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地に落ちて死なずば  作者: 本条謙太郞


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この良き日の終わりには 1

 携帯電話というのは面白いね。

 いつでもかけられて、いつでも出られる。この自由さがコミュニケーションを活発にするかと思いきや、実際は逆に振れた。

 家やオフィスにしか電話が無かった頃はそこに人が居なければ出なくて済んだ。でも今は「居ない」という状況がない。

 スマートフォンになった最近はなおさらだね。色々な便利機能、ついには決済機能までが電話に集約されてしまったものだから、手放すことができなくなった。


 携帯は携帯していなければならないし、携帯していてしかるべきものである。

 よって原理的にかけた電話は必ず繋がるはずなんだ。

 常に手に持っているんだから。

 そうなると今度は電話をしなくなる。したら最後、相手は出ざるをえない。親密な間柄あるいはビジネス上の付き合いであればなおさら。

 要するに武士の刀みたいな扱いだろうか。抜いた以上は斬らねばならない。

 ぼくたち日本人は奥ゆかしいからね。そういう「出なきゃいけない」の負担を相手に与えたくない。


 だから電話なんて、特にプライベートのものなんてよほど緊急でない限りかかってこない。

 もちろんぼくらよりも年上の人たちの中には例外もいるよ。何かあると即電話、みたいな人。たとえば叔父さんみたいな。

 彼、深夜だろうが平気で部下に電話かけてるからね。

 前に夜一緒に飲んだときなんか、ぼくと話してて浮かんだアイデアを流れるように役員だか部長だか知らないけど、そういう人に伝えてた。電話で。夜の12時に。

 怖いね。


 で、ぼくのスマートフォンの通知欄には朝の時間帯から10件か20件か、とにかくたくさん着信履歴が残ってる。全部茉莉さんからのものだ。結構珍しいね。ぼくが出ないから諦めたのか、最終的にはショートメッセージが残ってた。

『今から行きます』って。

 なんだろうね、これ。


 叔父さんの『()るかー』も大概だけど、彼女の『今から行きます』もまた味わいがある。

 あの14歳だった女の子も今では28。本当に長い付き合いだった。

 社会人6年目だからきっと部下もそこそこいるはず。彼女はあの性格だから、何か部下がトラブったら『今から行きます』が発動するんだろう。

 カッコいい。

 ドラマで主演を張れそうな170cm超のスレンダー美女(ヒール装備)が、明らかにシゴデキオーラ満載のスーツ姿でカツカツ地面を蹴って早足に向かってくるわけだ。

 ああ見えてそこまで気が強い方でもないから、やらかした部下を軽くたしなめつつも、一緒にトラブルを解決してあげるんだろう。

 これはダース単位で信奉者がいる予感。

 同僚からは虎視眈々と狙われ、部下からも虎視眈々と狙われてる感ある。ああ、彼らの勇気は買いたい。ああいう完璧系クール美女って声かけるのとんでもなく勇気いるからね。

 ぼくの場合はたまたま昔から知ってるから気安いだけで、会社の同僚とか部下だったら絶対無理だよ。彼女に叱られて、案山子のように固まって、助けられた後、帰宅途中に「あー、下川先輩綺麗だったな……」とか回想するのが関の山だ。

 そして多分、女性陣の皆さんにもファンがいる予感。

 さっきも言ったように彼女は特段攻撃的な性格をしていない。趣味は手芸。かわいい動物をフェルトで器用に作る。ちょっと前はネットで流行ったモルモットのキャラクターを一生懸命作ってた。

