あの人達
「やっと分かりました! だからあんなに薄っぺらいんですね、あのお話!」
野原を跳ねる少女のように、言葉は舞い踊った。
あまりにも予想外の反応を受けて、ぼくは台詞の主を呆然と見つめることしかできない。
知子さんを。
「最初はマンガを読んでみたんですけど、本当につまらなくて。でも、話題になっているから原作も買ってみたんです。そうしたら、もっともっと下らなくて、ちょっと驚いちゃいました。こんなものでも本になるんだな、って」
サイドから編み込んだ髪型がよく似合う、まだ少女と形容して問題ない年頃の知子さん。
彼女に本屋で無知を指摘されても、ぼくは全然嫌な気持ちにならなかった。なぜならそこには見下す心性が感じられない。ただ知識を、正しいことを伝えようとしてくれただけだったから。ぼくがこの女性に見たのは真っ直ぐな親切心だった。
その彼女が今、突然、懐に隠し持ったアイスピックで相手を滅多刺しにしている。
彼女の言は完全な侮辱だ。
「なんとも酷い言われようだ。後学のために聞いておきたいものです。どの辺りがお気に召さなかったのか」
対する由理くんはさすがに大人だった。これほどの罵声を浴びてなお、冷静にワイングラスを傾けている。その美しい唇を薄く歪めながら。
「そうですね。全部、と言いたいところですけど、折角プロの作家の方にお話を聞いていただけるんですから、ちゃんとお話ししますね。——私があのお話の陳腐さを最も感じたのは『献辞捧呈式』の場面でした」
献辞捧呈式。
グロワス13世の終生の友にして相棒になるジュール・レスパンが、世界に存在する「不正」を暴く論文を王の前で披露する中盤の名シーン。
王に近侍するガイユール大公(ヒロインの一人ゾフィ姫の父であり、国家の重職にありながら、敵国アングランと裏で手を結んでサンテネリ王国から自領の分離独立を図る悪役だ)は怒りのあまりジュール青年を切り捨てようとするんだけど、グロワス王がそれを咄嗟に自身の剣で受け止める。そしてその場で大公との決別を宣言するんだ。
「彼は、そして学徒たる彼らは思想の世界の王だ。王を弑するな、ガイユール殿」
グロワス王はそう言い放ち、献辞捧呈式に父と共に付いてきたゾフィ姫に優しく声を掛ける。
「そしてあなたは、当代の王の下にあるべきだ。——私の下に」
父の裏切りを薄々察し懊悩していたゾフィ姫は涙を流し、グロワス王の胸に飛び込む。
「ああ、なるほど。女性には共感しづらいところかもしれませんね。しかし申し訳ないが、あれは男性読者を対象とした話なので、どうしても類型的な造形になるのですよ。ヒロインは」
『この人を見よ』は王の政治的、軍事的活躍の適度なリアルさとともに、ヒロインのかわいさが売りのお話でもある。
ゾフィ姫は天真爛漫で賢い女の子。系統としては主人公の妹的位置づけのキャラになる。
だからこれは由理くんが言っていることが正しい。あの分かりやすいヒロイン達の魅力が作品の人気に火を着けたんだから。
にもかかわらず、知子さんは全く納得した様子はない。
というよりも、見当違いのことを言う相手を嗤ってさえいるように見えた。幼さの残る無邪気な笑顔が、ぞっとするほどの濃密な情念を内に秘めている。ぼくの目にはそう見えた。
「いいえ。そんなところは気になりません。好きになさればいいと思います! 私が笑ってしまうのは王とゾフィが馬車で王宮に戻るシーン。ゾフィは感動して、レスパン殿と陛下の開明的な思想を褒め称えますね」
そしてまさに自身の言葉通りのことを為した。つまり笑った。彼女は、声を上げて。
