この良き日の終わりには 2
「聞きたいことは色々あるけど、まず1ついいか」
「いいですよ?」
ちょっとしたお使いを見事に成し遂げて賞賛を求める子どものように、彼女は誇らしげに頤をあげる。
「これ、どこで買ったの?」
「駅前のお店です」
駅前のお店。ああ。うん。
駅を挟んでうちのマンションの反対側は商業地区でね。色々なお店が軒を連ねてる。駅ビルとかもあればドラッグストアとか銀行とか個人商店街とか色々。そこにあるね、確かに。「安さの殿堂」みたいなキャッチフレーズの。
これはパーティーグッズみたいな何かなんだろうと思うけど、若干アレな予想もしてしまう。恋仲の男女がちょっとした刺激を求めて使用する小道具的な何かを。
いずれにしても、買うところを見られたいような代物でも無い。
「わざわざ店で……。凄いな。通販で買えば良かったのに」
あまりにも馬鹿馬鹿しい状況にぼくの返す言葉も間抜けなものにならざるをえない。
確認しておきたい。
つい数分前まで、ぼくは『愛の死』に耳を傾けながらソファーに寝そべっていた。日曜の夕方に。これほどに素晴らしい情景はあるだろうか。
望みうる最高の最後だ。
それが今や、おもちゃのくせに意外と作りの良さそうな手錠を左手首に嵌められてる。別に良いよ。単体ならそれでも。手錠をぶら下げながら『愛の死』を聴いてやる。
ただね、輪っかのもう片方が妙齢の女性の右腕に繋がってるとなると話は別だ。
34の男が28の女と手錠で繋がってるんだ。
もう間違いなく、不倫からの無理心中とかそういうアレじゃないか!
完全に痛くない腹を探られるヤツだ。
大体ぼくが悪者だろう。想像するまでもない。
地方の羽振りの良い中小企業(土建系)のぼんくら3代目。34歳独身。もうこの属性だけで犯人は確定。推定無罪の原則? ないよ。
美貌のOLが何かミスをして、それをネタにゆすったんだろうな、こいつは。彼女は会社に与える損害と自分のキャリアのことを考えて、泣く泣くこの最低野郎と肉体関係を持つことになる。毎夜もてあそばれ、尊厳を汚され続けた末に彼女は妊娠してしまう。
恐る恐るその事実を告げる彼女に、この人間のくずは言い放つ。
「それはおまえの問題だろう。おれは知らん。堕ろせ」
最低だな。死ねば良いのにね、こういうやつ。
ぼくが彼女の友達だったら木刀をもって殴り込みにいくところだ。
うちの社もね、業界が業界ゆえに気合い入った人たちは結構いるからね。父の代からの古参幹部の方とか若い頃の写真見ると驚くよ。反社会勢力に属してらしたのかな、みたいな。そういう強面の皆さんの助けも借りて、そのクソ野郎をボコボコにしに行くね。ぼくは。
で、問題は、その最低男の配役にぼくが押し込まれそうになっているということだ。
なんだこれは……。
ベッドのシーツを綺麗にぴんと張って掛け布団もいい感じでセットして、さぁ安眠を貪ろうとしたところに、猫か犬か分からないけど、とにかく小動物がやってきて全てをぐちゃぐちゃにして居座っている。そんな状況に近い。
ふざけたことに、ベッドを好き放題荒らしたくせに当の犬は(猫でもいいよ)妙に誇らしげなんだ。
「やってやりましたよ!」みたいな。
「すぐに必要だったんです。通販が届くのを待っていられませんでした」
手錠がすぐに必要になるってどういう状況だろう。
早朝のガサ入れかな。
「何に必要なの、これ。心から疑問なんだけど……」
茉莉さんはこういうことをする人だったっけ。
やっぱり人は分からない。いくら外から見ても本当の姿は決して。ぼくが昨晩確信を抱いた事実に、これほどまでに嫌な傍証を突きつけられるとは。
「明日の朝まで、ここに居るために、ですね」
「手錠があろうがなかろうがここに居るよ」
テンポ良くぼくは即答した。全くの嘘を。でも、それが嘘だと気づかれる心配はない。
人が他人の内心を知ることは不可能だ。人は他人をその外見と行動を以て知るほかない。ぼくは見事に装ってきた。結構年季の入った擬態なんだ。
「それなら問題ありません。手錠があってもなくても」
茉莉さんがじっとぼくの瞳を見つめる。ここまで接近されるのはちょっと記憶にない。ほとんど触れそうなほどに、ぼくたちの眼は近くにある。
「分かってくれたならそれでいいよ。ほら、遊びは終わりにしよう」
「なくてもいいですけど、あっても問題ありませんね」
「いや、問題あるだろう。動きづらくてしょうがないし——おれもきみも子どもじゃない……」
そう。ぼくたちは子どもじゃない。若者とすら言いづらい年齢に差し掛かりつつある。ぼくは当然として茉莉さんだって。にもかかわらず、彼女はぼくと一緒にソファにはまり込んで、ほとんど触れんばかりの距離でぼくを見ている。息づかいすら聞こえるほど近くに。
