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地に落ちて死なずば  作者: 本条謙太郞


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27/56

彼自身を知れ

 約束の店に着いたとき、女はその室内にかすかな既視感を覚えた。

 かつて彼女とその”お友達”が公務や子育て——これもまた明白な公務であったが——の間を縫って集った場所に、それは少し似ていたからだ。

 白と金を基調としたインテリアに高い天井から垂れるシャンデリア。至るところに設置された間接照明は抑制されて、漆喰を模した——あるいは本物の——壁こそが光源となっている。

 それは燭台の灯がもたらす光によく似ている。彼女がかつて慣れ親しんだものに。


 最近仲良くなった”お友達”から誘いを受けたのは土曜日の朝のこと。自身が為した明白な失態を振り返り、酒の残りで痛む頭を押さえながら、彼女はスマートフォンに届いたその誘いを見た。

 二日後、月曜の夕とは急な話であるが、運の良いことに彼女は現在定職を持たない。ゆえに時間はいくらでも捻出することができる。

 彼女は快諾した。


 19時の待ち合わせにもかかわらず、目的の店が入る複合商業施設に着いたのは定刻より1時間以上も前のこと。

 六本木駅からほど近いところにあるそのモールは、老若男女様々な属性の人であふれかえっている。勤め人とおぼしきスーツ姿の人々、あるいはカジュアルな格好の大学生、あるいは老人達。

 今生の意識が()()と捉えるその景色は、()()のことながら彼女の意識においては異様なものであった。


 東京の中心部に位置しながら贅沢に設えられた広大な敷地内の庭園をぐるりとひと回りしてみる。かつて女が住んだ”お家”には及ばないながらも、現代の技術が粋をこらした植栽はやはり美しく、彼女の目を楽しませた。


 日が落ちて夜が始まる。

 それはまさに終わりであり、始まりでもある。





 ◆





「いつ以来でしょうね。わたくしたちが一所(ひとところ)に集うのは」


 レストランの個室、時間通りに集まってきた”お友達”と軽い挨拶を交わし席に着く。

 頃合いを見計らってやってきたスタッフに各自が飲み物をオーダーし、一旦落ち着いたところで、彼女はいつものように穏やかに声を掛けた。


 答えは明白である。

 4人の女は明らかに一昨日出会っているのだから。そこで女達は揃って失態をなした。忘れることなどありえない。

 だが女——ブラウネの言葉は、遙か遠い記憶を探り当てようとする曖昧な響きを含んでいた。


メアリ姉様(エネ・メアリ)が宮殿をお下がりになる直前でしょうか」


 最初に答えたのは、この場に混じるには少々場違いとすら感じられる若さを持った女である。彼女はまだ21。大学生である。

 しかし外見に比してその口ぶりには重みがあった。

 かつては弟とともに公領を切り盛りした女、サンテネリ王妃にしてガイユール女公ゾフィには。


「懐かしいですね。思えば私たちは娘時代からずっとこうして集い、お話をしてきました」


 栗色の髪を下ろした白人女性の返答もまた、あまりにも滑らかに過去に立ち戻っていく。この場において、この会話において、最も違和感の無い佇まいを見せるのは彼女である。


 4人の女達が喋る言葉は日本のものではなかったのだから。

 それはどこか欧州の言語を思わせる響き。

 土地柄ゆえ店の客にも外国人とおぼしき人影は多い。ここが個室でなければ、周囲の客の耳にも彼女達の会話は届いたことだろう。だが誰もが聞き取れず、意味を取りえぬ言葉だ。3人の日本人女性と1人のフランス人女性が口の端に載せるそれは。