「レスパン殿。光輝ある共和国の導き手。お教えしましょうか? 真に偉大な方——枢密院主催者であるあの方が、私になんと言われたか。あの馬車の中で」
これはひょっとしたら、ぼくを揶揄うためのちょっとした寸劇なのかもしれない。さっきぼくがトイレに立ったときにでも打ち合わせたのかな。
でも、申し訳ないけど舞台設定がさっぱりで、ちょっと楽しめないんだ。
「ああ、その……島津さん、申し訳ないが、ちょっと状況が分からない。もし冗談ならいいんだけど、そうでなければ由理くんに失礼に……」
おずおずと申し出たぼくの言葉は無視された。完全に。
彼女は由理くんの瞳を凝視していた。
ああ、それは正確ではないね。正しくは、錐をねじ込むように。
「……ぜひお聞きしたいものだ。ガイユールの宝玉、王妃ゾフィ」
「ではお教えしましょう。——陛下は私にこうおっしゃいました。『私は酷く傲慢だった』と。あなたの偉大な御高説が徹底して存在を無視したもう一つの性。その存在を忘却した過ちを陛下は謝罪されました。心から、自らの過ちを。王妃ゾフィはあなたに告げましょう。あなたの例のご本の陳腐さは女の描き方ゆえではありません。……あなたはグロワス様を描けなかったのです。陛下の真の偉大さを。欠片も。ああ、おかわいそうに! おかわいそうな行政委員長殿」
ぼくは黙るしかない。
ぼくの目の前で突然崩れてしまった。天上の風景が。
ぼくは観客席から舞台上の滅びの場を見つめる客に過ぎない。
「それが何か? グロワス氏の本質は女あしらいの巧さなどではありませんよ。ゾフィ殿。彼の本質は女がどうといった些事にはない。全人類を牽引せんとするその強靱な意思にある。何物にも折られることのない、鋼の如き意思に」
由理くんも随分と変な感じだ。
いつもの溌剌とした雰囲気はすっかり姿を消して、今はぞっとするほどに重い、老成した空気を纏っている。
まるで、ぼくの友人がいなくなってしまったみたいだ。
「ちょっと皆、酔いが回ってきているのかな。私も少し飲み過ぎたかもしれない。水を飲んで。さぁ、落ち着こう。……それで、その、この時計のことだけど……」
皆に元通りになって貰おうとぼくは必死だった。
さっきまで全員の注目を集めた小グロワスをもう一度掲げて明るく語りかけた。
このわけの分からない寸劇を終えて、また楽しく時計の話をするんだ。皆で。
そこからファッションの話にもっていこう。知子さんはその辺り興味がありそうだから、由理くんとも話が合うはず。彼はなんといってもプロのモデルだからね。きっと盛り上がれる。
上手く話を誘導しよう。友達がみんなで楽しめるように。
「まぁ! 意思! 強靱な? それをあなたがおっしゃいますの? グロワス様の意思とその成果を小ずるく掠め取り、鼻高々に自分の物のごとく触れ回ったあなたが? ——覚えていらっしゃいますでしょう? あなたの素敵なお友達の皆さんがわたくしの夫をどう評したか。とても偉大な行いですわ。サンテネリという国家に文字通り身を捧げた一人の男性を、白痴と、愚物と笑い者になさるなんて。ブラウネは醜く肥え太った愚王に組み敷かれて辱められたのでしょう? あなたのお友達が立派な挿絵まで用意してくださいましたものね」
今度は青佳さんが変なことを言い出した。
そんな場面は『この人を見よ』にはない。ブラウネ姫は王の寵姫として幸せに暮らしたはずだ。
「政治をご存じではない? あれは取引だ。私とてあれほどに、あの屑共に苛立ちを覚えたことはなかった。しかしあの時あいつらに餌をやらなければあなたの息子とて危うかった。それを理解できぬ蒙昧ではありますまい。国母殿」
