仕事 1
人間関係は文字通り「関係」だから、両者が相手に対して何らかのアクションを行うことで成り立つ。
分かりやすい話だよね。どんな行為においても、相手が存在する限り人は見返りを期待している。もちろんそれはお金とか分かりやすいものでなくてもいい。自分を幸せな気分にさせてくれる言葉とかでも問題ない。というか、日常生活ではそっちの方が多いかもしれないね。物理的な何かが求められる場合、それは交流の中でも、よりはっきりとした輪郭を持った行為——ビジネス——になるわけだから。
さて、いつものように裏返してみよう。
ある善良な中年男性がうら若い美貌の才媛から好意を受けてる。あー、もっと正確に言うと、4桁くらいする貴重な時計をただで貰った。にもかかわらず相手が欲している見返りが見えない。想像が付かない。
これはもはや人間関係とは言いがたい何かだ。ペットですらもう少しマシだよ。犬に餌をあげる見返りに、飼い主はその存在自体から癒やしを得ているわけで。
この善良な中年男性は犬や猫のように癒やしを与えられるわけでもないので、もう本当に謎。
「その時、突如理由のない暴力が主人公を襲う」みたいなフレーズはちょっと面白いよね。じゃあこう言い換えたらどうだろう。
「その時、突如理由のない暴力(的なまでの好意)が主人公を襲う」
コメディとしては面白い。
で、実体はとびきりのホラーだ。
アナリースさんを中央通りの行きつけの店に案内する前日、ぼくは恐怖に怯えながら毛布に包まってた。
あ、アルパカは箱買いしたのでたくさんあるよ。我が家にはアルパカの群が生息してる。
だから残りを気にせず思う存分飲みながら、足りない頭で必死に考えた。
見返りを求めないなんて、ありえない。
中央通りを案内?
そんなわけないね。家を一軒プレゼントされて、お代は牛乳瓶の蓋——分かるかな。ぼくの子どもの頃は給食の牛乳は瓶で出たんだ。その蓋を集めるのが一時流行った。男子は常に何かを集めたがる生き物だ——でいいと言われたら、その言葉を素直に受け止められるかな。それができる人は大物になるよ。
たとえばこの間乱入してきた叔父さんみたいなタイプはそれができる。嬉々として蓋を渡して家を貰って、上物壊して、周りの空地買収して、土地を合わせて売るね。仕上がるとはつまりそういうことだから。
で、見返りはなにか。
一匹目のアルパカを腹に収めたあたりでぼくの蒙は開かれた。
気づいてしまえば本当になんということはない話だ。
つまりビジネス。
彼女はブランド全体のCMO(最高マーケティング責任者)だった。
要するに日本市場の調査をする、と。
自分で言うのもなんだけど、ぼくは人よりほんのちょっとだけ趣味の品にお金を使うタイプだ。マーケティングのプロではない代わりに、身銭を切って色々なブランド、色々なお店、色々な店員さんと関係を構築してきた。
そのぼくが銀座を案内する。行きつけのお店の人に彼女とそのブランドを紹介しながら。
あ、時計に限らずちょっと高い品物を扱う業界は、ブランドや資本が違っても中の人の交流が盛ん。上の方も下の方も皆知り合いで、ここだけの話色々な融通がそのサークルの中でなされてるところがある。例えば他のブランドに自分のところの上顧客を紹介するとかね。
ぼくはその不可視の輪っかの中に彼女を紹介する。
エストブールというブランドにとって日本でのベンチマークはどこか、どのポジションを狙うべきか、どの代理店と付き合うべきか、そういうのを一アマチュアのぼくが「友人」である彼女に伝える。ちょっとした世話話として。
この辺り、お金に換算できない部分も大きいから正確には算出できないけど、プロを雇ってやろうと思ったら、まぁ確かに4桁は動いても全然おかしくない。大手だとさらに一桁増えるかもしれない。
さて、このことに気づいたとき、ぼくの安眠は保証された。
つまり明日は仕事の日ということになる。
仕事が好きとは口が裂けても言えないけど、不条理系ホラーの対象になるよりはよっぽどマシだよ。
それにしてもアナリースさん、凄いやり手だな。
あの思わせぶりな、相手に「あなただからよ」って思い込ませる手練手管は本当にすごい。今度エストブール氏に会うことがあったら激賞しておこう。
ただね、一つ失敗があるとすれば、ぼくより優秀な水先案内人なんて幾らでもいるのに、ぼくを相手に選んだことだろう。
ビジネスの相手に。
さぁ。そうと決まればお店の選定はやり直さなければならない。場合によっては青山辺りも連れて行くべきかも。最近各ブランド、若干銀座離れ進んでるからね。超高級系ブランドでも。