 で、対人関係でもどちらかというと受け身。自分からガンガン行くタイプではない。もちろん一緒に仕事をしたわけではないから正確なところは分からないけど。

 とはいえ、彼女のあのオーラというか空気を感じてなおセクハラ敢行するやつもなかなかいないだろう。特に大手はコンプラ超うるさいし。

 しかも自分のみならず、部下でそういうことをされている人がいたら、さらっと助けるんだろうな。

「事を荒立てはしないけど、この一線を踏み越えたらおまえの首を叩き落とす」みたいな気迫を込めて。


 好き放題に空想してしまった。

 つまりこれがぼくという「他者が見る下川茉莉」だ。本当の彼女とはかけ離れている可能性も十分ある。でも、案外良い線行っているんじゃないかと思うよ。

 少なくともぼくが昨日まで友達だと思っていた人たちがぼくにしたような特大の見当外れはしていないと自信を持って言える。


 彼女の用事が何かは分からない。

 うちに来ると言っていたけど、諸々のことは来週話そうと昨晩答えたはずだ。

 昨日のうちに『返信不要』と前置きした上で人事部長とか関係各者にメールをしておいたので、月曜には彼らからコンタクトを取るはず。

 多分ね。

 ぼくにはそれを確かめる術が無いから。




 ◆




 茉莉さんを待つ間、ぼくは最近の習慣になった部屋の片付けに精を出す。

 昔から片付けが苦手でね。服は脱ぎ捨てたまま、本は読みさしを放り出して、弁当の空き箱やペットボトルもシンクに積上げていた。


 このやっかいな状況を、ぼくは二つの手段で解決することにした。

 1つ目はお金を使うこと。

 つまり家事を代行するサービスを契約すること。結果水回りは綺麗になったし、リビングに放り出したままの洗濯物もちゃんとタンスにしまわれるようになった。

 結果、この家を買う前に見せられたモデルルームみたいな美しさになったんだ。いいことだよ。

 2つ目はぼく自身を変革することだ。

 今は本当に便利だよね。ネットで「片付け 苦手」とか検索すると細かいライフハックがいっぱい出てくる。その中で気に入ったメソッドの一つは「嫌なことは1回、最小限やればいい」というもの。たとえばゴミを一つでも二つでも捨てたらその日のタスクは終了。翌日もそれだけやればいい。

 塵も積もれば山となる。いつしか部屋は綺麗になる。ことわざとは逆に、塵がつもらなくなったんだ。


 この2つの手法はちゃんと棲み分けができる。

 家事サービスの場合、ゴミであることが明らかなものは処分してくれるけど、判断できないものには手を付けてくれない。よって「判断できないもの」は自分で捨てていく必要がある。

 ぼくにとってそれは音楽のCDであったり本であったり衣類であったり、そういう類いのもの。


 ただね。この種のものには本当に怖い罠が潜んでいる。整理しなければならないはずなのに、ついつい聴き入ってしまうし、ついつい読み込んでしまう。

 ぼくも見事にやられた。


 お恥ずかしながら、ぼくはクラシック音楽が好きでね。楽器も出来ないし音譜も読めないけど、あの壮大な世界観が頭の中に構築されていく感じがたまらない。

 いや、それはうそだな。

 本当はね、カッコいいと思ったからだよ。クラシックとかジャズってそういう衒学的なところがある。真剣に音楽に取り組んでいる人にそんなことは口が裂けても言えないし、言ったこともない。

 でも心の中では思ってる。

 そもそも悪いことかな? 衒学的であるって。

 哲学にしても文学にしてもそうだ。何をお高くとまって、と思われるかもしれないけど、「お高くとまること」と「お高くとまらないこと」の間には上下はない。

 現実を知る。現実を生きる。なるほどすばらしい。

 ぼくの同級生達もその多くは子育てに忙しい年頃だ。会社でもやりがいのある大きな仕事を割り振られ始める頃合い。奥さん、あるいは旦那さんとの衝突や実家とのもめ事、あるいは子どもの悩み。色々あるだろう。結局ぼくには出来なかったことだから、それを出来ている人たちのことを尊敬する。

 でもね、だからといって、()()が人間の価値を決めるわけでもない。叔父さんの言葉じゃないけど、この地表には目眩がするほどに人間がひしめいてるんだ。だから、少しくらい常道を外れたヤツがいてもよかっただろう。そう思う。