 大シュトロワ(世界の中心)の言葉、サンテネリの言葉、世界で最も美しい言葉である。


「陛下の足下において。陛下のお部屋で。確かに懐かしいものです」


 2つの王国から「母」と称された王妃アナリゼの語を継いだのは、偶然にも同じく「母」と称された女。”王国”ではなく”女神”を産んだ女。

 今日この日、3人の”お友達”を集めた王妃メアリである。


 円卓に座る3人の”お友達”を、彼女は順に眺めた。

 顔かたちに往時の面影は無い。それは自身も同じこと。

 だが、明らかにそれは彼女の友達であった。そして競争相手であり、協働相手であり、同じ男を分け合った相手である。つまり家族であった。

 サンテネリ王国母后ブラウネの。


 初夏の六本木、絶品のトリュフを比較的手頃な価格で提供することで定評のあるフレンチレストランの一室に4人の女が集った。


 サンテネリ国王グロワス13世の4人の妻。

 のちにこう称された女達。


 ——偉大なる王妃達(ロワイユ・グローエ)と。




 ◆




「もしや、あの()()()()まで呼ばれたのではないかと少し不安に思っていましたけれど、どうやら杞憂に終わりましたね」


 ブラウネがその可憐な容姿に見合わぬ苦み走った笑みを見せながら言い放つ。


「私は彼に感謝しています。彼の書いた例のお話がなければ、遠く離れた地に生きた私が皆さんとお会いすることは出来なかったでしょう。『こちらにいらしてくださいませ、一緒にお話しいたしましょう』と再び言うことも」


 冗談とも本気ともつかぬ微かな笑みをもってアナリゼが返す。


「本当ですね! また皆さんとお話し出来るなんて夢のようです。大学でアナリゼさんと初めてお会いしたときはもう、心臓が破裂しちゃいそうだったんですよ」


 ゾフィにとってもそれはまさに僥倖であった。

 彼女はかつて、友の困窮を聞きつけ単身ヴェノンを訪ねたことさえある。当然のことながら弟たるガイユール公は姉の長旅を渋ったが、彼女は全く意に介さなかった。そしてこれもまた当然のことながら、彼女をゾフィ姉様(エネ・ゾフィ)と慕う()()()共和国議員は自身のささやかな伝手を辿ってささやかな護衛を用意した。平服に衣替えをしたサンテネリ共和国国家親衛軍最精鋭の一団を。

 共和国となったサンテネリにおいて、建前上ゾフィは単なる「ゾフィ・ガイユール・ルロワ」である。だが実際のところ彼女はプロザン王妃の母であり、共和国の守護女神の姉であった。


 アナリゼのささやかな住まいを訪問したゾフィは、ともにガイユール公領に来るよう友を誘った。そして断られた。

 祖国戦争が終結した以上、帝国にとってもエストビルグ王国にとってもアナリゼは大した政治的価値を持たない。あるとすれば男やもめとなったどこかの貴族と娶せることくらいだが、それとても彼女の血筋が邪魔をする。アナリゼは正妃腹の第一皇女なのだ。釣り合いが取れる相手などそう簡単に見つからない。そして何よりも、本人が全くそれを望まなかった。

 あるいは皇帝の勅命を以て強いることはできただろうが、アナリゼはそれに抗する術を1つだけ持っていた。自ら命を絶つという。いくら厄介者の姉とはいえ、それを自死に追いやったとなれば皇帝の名に傷がつくことを異母弟たる皇帝はよく理解していた。

 よってこの時、彼女がガイユール領に居を移そうとも大した問題にはならなかっただろう。面倒事が片付いたと思われるのが関の山。

 しかしアナリゼはヴェノンにあることを選んだ。

 自身の死を予感したか、あるいは、彼女の人生からはおよそ縁遠い行為——意趣返し——のためかもしれない。


 ゾフィはアナリゼの()()()住まいで、数日をともに過ごした。

 時にはそこで連邦共和国の要人と非公式な面会をすることもあった。ガイユール地方には良港が多い。連邦共和国東岸とガイユールに直接航路を開くことが出来れば双方の利となる。アナリゼは両者の友好を喜んだ。自身の存在が、自身が好ましいと感じる両者を結ばしめたのだから。


