彼我
若い硬さを秘めた輪郭、くっきりとした目鼻立ちと小柄な四肢は、彼女に不思議な魅力を与えた。女と娘の中間であり可憐と華美の中間であるような、そんな存在として。
ある者は彼女を可愛らしい少女と感じ、またある者は孤高の美女と見る。
その容姿と同様、島津知子の性格もまた明白な2面性を備えていた。無邪気で溌剌とした心持ちと、冷徹にして苛烈な思考を一身の内に閉じ込めている。
好意と礼節を以て接する相手に対しては心を開き友好関係を築こうと試みる一方で、悪意と無礼を秘めて対する者に向けて、彼女は痛烈な反撃を躊躇しない。断固たる行動に出る。
年も立場も異なる4人の「女子会」の後、彼女は男への接し方について軌道修正を行った。
否、接し方などといったものではない。
それは自身と男との「関係」そのものについてである。
◆
男と島津知子は友人アナリースを通じて知り合ったばかりである。彼は偶然にも自分が通う大学の卒業生——先輩ではあるが、社会的な関わりといえばその程度のもの。
実家の存在を無視して個人のみを見たならば、彼女は21歳の大学生に過ぎない。一方で男は半世紀以上に渡る歴史を持つ企業の代表であり、相応の経験を積んだ社会人であった。彼とても社会的背景を除けば34歳の1中年男性に過ぎないが、家業に携わった経験を全く持たない、ただ家の名と両親の存在に守られてきただけの彼女と、血筋により引き継いだとはいえ曲がりなりにも自らの手で会社を運営してきた彼では背負ってきたものの価値が違う。
男はその友人であるという二人の女性とアナリース、そして彼女を至ってまともにエスコートした。それは当たり前であるように思われて実は得がたい姿勢である。
年長風を吹かせることもなく、かといって萎縮するわけでもない。
つまり男は自分を魅力的に見せようと意図しなかった。虚勢と下心という人間誰しもが持つ気質を彼も当然持つはずだが、それによって相手を不快にさせることを避けようとする強い意志があった。
にもかかわらず、知子は男が厚意から皆に紹介した彼の友人を痛烈に罵倒した。
自身がその男、由理・レスパンに対して行った攻撃には何の後悔もない。彼は自身と同じく由理・レスパンでもある。つまり、にこやかに食卓を囲むのに適した相手ではない。それは先方も同様だろうと彼女は考えた。
ゆえに知子が心底申し訳なさを覚えるのは由理に対してではなく、宴席をもうけた男に対してである。
彼女らと由理があの場で為したことを男の視点から思い返してみればその無礼は明らかだ。彼からしてみれば、よかれと思って引き合わせた相手が意味不明な原因から突如口論を始める状況はまさに悪夢であっただろう。そして恐らくは、体面を傷つけられたと感じただろう。
男はあの場に集った誰かの部下ではない。利害関係において風下に立つ存在ではない。何をされても我慢して平身低頭せねばならない立場にはない。
青佳は彼の元部下であり茉莉は親類。アナリースは時計ブランドの幹部と顧客の間柄。由理は大学の後輩である。
険悪極まる状態——手元のナイフが飛び交いかねないほどに——を、しかし男は穏便に収めようとした。必死に。何度も。
最終的に我に返った一同に彼は冗談を飛ばし、自分は気にしていない旨を示そうとした。そして散会まで上機嫌な素振りを守った。
口火を切った自分——ゾフィに対してさえ。
ゾフィの意識は男の行動に最愛の夫の心根、その面影を感じる。狂おしいほどに。
彼女が尊敬した夫は常に抑制的であった。
何かもめ事があれば柔和にその場を収め、のちに原因を解消しようと動く。ゆっくりと。静かに。
サンテネリは誇りを重視する社会である。ほんの些細なすれ違い、誤解は即座に「尊厳」の問題に転化し、時には命のやりとりに発展することもある。
彼女が思い出すのは親友アナリゼの婚姻1周年を祝う夜会での出来事。
酔った貴族が衆人環視の中で妻アナリゼ——サンテネリ王正妃を侮辱したにも関わらず、王は彼らを逮捕するどころか、自ら下手人たちの間に入り酒を酌み交わし、穏便に、笑いを以て状況を収めた。
脇で状況を目撃したゾフィは問題の根深さとアナリゼの心内を思い心を痛めたが、その帰結を見届けたのちにはある種の多幸感といってもよい感情に包まれたことを覚えている。
——皆さんご覧下さい! あの方こそが私の夫なんです!
