この人を見よ 3
表参道はアウェー。
銀座とは違う味がある。とにかく人が多い。銀座も多いけど、あそこは立錐の余地なしってほどではない。でも休日のここはまさに人の波。肉体の川だ。
由理くんと会った週の日曜、ぼくは予定通り三沢さんを誘って街に繰り出した。お互い前向きに関係を深めましょうと、そういう合意に至っているからね。大人同士の約束はそこそこ重い。
こう言うとぼくが義務的に彼女を誘ったように聞こえるけど、実態は全くそんなことはない。
ぼくがね、切実に欲していたんだ。
彼女を——あるいは、一緒にいてくれる誰かを。
◆
ぼくたちは昼前に地下鉄の駅から地上に這い出して、メインの通りを一つ外れた路地裏のオシャレバルみたいなところで昼ご飯を食べた。
無農薬栽培の青菜をミキサーで混ぜたジュースとかが出てくる感じのお店。我々は芋虫の雌雄かな。
三沢さんはちょっと物珍しげにメニューを眺めた後、果敢に挑戦してたね。勇気ある。それとも女の人の本能がうずくのかな。
一方男の本能は葉っぱのジュースなんかには反応しない。男の場合はそのね、葡萄をちょっと発酵させた感じの液体に反応するようにできてる。
ご想像通り、ぼくはシャンパンを頼みそうになったけど、そこはぐっとこらえたよ。さすがに。
代わりに麦を発酵させた液体にしておいた。
言葉を飾る必要はない。
街を歩く青佳さんはきれいだった。
幾重にも極薄のシースルーレースを重ねたグレージュのスカートは上品なボリューム感。トップスはブルーのボールドストライプシャツ。”ふわっと”と”キリッと”の対比が面白い。全体的にきれいなAラインを描いたシルエットは彼女の清楚な、でもちょっと大人っぽい雰囲気をこれでもかと際立たせていた。
みんなこの人を見てほしい! この人がぼくの彼女だぞ!
そんな風に言えたらいいんだけどね。実態は彼女とはほど遠い。
パパ活と大差ない。いや、関係性が持続的なものである以上、愛人契約に近いのか。
ぼくが彼女に提供できるものはお金しかない。そして恐らく彼女が求めるものもそれだけだ。
彼女は初夏の日曜午後という一年で最高の瞬間を、このくたびれた中年男に売ってくれる女神様のような人なんだ。
自分があまりにもみっともない状態にあることは理解しているつもりだ。自虐的すぎるとも。
でも、分かるだろうか。ぼくの気持ちを。
仕事がない駆け出しのモデルだった由理くんに小説の書き方を教えたのはぼくだ。
昔ね、ずっと昔、まだ大学を出て間もない頃、ぼくは一冊だけ本を出版したことがある。大学にゆかりのある純文学の雑誌、実態は同人誌のようなものだけど歴史だけは超立派な雑誌に短編を載せて貰ったんだ。卒論の合間に書いたヤツ。それがどこをどう辿ったのか某出版社の目にとまってね。ちょっと長めのお話を一冊書いた。
有頂天とはまさに、あの時のぼくの心情を表す言葉だ。世界の全てが輝いていた。
編集さんは褒めてくれて、売れたら——いや、たとえ売れなくても何冊かは面倒を見てくれるという。「すごい才能だ」って。
結果はご想像の通り。
ぼくは希有の体験をした。国会図書館にぼくの本が収蔵されたんだ。
それ以外は何もない。何も。
でも、そんな商店街の福引きで2等を引き当てた程度の男は、変なプライドだけは後生大事にしまい込んで手放さなかった。だから由理くんに偉そうに教えたんだよ。「小説はこう書くんだぞ!」って。
さて、今ぼくの"弟子"はベストセラー作家だ。彼の本は売れてマンガになって、アニメになって、映画になる。ネットの小説投稿サイトに載せたらあれよあれよとヒットしたらしい。すごいね。
作品を発表するに際して彼は自分の素性を明かさなかった。その頃はもう俳優としてブレイクしつつあったから、作者が由理だと知れればどんな駄作だろうと一定のヒットにはなっただろう。
彼がそうしてくれていたら、どれほどよかったことだろう。
ぼくの臆病な自尊心も尊大な羞恥心もダメージを受けなかっただろう。ぼくは心から祝福してあげられた。友人の成功を。
だけど彼はね、名前を伏せた。
つまり実力だけで勝ち取ったんだ。人気と評価を。
ぼくの心の中に渦巻くこのやりきれない気持ちが分かるだろうか。粘ついたどす黒い、血のように黒い塊を。嫉妬と、もっとはっきり言えば憎悪を。
客観的に見てぼくはとても幸せな男だ。