「茉莉は多分、何か勘違いしてる。何を不安がってる? おれは何もしないよ。これまでと同じように」
「兄さんは自分で思っているよりだいぶ分かりやすいですよ。……たとえばこの部屋はすごく綺麗になりましたね」
「ああ、引っ越そうと思ってるからね」
「初耳です」
「それはそうだ。今初めて言った」
彼女の右手の爪がぼくの左手甲を軽く引っ掻いた。器用なことをするな……。
「その割には段ボールも何もありません。不思議ですね」
「今は梱包まで全部やってくれるプランがあるから」
「そうですか。別にどうでもいいです。そんなこと」
自分から言い出しておいてこれだ。こういう理不尽な態度は茉莉さんにしてはとても珍しい。彼女はずっと昔から理性的で折り目正しい。ぼくがそうだったように。外からはそう見えたように。
「私はただ、兄さんに居なくなってほしくないだけです」
「なんでおれが居なくなると思う? 旅行の予定もない。明日は仕事だし、茉莉の待遇のことも話そうって昨日の夜に……」
滑らかに回るぼくの口は彼女の突き刺すような視線に縫い付けられた。ほとんど比喩ですらない。それほどに強固な、眼が放つ矢に。
彼女は囁くように語り出す。ぼくを縫い付けた末に。
「昨日の食事、辛かったですか?」
「いや。途中皆何かおかしかったけど、雰囲気に酔ったのか酒が回りすぎたのか、そんな感じだろう。よくあることだよ」
「でも兄さん、手が震えていましたね」
「そうかな。覚えてない。少なくとも自覚はない。茉莉が見間違えただけだよ」
実際には覚えはある。
最近稀にだけど腕に震えが出ることがある。それを気づかせてくれたのは愛しのアルパカ氏だ。最初はグラスに入れて飲んでたんだけど、手が妙にぶるぶる震えて零してしまった。
解決策は簡単だった。
瓶から直接飲めばいい。
まぁ端的に言えばアルコール中毒なのかな。本当のところはよく分からないけど、イメージ的にそんな雰囲気がある。お酒が切れて手が震えるとかマンガでよく見るから。
「私は見間違えません。——これまで何度も見てきましたから」
彼女と最近お酒を飲む機会なんてそうなかったと思うんだけどね。
「大げさだな。いずれにしろ震えにも色々ある。辛いときも嬉しいときも震える可能性は十分ある」
「兄さんは辛かったですか? それとも嬉しかったですか? あのモデルの人がグロワス13世を演じると皆に伝えたとき。彼があの話の原作者だと皆に伝えたとき。——教えてください」
ぼくはこういう不意打ちを見事に乗り切らなければいけない。
一番柔らかいところを抉られたときこそ、うまくやることが重要だ。
こういうときはね、場の流れを断ち切るのが効果的だよ。たとえばキッチンに酒を取りに行くとか。
いかにも「しょうがないな」といった風情でこれ見よがしに溜息をつく。
そして立ち上がり……。
左手に衝撃を覚えた。
茉莉さんが発した小さな悲鳴とともに。可愛らしい、少女のような。
「ああ、そうか」
状況を再認識したぼくは諦めて再びソファーに腰を下ろす。
「嬉しかったよ。彼は友達だ。友達が凄いことをした。素晴らしい作品を書いた。それを喜ばないわけがない」
「分かりました。とすると、あのときシャンパンが派手に飛び散ったのは喜びのためですね」
「ああ、気づかなかったな。だから妙に量が少なかったのか、飲み干したとき。それはもったいないことをした。あそこのシャンパンは美味しいからね」
苦笑交じりに言葉を返した。
「兄さんはあのお話が好きですか?」
「もちろん。ちゃんと全巻買ったし夢中で読んだ。おれもああいうリーダーになりたかったよ。ああ、ついでにあんなかわいいヒロイン達に囲まれれば言うことなしだ」
ぼくは隣の茉莉さんを見て小さく笑った。
彼女を見たかったわけじゃない。ぼくを見せたかったんだ。ごく普通のぼくを。つまらない冗談を飛ばすぼくを。
でも、ぼくの願いは叶わなかった。ぼくは逆に見せられた。
普通ではない彼女を。
「それは光栄です。指導者の在り様はさておき、あなたが私たちに囲まれることをそれほどに喜ばれていたなんて。本当に光栄です。——陛下」
◆
「ああ、ああ、そうだね。……ごめん、今はちょっと上手い返しができないな。いい台詞が思い出せない。たぶんぴったりの台詞があるはずなんだけど。ああ、そうだ! 本を持ってこよう! それを見れば……」
逃げなければならない。この状況から。これ以上は本当に危ない。ぼくがさらけ出されてしまう。
ぼくは勢いよく立ち上がり……そして再び阻まれた。手錠と、その先にある重荷に。
