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地に落ちて死なずば  作者: 本条謙太郞


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善の凡庸さについて

 某県某所、一分の隙もなく洗い上げられた漆黒のドイツ製高級車。現行型。決して200万とかで買える型落ちじゃない。もう一度言う。現行型。

 後部トランクにはAMGとかいう凶悪なバッヂとSの文字。ロングボディ。

 後部座席とリアのウィンドウには一応合法のスモーク。あ、これはディーラーオプションだよ。たぶん。ホイールも車体色に合わせて艶あり黒の20インチ。

 とっても()()な車だね。

 前をこの車が走ってたらできる限り車間距離を空けるタイプの。


 で、運転してるのは不動産会社経営、49歳、ツーブロックの似合うちょっと日焼けした男性だ。


 さぁ、要素を抜き出してみよう。

 郊外の県道を、MBの頭文字を冠した黒塗りのセダン(フラッグシップモデル)現行型が走ってる。運転しているのは不動産会社経営49歳の男。


 色々考えさせられるシチュエーションだ。

 助手席に座ってぼんやりと車内のイルミネーションを眺めつつ、シートオプションのマッサージ機能で優雅に肩をほぐしてるぼくだけど、くつろぎつつも若干の恐怖を覚えるほどに。

 このまま山奥に連れて行かれて、そのまま産業廃棄物処理場に……みたいな、ね。

 こういうステレオタイプのイメージを勝手に膨らませるのはよくない。それは分かってるんだけど、運転席に座るのはイエローゴールド無垢のデイデイトをじゃらっと緩く着けたツーブロックのおじさんだからね。

 超怖い。

 とんでもなく音響のいいステレオから流れてくるのがちょっと昔に流行ったR&Bだったりするのがまた。これがコテコテの演歌だったりするとイメージ通り過ぎて笑えるんだけど、絶妙に()()()()()がある選曲。

 超怖い。


「で、茉莉ちゃんとはどうなんだ」

「どうって、どうもないですよ」

「ないわけないな。それはない。分かってるな?」

「いや、分からないです。実際にないものはないんだから。昨日もあれですよ。一緒にワイン飲んでただけで」


 ぼくは天に誓って何もしてないからね。

 変な圧をかけるのはやめて欲しい。

 愛娘に手を出したチンピラを埋めに行く、みたいな雰囲気を出すのは。

 茉莉さんは叔父さんの娘じゃないし、ぼくは()()()()()()()()()叔父さんの会社の社員でもないんだから。


「そうかそうか。分かった。おまえ、下川の姉さんにそれを言えるな? 堂々と」


 下川の姉さんって要するに茉莉さんのお母さんのことだね。叔父さんとどう知り合ったのか分からないけど、たぶん彼女の就活を世話したときの縁なんだろう。

 確かに茉莉さんのお母さんは叔父さんよりもちょっと年上だから姉さんと呼んでもまぁ筋は通る。だけどこのシチュエーションにおいては「姉さん」が「姐さん」に聞こえるという地獄のバグが発生している。怖いね。


「言えますよ」

「よし。おれは信じよう。ねえさんがどう思うかは知らないが。——で、茉莉ちゃんはどうなんだ」


 このループ。

 本当にしんどい。特に睡眠不足極まる今の状況においては。


「だから、どうもないです」

「そういう意味じゃない。分かってるな。茉莉ちゃんはかわいいな?」

「まぁ、それは認めますよ」

「あの子も28だ。その28の女の子がおれに切羽詰まった声で電話してきて、おまえを連れ出してくれって頼んできたわけだ。分かるな?」


 叔父さんもいつも大騒ぎするくせに、このタイミングで淡々と語り出すのやめて欲しい。


「ああ、まぁ、その。彼女は私が元気なかったから心配してくれたみたいです。昨日も突然来て、私を元気づけてくれた。優しい人だ」

「……」


 無言になる叔父さん。

 映画とかだとこの後、リアシートに潜む配下のチンピラに突然後頭部打ち抜かれたりするパターン。ぼくが。

 でも、ありがたいことにこの車にはぼくと叔父さんしか乗ってない。だから安心。

 ……乗ってないよね? 若干不安になってチラッと後ろを確認してしまった。


「その痣、何かあったのか?」

「ああ、昨日時計着けたまま寝ちゃって」


 もう誤魔化しようがないほどに明確に痕ついてるからね。赤く。

 ぼくがこれだから茉莉さんの手首にも恐らくついてるだろう。くっきりと。

 でも女の人はいいよね。ファンデーションかなんか塗って隠せばいいんだから。たぶん。

 残念ながらぼくはこれで行くしかない。


「その割には今日は時計着けてないな」

「ゴルフでしょう? 着けませんよ。一発で壊れる」

「三代目は物の善し悪しが分かってらっしゃらないなぁ! おれのこれを見ろ。ゴルフだろうがなんだろうがいつも着けてるが、壊れたことは一度もない。それをおまえはあれだけ色々持ってるくせに、貧弱なやつばかりだ」