食うに困る心配は無い。仕事は楽しくはないが楽だ。好きなものを買えるし好きなものを食べられる。4桁の時計だって(無理をすれば)買えるよ。
その上、今、隣には、時折ぼくを見上げて微笑む可愛らしい女性もいる。
なんて素晴らしいことだろう。なんて幸福なことだろう。
これ以上望むものなんてないよ。
ぼくは幸せな男だ。
◆
表参道に立ち並ぶ某海外ブランドのビル。その一つにあまり知られていない穴場がある。ビルの最上階が無料の美術館になっててね。昔担当さんに教えて貰ったのを思い出して、時間つぶしにちょうどいいと行ってみた。
そこでは新進気鋭の映像作家のインスタレーションが展開されてた。70年代くらいのニュース映像をコラージュしたフィルムやら超巨大な謎オブジェやら。
理解するな。感じろ。
作品がそう告げている。
ぼくはこの方面はからっきしなので、米粒みたいな文字で書かれた解説掲示を読みながら彼女と「すごいね」「不思議な感じだね」と感想を囁きあった。三沢さんも現代美術は縁遠いらしく、なんとも珍奇な見世物を見るように、大きな瞳をさらに見開いてぽかんとしてた。
「まぁ!」って言いながら。
これがかわいいんだ。
「まぁ!」が。
彼女の口癖。
他の人が言ったら虫唾が走るタイプの感嘆語だけど三沢さんには本当にピッタリくる。人には明確に、その人を示す象徴的な口ぶりがあるよね。たとえば茉莉さんの「まぁ!」なんて全く想像できない。彼女の場合「よく分かりませんね」とクールに呟くのが似合う。
ぼくはどうだろうか。ぽかんと口を開けて「ああ、うん」とでも呻くだろうか。
で、小一時間徘徊して地表に降り立つ。
本当にノープランなので、表参道の歩道を無目的に歩いた。時々馴染みの時計屋さんが現れるけど、ぐっと堪えた。今日は我慢してばっかりだ。シャンパンも飲まなかったし、時計屋にも立ち入らなかった。
散歩がてら、ぼくたち二人は適当に某イタリアブランドの路面店に入った。
特に見たいものもないし、何かを買う予定もない。この後はどこかで夕食を食べて解散する予定だったから、本当に時間つぶしだね。
入口に待機していた店員さんが尋ねてくる。
「ご来店ありがとうございます。本日は何をお探しですか?」
何も探してないがゆえにこの質問は困る。
だけどいつものことなので「取りあえず、ちょっと見て回っていいですか?」と答える。大体はそれで解放されるんだけど、この日は店員さん気合い入ってたね。
「お洋服はこちらのフロアから〜」
みたいに自明の台詞を聞き流し、ぼくと同年代とおぼしき恐らくはベテランのスタッフさんに連れられて奥に入っていく。
店員さんは基本ぼくには話しかけてこない。レディースウェアのフロアだから当然だね。ターゲットは三沢さんだ。
「今日、本当に良いお天気ですよね。デートとかですか?」
と、まずは探査針から。
ブティックのセールスって実はすごい特殊技能職だよ。
関係性が定かではない男女の素性をごく自然に、相手の気分を害さないように暴きながら物を売る。これは名人芸だ。二人は夫婦かもしれないし友人かもしれない。場所柄を考慮するとそのどちらでもない期間限定の関係性である可能性も大いにある。
大学生同士と一目で分かる若者達なら話は早い。連れて行く場所も小物売り場あたりが鉄板。誕生日プレゼントに財布かキーホルダーとかだから。でも、ぼく達みたいな、特に男の方がいい年した、一歩間違うとセンシティブな可能性を秘めた男女が放り込まれるのは大体服売り場だ。利益率高いからね、アパレル。
で、店員さん、わざとらしい小声で冗談めかして、三沢さんに「彼氏さん、カッコいいですね」みたいに囁いてる。ぼくたちが指輪をしてないところからの推測かな。
無難な「彼氏さん」。全方位角が立たない魔法の言葉。
三沢さんは曖昧な笑みを浮かべつつも否定しない。「そんなことないですー」とか言わない。彼女は優しい人だからね。
この状況において、ぼくはスーパーの刺身パックに申し訳程度に載せられたタンポポの造花みたいなものなので、数歩離れて後ろから着いていくだけだ。
三沢さんは流れるように自然に、高めの商品が並ぶ売り場にどんどん誘導されていく。最終的に辿り着いたのは、ほぼドレスと言ってもいいような綺麗なワンピースが並ぶ辺り。
こういう高級ブランドってぼったくりイメージがあるけど、実はそうでもない。