「ええ。ええ。存じておりますわ。でも、真実は正しく報じていただかなくては困ります。それをできぬのならば瞳は必要ありませんね。ものを正しく見ることができぬ瞳は。そして指もいりません。真実を描けぬならば」
「あれはあなたがお命じになったのか。それは愉快だ! あの後やつらは心底怯えていましたよ。まぁ無理もない。飼っていた文屋が目を抉られ指を全て切り落とされては。ついでに頭も落としてやればよかった。正しく考えることができぬ頭も必要ないのだから。しかしなんとも度胸も何もないやつらだった。威勢の良いことをいいながら、御婦人の衝動的な怒りごときに慄くとは。あの様は愉快ですらあった。私はあなたに感謝したい。議会の運営がいささか楽になったのでね」
いつもふわっとした笑みを浮かべてぼくを見る青佳さん。
ぼくに一緒に住もうと言ってくれた彼女も、いなくなってしまった。
何か不気味なものに乗っ取られたように、意味の分からないことを、意味の分からないほどに凄惨な笑みを浮かべて、意味の分からないほどに愉快げに語る。
「まぁ! お褒めの言葉、光栄ですわ。行政委員長殿。ではご厚意に甘えてもう一言言わせてくださいな。ゾフィさんがおっしゃったように、あなたのあの滑稽なお話の滑稽さについて」
「お聞きしましょう。光栄なことだ。偉大なる王妃のご批評とは」
「何物にも屈せぬ強靱な意志。そんなものをグロワス様はお持ちではいらっしゃいませんでした。あの方は翼をもがれた鳥のようなもの。それが……飛んだのです。ゾフィさんがおっしゃるように、あなたは取り違えました。陛下は立派な翼を備えた大鷲などでは決してありません。翼を切り落とされた雀。そして、よいですか、レスパン殿。その方が、真に偉大なことを成し遂げられたのです。ブラウネがこの胸の中に温めたあの可愛らしい方が」
青佳さんの言葉に籠もる熱は多分演技ではない。
もうぼくには分からない。グロワス様という名の、彼女の思い人がこの世界のどこかにいるであろうことしか。
ぼくには何も分からない。
彼女は瞼を閉じて暫し無言で佇んだ。
それが誰であれ羨ましい限りだ。他者に想われるとは。
正直なところぼくは疲れてきた。
さっきまで楽しい会話をぼくの前で繰り広げていたぼくの友達は、今、一瞬にしてどこかへ消え去ってしまった。
友達は、いなくなってしまったんだ。
◆
子どもの頃に砂場でこんな遊びをしたことはないかな。
砂で小さな山を作って、真ん中に木の枝を指す。そして周囲を両手で削っていく。何人かで順番に、一掻き、一掻き。最後に木の枝が倒れる。そのタイミングで砂を削った人が負け。
そんな遊び。
つまり、どれだけ上手く核心を避けるかという遊戯だ。
ぼくもそれをやってきた。
木の枝を倒さぬように。
でも、やっぱりぼくはゲームが下手だ。結局枝を倒してしまった。
ぼくは色々と悩む素振りを見せてきた。
父親のこと。会社のこと。
他者の好意と悪意。無関心。
自身の卑怯さ。虚無感。
だけど究極的な「枝」には触れてこなかった。
そして今、ぼくは核心を目前に突きつけられている。
つまりぼくは仲間はずれにされたくなかったんだ。
会社でもそうだ。
ぼくは誰とも仲間になれなかった。
ぼくは社長で、他の皆は部下だ。部下の皆は仲間だった。ぼくは違う。
家族の中でもそうだ。
ぼくは家族の一員として仲間でいたかった。
でも、ぼくは違う。
だけど、友達とは仲間になれると思っていた。
新しく構築していく関係だからね。過去の因果はない。
新しく友達を作りたかった。
男女問わず、心を通わせ、一緒に楽しくときを過ごせる人たちと。
金?