 叔父さんの着けてるその時計はタフなことで有名だからね。

 ぼくも同じメーカーのやつは何本か持ってるけど、どうもワクワク感が無い。なんと表現すればいいだろうか。超高級工具みたいな感じ。精度完璧で頑強なんだけど、工具にそこまで興味が無いぼくからすると、まぁ、うん。

 ぼくが好きなB社の時計とかアナリースさんが贈ってくれた小グロワスとか、ああいうやつを着けてフルスイングしたら衝撃で確実に針が取れる。でもそこがいいんだ。工芸品の雰囲気がある。


「否定はしません。でも、それが趣味ってものでしょう」

「そういうものか、おまえの趣味は」


 再び無言。

 ちょうど車は目的地の駐車場に滑り込んだ。


 ぼくの家がある——そしてうちの会社の本社がある——あたりは地方は地方でもちょっとした規模の都市なので、男二人で細い金属の棒を振り回そうと思ったら車を少し郊外まで走らせなければならない。

 とはいえ本格的にコースを回るとかではないよ。だから山奥ではない。

 打ちっぱなし(ゴルフ練習場)に来ただけ。

 これから昼過ぎまで楽しいスポーツだ。


 会社はね、今日は休みをとった。とったというか所用で欠席すると連絡した。

 残念ながら皆勤賞は途絶えてしまった。

 色々なことが途絶えていく。

 そういうものだよ。





 ◆





 このゴルフというスポーツ、何が面白いのか全然分からない。

 昔付き合いで何度かやったことがあるけどすぐに止めてしまった。元々身体を動かすことが得意な方ではないのに加えて、競技自体がやたら難しいから。


 打ちっぱなし(ゴルフ練習場)の打席に立つと、機械が足下の人工芝マットに小さな白いピンポン球みたいなやつ——つまりゴルフボールだ——をサーブしてくれる。仕組みは場所によって色々だよ。脇の方から転がってきたり、床からせり上がってきたり。

 ここは床からタイプだね。ゴムのティー(地面からボールを浮かせるための棒状台座)に乗った球がすっと出てくる。

 ぼくは叔父さんから借りたクラブを振り回してそれを打つ。

 一応クラブのヘッドがボールに当たりはするけど、真っ直ぐ飛ばせることはほとんどない。大体は左に曲がるか右に曲がるか、あるいは地面をころころ這うか。

 まぁ格好のつかない結末に至る。


 これを延々繰り返す。

 打ち始めたころはせっかく来たんだから真面目にやろうと、つまり真っ直ぐ飛ばそうと意識して丁寧にやるんだけど、どう工夫しても上手くいかないから、気がつけば無心になってる。

 嫌々の体で始めた割には、もう30発以上打ってるからね。

 惰性で。


 何かに似ているね。この様は。

 ぼくの日常によく似ている。あるいは全ての人の。

 最初は真面目に、意識的に何かに取り組んでいるんだけど、上手くいかないことばっかりで、いつしか惰性になる。惰性と気づいても止めはしない。なぜなら、止めることもまたしんどいからだ。心理的コストが結構高い。それはつまり、これまで積上げてきたものを無にする行為だから。

 じゃあどうすれば止められるのか。簡単だよ。身体が保たなくなったとき。


 両手のひらはいい感じで痛み出してる。普通左手にグローブをするんだけど、わざわざ売店で買うのも面倒なので素手でやったからこうなることは予想済み。

 真っ赤に充血した手のひら。

 そして腰。足。肩。

 端的に言えば身体の全てが微妙に痛くてだるい。


 ぼくは打席の後方に設えられた休憩用の椅子に戻って座り込んだ。

 綺麗な青空の下、色々な場所から白いボールが打ち上げられている。一斉に、あるいはランダムに。

 珍しいところなんて一つもない日常の風景ながら、ふと幻視してしまう。たとえば昔の戦争はこんな感じだったんだろうか。ボールの代わりに矢が、こうやって無数に打ち出されていたんだろうか。