そう触れ回りたいほどの誇らしさを感じた。
満座の観衆を前に自身の妻を侮辱されて——それはひいては王自身への軽侮である——なお、彼は剣を抜かなかった。政権から遠く口さがない者達は密かに彼を腰抜けと笑ったが、ゾフィはその者達をこそ笑った。
外からは王冠の台座と見做される夫だが、実のところ彼は台座ではないのだ。自身の父ガイユール大公を含むサンテネリ最有力の貴族達が関心と畏れをもってその一挙手一投足を気にかける程度に、台座ではない。
彼は明らかに王である。
よって、王は剣を抜くことができた。しかし抜かなかった。
剣をもって相手の存在をこの世から消すよりも、対話と理解によって問題の種をこの世から消すことを望んだ。あまりにも強大な剣を抜きうる者が。
何かあれば「侮辱だ」「誇りを汚された」と喚き、男らしさを誇示する世の男たちに心内滑稽さを禁じ得ないゾフィにとって、夫が見せた強靱な意志——自己を抑制し、状況の好転を目指すための——ほどに真に男らしいと感じられるものはなかった。
翻って知子にとって、男の存在ははっきりと「大人の男性」として認識された。そして、自分が情けないほどに子どもであることを痛感する。ゾフィの意識と経験と混じり合いつつも、知子は1人の若い女——まだ少女と形容できるほどの——であった。
彼からすれば、あの夜の知子の振る舞いは小娘の移り気と癇癪と映ったかもしれない。
事実その通りなのだ。ゆえにこの後彼女がどのような態度を取ろうが、彼は彼女を許すだろう。内心どうあれ、子どものしたことに目くじらを立てる素振りは見せないだろう。
内心どうあれ。
これほどに辛く感じられる状況はない。
知子は男を初対面から比較的好ましく思っていた。本屋での偶然の出会いもさることながら、その後、あの夕食までの一時、銀座の街をゆるりと歩きながら見せた彼の振る舞いが彼女には心地よく感じられた。会話には知性があり、対手には思いやりがある。そして落ち着きがある。端的に言えば「好みの男性」の枠内に十分入る存在だった。
入り交じるゾフィの感性は明らかに知子の心情に影響を与えている。より正確には、ゾフィのそれと知子のそれは分かちえないものだ。ゆえに彼女は男に適度な好意を抱いた。
その彼に「子ども」と見なされ、あしらわれるなど耐えがたい。対等の「相手」と見なされぬなどとは。
では、ちゃんと見てもらうためにはどうするべきか。彼女は考えた。
まずは自分が彼をしっかりと知ること。そして、自分を彼に知ってもらうこと。
最初に知ってもらいたいことは何か。
それは彼女が抱いた悔悟と申し訳なさである。
ゆえに「OB訪問」の口実はきっぱりと捨てた。
それこそがまさに「子ども」の振る舞いであると感じたからだ。
絵文字を混ぜて可愛らしく軽く謝り、約束を取りつけるメッセージを送ったとして、彼がどのような反応をするかは分からない。当たり障りなく断られるかもしれないし快諾されるかもしれない。だが仮に受け入れられたとして、彼が受け入れたのはまだ幼い「女の子」の知子である。それでは嫌なのだ。
彼女はもう一つの道を選んだ。
ちゃんとする道だ。
心を込めて先日の無礼をわびること。そして直接会って謝罪したい旨を伝えること。
「子ども」ではなく、1人の大人の女性として行動することである。
面会を断られる可能性は十分にある。だが、彼が彼女の謝罪をもし受け入れるのであれば、そこから先は大人の女と男である。
いずれにしても筋を通さなければならない。自身の誇りにかけても。
送るべきメッセージの文章を考えるために、彼女はかなりの時間を費やすこととなった。
◆
「改めて謝罪の機会をいただけましたこと、心より感謝いたします。先日は誠に申し訳ありませんでした」