渋谷は駄目だ。あそこは価格帯の桁が二つ低い。表参道と新宿は悩ましいところだけど、上品系で行くなら新宿はちょっと。
あ、そういえば住宅街のど真ん中に突如ブティック建てた高級ブランドあったな。ドイツの。あそこモノは最高だしコンセプトも分かるけど、アクセス悪すぎ。
やっぱり銀座が鉄板か。
あ、アルパカ1匹は寂しいからね。もう1匹行こう。
◆
「どこかTV局の取材が入っていたのを忘れていたかと、一瞬ヒヤッとしましたよ」
店長さんが控えめな笑顔で冗談を飛ばす。ダンディという言葉がこれほどにフィットすることも珍しい、丁寧に整えた髭の中にある逞しい口元を軽く歪ませて。
たしかに皆さんそういうオーラあるので白々しくは聞こえない。
「ああ、まぁ……それは否定できないかもしれません。皆さん存在感ありますから」
「本当に。それにしても珍しい。いつもお一人でいらっしゃるのに!」
行きつけというか、もはや喉が渇いたら喫茶店代わりに利用しているほどによく来るこのブティックは銀座中央通りの新橋側、さっきぼくが知子さんと偶然出会ったあのショッピングモールのすぐ近くにある。
あるスイスのブランドグループが保有しているブランドをひとまとめに展示している、いわばそのブランドグループの日本本社だね。
地下1階から4階までがブランドブティックになっていて、その上はメンテナンス受付と工房。さらに上階はオフィス。最上階がイベントスペースになってる。結構良い景色だよ。銀座の美味しいところがそこそこ見える。
で、ぼくがよく行くのは3階。まぁ2階も4階もよく行くといえば行くけど、一番付き合いが長くて波長があうのが3階。Bで始まるブランドのブティックだ。
さて、立地とか諸々を考えたとき、店長さんのサラッと、しかし明確に放たれた言葉は趣深い。
”いつもお一人でいらっしゃるのに!”
これ。
ようするに、法的な拘束力を持つ関係性のお相手以外の方と自由恋愛をされていて、かつ、その自由恋愛中の女性とここに来る人もいる。その人は当然、法的な拘束力を持つお相手と訪れることもある。分かるね。
あとは、擬似的な自由恋愛をお仕事にされてる女性もよく来るみたいだよ。
こわいね。
店長さん、今日は内心結構驚いてるだろう。
普段いつも一人でやってきて、新作を見せてもらって時計マニアトークに花を咲かせるだけの典型的”寂しい中年男”がいきなり4人の女性を連れてきたんだから。
あ、ぼくが実はアイドルグループのマネージャーであるとかそういう嘘は通じない。ぼくのパーソナルデータ全部知ってるからね、彼。
面倒なことに、ある程度換金性の高い商品を買う場合、社会的立場を聞かれる(そして裏で審査される)ことは多い。というか大体される。何も彼らがお高くとまってるとかそういう問題じゃない。
理由は2つ。
ブランドってようするに「幻想」の結晶みたいなものだよ。その最大のものが「国民国家」だとすれば、文化的側面の結晶が「ブランド」だ。つまり、ぼくたちはあるブランド品を、それが生み出された国、あるいは地域、あるいは階級の文化が具現化された物として見てる。ちなみにこのBのつくブランドはフランスという国の貴族文化とそれに続くブルジョワ文化の象徴に位置づけられる。
よって、その「幻想」にそぐわない人に持たれると幻想は脆くも崩れ去ってしまう。持ってる人の属性にブランドのイメージが上書きされてしまうからね。これに苦しんでいるブランドは本当に多い。だって大体の場合、ブランドイメージを上書きするようなタイプの人ほど、それを買えるお金を持ってるんだから。でも背に腹は代えられないので、まぁ、そこには目を瞑ることも少なくない。お店も商売なので。
もう一つ。こっちはかなり深刻な問題。換金性の高い商品はある種の犯罪に利用されることが多い。直接ではなく、犯罪が行われた後、その証拠隠滅のために。それを規制するための法律もある。
この二つの理由はその対象が結構近接している。要するに、ブランドのイメージを上書きしてしまうタイプの人がいて、その人はお金を持ってる。そのお金をどうやって手に入れたのか、という話だね。前者は目をつぶれるけど後者は明確に駄目。違法になるので。そこをしっかり見分けなければならない。
なんでこんなに長々と説明したかというと、こういうブランドが「客を選ぶ」のは、ただ好き好んでやっているわけではないと伝えたかったんだ。
彼らは純粋に、合理的に、商売を成立させていくためにそれをやって……ないね!
