幸せな女 2
銀座中央通りの新橋側に一際大きな高級ショッピングモールがある。
現代には時代遅れとなった古き良きデパートを改装したそこには世界中の様々なブランドがテナントとして入居している。それだけならばどこのデパートも変わりはないが、このモールにはデパート固有の売り場が存在しない。
ゆえに「ショッピングモール」。
島津知子は銀座を特に好みはしないが、大学にほど近い立地ゆえに時折は訪れる。
古い家——より飾らずに言えば日本有数の名家の娘として、家として付き合いがある店も多い。4丁目交差点付近にならぶ戦前からの老舗商店などは娘時代から家族で足を運んだ馴染みの場所だ。
大学生になり単独行動の機会が増す中で、馴染みの店へ赴く機会は明らかに減った。二十歳そこそこの女子学生が家一軒買っておつりが来る首飾りや着物を欲することなどないし、より手頃な日用の服や鞄は端的に言えば趣味に合わない。対象年齢が高すぎる。
そして何よりも、自分が顔を出すと必ず現れる「店長さん」あるいは、「より偉い人」と交流するのが億劫なのだ。
純粋なデザインとしての服飾を好む彼女は、どちらかといえばより新しいブランドに興味を抱いていた。中でも日本が世界に誇るあるコレクションブランドの直営セレクトショップは銀座に来れば必ず立ち寄る場所であった。
ショップ最上階のカフェで軽食を食べ、名物の「にんじんケーキ」を楽しむ時間は至福のひとときと言えた。
この日彼女が銀座を訪れた理由は友人の付き添いである。
友人が先日知り合った男性と会うという。
彼女はその男性と面識を持たないが、聞けば大学の先輩とのこと。一緒に行こうと誘う友人の姿に知子は複雑な感情を抱いた。
その男性が誰であるか、大体の想像が付いていたがゆえに。逢瀬を指折り数える友人と対称的に、彼女は男と会わなくて済む日が何日残っているか、指折り数えた。
会えばやっかいなことになる。
何ら根拠のない推測でありながら、彼女はその未来を確実視していた。自分の心、そして身体のことだ。考えるまでもない。分かる。
出会ってしまえば何かが変わるだろう。それが知子という一人の女性にとって幸せなものであるか、あるいは不幸なものであるか。予測できないのはそこだ。
13時に例のカフェで友人と待ち合わせした彼女だが、約束の1時間前には銀座に着いた。午後のイベントに起因する憂鬱を誤魔化すべく、軽く街を散策しようと考えたのだ。
歩行者天国として解放された中央通りを当て所なく彷徨う。初夏の屋外は湿気も相まって、お世辞にも快適とは言いがたい。
彼女は手近なところ、例のショッピングモールに歩を進めた。
ブランドのテナントには興味が無い。女子大生が憧れる絢爛豪華なハイブランドも彼女にとって特に面白みがあるものではなかった。母が招待される——そして彼女も——内覧会でコレクションの最新作は大体見ているのだから、入店するのにも列に並ばなければならないほどの混雑の中、あえて店に寄ろうとは思わない。
彼女のお気に入りはモールの6階にある。
物質的虚栄の極ともいえる街においてごく稀な存在——書店があるのだ。それも申し訳程度にフロアの片隅に追いやられたようなものではない。フロアの半分を占有した本格的なもの。小説、評論、技術書、新書など定番のものから、実店舗にはあまり置いていない画集や美術書に至るまで、胸を張って「書店である」と名乗るに足る在庫を誇っている。
中でも知子が好むのは美術書と画集のコーナーだった。
古典から現代美術に至るまで、幅広い、人類の感性が持ちうる多様性の展覧会といったところ。鼻につくほどではないが適度にお洒落で落ち着いた雰囲気も好みだった。
近代美術の棚からある日本人画家の作品集を抜き取ると、通路に備え付けられた丸椅子に腰掛けてぱらぱらと眺める。歩き通しで少々疲れた足を休めるのにもちょうどいい。
本棚の奥からふらりと現れた男が自身の座る椅子の前に立ち、書棚を眺め始めたとき、彼女は何も気に留めなかった。
中背中肉の男。
薄手の深いカーキセットアップ。近くにその存在を感知して、ちらと目を上げた彼女の視界に入ったのは男の背中。それだけだった。
男は何かお目当てのものを探している風でもない。
両手を後ろに組み、明らかに暇つぶしといった体で所在なげに背表紙を眺めている。