「なにをそんなに慌ててるんですか? 兄さん。兄さんが好きなグロワス13世に似ているって言っただけなのに。芸能人に似ているのと変わりませんよ?」
「分かってる。それは……それはうれしいな! ただね、ちっとも似てないのに似ているって言われると気恥ずかしくなる。おれもいい大人だから」
「いい大人なら軽く流せるはずですよ。——陛下」
彼女の言葉は全く以て正しい。
ぼくはいい大人だ。大人は心にも無い褒め言葉を投げ合って毛繕いをする生き物だからね。ぼくだって取引先や部下からそういう嬉しい評価を頂いたことはあるよ。俳優の誰々とかスポーツ選手の誰かに似ているって。ああ、なるほど。確かに目元の辺りが少しね。なるほど。
同じことじゃないか。
俳優の誰かがマンガの、小説の主人公に変わっただけだ。ただそれだけのことだ。皆要するに、高い店で奢ったぼくを気持ちよくさせるために、ぼくを持ち上げてくれたんだろう。いつものやつだよ。分かってる。
確かに『この人を見よ』は絶好の話題だ。なにしろぼくから話を振った。
一点の曇りも無い祝福を込めて。
あの場には原作者で主演俳優になるであろう由理くんもいた。だからちょうどよかったんだ。
ぼくがグロワス13世に似ているということは。
その素晴らしいお世辞は、場に完璧に合ったものだったんだ。
ふざけやがって!
「茉莉。もういい。……その話は止めろ」
「怒ってるんですか?」
「分からない。でも、もういいだろう。何が言いたいのかは分かる。おれに言わせたいのか? いいよ。言おう。おれはもう二度と”陛下”とは呼ばれたくない」
「なぜです」
ぼくに分かることはただ一つ。彼女はぼくを引きずり出そうとしている。
では出て行ってやる。お望み通り。
「単純なことだ。おれはグロワス13世じゃない。おまえに理解できるか? 自分が唯一欲しかったもの、唯一創りたかったものは手に入らず、なのに、それに似ているって言われて揶揄われることの意味が分かるか。——確かにおれの独り相撲だ。皆は大人の社交辞令でおれを持てなしてくれたんだな! 分かるよ。だからおれもあそこで喚きはしなかった」
「でも、辛かったんですね」
「ああ、ああ! 言ってやる。どうせ最後だ。言ってやる。辛かったよ。これでいいか? 辛かった! ——この馬鹿馬鹿しいおもちゃを外せ。もう満足しただろう。帰れ!」
そう、冗談。そう、社交辞令。
最悪の部類の。
さらに最悪なことに、あいつらの演技は真に迫りすぎていた。あいつらは愛想笑いでぼくに「グロワス13世に似てますね」って言ったわけじゃない。
ぼくがあたかもグロワス13世であるかのように振る舞った。時間をかけて、あるいは直截に。これほどに残酷なことがあるか。
それはそれは念が入った仕掛けだ。
ここが日本ではなく例のお話の世界で、おれたち皆が登場人物であるかのように振る舞った。
錯覚しそうになるほどに。中小企業の無能な3代目が、偉大な小説の主人公——偉大な王であるかのように。
分かってる。おかしいのはぼくだ。
何をいきり立っているのか。
ぼくがこの馬鹿馬鹿しい喜劇を終わりにしようと思った理由はつまりそれだ。
彼らがおかしいわけじゃない。
こんなことで気が狂いそうになっている自分は、もう気が狂った後なんだって気づいたからだ。
「ねえ兄さん。だから私は来ました。あなたを助けるために」
ぼくが見せた恐らく初めての怒声に彼女は全く怯まなかった。
それはまるで物語の登場人物のようだ。どんな危機にも苦難にも堂々と立ち向かう主役のような。
「助ける? ありがとう。もう十分助けてもらった。これ以上は……」
「あなたはグロワス13世ではありません。——あなたは私の兄さん」
彼女の声は凛として、一語一語が輝いていた。
にもかかわらず、内容は陳腐だ。
当たり前のことを言っただけ。それだけに過ぎない。
だから、ぼくは彼女の言葉に感動したりはしなかった。背筋を伸ばし、昂然とぼくを見つめる姿に気圧されたわけでもない。
ぼくは感じたんだ。
震えを。
ぼくのじゃない。
手錠を通して伝わる、彼女の。
震えは辛いときも嬉しいときも起こる。怖いときも。
ぼくの荒い語気に怯えたわけではないだろう。ぼくの喚きを嬉しく感じたわけでもないだろう。
だからきっと彼女も辛いんだ。その原因がなにか、ぼくには分からない。でも彼女は辛さを感じながら、あえてぼくに言ってくれたんだ。それだけは分かる。
『あなたはグロワス13世ではありません。——あなたは私の兄さん』
彼女は気づいてくれた。
昨日の会食にいた人たちの中で、ぼくの望みと挫折を知っているのは彼女だけだ。そして、その彼女が”ぼく”の異常に気づいてくれた。
このぼくの!