 仕事に関わる本は簡単だ。全部捨てれば良い。技術本も自己啓発本も財務系の本も全部。このあたりはサクサク進んだ。我が家にはそういう類いの本はもう一冊も残ってない。

 問題は歴史書とか哲学書、思想書、小説あたりなんだよね。

 この家に越してくるときに一度整理したんだけど、あれから何年か経ってまた増殖してしまった。もう一度買い直した本も少なくない。でも、この難敵共をやっつけなければならない。そんなわけで、毎回「今日は1冊か2冊やっつけよう」と決意して、罠にはまって読み出して、ゆっくり時間をかけて減らしてきた。


 だからもうほんの少ししか残ってないよ。CDも本も。

 最近買った『この人を見よ』の小説とマンガ、それに、昔からお気に入りの哲学書が数冊。

 あとね、本当に恥ずかしいんだけど、ぼくの人生最初で最後の著作もまだあるよ。

 タイトルは『リチャードと羊』っていうんだ。

 リチャードという少年が子羊と不思議な国を旅する話。

 感想についてはあまり思い出はない。編集者の人には色々手を入れられたり、言われたりした記憶がある。でも肝心の内容は全部忘れてしまった。


 覚えているのは『羊がかわいかった』って茉莉さんの一言だけだ。

 あれは読んでないな、きっと。読書感想文の後書き・帯メソッドかな。

 高校生にもなってまったく、酷いやつだ。


 でもね。やっぱり嬉しかった。

 ぼくが書きたかったのはリチャードという少年の成長と羊のかわいさだったんだから。残念なことにリチャードは()()()()()()()()()()()()()。ぼくは彼を生かしてやれなかった。だって続刊が出なかったからね。

 でも羊だけはちゃんとかわいく書けた。これは凄いことだ。少なくとも一人の女子高生に「かわいい」と言わせたんだから。ぼくは彼女の脳内に痕跡を残すことが出来た。何も遺せなかったぼくが。

 ……ちゃんと読んでくれていたらね。頼むぞ?


 さて、まぁこれくらいは良いだろう。

 残ったのは箱買いしたアルパカの瓶くらい。これは業者さんが綺麗にしてくれる。

 時計もちゃんと箱と一緒にまとめておいたよ。売りに出すならどこに持っていくと良いか、売値の相場も込みでメモを書いておいた。例の「(プティ)グロワス」だけは手抜かり無く持ち主に返すように書き残しておいた。

 それ以外の諸々はね、ざっくりとした処分法を簡易的にまとめてある。弁護士さんとはちょっと前から話していたから。立場上の義務として。


 物事にはタイミングというものがある。

 いつでもやれるけど、やるためには何かの動因が必要だ。

 たとえば机の上にペンを立てたとしよう。後部が平らなヤツをね。それはいつでも倒れることができる。でも、誰かが指で押さなければ倒れない。あるいは地震とか。そういう外部からの要因がなければ。


 ぼくにとっての一押しは昨日の食事だった。

 残念なことに、素晴らしいものだったとはちょっと言いがたい。だけど、ぼくの口が最後に交わした会話、ぼくの目が最後に見た人の顔が、彼女達、彼であったことをぼくは嬉しく思う。

 なぜって簡単なことだ。

 一時のこととはいえ、あの人達はぼくの友達になってくれた人たちだから。向こうがどう思っているかは分からないけど、少なくともぼくはそう思っている。

 彼らは友達だった。


 ぼくの昨晩の態度は誇ってよいものだったと思う。

 あのわけの分からない雰囲気の中にあっても最後には平静を取り戻し、冷静を装うことができた。変なもめ事を経て落ち着きだした皆と、ぎこちないながらも笑い合うことができたんだ。みんな口々に謝ってくれたよ。あの人達は基本的に礼儀正しい人たちだ。


 だから勘違いしないでほしい。

 あの人達には何の責任も無い。それを負わせることは彼女達に失礼に当たるし、ぼくにとっても失礼だ。

 ぼくは人として、人が持つ唯一の根源的な選択を自身の意思において為す。他人のせいではない。ぼくが為しうる選択はそんな矮小なものではない。この世界を認めるかどうかの選択なんだ。そこに在ることに耐えられぬと感じたとき、そこから堂々と退場することは悪ではない。それは尊厳だ。