 ヴェノンにおいて、ゾフィは友の元に滞在する以外、()()()()()()()。外交儀礼の一環として皇帝を表敬訪問することも、帝国社交界に顔を出すことも、一切。

 面会を求めてやってくる帝国貴族達に対して、彼女はまことに()()()()()返事を以てそれを謝絶した。


「身分違いゆえ恐れ多く」

 と。


 ゾフィはサンテネリ共和国の一市民にすぎず、帝国の貴族様のご尊顔を拝するに足る身分ではないと、彼女はそう伝言した。

 それは痛烈な、あまりにも苛烈な皮肉であった。


 実際の彼女はエストビルグ家など及びもつかぬ名家ガイユールの当主であり、プロザン国王正妃の母であり、サンテネリ王妃の称号を保持する女であったのだから。

 平民向けの部屋に隠棲する友がサンテネリ王国正妃にして帝国第一皇女であったように。

 友を粗略に扱うエストビルグに対して、ゾフィは極めて明白な態度を示した。


 やがて彼女は帰途についた。

 そして二人が再び出会うことはなかった。


 ゆえに万感の思いがあった。知り合った頃に語り明かしたとはいえ、今日この場のように「馴染みの4人」が一堂に会すれば咸興も蘇る。


 明るくはしゃぐゾフィを横目にブラウネが言葉を継ぐ。


「確かにその点だけは認めなければなりませんね。わたくしも、あの本があってこそ陛下の存在に気づけたのですから」


 彼女にとって、極言してしまえば「あの本」の価値は中に記された名前にしかない。

「グロワス13世」「ブラウネ」「メアリ」「ゾフィ」「アナリゼ」「サンテネリ」「エストビルグ」。

 これらの言葉。現代日本において全てが揃うことはありえない。よって本の存在は「同類」の存在そのものである。

 その天啓に比べれば話の内容は些事である。自身が王に寵愛されたとする筋書きは好ましいものだったが、それ以外は似ても似つかぬ話。どうでもよい話だ。

 彼女にとって『この人を見よ』は、自分の生きた世界を素材として展開された「別のお話」に過ぎない。


ブラウネ姉様(エネ・ブラウネ)のおっしゃるとおりです。おかげで——グロワス様にお会いできました」


 先ほどの軽やかさは姿を消した。

 アナリゼの言葉は重かった。

 その一語一語が実体のごとくあった。





 ◆





 ささやかなコースを堪能し、デザートを待つばかりの頃合い。

 それはまさに頃合いである。


 思い出話の時間は終わる。


 ブラウネは、最も古くから知る友であり、ともに侍女を務めた女が何かを語り出そうとするのを感じ取った。


「思い出話はもういいですか? では、ここからは今の話をしましょう。現実の」


 女の言葉は聞き慣れたもの。

 日本語である。


「土曜日のお話ですね?」


 青佳の反応に茉莉が小さく頷きを示す。


「ええ。皆さんお分かりですね。——今、私たちはとても不味い状況にあります」

「そうですね。グロワス様も突然のことにちょっと混乱したご様子でしたから。わたくしもあの場にあって冷静さを欠きました」


 青佳は自身の態度を改めて振り返る。

 例の不遜な男が夫の立場を僭称するなどと聞いて、思わず頭に血が上ってしまった。夫の偉業を掠め取るに飽き足らず、さらには()の役を演じるなど、それほどに不敬なことはない。そして許しがたいこともない。

 しかし不思議なのは、被害者である当の夫がそれを喜ばしく、誇らしげに語ったこと。


 でも、それは本当に?

 シャンパングラスを掲げて明るく友人の偉業を「発表」する夫の姿は、彼女(ブラウネ)にとって余りにも見慣れた光景を想起させた。かつて自身の手が抑えたもの。夫の震えを。


「私も急ぎすぎました。陛下とお会いできた喜びが抑えられません。まだ私たち程にはご自身を”理解”されていないかもしれないのに。ご自身がグロワス様であることを。それを失念していました」


 茉莉の直截な指摘を受けてアナリースもまた自身の行動を振り返る。明らかに()()()()()()()、と。彼の側から見れば、出会ったばかりの女に手製の時計を贈られたのだ。驚かれても無理はない。


 まだこの世界の”彼”と出会って間もない知子を除き、青佳とアナリースが一様に神妙な表情を浮かべたのを見届けて、茉莉はいつものように淡々と言葉を進める。


「やはり皆さん勘違いしていますね。私もそうでしたから偉そうなことは言えません。でも、少し考えてみてください。思い返しましょう。私たちの記憶を。——陛下はとても不思議な方でした。20の年に人が変わられたようになって、その後、偉大な王になられました。皆さんご存じのように。でも、一方で私たちには思いもつかないことをお考えでいらっしゃいましたね。本当に不思議なことを、たくさん」