デザインもさることながら、素材と縫製のクオリティはやっぱり桁違い。あと地味に凄いのが発色。
タンポポ役のぼくさえも強烈に惹きつける程に、ラインも色も綺麗。
中でも一撃で刺さったのが深い赤のワンピースだった。
ワインレッドよりもほんのちょっと明るい。だけど朱色ともまた違う絶妙の中間色。滑らかな超高番手のウール(たぶん)の上、胸元に同色の繊細なレース飾りが縫い付けられている。
面白いのが、よくよく見るとレース編みの模様が小さな蛇のモチーフになってるんだ。
このブランド、クリエイティブディレクターが蛇の意匠好きだからね。男物だとドカンとリアルな蛇の絵が描かれたバッグとか財布を展開してたよ。
この服に関してはもちろんそんな派手な感じではなくて、遠目には無地に見える同色の控えめなものだった。
「ああ、これは蛇なのか」
ぼくの独り言を店員さんが即座に拾う。もう秒速で。
「イタリアでは蛇は幸運の象徴なんですよ。私どもの大切なモチーフで、毎シーズン必ず出るアイテムですけど、こちらは秋冬の新作で……」
すると意外なことに三沢さんが食いついてきた。
「たしかに、よく見ると蛇の模様ですね。かわいい」
「三沢さんは蛇が大丈夫なタイプなんだね」
「はい。蛇は好きです。……親しみを感じるんです。とても身近に感じます」
身近……。ひょっとして飼ってたりするのかな。
夜な夜なケージの蓋を開けては餌として鼠の死体を与える彼女の姿を想像してしまう。まず無いだろうけど、それはそれで妖艶な感じだな。
「軽く合わせてみませんか? 絶対お似合いになりますよ!」
「まぁ! ありがとうございます。ではお言葉に甘えますね」
三沢さん、堂々としてるんだよね。
普通こういうところで3桁近い服を進められたら、よほど慣れていない限り腰が引けるものだけど、彼女は全く動じる気配が無い。ごく当たり前、日常の一コマみたいな感じ。なんといえばいいんだろう。傅かれ慣れてる。
これはやっぱり、お昼の仕事の後にお給料現金手渡しの個人事業をなさってる系なんですかね。
試着室から現れた青佳さんは、もうなんというか素晴らしかった。
今日は普段の大ぶりな三つ編みではなくて、ちょっと高貴な感じにまとめたハーフアップ。新鮮な髪型に、まさにイタリアマジックといってもいい色使いの赤いワンピース。Iラインのシルエットは適度にフェミニン。ただし品格がある。
「ああ、その、とても良いと思うよ。本当に」
「お気に召していただけました?」
気位の高い貴婦人ポーズを意識して、顎を軽く上げ、茶目っ気含みで彼女が囁く。
「素晴らしいね。語彙が乏しくて申し訳ないけど、なんというかな、どこかのお姫様みたいだ」
苦心の末ぎこちない褒め言葉をひねり出したぼくを尻目に、店員さんがすかさず「もう一品」持ってくる。
大ぶりなスカーフ。このブランドのロゴで構成されたモノグラムの上に、黒い大きな蛇のシルエットが描かれている。ベテラン店員さんはそれを軽く折って三沢さんの肩にかけた。
「こちらはスカーフと合わせるとバリエーションが出るんです。オールシーズンぐっと使いやすくなりますから」
こういう「もう一品」の合わせが完璧なのがブランドブティックの強み。全ての商品が統一されたトーンの元で作られているから、何をどう組み合わせても上手くはまる。
こともなく為される名人芸をぼんやり眺めるぼくと対称的に、三沢さんはさっきまでのほんわかした表情を消して、真剣な眼差しでじっと鏡を凝視している。
その横顔は驚くほどに研ぎ澄まされた、高貴さの結晶のように思われた。
あまりの存在感に気圧されつつ、ぼくはなんとか声を掛ける。
「とてもいいと思うよ。私は。——三沢さんはあんまりかな?」
ぼくの言葉を合図にしたように、彼女の顔から威厳が霧散する。残ったのはいつものほんわかした微笑。
「いいえ。——本当にきれいで、驚いてしまいました」
一言一言噛みしめるように彼女は答え、横に控える店員さんに告げる。
「着せていただいてありがとうございます。少し検討させてくださいね」
検討するというのは買わないということ。少なくとも今は。より正確に言うならば、買えないということだ。少なくとも彼女には。
三沢さんは再び試着室に入り、扉を閉めた。
着替えを待つ間、ぼくがするべきことはごく単純だ。