 今ぼく達はネットで周囲と区切られた広大な空き地にボールを打ってる。昔の人たちは、それを建物、あるいは人の頭上にやったわけだ。

 これは素晴らしいことだよ。ぼくたちは今、人に向けてボールを打たなくてもいい社会に生きてる。

 明らかに凶器になり得る金属の棒を、ただ趣味のために振り回してる。人を害するためではなく。


 そんなことを考えながらちょっと呆然としていた。どれくらい時間が経ったのか分からない。ぼくは()()()()()()()()()からね。

 だからこの切れ目のない、いつまでも眼前を流れる巨大な塊——時間の束——を切り分けたのは、一汗掻いて満足げに隣の休憩席に腰を下ろした叔父さんの存在だった。


「どうだ。なかなかいいもんだろう」


 彼は適当なスポーツドリンクをぼくの分まで買ってきてくれた。ありがたく頂きつつ、小さく頷いてみせる。


「そうですね。久しぶりに身体を動かしました」


 ぼくは赤くなった両手のひらを、隣に座る叔父さんに見せつけるように軽くふった。


「楽しいか?」


 ——はい。もちろん。ありがとうございます。

 そう答えるべきなのは分かっている。叔父さんは貴重な休日を潰してまで、ぼくのことを考えてここに連れてきてくれた。その行為に感謝するのは当然の規範(コード)

 でもね、ぼくの口を衝いて出たのは、ちょっと不躾な一言だった。


「あまり。——全然()()()()()()()から」


 叔父さんの言葉は明白にゴルフという対象を指したもの。だけどこの瞬間、ぼくにはそれが違った雰囲気をまとって感じられた。だからあまりよろしくない答えを返してしまった。


「少し見てたが、初心者にしては筋がいいと思うけどなぁ」


 叔父さんは逞しく筋肉の盛り上がった上腕で額の汗を拭いながら独語するように呟いた。


「ああ、それはよくある台詞だ。初心者をおだてるヤツですね」


 ぼくは冗談めかして笑う。


「賢しげな事をおっしゃる! なんとまぁ。逆に聞くがね、おまえの()()()()()はどういうものだ?」

「それは当然、真っ直ぐ飛ばすことじゃないんですか。詳しくは知らないですけど、一発目が真っ直ぐ飛べば二打目が打ちやすくなって、それが上手くいけば次も。それがゴルフでしょう」

「まさに。その通り。で、おまえは要するにこう思ってるわけだ。自分は()()()()()()と」


 さぁ、話に深みが出てきたね。企業小説とかでありそうな場面だ。上司が比喩を用いて部下を教え諭す、みたいな。


「そうは思いません。でも、それを目指すべきだ。だって1000円か2000円かお金を払ってるんだから、結果を出さなきゃいけない」


 叔父さんは手に持ったスポーツドリンクのペットボトルをぐいぐい飲み進めて、やがてテーブルに置いた。硬質な音を立てて。


「なるほどなるほど。つまりおまえがいうのはこういうことだ。うまくやれはしないが、うまくやることを目指すべきだ、と」

「もちろんそうです」

「じゃあ、目指しても結果が出なかったらどうする。それはつまらんか?」

「……」


 どこをどう情報が辿ったのか分からないけど、この善良な叔父さんは人生に悩む甥を諭そうとしているわけだ。分かってるよ。

 結果が出る出ないじゃない。失敗してもいい。楽しむことが重要。

 もちろん。

 皮肉でそう思うんじゃない。ぼくだって自分のこのわけの分からない状況、もうはっきり言ってしまえば悩める大学生のような、あるいは思春期の少年のような心情を何とかしたくてそういう本を何冊も読んだよ。大体似たようなことが書いてあった。ということはつまり、多くの人がそれで救われたんだろう。

 ただぼくには合わなかっただけだ。


「おまえは賢いな。おれが言いたいことをすぐ先回りする」

「まさか。そんなことは」


 で、この豪快で逞しい、男のなかの男みたいな叔父さんもまた、ぼくの心内をかなり正確に予測している。当たり前だよね。そうじゃなきゃ仕事にならないはずだから。


「よし! じゃあ、おまえが想像もしてないことを言ってやろう」

「なんです?」

「おまえはな、自分がうまくやれる前提で生きてる。ああ! なんと素晴らしい姿勢だ。おれもよく()()()に言ってる。飽きるほどな。『やれると思わなきゃ何事もなせん』と。分かるな。要するに、おれが言わなきゃならんほどに、誰も自分がうまくやれると思ってないってことだ」


