子と申します。——今日はありがとうございました!」
島津知子さん。
島津……。
まぁ、ね。
日本にはたくさん名字あるからね。島津さんもたくさんいるから。
いるよね?
◆
必死の形相で引き留める店員さんを愛想良く、かつ断固として振り切って、ぼくたちは銀座の街路に抜け出てきた。
「ちょっと行き違いがあったみたいだね。残念だ」
「はい。出来たら試着してみたかったんですけど、今日はタイミングが合わなかった感じです」
相変わらずの明るい声で、しかしほんの少し含みを残し彼女は答えた。
「確かにタイミングだ。そう考えられるのはとてもいいね。——タイミングが合えば、今度は……」
ぼくはこう続けようと思ったんだ。
「タイミングが合えば、今度はじっくり試着できるんじゃないかな」
って。
どうでもいい、当たり障りの無い台詞を。
「今度! じゃあせんぱい、今度は美術館に行きましょう!」
「え?」
「せんぱいご存じですか? 今新国立美術館で面白い特別展をやってるんです」
「そうなの?」
「はい!」
そしてだめ押しの一言が放たれた。
「よかった! 次もお出かけできますね! ——せんぱいに誘ってもらえましたから!」




