この人を見よ 1
大した男ではない。
彼を観察し続けた青佳の記憶、そしてここ数週間の自身の経験からブラウネはごく当たり前の結論を導き出した。
かつての伴侶グロワスは明らかに有能な男であった。
彼女自身、夫が為す政務の実態を間近に見ることはなくとも、王国の実質的な宰相位を占めた父フロイスブル侯爵や後に枢密院首相に昇った弟バルデルの反応を見ているだけで大体のところは想像がつく。
中央大陸随一の大国を差配した二人の男は、彼女の夫を決して侮らなかった。夫は彼女の父、そして弟の上に明確に君臨した。長い歴史の中に時折現れる狂気の暴君のごとき純粋な暴力を以てではない。事実父も弟も王と意見を異にする機会は数えきれぬほどあったが、対立に至って身の危険を感じることは終ぞ無かった。
つまり、ブラウネの夫は一人の政治家として君臨したのである。
翻って三沢青佳が見るこの男には何もない。
覇気も決意も自己犠牲も、責任感も、雄弁も、何も。
午後の数時間会社に顔を出し馴染みの部下から簡潔な報告を聞く。決裁が必要な書類——その機会も稀だ——を処理したら、来たときと同様静かに帰途につく。
同僚達は影で気楽に評した。
「社長っていいね。楽で」
苦笑交じりに放たれる言葉には深い感情はなかった。侮蔑も怒りも存在しない。例えるならば彼は、眠りたいときに眠り餌が出されれば貪り食う室内犬のようなもの。同僚の彼女達はその姿を見て言うだろう。
「あなたはいいね。お気楽で。私はこれから仕事なのに。人間って大変なんだよ?」
そして犬の頭を少々乱暴に撫でるだろう。
かつての青佳もまた、同僚との会話に加わり同意を示していた。彼女は思い出す。
つまり、この平和な、珍妙な、快適な世界において、彼は大した男ではない。
女はそれを無上の喜びとともに受け入れた。
——なんと素晴らしいことでしょう!
かつて彼女は男——その時はまだ夫ではなかったが——にこう述べた。
”ブラウネは威勢がいいだけの小物の側に侍りたいとは思いません。真に勇敢な王の足下に侍りたいと願います”
と。
王国の譜代諸侯首座たるフロイスブル侯爵家の姫として、偉大な方、勇敢な方、敬意を捧げるに値する方の元に生きたい。そう願った。
ブラウネ・エン・フロイスブル侯爵令嬢の念願は成就した。
彼女の夫グロワス13世。「正教の守護者たる地上唯一の王国」の主は偉大であり、勇敢であり、敬意を捧げるに値する男であったからだ。
より正確には、彼はそう在ろうとして、そう在った。
しかし、そう在るために彼が払ったであろう犠牲を今の彼女は理解することができる。
この「日本」という国、青佳が自明のものとして受け入れ、生きるこの世界は、夫がそうあるべきと願ったものに限りなく近い。長らく連れ添った経験からブラウネは夫の願いの輪郭を漠然と感得していた。
ブラウネとしての意識が「目覚め」たその日、彼女は自室の押し入れを漁ってお目当てのものを見つけた。「中学校」と丁寧な文字で上面に書き込まれた段ボールの中には青佳がかつて使った教科書が全て保管されていた。
ブラウネが取り出したのは『中学社会 公民』と銘打たれた一冊。
巻末に載せられた「日本国憲法」を貪るように読む。
〔基本的人権〕
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
〔学問の自由〕
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
偉大なる世界の中心に生きた名門侯爵家出身の女からすれば、常識外れともいえる言葉が並んでいる。全ては絵空事に過ぎず、ときには正教の教えを冒涜する邪悪な文言とすら感じられる。だが、ブラウネでありながら青佳であり、青佳でありながらブラウネであるところの存在にとって、拒絶反応を引き起こすまでには到らない言葉だ。
何よりも、それはブラウネが最も愛した男達——夫グロワスと息子ロベルが目指したものであったのだから。
夫が意図し、息子が為した。
光輝あるルロワの盾上蛇紋は光の宮殿から静かに降納された。
”サンテネリ共和国憲法”がそれを為さしめたのだ。
夫が意図し、”改革主義者”たちが引き継ぎ、息子が完成させた法が。
頭蓋深く広がる強烈な情念を、女は抑えることができない。
どれほどの労苦であろう。国家を創造するということは。
しかも、最小限の血を以て。
ブラウネの夫と息子は、それを為したのだ。
当然のことながらその功は二人のみに帰せられるものではない。だが、それを望む幾多の人々の中心にあって、少なくとも彼らが旗を振った。
それはまさに、偉大なサンテネリの男の姿である。
——でも、なんと素晴らしいことでしょう! この世界ではもう、彼がそれを為す必要はないのですから。
日本における彼は王ではない。
ルロワの主、大陸一の騎士ではない。
ただの、ちっぽけな商会の会頭に過ぎない。
翻って自身も姫ではない。フロイスブル侯爵家の長女でもサンテネリ王妃でもない。よくて中級貴族の娘、実態は町娘のようなものだ。
——町娘がその亭主に英雄的な偉大さを望むことなどあるでしょうか? それ以外の全てを焼き尽くしてしまうほどの歴史的偉大さを、地方の庭師に。
男が平凡であることを女は愛した。
それは一種の特権であるように思われた。
——茉莉さん。アナリースさん。とても素晴らしいお友達になれそうですね。わたくしは彼女達と仲良くしたいと心から思います。いずれ彼に対して関心を失うであろう彼女達と。お友達として。
青佳は冷静に状況を把握した。
昨日銀座で見た光景。
アナリース・エストブールというフランス人女性の行動は明らかに常軌を逸していた。つまりそういうことなのだろう。
常ならばありえぬことながら、それがありえることを彼女は自身の体験から知っている。現代日本にブラウネの意識が存在するという。
だが、可憐なアナリースはいずれ離れていくだろう。今生の「彼」はサンテネリ国王ではないのだから。もちろん例の下らないマンガの似姿などでもない。
彼は庭師の元締めだ。ただの。
「正教の威光のもと諸王を束ねる権威を与えられた人界の君主が領する地」の第1皇女にして「正教の守護者たる地上唯一の王国」国王グロワス13世正妃アナリゼ・エン・ルロワはそれに耐えられるだろうか。庭師の男に。
愉快な心持ちと幾ばくかの憐憫が彼女の脳内を揺蕩う。
——茉莉さんも、アナリースさんも、この地できっと幸せを掴むことが叶いますね。お二方に相応しい殿方が必ずどこかにいらっしゃいますから。なんと素晴らしいこと!