 ——自分がうまくやれる前提で生きてる。

 なるほど。

 ああ、なるほど。それはそうだ。逆に聞きたいよ。その心根なくして何かをやることに何の意味がある? それはただの徒労だ。


「じゃあ、私の姿勢は正しいってことですね」

「いいや! いいや! 全く違う。いいかね、うまくやれるのは特別なやつだけだ。——そして、()()()()()()()()()()()()()。凡人だ。凡庸な存在だよ」


 ぼくは慎重になった。つまり口を噤んだ。こういうとき、心のままに喋れば大変なことになるからね。


 ぼくは特別なやつじゃない。ただの凡人、ただの背景に過ぎない。

 もちろんその通り。完璧に理解していた。

 頭では。


 でも、本当に?

 本当にそうだろうか。

 ぼくの心の中、心の暗がり、闇の中、そこに隠れた小鬼のような存在は、常にぼくに囁いていなかっただろうか。

「おまえは凄いことができる」

「おまえは凄い物を作れる」

「おまえには凄い能力がある」

「おまえは主役だ」

 と。

 だからぼくは凄いことができずに落ち込み、凄い物が作れず自分を蔑み、凄い能力がないことを自覚して傷つき、主役でないことを思い知らされて絶望した。

 いい歳した大人のぼくが。


 ああ、なるほど。

 その通りだ。

 もういい加減、この小鬼を絞め殺さなければならないね。

 いよいよ。




 ◆




「叔父さんはどう思いますか。——社長の器はありますか? この凡庸な私に」


 月曜の昼下がり、ゴルフ場の打ちっぱなしでこんな言葉を投げられたにもかかわらず、叔父さんは全く動じなかった。

 名は体を表す。まさに。叔父さん、名前は(いわお)だからね。


「ないな!——全く、欠片もない」

「自信満々だ。酷いな」


 ぼくは苦笑しながら叔父さんの言葉をしごくあっさりと受け入れた。素晴らしいことだよ。自己認識と他者からの見立てがかみ合う瞬間というのは。


「おれはおまえの叔父だぞ。子どもの頃からおまえを見てきた。分かるに決まってるだろうが」

「そうだ。確かに。叔父さんは私の父の弟。そうですね」


 聞きたいことが一つ、あるからね。


「突然どうした? ……熱中症か?」

「いいえ。元気ですよ。だから教えてください。この元気なぼくに。ぼくは叔父さんを叔父さんと呼べますか? ——ぼくは……父の子ですか?」


 今度の奇襲は成功した。叔父さんはその目を軽く見開き、一瞬息を飲んだ。


 そして笑った。


「おまえ、おまえ、写真を見たことがあるだろうに! なんなら兄貴の若い頃のやつを見せるか? その、なんだ、フォトショ? うちも最近よく使うやつだ。あれを使うと物件が綺麗に見えるからな。築年数25年も10年は若返らせられる。おまえも覚えとけ。——で、今のおまえを写真で撮って、そのフォトショとかで昔の背景と合成したら、それがおれの兄貴、つまりおまえの親父になる。それだけ似てるのをおまえ、”父の子ですか”って?」


 手を叩いて笑う彼の姿には嘘はない。まぁそうだろう。

 ぼくは父の子どもだ。

 残念ながら。

 だからぼくは会社を継ぐ必要があった。継ぐ義務があり、継ぎたいと思った。特別だった父の後を。凡庸なぼくが。

 残念なことに。


「よし! 話が見えた。やっと見えた。つまり3代目、おまえはこう思ってるわけだな。爺さん兄貴と手渡されてきたバトンを、おまえも握りしめていなきゃならないと。その器にないおまえが。兄貴の子どもだから」

「お恥ずかしながら。ちなみに——叔父さんには、器はありますか?」

「分からんが、代わってほしいなら代わってやる。うちとおまえのところを合わせれば業態的にもシナジーを作れるだろう」


 この時がいつか来るであろうことを、叔父さんは多分予期していた。そのための青写真も用意していた。

 ぼくは本当に、泣きそうになってる。

 つまりそれは、彼が()()を見てくれていたということだから。


「ただし、その前に1つだけ言っておくことがある。おれが婿養子に入ったのは知ってるな? なぜか。義父(おやじ)さんが自分の会社を残そうと考えたからだ。嫁はそういうの苦手だから、他所からおれを引っ張ってきた。つまりだ。いいか、おれたちは()()()()()()。——残すべきは箱だ」