よくあること。
画集には美麗な表紙のものが多い。軽く眺めるだけならば小説や評論よりも少しはましであるといえる。退屈であることには変わりがないが、少しだけましな退屈なのだ。
だが、男と知子にとって退屈が霧散する瞬間は突如やってきた。
男がぽつりと言った。
「still life? ……”まだ生きてる” ん?」
誰に聞かせるでもないその独白を、普段の彼女であれば気にも留めなかったであろう。
だが、この日、この瞬間、彼女は行動を起こしてしまった。
耳に届いた言葉の滑稽さに小さく吹き出したのだ。
美術に興味がある者ならば知っていて当然の言葉「still life」。それに見当外れな訳をつけた男の言葉は悪意なく、単純に面白かった。
「ああ、申し訳ない……。読書のお邪魔をしてしまいましたね」
背後から発せられた女声の失笑を受けて男は振り返った。
「ごめんなさい!」
彼女は慌てて頭を下げる。
無礼な行為であることは明白であった。馬鹿にする意図があったわけではないが、結果的にそう取られても仕方のない振る舞いだ。
「いえ。こちらこそ申し訳ない。……その、たぶん私は変なことを言ったんですね」
「そんなことは」
男は微かに笑った。穏やかに。
見たところ40までは行かない。20代後半から30代半ば。
その落ち着いた、少々意地悪い表現をすれば「毒気を抜かれた」姿はどこか浮世離れした空気を纏っていた。
見たことがないタイプの男だ。
彼女の家が営む会社にも、両親が関係する様々な団体にも、父が顧問を務める大企業にも、このような男はいなかった。少なくとも彼女が引き合わされた男達の中には。
知子が見知った年上の男達は皆、どんな外面を持ちこそすれ、その体内に強烈な活力を秘めていた。翻って目の前で困ったように薄い笑みを浮かべる男にはそれがない。
ゆえに彼女はちょっとしたお節介を焼くことにした。
普段であれば決してしないような行動を。
本日二度目の。
「あの! still life は”静物”って意味なんです。花瓶とかお花を描いた……」
言ったそばから後悔が彼女を襲う。
明らかに年上の男性が若い女の子に知識の欠如を指摘されたとき、どのような反応を示すか、大体の想像は付くからだ。どれほどに表面を取り繕おうとも内心不快に思うだろう。彼女はそれを高校、大学で十分に経験していた。
教師の間違いを指摘する、あるいは説明に対して疑問を発したとき男達が見せる一瞬の表情を。生意気な小娘に対して。彼らはすぐに取り繕う。名人芸とも言うべき俊敏さで寛大を装う。
相手は小娘だが、非常な名家の特別な小娘であり、また異性の好感を引き出すに相応しいだけの可愛らしい容姿を持っているのだから。
しかし男の反応は知子の想像から外れた。
男は見飽きた名人芸を披露しなかった。ただ不思議そうに首を捻り更なる疑問を口にした。
「なるほど。面白いですね。不思議な感じだ。花瓶は生きていないのに Life とは」
「still には"まだ”の他に”動かない”って意味もありますから。海外だと”動かない命”は”物”扱いなんです。今は美術の専門用語ですけど」
「そういうことか。デカルト的感覚なのかな。——ありがとうございます。教えていただいて」
男はもう一度軽く会釈をして会話を打ち切った。
”デカルト的感覚”。
この一言は明白に女を虜にした。
「そんなことは知っている。おれはもっと知っている」と強がる虚勢ではありえない。ポツリと、自問するように微かに発せられた言葉。
男は自然で在り続けた。
そして、無知を恥じなかった。
堂々たる振る舞いだ。
書店の通路脇で交わした1分にも満たぬ会話から汲み取れるものは何もない。ただの偶発的な、無価値なすれ違いに過ぎない。
しかしそれは彼女が無意識に求め続けてきたものであった。
事実においてではない。
自分が誰かに対して「そう」感じることをこそ、彼女は求めてきた。
感情がうずき出す。
数年前、まだ高校生の頃にそれは女の身体の中に滑り込んできた、不思議な記憶と不思議な感情。以来ずっとそれと上手く付き合ってきた。知子はときにそれに身体を委ね、ときにそれをいなし、ときに手を携えて生きてきた。
ゾフィと。
ガイユール大公女。サンテネリ王妃。プロザン王正妃の母にしてガイユール女公。