「すみません。今の組み合わせでお願いします」
店員さんはニッコリ微笑み頷いた。このパターンの客に慣れているだろうことがよく分かる。だって店員さん、試着の終わりはぼくの反応しか見てなかったからね。
「お支払いは?」
「カードで。一括でお願いします」
つまりこれがぼくと三沢さんの関係ということになる。
ぼくはお金で好意を買ったんだ。他に差し出せる物がないから。
素晴らしいね。
◆
ぼくの部屋はマンションの31階にある。
こういうタイプの建物には珍しく、ベランダがしっかりあるんだ。
部屋の電気を消して外に出ると、階下に、永遠に、途切れることなく、光の粒が広がってる。
夏の初めの夜はとても過ごしやすい。高いところは地表よりもちょっとだけ気温が低い。そしてなんといっても虫が来ない。蚊とか。すばらしいね。
三沢さんと駅で別れた後、ぼくはコンビニでワインを買った。
ラベルがかわいいのでお気に入りのやつだ。アルパカが描かれてる。実際のところはウィスキーでも焼酎でもウォッカでもなんでもいいんだけど、かわいさ勝負でアルパカ。彼、あるいは彼女は立派に仕事をしてる。広告塔として役立ってる。
つまみは買わなかった。不純物が入ると酔いが薄まるから。
食器棚からグラスを引っ張り出して、アルパカくんを開封して、ベランダに出て、木製のアウトドアテーブルに腰掛ける。
そして下を眺める。
ぼくは34歳になった。
立派な成人男性だ。
客観的に見て、幸せな成人男性だ。
これ以上を望むのは贅沢が過ぎるほどに。
ぼくは婚約したわけでもない女の人に、高価な服を気まぐれにプレゼントすることができる。快適な家に住むことができる。いい車に乗ることができる。あまり乗らないけど。
職場では誰に憚ることなく自由に振る舞うことができる。振る舞わないけど。
ぼくは誰にも頭を下げる必要がない。
友達もいる。
今をときめく俳優で、モデルで、ベストセラー作家の友達も。日本橋のオフィスで「地図に残る仕事」をしてるバリキャリの友達も。
知り合いもいる。例えばつい先日あったエストブールのCMOの女性とか。
飲み友達もいる。親戚のおじさんでね。不動産業やってる。地場のオフィスからワンルームまで手広く、ザ・不動産って感じの不屈のマインドを持ったおじさん。いい人なんだけど、酔うと説教が長い。
親も居るな。一人。
皆、何となく、ぼくと付き合ってくれてる。
つまり、ぼくは全てを持ってる。
ただし、それは全部与えられたものだ。
偶然にも地方の会社の跡取り息子として生まれたことによって、自動的に与えられたギフト。
言葉をかえれば、ぼくはマネキンみたいなものだね。綺麗な洋服を纏わせるマネキン。外からは洋服を着ているようにみえるけど、実態はただの土台に過ぎない。マネキンには価値がない。洋服に価値があるだけだ。
人生とはそういうものだと納得して、気にしないことに決めたはずなのに、結局ぶり返してしまった。
ぼくは何者かになりたかった。
周囲の素晴らしい友人達が、ぼく本体を「素晴らしい友人」と評してくれるような何者かに。
◆
高校生の頃、世界史の授業あったね。
テスト返却のあと、空いた時間に先生が世界史プチエピソードみたいなのを話してくれた。ぼくはあれが好きだった。
ちょうど中国のあたりをやってるときだったかな。確か隋唐が範囲だったと思う。
玄宗って皇帝が、最初は頑張って政治をやってたのに、途中から楊貴妃に入れあげて、どんどん国がおかしくなっていくやつ。
あの時は「なんでそんな馬鹿なことをするんだろ」と思ったね。
無能が王様になるとしょうもないな。もう少し頑張れよ。そう思った。
今にして思えば、過去の王様達もまた何者かになりたかったのかもしれない。
血筋ゆえに至高の玉座を占め、美姫を侍らせながら悩んだんだろう。自分には何もない、って。
鼻持ちならない贅沢な悩みだ。
明日の食糧すら手に入らない人々の苦悩と比べたら、そんな悩みはおままごとだ、って。
『飢えた子どもを前にして、芸術に意味はあるか』
ぼくが最近由理くんと議論していたこのテーマは本質に近い。物質的な欠乏状態において精神的な満足は意味を持ちうるか。
ぼくは持ちうると思う。
ある古典の中で、ある偉人がこんな言葉を残している。正確には、残したということになってる。
『人はパンのみにて生きるにあらず』