彼女はぼくを見た。
ぼくを。
「それは……当たり前のことだよ。茉莉」
「ええ」
「でも、それを嬉しく思ってしまうほど、もうおれはおかしくなってる」
彼女は困ったように薄く笑い、首を小さく振った。
整髪料かシャンプーか、柔らかい花の匂いが散った。
「兄さんはおかしくなっていません。おかしいのは私……私たちの方なんです。ここでは」
◆
その後ぼくたちはワインを空けた。1本の瓶を分け合ってね。
グラスに注ぐのも面倒だから、直接飲んだよ。
この状況でも茉莉さんは頑なに手錠を外してくれない。
トイレに行くときは当然外してくれたけど、ぼくが居残る場合はご丁寧にリビングのスチールラックの柱に片方を括り付けていく。すごいね。
ぼくはされるがままになっていた。
彼女お酒弱いからね。
ちょっと飲むとすぐうとうとして、そこからちょっと深い眠りに入る。30分かそこら。
そして起き出してくる。起きるというより半覚醒かな。
そしてぼくの胸とか腕とかに顔をこすりつけて、また眠る。おかげでぼくのTシャツは凄いことになってる。彼女の化粧で。
ぼくはそんな彼女を適当にあやしながらワインを飲み続ける。
この良き日の終わりには。
◆
朝、ぼくはまどろみを抜け出す。
規則的な、小さな寝息が耳に届く。
ぼくは茉莉さんに抱き込まれた腕の暖かさを感じた。
熱。
この部屋に残されたものはそれだけだった。
9時30分。
ぼくはまだ生きてる。
◆
「居るかー!」
リビングに轟くインターフォンのチャイムに本格的に覚醒したぼくは、ふらつく彼女を半ば引きずってモニターのところまで辿り着く。そして画面に映る人物を見た。
なんで叔父さんいるの?
約束なんかしてるわけない。
刹那無言のぼくの代わりに彼女が応えた。勝手に。
「今開けますね」
手錠のついていない左手で解錠ボタンを押す。
なんだこれ……。
「茉莉?」
「わたしが呼んでおきました。加賀のおじさんと楽しんできてください」
「何を?」
「ゴルフ」
「……ゴルフ?」
「はい。大人の男性のたしなみです」
このいちいち得意げな顔は何なんだろうね。
そしてインターフォンの前で手錠に繋がれて佇む男女。
これはまずいね。
「取りあえず茉莉、茉莉、取りあえずこれを外そう」
焦るぼくの言葉を受けて、昨日頑なに拒んだくせに今朝はごくあっさり解錠してくれた。
「これで昨日みたいにぐずられたら本当に誤解されるところだった」
「もう必要ありませんから。私たちは無事夜を越えました。昼間はおじさんにお任せします」
要するに昨日の段階で叔父さんにアポを取っていたわけね。ああ、今日は月曜か。不動産屋は休みだ。なるほど。手回しいいな。
「わけが分からないけど、もうそれでいいよ。茉莉はどうする? 会社は?」
「休みの連絡は入れてあります。今回はちゃんと」
「じゃあ、帰ってしっかり寝るといい」
「はい。夕方までは寝ます。夜は用事があるので」
「そうか。忙しいな。——寝過ごさないようにね」
「ええ。もちろん。——夜の方が本番ですから」
軽くふらつきながら彼女は洗面所の方に歩き出す。
叔父さん来るからね。あんまり寝乱れた顔を見せたくないよね。
それにしても、あれだけ好き放題やってなお美人って凄いな。人体の神秘を感じる。
そして……本番?
昨日の晩あれだけのことをやっておいて、それが前座なの? 今夜何があるの?
え?