ゾフィ・エン・ルロワと。
ゾフィは夫と出会うことを決して望まなかった。
今の彼女がゾフィであると同時に知子であるのと同様に、この日本において夫はグロワス13世その人ではないだろうから。
彼女は二つの未来を恐れた。男に失望する未来と男を失う未来を。
ゆえに彼女は動けなかった。少女の身体は千々に引き裂かれていた。
身体は明白に求める。知子は求めず求め、ゾフィもまた求めず求めた。
両の手足が全て別の方向を志向しているようなものだ。
ゆえに彼女は座り続ける他はない。書店の通路に置かれた、立ち読みならぬ座り読み用の椅子に。
男は静かに去った。
◆
「まぁ! お二人とも、お知り合いでいらしたんですか? なんて偶然! ——そうですね、あなた」
「ああ、いや、知り合ったというか、さっきちょっと上の本屋で……」
小一時間前に二言三言言葉を交わしただけの男。
親友アナリースとの楽しい昼食を全て上の空に塗りつぶした元凶は、彼女の目の前で他の女に不可思議な釈明をしている。
知り合いによく似た女に。
知子の瞳は即座に男女の左手指を確認する。即座に。
そこには何もない。
彼女の瞳は男女の距離を確認する。同時に。
少し近すぎる。
「兄さん、分かっていますね? 兄さん。社会人として。そうですね?」
もう一人、長身の女が男の顔を覗き込む。ねめ付けるように。
「社会人? 何の関係がある。ああ、そうか。前にも言ったように私は採用担当じゃないよ。大学生を不躾にリクルートしたりしない」
「分かっていればいいんです。今の就職市場なら、K大学の学生は絶対に大手にいけますから。地方の中小には来てくれませんよ。絶対に。——夢を見ても無駄です」
知子の耳は注意深くもう一人の女の声色を伺う。精密に。
——ああ、分かりました! なるほど!
心内呟く。
「凄い! 社長さんだったんですね。わたしもそろそろ就活の時期なんですけど、よく分からないことが多くって……。色々アドバイスをいただけたら嬉しいな。——そうだ! OB訪問させてください!」
知子にとって、採用やリクルートといった見え透いた口実を用いての牽制は渡りに船だ。
彼女は就職活動の時期にあり、男は大学のOBにあたるのだから。たとえその会社を志望せずとも活動のアドバイスを求めるのは不自然ではない。
「知子? 知子? アドバイスでしたら私がしますよ。忘れていませんか? 今年から私も経営者です」
アナリースが胸を反らし得意げに言い放つ。冗談めかした反応ながら、その目が全く笑っていないことに彼女はすぐに気がついた。
「もちろん覚えてます! でもアナは私と近すぎるから。やっぱり客観的に見てもらった方がいいと思ったの。私のことを」
当然のことながら彼女は親友の経歴をよく知っている。
吹けば飛ぶような田舎の中小企業の社長と、今後世界展開するであろう高級時計ブランドのCMO兼日本法人社長であり、人脈を辿れば欧州すべての大企業と繋がることができる親友。どちらのアドバイスが役に立つかは火を見るより明らかだ。
ただし、まことに幸運なことに彼女は就職活動に悩む必要が全くない。
履歴書くらいは書くだろうがそれで終わりだ。入社希望の会社の「しかるべき相手」に父が電話を一本入れれば話はそれで終わる。
だからこそ、アドバイスは少しプライベートな内容でよい。むしろそれこそが望ましい。
急速に沸き立つ心を抑えようと務めながら、知子はそれをなし得なかった。
好意はある。それは明らかだ。
彼女は男と夫婦として愛し合い、子を儲けた。
情もある。それだけの時間を共に過ごしてきた。
だが、彼女にとってこの男がどのような存在となるかは未知数である。知子とゾフィは一つの存在でありながら別たれ、別たれながら一つであった。
ゆえに確認する必要がある。
自分はこの男に持ちうるであろうか。敬意を。
表層紳士的ながら心内にはつまらぬプライドを隠した優秀な男ではなく、真に堂々たる男であるか。この男が。
——殿方を知るには、それはそれは長い時間がかかるものですから!
知子は満面の笑みを見せた。
小柄な体躯と合わせて、その姿は可愛らしく、あるいは幼さの残滓すらたたえていた。
一方で、凄惨なほどに大人の女でもある。
サンテネリ王妃にしてガイユール女公。
ゾフィ・エネ・エン・ガイユール・ルロワは。




