幸せな女 1
アナリース・ヴォー・エストビルグは誠に幸せな女であった。
中央大陸の大凡半分を支配する国家の第一皇女として生を受け、若くして、大陸のもう半分を支配する国家の王に嫁いだ。正統な王妃として。
王との間に生まれた男児は王太子となった。一点の疑義もない、正統な存在として。
夫の死後、息子は国王に即位した。
偶然の悪戯が母子を故国——彼女にとっては第2の。しかし心情的には第1の——から追い出してなお、彼女は幸せな女であった。頼るべき祖国があった。
立派に成長した息子は、立派に成長したがゆえに意思を持っていた。自身が愛した夫の遺志を継ぐ意思を持っていた。彼はその存在を求める困窮した人々を助けるために、その意思を持って旅立った。子が自律的な行動を為すこと、とりわけ、無私の気高い行為を為すことは、母親にとって最大の喜びである。
ゆえに彼女は幸せな女であった。
息子の存在は、世界の歴史にあまりにも偉大な痕跡を残した。
後に地上最大にして最強の国家となる一つの国——当時は田舎の小国に過ぎなかったが——の建国にささやかな関与をしたのだ。その行動と死を以て。
彼の名は世界の、人類の”物語”を描く偉大なる石板に刻み込まれている。未来永劫、その名が忘却されることなきように。
つまり、彼女の息子は英雄であった。
ゆえに彼女は幸せな女であった。
女は祖国エストビルグ王国の首都ヴェノン、王宮から離れた閑静な居住区のアパルトマンに住んだ。今だ数少ない中産階級の上澄みと貴族の子弟の別宅として好まれた三階建ての集合住宅の一列が女の家であった。それは「正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地」の第一皇女が住むには少々手狭な住処だった。
それまで歩んだあまりに幸福な生の対価として、晩年の女はほんの少し困難な日常を過ごした。国王——彼女の腹違いの兄——からは、自身の息子の行動ゆえにその存在を疎まれていた。母から相続したローテン・リンゲンの小領から上がる地代は戦後の混乱の中で著しく滞った。高貴にして光輝に満ちたエストビルグの社交界は女にその門を閉ざした。しかし、女の話題だけは時折高貴な皆様方の口の端に上った。
生活に困った彼女は、かつて自身が住んだ光の宮殿で夫と共に学んだ技術を生かし、時計を作った。本物の職人が制作するものに比べれば惨めなほどに素人めいた、粗末な時計を。
自身の元を訪ねてくる、ごく少数の物好きな友人達に彼女はそれを売った。正確には贈った。友人達は気前よく返礼の贈り物をした。女はそれを受け取ることを欲しなかったが、自身と数人の使用人のために受け取らざるをえなかった。
エストビルグの貴族達はこの幸せな女に仇名を付けた。まことに分かりやすく、誤解しようのない名を。
「さる高貴な物売りの方」
と。
夜会においてエストビルグの貴族達が場を盛り上げるために行う上品な笑い話を耳にしたとき、そこに参加した連邦共和国の紳士達——つまり女が手製した土産物を買った人々——は、彼らが属する国家が真に偉大な存在として成長する未来は必然であろうと誰もが納得するほどの立派な態度を示した。
彼らは剣も銃も抜かなかったのだ。
彼らは文明的な抑制をもって、手記にこう示すに留めた。
「”偉大であること”を理解しえぬ哀れな者達の存在こそが、国家を朽ち果てさせる。我らがこの堕落の都において学ぶべきはその一点のみである」
かくも幸福に満ちた女の生において最大のものを選ぶとすれば、その死であろう。
女は夫の死の10年後、そして息子の死の3年後、自身の生を静かに終えた。そのために生きるに値するものを全て失った後、なお長く生を繋ぐことは悲劇である。その悲惨を逃れ得た女は、誠に幸せな女であった。
女は自身に仕えた忠実な使用人の再就職先を斡旋する手紙をいくつか残している。また、自身の身体を収める棺桶の発注書も残されている。
彼女の署名は簡潔である。
「アナリゼ・ルロワ」
ヴェノン郊外の斎場で執り行われた葬儀はまことに不思議な様相を示した。厄介者のちっぽけな女を送るものにしては少々豪華に過ぎたのだ。
当年王制に復帰したサンテネリ王国からは国王ロベル3世の名代として枢密院首相ブルノー・ボスカルと枢密院軍務卿メアリ・アンヌ・ルロワが多数の随員と共に参列した。女の古い友人であるガイユール女公は名代を立てず当人が参加した。プロザンは王フライシュ4世の名代として王妃マルグーリトを送った。
そして連邦共和国からは、中央大陸各国歴訪中であり女の死の数週間前には面談もなした枢密院主催者グレイスを筆頭に、在エストビルグのしかるべき人物のほとんどが参列している。
女の祖国エストビルグが寄越したのは皇帝の名代たる小身の男爵とヴェノン市の行政管理官数名である。
女の遺灰を巡って小さな争いが起こった。