レストラン窓際の一角、柔らかくテーブルを照らす陽光を浴びて、姿勢を正した知子は深々と頭を下げた。
「ああ、島津さん、頭を上げてください。お心は十分頂きました」
男は少し戸惑いを含んだ声を掛ける。
それは彼女の変化が彼の想像以上のものであったことを示していた。
2週間前、初対面の知子ははっきりとした記号をまとった存在であった。
大学生の女の子。それ以上でも以下でもない。そして夕食時、記号は見慣れたものから見慣れぬものへと変化した。得体の知れぬ存在へと。
しかし今日、淡いクリーム色の、首元に繊細なレースがあしらわれたブラウスの上に濃紺の上質なジャケットを身につけた彼女は、再び彼の見慣れた存在へと転化した。
社会人女性のスーツとも違う、しかし折り目正しい装い。落ち着いた仕草と丁寧な口調。大学生とも社会人とも言いがたいその様は、あえて形容するならば「良家のお嬢様のよそ行き姿」とでも評するところだろう。
知子は謝罪メッセージの中で男が住む地方都市まで出向くと告げたが、逆に都内を提案された。2週間後に都内に出る用があるのでその際に、と。それは事を荒立てず、些事として流そうとする彼の意志であった。
それでも出向くと伝えかけて、結局彼女は男の申出に従うことにした。客観的に見て、例の騒動は損害賠償が発生する類いのものではない。ちょっとした行き違いに過ぎないのだ。あくまで客観的にはであるが。
ゆえに一般的な社会常識に基づき——それはつまり、学生の些細なミスを大人が許すという構図である——さりげなく、穏便に済ませる道が提案された。その意図を理解したがゆえである。
一方で、彼が知子の謝罪を相応の礼をもって受け入れようと望んだことはその装いから理解することができる。
男はペンシルストライプのスーツに身を包み、薄いブルーのシャツにより鮮やかな青のモノトーンペイズリータイを合わせていた。フォーマルに行きすぎれば相手を萎縮させ、ラフに過ぎれば相手を侮ることになる。ゆえにその中間をうまく縫って構築された装い。
日本でも有数の名家に生まれた彼女は、装いが無言の、しかし雄弁なメッセージであることを幼時からしっかりと教え込まれてきた。
その知識から見る限り、男のそれはまさに「世慣れた」姿である。
「本当に、申し開きのしようもありません。私は……とても無礼でした」
「そうですね。無礼と言えば無礼だった。だが、私にというよりは、彼に対してのものでしょう。ああ、もちろん彼もあなたに無礼だった。私にはよく分かりませんが、何かその、お二人は互いに気に入らないところがあったのだと理解しています」
知子は男の言う彼に対する申し訳なさを欠片も持たない。先方が同様であるように。しかし本心はどうあれ和解はなすべきなのだ。ここは日本であり、サンテネリではないのだから。
「はい。レスパンさんにもお会いして謝罪をしたいと思います。ですが、ご連絡先が分からなくて……」
「ああ、確かに。彼とは古くからの付き合いなので気安く感じていましたが、考えてみれば有名人だ。——彼も一方的な被害者ではないので、謝罪というよりも和解ができるといいですね。ただ、彼の仕事柄、この場で連絡先をお伝えすることは出来ません。もちろんあなたを疑ってではなく……。私の方から彼に尋ねておきます」
「はい。もちろんです。お心遣いありがとうございます」
由理・レスパンはモデル、俳優という身元開示に神経を使う職業に就いている。それも大人気の。ゆえに男の配慮は当然のことであった。
そしてこれもまた当然のことながら、知子は彼の連絡先など知りたいとは全く思わなかった。
「ところで、差し支えなければお聞きしたいことが一つ。——あれは、つまり何だったんですか? 私には状況がよく分からなかった」
この問いがなされるであろうことを彼女は予想していた。