 異論のある人も多いだろう。

 残された人のことを思えば。残された肉体を処理する人のことを思えば。他人を悲しませる。他人を苦しめる。その通りだと思うよ。申し訳ない。

 申し訳ないながらも、それを為すことはぼくに与えられた根源的な権利だ。

 心の内のことは各人で処理してほしい。どれほどの苦痛の最中にあっても()()()()()ことはできる。ぼくがそうしてきたように。

 物質的なことは金銭で解決してほしい。


 死は誰しもが必ず経験することだから、実のところそう大それたものではない。

 ただ、それが()()なのか。あとは、能動的であるか受動的であるか。

 さっき「一押し」って言ったけど、ちょっと誤解を生じさせる言い回しだね。

 倒れることは決めていたんだ。つまり能動的だ。だからただ、時期の問題だよ。


 ああ、自分で考えておきながら全然論理的じゃないね。

 自分では冷静なつもりなんだけど。どうも不思議な感覚だね。隠しきれないのかな。怒りを。


 一通り用事を済ませたところで、ぼくはお気に入りの曲をかけた。


『愛の死』。

 リヒャルト・ワーグナー作曲『トリスタンとイゾルデ』の最後を飾る絶唱。


 タワーマンションって上階になるほど建物の重さを軽減するために壁が薄くなるんだ。だから普段は近所迷惑を考えてあまり音量を上げられない。


 でも、今日くらいは良いだろう。


 この良き日の終わりには。





 ◆





 玄関で迎え入れた茉莉さんは昨日の疲れを残したままだ。化粧で隠してはいるけれど目元にうっすら隈の後が残る。


 面白い構図がここにある。

 ぼくの背中を最後に押した人が、ぼくが見る最後の人になった。

 彼女が発したわけの分からない台詞は紛れもなくそれだった。


 ぼくを非難できるだろうか。

 知り合って14年の知人に、戯れにでも「陛下」と呼ばれたぼくを。多分彼女は酔っていたし、ぼくがそう呼ばれることを心の底から嫌悪しているなんて分からなかっただろう。つい最近まで彼女達が時折やるその冗談を笑って流していたからね。


 でも、全ての物事にはタイミングがある。それがあの時だった。

 もちろんこんなこと誰にも言わないよ。

 ぼくはこれから彼女と楽しく会話して、気持ちよく帰ってもらうつもりだ。


 ぼくは茉莉さんが好きだ。

 だから彼女には幸せになってほしい。


 なのに、またしてもわけの分からない出来事が展開しつつある。


 彼女は出会い頭の開口一番、ぼくに言った。


「兄さん、左手を出して」

「え?」

「出してください」


 それは断固たる口調。

 お願いではない。命令だった。

 これは新鮮だ。ぼくはもう何年も他人に命令されたことなんかない。


 だから素直に従った。

 何をされるのかは分からないけど、左手くらい幾らでも出すよ。


「はい」


 ぼくの手のひらにはなにもない。

 手指にも。

 そして手首にも。


 家でも時計を着ける習慣は昨日の夜に止めた。今日のぼくの左腕は先端から付け根まで、生まれた時のままの姿だ。

 生の肉だ。


 なんならかぶりついてくれてもいいよ。

 そんな馬鹿なことを考えていると、彼女は肩にかけたバッグからあるものを取り出した。


 そして電光石火の早業で、といいたいところだけど、実際はちょっともたつきながらそれをぼくに嵌めた。


 ぼくの()()


 安っぽい、多分アルミ製の、おもちゃの()()を。


「……茉莉?」


 唖然として問うぼくに彼女は応えなかった。無言。

 無言で、もう片方の輪を自分の右腕に嵌めた。ちょっと得意げな顔をして。


 なんだこれ……。





 ◆





「少し思うところがあって、手を繋ぐことにしました。——兄さん」

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