もちろん金はある。一晩の食事に100万くらい使うさ。そうすれば友達になってもらえるんじゃないかと期待したからね。
それ抜きで誰がぼくと友達になってくれる? このぼくと。
その金すらも、ぼくが自分の力で稼いだものじゃない。掠め取ったものだ。でも金は金だ。自分は卑怯だと卑下しながら、都合の良いところだけは使ってきた。
だからね。
なんだかんだいってうれしかったよ。
理由なんてどうでもいい。怖くてもいい。
ただ、ぼくに興味を抱いてくれる人ができて、実はとてもうれしかった。
ぼくは最後のあがきをしてみた。
学校で皆に無視されている子どもが、それでも皆に興味を持って貰おうと必死に、だけど真心から振る舞うように。
「分かった。よく分からないけど、もういい。皆落ち着こう。——ああ、そうだ、アナリースさん。由理くんはこの時計を気に入っているようだよ。だけど彼は大柄だからこれはちょっと小さいね。だから、今度あなたが作る大グロワスは、彼のために作ってあげたらどうだろう。40mmくらいの径で。そうすれば全体のバランスもしっくりくるはずだ」
そう。ぼくには仕事がある。全うしなければならない。
アナリースさんはなぜか必死な——あるいは滑稽な——ぼくの言葉にきょとんとした顔を見せる。もちろんタダでという意味じゃない。それを由理くんが着けて『エストブール』と、今後立ち上げる『アナリース』の宣伝をするんだ。だからあげるというより貸与に近い。
アナリースさんは落ち着いていた。背筋をしっかり伸ばして、この馬鹿げた狂乱の場においても一人落ち着きを払っている。
変な場に連れてきてしまったことに申し訳なさを感じるよ。ぼくの友人達が、友人だった人たちが演じるこのおそまつな喜劇に巻き込んでしまったことに。
「ご提案をうれしく思います。ですが、それはできません」
「なぜです? 先ほども言いましたが、彼はグロワス13世を演じる。その彼がプライベートでもグロワスの名を冠した時計を着けるんですよ。上手くいけば劇中でも。少なくとも日本では凄い宣伝になる。確かに買える人は少ないでしょう。でも、ブランドとして日本で認知されることには大きな意味がある。お分かりの通り、今でも日本は時計界のトレンドセッターの一角だから」
彼女の明白な拒絶を受けてなお、ぼくは言い募る。
確かに今日の由理くんは明らかにおかしい。彼女はその様を見て不安に思ったかもしれない。でも、そうであったとしても、彼が築き上げてきたものは本物だ。彼は凄い作品を書いた。そしてその主役を演じるんだ。
「理由は簡単です。私は本物の時計を作ります」
「本物? それは当然です。あなたが作っていないなんて、誰かに作らせているなんて疑っていません」
「ですから、わたしはわたしの時計を本物の方に着けて欲しいと願います。真の王に。——偽物の王ではなく」
やっぱり由理くんがグロワス王を演じることが気に入らないんだろうか。
ぼくは彼以上のグロワス役はいないと思う。だって、グロワス13世は彼が創り出したキャラクターなんだから!
逆に聞きたい。彼女は誰を配役することが理想だと思っているんだろう。
「では……アナリースさんは誰が着けることを望みますか。大グロワスを」
アナリースさんは一点を見つめていた。微動だにせず。
由理くんの方など一切見ずに。あるいは周囲の全て、部屋の全てすら、まるで存在しないような素振りで。
ぼくの瞳を。
「かつてそれを着けられなかった方。本来の主の元に。——グロワス13世。陛下、あなたに」
◆
こういうお高いレストランには食事を終えた後に一服する喫茶室がある。喫煙室というべきかな。
メインコースを食べた後、ちょっと一服できるんだ。ケーキやコーヒーも出してもらえるんだ。
成人男性が寝転がってもまだまだ余裕のある巨大なソファがあってね。そこでゆっくりとタバコを味わいコーヒーを飲んで、楽しい食事の余韻に浸る。
ぼくは酔いを冷ますと口実を付け、例の部屋を出て一人ここにやってきた。
もう何年ぶりだろうか、タバコを吸いに来たんだ。
紙巻きのやつじゃない。葉巻。
別に何でも良かった。紙巻きでも電子タバコでも、なんでも。
ただ、ここの喫煙室には葉巻を売ってたからそれにした。