 茉莉が何を言いたいのか、青佳は大凡理解しつつあった。

 それはまさにこの世界で目覚めてからずっと、薄々感じてきたことだ。


 夫グロワス13世は明らかに特異な存在だった。

 所与の世界に拘束されていない。

 サンテネリ人を装う異邦人のごとき言動を時折漏らしてきた。サンテネリ人の中のサンテネリ人、サンテネリの王が、である。


 サンテネリの常識——魔力の多寡に基礎を持つ社会階層の存在を夫は誠に慎重に、しかし明らかに否定した。故に彼女は尋ねた。


『では、ブラウネが例えば……劇場の踊り子であったとしても、グロワス様はブラウネをお選びくださいますか?』

『踊り子のきみを選ぶことができる社会になってほしいと、ぼくは切に願うよ』


 ありえないことを「そうありたい」と彼は言った。

 サンテネリ王国の柱石たるフロイスブル侯爵家の娘に対して。

 そして世話を望んだ。下女が為すようなそれを。

 王国家宰フロイスブル侯爵の長女に対して。


 それは明らかにブラウネという一人の女を求める一人の男の欲望だ。下男と下女の、と言い換えてもよい。だが彼女には心地よかった。なにせ自分を求めるのは彼なのだから。恋し、愛した男なのだから。

 とはいえ、その発想は明らかに異質である。

 男性がそういう欲求を向けるべき相手は取るに足らぬ端女であって、光輝ある侯爵令嬢ではありえない。それがサンテネリの常識なのだ。にもかかわらず、国家の頂点にあり、次代の王として養育されたグロワス13世は常識を「抜け出した」。


 家庭においてもその異質さは変わらない。

 彼はサンテネリの男にあるまじき姿勢を見せた。子を自ら抱き、決して殴らなかった。妻の不満を聞き、困り、悩み、ともに解決する姿勢を見せた。

 子育ては初体験のブラウネだったが、母フェリシアに自身の状況を告げる中で、夫の異常性を知らしめられることとなった。母が時折見せる()()()()()()()がそれを彼女に教えた。母は困惑し、ときには嫌悪したのだろう。夫の異様な振る舞いを。しかし娘に対してとはいえ公言は出来ない。なにせ娘の夫は王なのだから。


「たとえばこの世界……日本にグロワス様がいらしたらどうでしょう。私たちのように混乱するでしょうか。それとも()()に振る舞われるでしょうか。あたかもここが彼の居場所であるかのように」


 茉莉の言葉は誰1人取り違えることがないように、一言づつ慎重に発せられた。


「まぁ! つまり茉莉さんはこう言いたいのですか? ここがグロワス様の本来の世界であると」

「どうでしょうか。それは分かりません。私に分かることはただ一つです。——陛下が彼なのではありません。彼が、兄さんがグロワス様なのです」


 あまりにも荒唐無稽な台詞に対して、しかし彼女達は疑問を抱かなかった。一毫も。

 それこそがつまり、この世界において自ら体験している状況そのものであるのだから。


「——貴族会の後、陛下は独りお部屋に籠もられましたね。その後、陛下は落ち着かれました……」


 記憶を辿る知子は無意識にサンテネリ語で呟く。妻達と離れた空白の時間に何があったのか、彼女は自身の経験を元に推測した。


「私たちは()()で苦しみましたね? ()()()()に。皆さんがどうかは分かりませんが、少なくとも私は苦しみました。ただ、私がどうなったところでこの世界に大した影響はありません。ごく普通の中学生でしたから。責任も何もない、代わりのきく存在です。ですが彼は……」


 そう。グロワス・エネ・エン・ルロワは中央大陸随一の大国サンテネリ至尊の存在だ。

 青佳(ブラウネ)は心内語を継ぐ。


 国政を取り仕切る宰相たる父とは衝突し、財政は大きく傾き、軍すらも忠誠を惜しみ様子見の雰囲気を漂わせていた。国内には国の中の国とも言える大領が残り、その片方の当主は虎視眈々と玉座を狙っていた。