ぼくが思うに、人の幸不幸には客観の視座がない。功利主義的に数値化することは不可能だ。ぼくの不幸が1で、明日の食事に事欠く人の不幸が100ということにはならない。
だって我々は、我々の精神が創り出した世界の中を生きてるんだから。
人は世界自体を体感することはできない。ぼくたちが生きる世界は五感のセンサーを通じて脳内に構築された——言い換えれば、ぼくたちの精神が創り出した似姿だ。
だから重要なのは、その人がどう思うかだ。精神的充足には意味がある。誰かが辛いと感じた時、それは確かに辛いんだ。比較不能な、その人だけの辛さがある。もちろん幸福もね。
さっきの言葉をちょっと改変してみよう。
『人はパンのみにて死ぬにあらず』
人はパンがあっても死ぬんだよ。
さて、結論を出そう。
ぼくに好意を持ってくれる人々には感謝しかない。みな凄い人たち、いい人達だ。
だから、ぼくの存在が彼ら彼女らの好意に釣り合わないことが、ぼくには辛い。彼らを欺いているように感じるから。好意を盗み取っているように思われるから。
夕食時、服を贈ったぼくに三沢さんは感謝してくれた。喜んでくれた。
でも、少し、ちょっとだけ不服そうだった。
「こんなことをしていただかなくても、わたしはお側を離れません」
お金を払わなくてもぼくの側に居るといったんだ。このぼくの側に。
ぼくは偶然、運命によって与えられたお金以外何も持ってない。なのに、そんなぼくに他の何かを寄越せと言う。他に差し出せるものがないか頑張って探したけど、残念ながら見つからなかった。
残酷な言葉だ。
ちょっと手が震えてワインを零してしまった。
白いテーブルクロスに散った飛沫は一瞬でどす黒く変色した。
ぼくは照れたように苦笑した。
「ああ……私はどう頑張っても、いつも何かを零してしまう」
「ええ。前もよくお菓子を食べ零されていました。でもこれからは私がちゃんとお世話しますから。——陛下」
ぼくの失態をうやむやにしてくれる彼女なりの冗談は、ときに、本当に鋭く臓腑を抉る。
”陛下”
ぼくは陛下じゃない。
それは尊敬すべき友人が創造したキャラクターだ。由理くんが創造したキャラクター、グロワス13世だ。
数え切れないほどの人たちが偉大な英雄グロワス13世の活躍に胸躍らせるだろう。数え切れないほどの人たちの脳裏にグロワス13世という存在は残り続ける。カッコいいヒーローとして。憧れとして。
ぼくがやりたかったことそのものだよ。
天恵に頼らず、自分一人の精神で一つの物語を創り出し、それをたくさんの人に楽しんでもらうことは。
なのに、ぼくが心から望んで、終ぞ生み出しえなかった創造物に、ぼく自身を模すのか? 悪意もなく。
これほどに、惨めなことがあるだろうか。
彼女はいい人だ。
ぼくのことを思ってくれる。優しい人だね。
◆
酔いが回ると手首がむくむ。
ぼくは左腕の時計を外した。
この間もらった「小グロワス」は傷つけないように箱にしまってあるよ。これは普段使いのやつ。
ぼくが好きなB社の時計。日常使い用に金無垢のブレスレットをラバーストラップに換装できるようになってる。金は重いからね。あと傷がつきやすい。だから買ってからずっとラバーストラップのままにしてる。
ベランダのウッドテーブルに置くと、本当に微かに、ことっと音がした。
いい音だね。
拘束を解かれたぼくは自由だ。
グラスに注ぐのももどかしく、ぼくはワインの瓶に直接口を付ける。カッコいい仕草。かわいいアルパカを飲み干してやる。
頭の中を赤い液体が駆け回る。
目の裏がちかちかする。
「こいつ、早く死んだ方が王朝のためになったんじゃない?」
さっき、世界史の授業のことを考えていたからだろう、そんなぼんくらな王様がいっぱい居たことを、十数年ぶりくらいに思い出した。
「グロワス王とは大違いだ。でも、ああいう王様は現実にはいないよ。だからこそ尊い」
独り言をしっかり口に出して、空になった瓶をテーブルに置く。
さて、ぼくは自由だ。
◆
綺麗な夜景を目に焼き付けるぼくの耳が、開け放った背後のガラス戸の向こうに起こる異変を捉えた。
来客を知らせるインターホンのチャイム。
時間は多分、もう10時過ぎ。
通販を頼んだ覚えはないけど、ひょっとしたら忘れているだけかもしれないね。
いいよ。出よう。
最後に人の顔を見るのも悪くない。