シガーカッターなんて携帯してないので吸い口は切ってもらって、小さな灰皿も出して貰って、唇にくわえて、マッチの火で先端を満遍なく炙る。
二度、三度、四度、軽く息を吸って空気を送り込むと、それが灯る。火が。
手で触ることが出来そうなほどに濃厚な煙がこの世に生まれる。
ぼくはそれを口内に貯め、そこから染み出した香りを味わう。
知っているかな。紙巻きタバコと違ってパイプや葉巻は煙を肺まで入れない。口内で転がしながら、微かに漏れ出るものを啜るように楽しむんだ。
なぜって、強すぎるからね。
ぼくは手に握りしめたままの時計をジャケットのポケットにしまった。金無垢の小さな時計を。
なんだかね。少しつまらなくなってしまったんだ。
こういう気分のときもある。
さっきまで光り輝いていたものが、急に萎れていくことが世の中にはある。
つまり、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
この塊に何の意味があるのか。もうぼくには分からない。
そしてぼくは勢いよく、葉巻を吸い込んだ。
肺の奥まで。
途端に目の裏に火花が散る。
脳の血管が収縮している。急速に。
たまらない感覚だよ。
この小うるさい自意識が消え去っていくのは。
人の意識ってとてもやっかいなものなんだ。常にその対象を探してる。ああ、もう少し精密に、ちょっと古いけど現象学的に言うならば、意識は実体じゃない。何かを志向することそのもの。つまり矢印に過ぎない。矢印は意味を持たない。ただ何かを指し示すだけ。
ということは、指し示す内容が消えると意識も消える。
ぼくの意識はさっき死んでしまった。
友達、そう、友達だと思っていた人たちが消えてしまったから、それを「志向」していたぼくの意識も死んだ。
あの人達は誰もぼくを見ない。
なんだかよく分からない理由でぼくに何かを貼り付けて、彼ら彼女ら自身の脳内で”ぼく”を演じさせている。好きなように。
別に構わない。人は結局そのようにしてしか他者を把握できないんだから。ぼくだって同じことをしている。この人は「こういう人だろう」と勝手に決めつけて交流しているからね。だから責めはしないよ。当然のことだ。
ただね、それにしても程度ってものがある。
あの人達は誰もぼくの「実体」を望んでくれなかった。決して触れることが出来ない「ぼくそのもの」。理論的に不可能なそれを、理論的に不可能であるがゆえに望まないのは合理的だ。無駄がなくていい。でも「実体」の似姿くらいは探ってほしかった。「この人はたぶんこんな感じの人だろう」って近似値を探ってほしかったし考えてほしかった。それがつまり興味を持つということだ。
この望みは高望みだろうか。高慢だろうか。
ぼくと余りにもかけ離れた謎の人物像をぼくに貼り付けて、それを当然とする人たちに異を唱えるのは無礼だろうか。傲慢だろうか。ぼくには分からない。もしかしたらそれが普通なのかもしれない。
でもまぁ、ぼくもいい歳だ。30を過ぎてそんな恥ずかしいことは言えない。だから諦めた。
時計もね、さっきまであんなに好きだったのに、なぜだか色あせてしまった。
小グロワスもね。さっきまであんなに気に入っていたのに、いまでは世界で一番豪華な手錠のように感じられる。煩わしい。
簡単なことだよ。これは誰か他の人に贈られたものだから。
ちょっと時間をおいてアナリースさんに返すことにしよう。彼女が本当に贈りたい人に贈ってほしいから。
考えてみればぼくが持っている他の時計も全部借り物だ。ぼくのものではないお金で買ったものだ。
では、ぼくのものとはなんだ。
”物”はすべて与えられたものだ。親から、あるいは会社から恵まれたものだ。ぼくのものじゃない。
そうやって考えを進めていくと愕然とするよ。
ぼくのものは「ない」。
頭の中に詰まった考えや知識だって突き詰めれば全部借り物に過ぎないんだから。さらに怖いことを言うとね、意思さえそうだ。何かをしようと決めたとき、その決断は必ず外部の何かの影響を受けている。
意思さえも不純であるならば、何物にも影響を受けないものなんて存在するんだろうか。
『方法序説』的に考えればぼくの存在を意識する意識あたりだろうか。でもそれだって意識を可能にする肉体あってこそといえる。