 箱。人ではなく。

 構造、組織と人はイコールではない。社長、あるいは創業家と会社は同じものじゃない。それらは別たれうる。

 その通りだ。あまりにも当たり前で、サラリーマンなら誰だって知ってる。特に大手ならね。会社は株主のものであり、社長は雇われに過ぎないんだから。でもうちみたいなところだと、もうどうしようもないくらいに2つが癒着してしまう。

 いつしかぼくもそれが当たり前に思うようになっていた。


 ああ、なるほど。

 ぼくである必要はないな。確かに。全くない。

 ぼくと会社()は同じものではない。

 凡庸なぼくはそれを誰かに任せるべきだ。より優れた誰かに。

 死による自動的な変化ではなく、ぼくの意思によって。


「叔父さん。ゴルフはいいですね。好きになった」


 太ももに力を入れて立ち上がる。

 もう少し、この忌々しく小さい球を打ちこみたい気分になっている自分が少し面白い。


「お、やる気になったな! そうだ。それでいい。凡庸であることこそ素晴らしい。打ち損なっても恥ずかしがらなくて済むからな。堂々とやれ」





 ◆





 調子に乗って1時間ほど鉄の棒を振り回して、ファミレスで適当に食事をして、叔父さんに家まで送ってもらった。

 おもしろいね。

 今日のぼくは人生に悩む中学生みたいだ。年上の大人に気分転換に連れ出されて、へとへとになって帰ってくるなんて。


 シャワーを浴びて少し寝た。

 目を覚ましたら21時だ。

 この絶妙な時間。


 この辺りから、ぼくの地獄は始まる。


 今日のぼくは人生に悩む中学生みたいだった。でも残念ながら、()()()()()()()()()()。運動をして大人の人生訓を聞いて、ちょっと前向きになれるような、そんな殊勝な性格はしていない。


 正直に言うとね、もう何ヶ月も前から準備をしてきたことだからね。

 茉莉さんと叔父さんが何かを——もちろん二人の真心には心から感謝している——してくれたところで簡単には変われそうもない。

 ヘドロが堆積して流れが止まりつつある川がある。そこに大型重機を投入しても大差はないよ。原因を取り除くには何年もかかるからね。除去する量を堆積する速度が勝る。そしていつか川は死ぬ。

 では大型重機は無価値かと言えばそうも思われない。本当にありがたいことだよ。


 ぼくはキッチンの端に放置した宝箱から伝説の剣を取り出す。

 アルパカくんだ。

 こいつはね、蓋のところがコルクじゃなくてキャップになっているのがいい。それが本当にいい。栓抜き面倒くさいからね。


 リビングのガラス戸を開け放ち、ベランダに歩み出る。

 そして瓶から赤い液体を流し込む。


 結局のところ、ぼくの考えたことは正しかった。

 ぼくは握りしめたものを手放すべきだ。

 それが自動的に成されるのであれ、意識的なものであれ。


 夏の夜はぼくを急激に()()()

 外気はぼくの身体を包み、眼前には星が敷き詰められている。まさに無数の。

 地表には人の明かり。天頂には星の明かり。


 ワインが喉を焼く。

 ぼくは手すりに歩み寄り、世界を見た。

 まさに地は人の明かり。空は星の明かり。


 ぼくの足下に灯る明かりの元には多くの人が生きている。彼らのうちのほとんどはまさに凡人だろう。ぼくの同胞だ。ぼくの同胞はたくさんいるね。

 そして空の明かりには人はいない。無機物の世界だ。それは存在そのもので、特別なものはどこにもない。ただ等価に、そこにある。


 ——凡庸であること。それこそが素晴らしい。

 この言葉だけが、ぼくの脳内に鳴り響いている。


 ——恥ずかしがらなくていい。()()()()()

 そうだね。


 だからね。

 ふと思ったんだ。

 ぼくは凡庸だ。特別な存在ではない。にもかかわらず特別であろうとして空回りを続けてきた。この思い込みはどこから来たんだろう。そう思ったんだ。


 たぶんアレが悪い。

『リチャードと羊』のせいだ。

 ぼくはあれからおかしくなった。いや、その後もおかしくなり続けたけど、記念すべき最初の一歩はあれだ。


 ぼくは勘違いしてしまった。

 自分は特別であると。

 偉大な何かを遺せる人間であると。善き何かを遺せると。なのに上手くいかなくて、ひどく落ち込んで、苦悩の末に諦めた。

 幸か不幸か。

 いや、明確に不幸だと断言できるね。今は。


 死んでしまったリチャードと死んでしまった羊を、今、ぼくは弔おう。

 心から哀悼の意を表する。

 ぼくがあのちっぽけな独断のまどろみを脱した今、彼らは死んだ。完全に葬られた。

 ああ、認めよう。()()()()()()()()()()()()()