正直に言おう。かなり鼻持ちならない選良意識を全開にしてるブランドもある。
あ、ここは違うよ。それは強く主張しておきたい。
さて、本題に戻ろう。
店長さんはぼくの社会的立場も職業も知ってる。となると何を考えるんだろう。すぐに思いつくのは、ぼくが独り身の寂しさに耐えかねて疑似恋愛のプロの皆さんと派手に遊び始めたパターンだろう。
でも、ここで再び困惑するはず。
だって皆さん、あまりプロっぽくない。
青佳さんは上品系ドメブラを纏ったほわっとしたOLだし、茉莉さんはバリキャリ、かつ私服はヴォーグ的お洒落。
知り合ったばかりだけど知子さんは意外にも尖った男受けゼロの服——ライトグレーのスクールユニフォームみたいな縁取り入りの上着に鮮烈な赤いドットのスカート——を着てる。ギャルソンかな?
で、アナリースさんはね。濃紺のワイドスラックスにちょっとだけぶかっとしたネイビー開襟シャツ。青系を絶妙な塩梅でグラデーションさせてる。腕まくりもかっこいい。ハリウッドセレブのオフショット感満載。
なんだこの人々……。
整理しておこう。高嶺の花OL1名、バリキャリ1名、アート系女子大生1名、ハリウッドセレブ1名。
もう隠してもしょうがないね。ルッキズム全開で行く。皆さん凄まじくかわいい。
なんだこれ……。
さっきも例のショッピングモールエントランスで待ち合わせしてたときに、微妙に注目浴びてたからね。
ここ銀座だよ? 路肩にフェラーリとかランボとかマクラーレンとかが軽自動車みたいに停まってて、芸能人とすれ違うことも多い異世界だ。そこで注目されるってどういうアレなんだろう。
ぼくはちょっと無駄な抵抗をした。ほんの少し皆さんと距離をあけて歩こうとね。ほんの少しゆっくり歩いて、皆さんに先を行っていただく。ぼくは先行の女性陣とは無関係な雰囲気を出していく。
駄目。
不気味なぐらい歩調をシンクロされる。
ぼくは意識してゆっくり歩いてるのに、皆さん無意識に(無意識だよね?)合わせてくる。阿吽の呼吸。
なんだこれ。銀婚式間近の夫婦かな?
4人と?
え?
皆さん、何となくぼくを囲むように位置取りをされている。
ぼくは人生の絶頂を味わったね。
動画で見たことないかな。氷河から細切れになった氷の上に、群から取り残されたアザラシが1匹。その周りを大きなシャチが数匹泳いでる。時々波を立て、時折体当たりをして氷を揺らす。
かわいいね。
アザラシとシャチ、海に生きるお友達同士。
皆で遊んでるのかな?
自虐風自慢に見えるよね。分かるよ。
自覚してる。
さっき会ったばかりの知子さんは別として、青佳さんにも茉莉さんにもアナリースさんにも多分好意を持たれている。濃淡は違えど少なくとも嫌われてはいない。本当にうれしいよ。
ただね、理由が全く不明なんだ。
なんだこれ。
◆
「店長、今日、裏空いてますか?」
「ええ。大丈夫ですよ。——じゃあ行きましょうか」
ここのお店、通常の接客スペースの奥、一見壁としか見えないシークレットドアがあって、その先に結構大きな商談部屋がある。
ぼくたちは店長さんに先導されてそこに足を踏み入れた。
ヴェルサイユ宮殿? プチトリアノン? 分からないけど、その辺りの時代を模した白基調のインテリアで、薄暗い黒基調のウッディーな通常スペースとはまさに別世界。
要するにVIPスペースだね。
でも、高いものを買う人を入れるとかそういうのでもない。他人の目にさらされたくない立場の顧客向け、というのが一番大きい理由だろう。誰とまでは聞かなかったけど、政治家の方とかやんごとなき血筋の方とか来るみたいだから。
やんごとなき方。凄いね。
そういえば知子さん、名字が島津だったな。つまり世が世なら公爵令嬢で皇室とも縁続き。やんごとなき方代表のような存在だね。
ぼくはそんな馬鹿げた想像を頭の中で転がしてちょっと楽しんだ。
ありえないからこそ楽しめる想像でもある。
島津さんって名字の人、日本に大量にいるからね。
逆に冗談抜きでやんごとなき系なのはアナリースさんだ。エストブール家はオーストリア王室の分家由来らしいので。とはいえさすがに今は21世紀、エストブール氏ご本人も全く気にしてない模様。気さくな人だよ、彼。
さて、ぼくは何度か入ったことがあるこの部屋だけど、皆さんには正直引かれるんじゃないかと思っていた。アナリースさんは別として他の3人は普通のご家庭の出身。もちろんぼくも平民ど真ん中だ。そんなぼく達が銀座のど真ん中にヴェルサイユ宮殿を見たら驚くでしょ? しかも一目で分かるイミテーションではなく明らかに超高級そうな作りだからね。ソファもテーブルもシャンデリアも。