「えーっと、その、マンガとか小説のファンの間には”解釈違い”っていう現象があるんです。ある場面をどう解釈するか、あるキャラをどういう性格と感じるかで、ファンの間で意見が分かれて」
無理はあるがこの口実で押し通す以外に道はない。
自分たちが「物語の登場人物そのもの」であると公言したところで精神状態を疑われるのが関の山だ。しかもあの場に居た青佳やアナリース、茉莉も同じとなれば集団幻覚としか表現しようのない状況となる。
よって”解釈違い”の筋書きで誤魔化すしかない。だが、完全な嘘で彼を騙すわけでもない。自分はゾフィであると同時に知子なのだ。他の皆も同様に。よって登場人物そのものではありえない。
この筋書きの問題点があるとすれば、彼女達と直接の交流を持たない由理が男に真実を告げている可能性だが、もしそうだったとすれば、あの夕食の騒ぎを男が不思議がるはずがないのだ。理由が分かっているのだから。
「なるほど。何となく分かります。小説1つとっても読者の感想は千差万別。皆色々な解釈をしますから……本当に。それが『この人を見よ』ほどの凄い作品となれば読者の多様性も桁違いでしょう」
何かを思い出すように遠い眼で屋外を眺める男の横顔を、知子は静かに観察する。やがて彼は重ねて問いを発した。
「でも由理くんは作者だ。たとえばあるキャラクターについて、作り手である作者と意見が食い違った場合でもそれは起こるんですか? 彼が書いたのだからそれが正しい解釈になるとは……ああ、なるほど。……そうは言えないか」
自分で尋ねながら自分で納得する。得心いったと頷く様はほんの少しだけ男の年齢を若返らせる。少なくとも知子にはそう思われた。
「はい。テクストの独立性です! 作者と作品を切り離す。作品は自足する。そうですよね、先輩!」
出会い頭のしおらしい風情から徐々に明るさを取り戻してきた知子の様子を、男は微笑を浮かべて眺め、そして最後に控えめな戸惑いをみせる。
「そうだね。こんなところで懐かしのテクスト論に出くわすとは驚いた。確かにそうだ。対象がライトノベルだったから忘れていたけど、考えてみればその通りです。作者と意見が食い違うことは禁忌ではありません。作品は自足する。——ああ、ところで島津さん、先輩は恥ずかしいな」
「駄目ですか? でも、本当に先輩ですから……」
調子に乗ったことを後悔した知子のしょげた様子を、しかし男は鷹揚に受け入れた。
確かに受け入れたのだ。
「ああ、駄目ではありません。……確かにあなたは後輩だ。そういえば学部も同じでしたね」
「はい! 文学部です」
「専攻はどこですか? 美美かな?」
「正解です! 分かりやすい感じですよね、私。——先輩は……あ、言わないでください。当てますから。たぶん哲学!……か、仏文!」
「ああ、ずるいな、答えを二つも。私は哲学ですね。あそこ、今も”ヤバい人たちの巣”扱いされてるのかな」
男は明らかな笑みを見せて尋ねた。
「えーっと……ちょっと私には分かりません。美美なので。——でも、私は先輩とお喋りしていてとても楽しいです!」
事実を事実と肯定できず一瞬目を逸らすも、気を取り直した彼女は一際声高く、強く、男に語りかける。
知子とゾフィの心情は明確に合一していた。彼との会話は楽しいのだ。
「それはうれしいな。——ありがとうございます。光栄です」
彼は頷き、緩やかな仕草で水を一口飲んだ。
グラスを戻す刹那、水面が微かに揺れて陽光を疎らに弾いた。
知子が踏み込むべきはまさにこの瞬間である。
断固として、ここで楔を打ち込まねばならない。
「先輩——私たち、ちょっと変ですよね」
「変?」
一呼吸、女は拍を置く。男の隙を狙って。
そして言い放つ。
「普通、先輩は後輩に敬語を使いません。——そうですよね、せんぱい!」