サンテネリ王国と連邦共和国は各がそれを故国に持ち帰るといって聞かない。最大の権利を有するはずのエストビルグが異を唱えることはなかった。
最終的に女の残骸は分有されることになる。一部はサンテネリに。一部は連邦共和国に。
数ヶ月後、旧大陸と新大陸の二つの国家は女に称号を追贈した。それは偶然にも同義のものであった。
「王国の母」と。
彼女はまことに幸せな女であった。
◆
アナリース・エストブールはオーストリア人の父とフランス人の母を持つ。父はドイツのブランドでキャリアを積み、後にフランスのブランドに移籍した。時計業界の有名人である。
彼女は物心ついてからのほとんどをフランスで過ごした。フランス人の母を持つ彼女はフランスの国籍も有していた。
ごく平凡な、明るいながらも少し物静かな少女の雰囲気がほんの少し変わったのは小学校4年生、9歳のときである。
変化は些細なものだった。まず、勉強に熱心に取り組むようになった。苦手とした数学に嬉々として取り組むようになった娘の姿を見て、両親は教師に面談を申し込み丁寧にお礼を述べた。そしてもう一つ。この変化は父を大いに喜ばせた。
腕に巻くものといえば髪をまとめるシュシュ——アニメキャラクターの動物が描かれた——程度しか興味を持たなかった少女が、関心を示したのである。父が人生を捧げたもの。時計に。
少女の異常性は徐々に明らかになった。
小学校、コレージュでは飛び級を繰り返した。娘の特性は明らかであった。両親は娘に最高の教育を与えることを決意した。
一家はパリに移り住む。少女は5区にあるフランス最高峰の名門リセ、アンリ4世校に進学した。フランスのブランドに移籍していた父はパリの本社と工房があるスイスのロリアンを一週間毎に往復した。
フランス全土から秀才を集めるアンリ4世校においても彼女は飛び級を重ね、2年前倒しの16歳でバカロレアを取得。そのままグランゼコール準備学級に進学する。そして順当に国立政治学院に進んだ。
明らかに、少女は天恵を与えられた存在であった。明るいブラウンの髪に鳶色の瞳。優美ながらどこか隙のある表情は、彼女の経歴と相まってどこか神性を感じさせるものであった。つまり、無垢のものとして。
伸びやかで細い四肢に女性としては高めの身長は、少女を実年齢よりも大人びて見せた。飛び級を重ねたがゆえに級友達よりも歳下でありながら、それを感じさせない存在感を放っていた。
口数が少ない、この極めて優美ながらに無垢な少女に級友達は仇名を付けた。
「ラ・プランセス」
彼女は何も気にしなかった。
少女は勉強を好んだ。
知らないことを知り、知ったことを使用して考えることは無上の楽しみであった。それによって何かを達すること——報酬は求めるところではない。学ぶという行為自体が報酬なのだから。
頭脳の使用と同様、彼女は手を動かす喜びも知っていた。
幸いにも、父は「ブレゲの再来」とあだ名される当代随一の時計師である。しかし、自身が再来と噂されるその人物が18世紀に創始した光輝あるブランドを率いる栄誉すら、娘の存在とは比べものにならない。
彼は忙しい仕事の合間を縫って娘に自身の持てる知識と技能の全てを教えた。彼女は男の一番の弟子になった。
人間の生が常にそうであるように、彼女の転機もまた唐突に訪れた。
コレージュの最終年、定期テストを控えて生徒達は準備にいそしむ。
級友よりも年少ながら、この「ラ・プランセス」は彼ら彼女らの”先生”であった。普段は趣味の話題で盛り上がるSNSのグループチャットもこの時ばかりは試験勉強一色。抜群の成績を誇る彼女への質問は絶えない。
そんな中、一人の級友が書いた一通のメッセージが文字通り全てを変えた。
『王様の名前なんて一生使うことないのに。なんでこんなの覚えなきゃいけないの!』
歴史の試験について発せられた愚痴。
連投された次のメッセージを見たとき、アナリースはその瞳を細め、そしてふわりと見開いた。それは世界で最も美しく、高貴な猫の仕草。あるいは獅子の。
『これがグロワス13世(Gloice XIII)の話なら、すぐに覚えられるのにね』
細く長い指がこれほどに素早くスマートフォンの画面を踊ることは決してない。
彼女はどちらかといえば、ゆったりと動くタイプなのだから。
しかし今、指は思考に追いつかぬもどかしさに震えていた。
『グロワス13世(Gloice XIII)? フランスにはそんな王様はいませんよ』
『うん。知ってる。ちょっとね、日本のサイトでウェブ小説を読んだの。そういう架空の王様が活躍する話』
『そうですか。私も読みたいので、アドレスを下さい』
口頭の会話と変わらぬ速度で、あるいはそれを超えるほどの速度でやりとりは為された。
送られてきたURLを開いた瞬間から彼女のメッセージは途絶えた。級友が試験範囲の苦手箇所をいくら質問しても、アナリースからの返答はなかった。