 日本に目覚めた自身がこの国の憲法を読んで仰天したように、サンテネリに目覚めた彼もまた衝撃を受けただろう。

 彼はつまり滅びゆく専制君主国家、しかも不徹底な専制国家の主人となったのだから。


 ——うまくやる。


 夫の口癖であった言葉に秘められた意味を理解した時、彼女は全身総毛立つほどの恐怖を覚えた。


「王の証……。グロワス様はそうおっしゃいました」


 アナリースがポツリとこぼす。

 彼女が王から感じ続けてきた違和感、理由の無い引け目のようなものを思い出して。


「グロワス様がもし……私たちと同じであるならば、証は統治に絶対に必要なものです。王であると自認できる根拠が必要です」


 普段歯切れ良く語るアナリースだが、この時ばかりはさながら喘ぐように言葉を続けた。


 つまり彼は王たる正統性を持たない存在だったのだ。

 人の決断を後押しするものは「資格」である。人々に認められたことの証こそが決断を鼓舞する。皆の付託のもとに自分はそれをなすのだと。

 だが、男はそれを持ち得なかった。誠に不幸なことに。


「ゆえなくサンテネリ王となった彼を僭称者であると感じる方はいますか? この日本で、この常識の中に生きた1人の男性。自身を()()()サンテネリの重荷を背負った男性を。独り異世界で苦闘し、善きものを残そうとされた方を。——サンテネリの女(私たち)を受け入れてくださった方を。いらっしゃるなら、それは悲しいことです。私は長年の友を失うことになるのですから」

「メアリさん。……それは全て、全部、推測ですね」


 青佳はすがるように語りかける。

 おそらく真実であろうと気付くが故に。

「物語」の神に祈りながら男の震える手を握りしめた日々を思い出すが故に。


 王の責任? 重荷?

 そんなものではない。それはちょっとした追加の品だ。ちょうど目の前にあるデザートのような。

 彼が対峙したのは「世界そのもの」なのだ。

 自分たちのような端役ではなく、主役として、彼は世界そのものを担わなければならなかった。見ず知らず、縁もゆかりもない世界を。


『今ブラウネの目の前にいらっしゃる殿方は勇敢な方。ブラウネを必ず背負ってくださいます』


 かつて女は王の執務室で、夕陽を浴びて男に言い放った。自身を害そうと試み死んだ大逆の者を悼み、打ちひしがれる男に。


 自分が発した言葉の本当の意味を理解するまでにそう時間はかからなかった。

 女の瞳に柔らかい、悔悟の涙が溢れるまでには。


 そして再び語り出す。女の思い出が。

 懐かしい言葉を。夫の言葉を。


『これから、いつどんな場所でも、私を”あなた”と呼べるか? ブラウネ殿』


 彼は女そのものを愛したいと望んだ。

 そして、彼そのものを愛して欲しかったのだ。

 侯爵家の娘ではない彼女に、王ではない彼を。


 それは下民の卑しい心根だろうか?

 異世界に突如放り込まれ、なし崩し的に世界を支えざるを得なかった彼が、本当の自分を知って欲しいと願うことが。


 連想の鎖は引きずり出す。男が望みを断念した瞬間を。


『私は引け目を捨てる。私が王であることは揺るがない。私はあなたの家の下男ではない。これは変えようのない事実だ。だから、これからは私があなたを守ろう。あなたと、やがて生まれる我々の子を私は守る』


 王が念願の枢密院を立ち上げた夜。あの大雪の夜、王は彼女にそう告げた。

 それは一つの死である。

 彼は()()()

 サンテネリにおいて、善きことをなすために。


ブラウネ妃(ロワイユ・ブラウネ)(ロー・グロワス)はその権能を以てあなたを庇護する。あなたが私を支えてくれるように、グロワス13世(ロー・グロワス)はあなたを守ろう』




 ◆




 流れる涙もそのままに佇む青佳(ブラウネ)の耳に、茉莉の静かな一言が染み入っていく。


「サンテネリに生きた私たちは何も知りませんでした。陛下を。グロワス様を。そんな何も知らぬ私たちの心を彼は奪いました。虜にしました。——では今、私たちはどうしましょうか。私たちにはできないでしょうか。何も知らぬ兄さんの心を奪うことが」

「陛下はアナリゼの中身を常に望まれました。ですから私はここで、彼自身を望みます。私が救われたように、彼を救います」

「それもいいでしょう。でもその前に、アナリースさんは()()()()()()()()()?」


 茉莉の言葉には単純な確認の響きがある。


 人を救うとは関係性の最後にもたらされる一種の奇跡なのだ。

 彼は決して誰かを救おうとしなかった。意図しなかった。

 自身の存在価値に悩むメアリも、異なる意識の混濁の中で懊悩する茉莉も、彼は決して救わなかった。ただゆっくりと近づいて、ただそこに在った。

 例の()()()()()()の王が華麗に成し遂げる偉大な行動とは似ても似つかぬ振る舞い。

 彼はおずおずと、不安げに、しかしそこに居てくれた。

 1人の凡庸な男として。

 そして彼女は救われたのだ。最終的に。偶然に。


「私は兄さんを長く知っています。彼は偉大な人ではありません。理想家で、臆病で、そのくせ自惚れ屋で、そのくせ自虐的な、普通の人です。光輝あるサンテネリの王ではありません。大陸一の騎士でもありません。でも、それが彼です」