 さて。ではこれからどうしようか。

 アルパカの瓶を抱え、ベランダの柵に上半身を預けながら考える。


 ぼくにできることは何だろう。

 この瀬戸際において。


 鼻の奥からせり上がる熱い何かに押し出されて、ぼくの瞳は水を流す。透明な水を。口からは赤い水を取り込み、目からは透明な水を排出している。


 ——凡庸であること。それこそが素晴らしい。


 そこで、ふと思い出したんだ。


 本当にずっと昔、まだ高校生の頃のこと。世界史の授業中、ぼくは暇つぶしに資料集を読んでた。ヨーロッパや中国の王朝年表とかをぼうっと目で追ってた。「○○何世」みたいなのが延々続くやつ。

 時々大物が出てくる。「エリザベス1世」とか「アンリ4世」とか「ルイ14世」とかね。でも、その偉人達の隙間に書かれた名前は皆凡人のそれだ。凡庸だったはずだ。

 でも、彼らは縁もゆかりも無い極東の、地方の高校生にその名を知られている。覚えられはせずとも見られてはいる。

 彼らこそはぼくたち——ぼくの仲間だ。


 ああ、なるほど。

 凡庸であってなお、人は何かを残す。


 それならば、ぼくに残せるものもあるはずだね。

 偉大な『リチャードと羊』は死んでしまった。

 でも、ぼくは()()()()何かを作ることができる。それがどう評価されようが()()関係ない。


 恐れるな。


 ——恥ずかしがらなくていい。堂々とやれ。


 そう。駄作でもいい。

 誰に読まれずとも、本にならずとも、マンガにならずとも、アニメにならずとも、実写化せずとも。

 それは恥ずかしいことではないよ。


 ——堂々とやろう。


 アルパカを一気に飲み干して、埃の溜まったアウトドアテーブルの上に置く。

 ぼくは開け放ったままのガラス戸を抜け、室内に戻った。

 二度とくぐらぬはずだった戸を抜けて。


 書斎からノートパソコンを持ち出して、再びベランダに舞い戻る。









 たとえばね、こんなお話はどうだろうか。一人の善良な、だが無能の男が絶望の末に死を選ぶ。そして異世界に転生するんだ。王として。彼はその凡庸さゆえ何もすることが出来ない。ただ生き延びるのに精一杯。ただし、彼は善良な凡愚であるがゆえに、失敗と挫折を繰り返しながらみっともなくのたうち回って何かを残そうとするだろう。


 地味なお話だね。

『この人を見よ』の主人公が備えた華麗な政略も戦略もない。周囲を惹きつけるカリスマ性もなければ度胸もない。でも、その善良で無能な男はとにかく何かを遺そうとする。偉大なものではなくても。何か善きものを。

 悪が凡庸な存在から生まれ出ずるごとく、善もまた凡庸な存在から生じうるからだ。


 偉大な人をぼくは書けない。だからきっと、偉大な作品をぼくは書けないだろう。

 でも、凡人の姿ならば書けるはずだ。誰に感銘を与えることもなく誰を鼓舞することもない。そんな人間を。つまりぼくの「同胞」の姿を。


 初夏の夜。

 眼前には地の明かりと空の明かり。

 脇にはワインの空き瓶。

 これほどに素晴らしい環境があるだろうか。何かを遺すのに。


 キーボードを叩く、この震える指は、全てだ。

 さぁ、堂々とやれ。()()()()書け。凡庸であるとはなにか、その全てを語れ。



『「陛下、おはようございます」

 深いバリトンの声がする。侍従さんだ。 

 ちょっと前まではこの威厳マックスなおじさんにベッドサイド直近で起こされてたんだけど、余りにもキツいので最近は頑張って自分で起きてる。

 この謎の異世界にやってきて、もう二ヶ月くらいになるかな。』


 

 半ば旋律のような言葉の波を、頭に浮かぶにままテキストエディタに打ち出していく。そうしてどれほど経っただろうか。ぼくはふと我に返った。


 ああ、忘れていた!

 タイトルを付けなければいけないね。

 この凡庸な、善き話に。


 ()()()()に。


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