翌日少女は学校を休んだ。
日本語にして80万字近い下手なアマチュア小説を彼女は読まなければならなかった。翻訳サイトを介して。
フランスにおいても、特に人とほんの少し異なる趣味を持ちたがる年頃の少年少女にとって日本の小説やマンガ、アニメは絶好の対象である。誰もが最初は有名な作品から触れるが、やがて一部の者は、より深く、より知られていない、より先端の作品を探し始める。彼女にメッセージを送った級友の少女もまた、その一人であった。
生理的欲求を解消する以外の全てを後回しにして誰ともしれぬ素人の小説を一晩で読み切った彼女は、徹夜明けにもかかわらず全身に気力を漲らせていた。
普段茫洋と揺蕩う、ともすれば焦点の合わぬ両の瞳は、今や獲物を発見した猫科の大型肉食獣のように鋭い視線を発していた。
その日から彼女の趣味——勉強に新しい科目が加わった。
フランスにおいてはマイナーな、あるアジアの言語である。
そしてもう一つの趣味においても変化があった。
少女は父に願った。
「自分の時計を作りたい」と。
◆
「来週の日曜でいいですか? 知子」
普段仕事の連絡が飛び交う自身のスマートフォンの画面には、珍しくプライベートの友人の名前が表示されている。顔写真と共に。
『島津知子』
「分かりました。では14時に。……はい。そうしましょう。お昼は。ドーヴァーストリートのカフェで。もう! その話は今度」
流暢な日本語で交わされる親友との会話を終えて、アナリース・エストブールは静かに電話を置いた。
六本木に借り上げたマンションの部屋はブランド立ち上げまでの仮住まいである。彼女を残して父はフランスに帰ったが、娘の生活の心配をする必要はなかった。
アナリースは国立政治学院の2年次、日本のK大学に交換留学していた。K大学はフランスのグランゼコールが二重単位協定(双方の留学生が留学先で取得した単位を本校の単位と認定する制度)を結ぶ数少ない大学の一つである。
アナリースはそこで1年間を過ごし日本人の親友を得た。よって、日本での一人暮らしは父よりもよほど慣れたものなのだ。
二人の出会いは知子からのものだった。生来人付き合いに消極的なアナリースにとって、気さくに話しかけてくる同性の少女はまことにありがたい存在であった。
彼女は自身の容姿と知性がどのようなものであるか明確に自覚している。
コレージュ、リセ、そしてグランゼコール準備学級と、彼女と親しくしたいと願う少年達は絶えなかった。リセ・アンリ4世校からは少年達の中でも選りすぐりの者達が彼女の周りに集まった。フランスは純然たる学閥社会であり、かつ階級社会である。例えば国務大臣の息子、例えば著名な作家の息子。中には世界的なファッションブランドグループ総帥の息子も。
少年達は彼女を「トロフィ」として望んだわけではない。将来しかるべき立場を占めることが確定的な彼らにとって、妻もまたそれ相応の能力を持った存在である必要があった。もちろん美貌も。
オーストリアの王家に連なる貴族出自の天才時計師——そのレベルの時計師とはつまり芸術家である——を父に持ち、飛び級でグランゼコールに入学するほどの知性ととびきりの美貌を備えたアナリースは、将来の共和国大統領夫人にも世界的ブランドグループの共同経営者にも相応しい存在と言える。
しかし、同年代の少女達の誰もが羨む状況にありながら、アナリースが選良の少年達に特段の関心を示すことは終ぞなかった。彼ら自身にも、彼らとの交際がもたらす彼女自身の未来に対しても。
当然のことだ。
彼女はよく知っていた。
幸せな女とは、どのようなものであるかを。
ゆえにアナリースは知子の接触に対して至極真っ当な予想を立てた。自分の目立つ容姿への物珍しさゆえ、と。
だが、答えは予測を裏切った。
驚愕と幸福と微量の不安があった。
「なぜって。そうですね! お名前がとても素敵だったから。アナリース・ヴォー・エストビルグさん」
「……知子さん。——わたしの姓はエストブールです」
コレージュから長年学んできた彼女の日本語は、発音の癖を除けばほぼネイティブに近い。ゆえに言葉を探して言いよどむことはほぼ無い。
「はい。知っています。人の名前って面白いですね! 日本にはこんなことわざがあるんですよ? ”名は体を表す”って。私の名前、漢字では知性の「知」に子どもの「子」なんですけど、これをヨーロッパ風に直すとどうなるでしょう! アナリースさんはドイツのお生まれですよね。じゃあドイツ風に。——『ゾフィ』ですね!」
小柄な日本人の少女を彼女はじっと眺めた。
戸惑いがあった。そして思い出が。「お友達」の。
ゆえに彼女は無言だった。
ゆえに、たった今できたばかりの「お友達」が言葉を継いだ。
「私ばっかり話してしまいました……。次はアナリースさんの番です!」