 彼女だけが知る男の姿はまさにそのようなものだ。

 あの偉大なる王ではない。

 しかし彼は彼だ。サンテネリに行けば、彼はやがて偉大な王になるであろう。自分を殺すことによって。


「ですから皆さん、この世界には兄さんよりももっと素晴らしい人が数多くいるはずです。どうでしょう。そちらを探されてはいかがですか?」


 至極あっさりと結論を告げた茉莉に対して、()()の声が予想通りのところから飛んできた。


「茉莉さんのおっしゃる通りですね! 別にこだわる必要はありません。日本にはもっといい方がいるかもしれませんから」


 知子はしきりにうなづきながらそう言い放つ。


「ええ。知子さん。そうなさって……」

「ですから! 手始めに、まずは知らなければいけません。あの人を。グロワス様ではないあの人を。もう一度、初めから。もう一度!」


 明るく弾むその声は、かつて14の少女が見せた溌剌さをはっきりと示していた。

 ガイユール大公女ゾフィの。

 そして恐らくは、島津知子の。


「茉莉さんもそう思いますよね! メアリ姉様(エネ・メアリ)。抜け駆けなんて……まさかしませんよね? あっ、そういえば私、OB訪問するんでした! ()()にご連絡しなくちゃ」

「知子さん、就活の相談なら私がお助けしますよ?」

「えーっと、それはいいです。茉莉さんW大ですよね。W大の人とは仲良くするなって学則にあるんです。守らないと退学になっちゃいますから!」


 明らかな冗談を交えつつも、知子の瞳は期待に——あるいは希望に輝いていた。


「まぁ! でも、最近、社長はほとんど出社されませんよ?」


 青佳はつい先日まで社長付の秘書であった。彼の出社が不規則であり、かつ稀なものであることを熟知している。


「あ、大丈夫です。新国立美術館で楽しそうな特別展がありますから、お誘いして、そこでOB訪問します」

「知子、知子。それはデートですよ? OB訪問では……」

「いいえ。OB訪問です! OBの方()特別展を()()するので」


 いち早く意識を切り替えた知子を、青佳はじっと眺める。

 彼女もまた決断を下さなければならない。


 ——社長はグロワス様ではない。でも、それがどうしたというのでしょう。もう一度始めから。それほどに幸せなことがあるでしょうか。青佳と社長は日本で出会いました。ならばそこから始めましょう。そして歌い、踊って暮らしましょう。一人の男と、一人の女として。


「秘書と社長のカップルは恋愛の定番ですね。私は彼を知って、彼は私を知る。なんて素晴らしいことでしょう!」


 目元をハンカチで拭い終えた青佳が高らかに決意を述べると、そこは負けじとアナリースも呟いた。


「そういえば、最近高級時計の重心は表参道方面に移っているらしいので、念のため表参道も案内してもらいましょう。念のためです。仕方ありません。これはお仕事ですから。……仕事相手と恋に落ちるのはよくあることです」




 ◆




「ところで、その痣、どうされたんですか?」


 青佳の問いに皆が一斉に頷く。

 茉莉の右腕にくっきり残った赤い筋。普通であれば目立たないように長袖を着るか化粧道具で隠すはず。しかし彼女は半袖を着て、一切隠す素振りを見せない。


「ああ、これですか? なんでもありません。ちょっと。……()()()()()()()()()


 いかにも独言であるかのように声を潜めて、しかし明らかに明瞭に、不自然なほどはっきりと茉莉が呟く。軽く右腕を掲げて。あたかも皆に見せつけるように。


「は?」


 瞬間、3人の女声がぴたりと重なる。



 かくして偉大なる王妃達(ロワイユ・グローエ)の典雅な夕食会は閉店時まで続くこととなった。

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