そのはずだったんだけど……皆さん誰も驚かれない。
至極当然、むしろ日常生活の一部です、みたいな顔で平然とソファの位置取りを始めてる。
まぁアナリースさんは分かる。
他の3人の方々……。
青佳さんとか口癖の「まぁ!」が出るかと思いきや、ふぅん、って感じだし。茉莉さんもいたって自然な真顔。知子さんは変わらずニコニコ。
これはやっぱりあれですかね。
皆さんその、仕事(学校)が終わった後に、「姫」とか呼ばれて誕生日にはワイングラスのピラミッドにシャンパンを流す形で祝われるタイプの副業をなさってらっしゃるんですかね……。
◆
「済みません。無理を言っちゃって。今日はお連れした皆さんに銀座を案内しているんですよ。ただ、この大人数なので表だと迷惑になりますから」
「なるほど! いえいえ、お気になさらず。——それで、お嬢様方をご紹介いただいても?」
店長さんを対面に、ぼく達が長い腰掛け椅子にずらっと並んで座った。4人掛けなので、単座の一脚を寄せて。
本当はぼくがその単座に行きたかったんだけど、残念なことに茉莉さんに取られた。彼女は小学校のレクリエーション強かったタイプだな。椅子取りゲーム。
そんなわけで、不思議なくらい自然にぼくが真ん中に誘導されている。
右隣には青佳さん、左隣にはなぜか知り合ったばかりの知子さん。その向こうにアナリースさん。
青佳さんのさらに向こう、単座の椅子に茉莉さん。
「もちろん。皆さんこちらのブランドの時計に興味をお持ちのようだったので」
「それは光栄です!」
要するに「ご紹介いただいても?」の問いとぼくの「もちろん」という答えは、この女性陣は顧客になることが可能なのか、という超婉曲な問いであり、その答えでもある。
これでぼくが言いよどめば店長はそれ以上踏み込んでは来ない。
可能かどうかでいえば、茉莉さんとアナリースさんは可能。
茉莉さんはバリキャリだし、アナリースさんはそもそもお父さんが最近までこのブランドの主任技師だった。そして今は経営者。
一方で青佳さんは厳しい。
もちろん中型の国産車くらいの金額のものもあるから貯金をはたけば買えるだろうけど、恐らく本人が欲しがらない。勘だけどね。
で、知子さんは確実に無理だ。
女子大生だからね。でも優秀な学生さんだろうから、茉莉さんルートに乗れば将来的には可能。
総体的に、女性陣の来訪はブランドとしても大歓迎だろう。こういうところは一期一会の関係を好まない。何十年と付き合っていくこと前提なので、今日この場で買ってもらいたいとは思ってない。
「こちらは三沢青佳さん。ぼくの会社で働いてくれていた方です」
さらっとご紹介。店長さんは軽く頷いて自己紹介、名刺を渡す。
「それで、こちらは島津知子さんです。まだ学生さんですけど、とても優秀な方で美術に造形が深い。ぼくの大学の後輩でもあります」
ちゃんと言っておかなければ。相手も仕事なので、将来的に利益が生じる可能性があることだけは仄めかしておく。
「そして、三沢さんのお隣の方は下川茉莉さん。遠縁の親戚ですが、ぼくと違って彼女は凄い優秀で。○○不動産の、あ、日本橋にお勤めです」
これもね。ちゃんとバリキャリであることを伝えていくよ。
ここまで紹介したとき、店長さんは三人に対して全く同じく丁寧な態度を取っている。一言二言、交わす言葉は異なれどトーンは同じ。茉莉さんにだけ丁寧とか年若い知子さんを軽くあしらうとか一切無い。
当たり前だよね。誰がどういう立場か分からないんだから。見た目や表面上の経歴だけで判断するなんて絶対にしない。店長さんはこの道でも名の知られた人なので。
たとえば青佳さん、ごく普通のOLっぽい服装で、ぼくの紹介も「うちの(元)社員」というものだ。ということはつまり、ぼくの愛人である可能性がある。
実際は違うけど、そういう推測は当然可能。
知子さんだって、ひょっとしたら例の島津さんである可能性すらあるからね。これはまずないだろうけど、そういう推測も可能と言えば可能。
だから、鉄壁の紳士的イケオジである店長さんが明白な驚きを示したのは最後の一人を紹介したときだけ。
「最後に、そちらがアナリース・エストブールさんです。——あ、店長さんのお考えの、そのエストブールさんです」
「ということは、エストブール氏の?」
「はい。ご息女です」
鷹のように精悍な瞳を見開きアナリースさんを見つめる店長の姿を確認しつつ、ぼくは話し始める。
「店長ご存じですよね? ちょっと前にエストブールブランド立ち上げのパーティーがあったのを。そこで彼女とお会いして……」
ぼくはこなさなければならない。
依頼された仕事を。