じゃあ肉体はどこから来たのか。母と、誰であるか明確には言えない、だけど恐らくこの人と推測できる父の遺伝子の結合に過ぎない。
そこまで考えを進めたあたりで望んでいたものがやってきた。
急激に強い煙草を吸ったときにそれは起こる。
強烈な息苦しさと目眩が。
これこそがぼくが望むものだ。
余計な思考の息の根をしっかりと止めてくれるもの。
ぼくの息の根を、しっかりと止めてくれ。
◆
「兄さん? 兄さん? 大丈夫?」
ソファに俯いて放心したぼくの肩に何かが触れる。上着越しに感じるそれは明らかに人の手で、鼓膜を震わすその声は明らかに人のもの。
「……ああ、茉莉。うん。大丈夫だ。ごめん、久しぶりに葉巻を吸ったらこの様だよ」
彼女はぼくの隣に腰掛けた。ソファが沈む感触がぼくにそれを伝えてくれる。
息苦しさを和らげる術はない。
じっと待つだけだ。
ゆえに彼女に出来ることも何もない。
茉莉さんは黙ってぼくの隣にいた。ぼくは太ももの側面に彼女の肉を感じる。恐らく太ももの。スカートの布を通して感じる肉の熱を。
それは明白な生き物の証だった。
少しずつ少しずつ、呼吸が復活する。呼吸が息を吹き返す。面白い表現だね。
同時に、意識もまた霞を払い露わになる。
ぼくは横目に彼女を視た。脂汗でべったりと張り付いた髪の隙間から茉莉さんの横顔を見た。彼女はぼくに視られていることに気づくと、その端正な、怜悧な口元を緩めて言った。
「兄さんはもう……。ときどき本当に、絶望的に抜けていますね。煙草なんてもう何年も吸ってないのに無理をして。ほら、ちゃんと私を見てください」
「ああ、ぼくはそうだ。ときどき抜けているね。ぼくは考えが足りない」
彼女はまさに思慮不足の無謀な男児をあやすように、ぼくの手の甲に自身の手のひらを乗せた。
たぶん彼女はぼくの手の甲から熱さを吸っている。二人の熱が混じり合って平準化するまで、そう時間はかからない。
「ねぇ兄さん。こんなときに言うべきではないかもしれないけど、一つ頼み事をしてもいいですか?」
「もちろん。——ちなみにここの払いはもうしてあるから、破産の恐怖に怯えなくても大丈夫だよ」
ぼくの明白な冗談は効果を発揮しなかった。彼女はちっとも笑ってくれない。
茉莉さんはいつものように、あるいはいつもに増して真剣な顔で、ぼくに願い事を告げた。
「兄さんの会社で私を雇ってください」
「茉莉を? なぜ?」
「私の価値をそこで示せるからです。私はきっと兄さんを助けられます」
「ぼくは別に困ってないよ。みんないい人達だ。みんなぼくを助けてくれる」
本当のことだからね。
会社には特に問題は無い。いや、ちゃんと言おう。別にどうでもいい。
「それでも、一緒にできることがあるはずだと思います。兄さんがやりたいことを助けることができます。その能力があると自負しているんですよ。これでも」
照れが出たのか、ちょっと目を逸らして彼女は言った。
ぼくがやりたいこと。そんなものは実は一つもない。
でも、茉莉さんのこの申出は本当に嬉しかった。彼女は”ぼく”を助けてくれると言った。この”ぼく”を!
ぼくの近似値を彼女は探してくれたんだ。
ぼくの「実体」は彼女には分からない。でも、彼女はぼくを見て考えてくれた。「この人はたぶんこういう人だろう」って。そして、ぼくの力になりたいと言ってくれた。
それこそが、まさにそれこそが、ぼくがほしかったものだ。
救けだ。
「茉莉の能力を疑うなんてありえないよ。じゃあきみは我が社初の女性上級管理職だ! ぼくは自慢しよう。取引先にもね。『我が社のエースを見てください。この人を!』って」
友達をたくさんなくした後で、こうしてぼくと居てくれる人がいることが本当に嬉しかった。
ぼくは子どもみたいだ。お菓子を取り上げられると泣いて悲しみ、もらえると笑って喜ぶ。でも仕方がない。人間そういうものだよ。
「これはうれしいな。人事には話しておく。待遇と入社時期を明日以降に詰めよう」
ぼくの声はとても弾んでいたよ。とても。たぶんね。
◆
「ええ。そうなさってください。すでに2度お助けしていますから。3度目もきっと私が必要になるはずです。——兄さん」