今この瞬間、茉莉とアナリースは明確に彼女の対手である。しかし、この戦いはいずれ終わる。それが分かっていれば来るべき鞘当ても苦にはならない。
女は一途な男を望む。それは生物学的な構造によって規定されている。
だが「人間」の女性の心はもう少し複雑だ。一途な男は望ましいが、それは他の女に見向きもされない男であってはならない。他の女が欲するほどの男。その男が自分に対して一途であることこそが望ましい。
彼は茉莉とアナリースという二人の女性に関心を抱かれている。それはとても素晴らしいことだ。そして二人とも恐らくいずれ関心を失う。これもまた素晴らしいこと。
最後には自分が残る。
残り物を漁るのではない。
自分しか見出すことができない、自分だけが見出した宝物を独り占めするのだ。
平凡ながら優しく、少し複雑で、少し理想家の男。
平凡ながら優しく、少し面倒くさくて、少し少女趣味の女には似合いの相手だ。
宝物とはつまり、平凡であること。
サンテネリ最後の国母として生きた女にとって、それこそが至上の価値であった。
◆
茉莉さんとの付き合いは結構長い。
もう何年になるだろうか。
確か彼女が中3、ぼくが大学3年の頃だったね。
下川のおばさんがうちの母親に頼んだんだ。毎日授業にも出ずに(ゼミは出たよ。面白かったからね)ふらふらしていたぼくを引っ張り出した。
後で聞いた話しだけど、彼女中2の半年間不登校だったんだよね。それまでは部活でもクラスでもリーダー的存在だったのに突如学校に行けなくなった。それだけ聞くといじめを想像するけど、そうでもなかったらしい。不登校中も友達が入れ替わり立ち替わりお見舞いに来てたようだから。
原因不明の不登校、ご両親も困っただろうね。色々話をしていくなかでぼくの話題も出たという。親戚のお兄さんとして。どんな内容かは分からないけど。こわいね。
で、ご家族の努力の甲斐あって、3年になると学校に行けるようになった。ただ、公立中の3年生ということはすぐに高校受験だ。半年不登校となると内申点がまず厳しいから公立上位校に受かる目はない。よって受験は私立を目指すしかない。
そこでぼくに白羽の矢が立ったんだ。
正直気が進まなかったよ。いくら親戚とはいえ、メンタル不調から回復したばかりの女の子。全く以て上手くやる自信は無い。ぼくは教職課程なんかとっていなかったし塾講師のアルバイトもやったことがない。人に何かを教えた経験なんて皆無。できることといえば、呪文がびっしりかかれた鈍器のような書物——つまり哲学書を何となく眺めることと、頭の中に湧き出してくるつまらない妄想物語を綴ることくらいのもの。
普通に塾に通わせるのが一番だろうと思ったけど、事情を考えると環境をいきなり変えるのはよろしくないという。なるほど。対人関係に起因するメンタル不調だった場合、見ず知らずの生徒たちの中に放り込むのは悪手だ。その点、遠縁とはいえ親戚のぼくならまだ心理的障壁が低いだろうとの見立てだった。
で、彼女と初顔合わせをした。
下川家のリビングで一通り挨拶をしてね。彼女はずっと俯いていて、傍目にも緊張しているのが分かる。ぼくとあまり変わらない長身のすらっとした女の子が身体を縮こまらせている。見ていて結構辛い光景だったな。
彼女の部屋に行っていよいよ初回授業。
といっても、いきなり教科書を開いて授業開始とはいかない。一応雑談をしておかなければ。世知と人心の機微に疎いことで定評があるぼくでもそのくらいは想像できた。いや、実は塾でアルバイトしている友人にコツを聞いただけなんだけどね。
で、当たり障りのないところから。
「ところで下川さん、さっきご両親からちょっと聞いたけど、はまってる趣味があるんだよね?」
「……」
ずっと俯いていた彼女が驚いたように顔を上げてぼくを見た。まぁ、すごくかわいかったね。オフのときのアイドルってこんな感じなのかと思った。化粧っ気のない素顔なんだけど、目鼻立ち、特に鼻筋が美しい。
あ、誤解しないで欲しい。美しいものは美しいし、かわいいものはかわいい。それを観察するのは小説家志望の習性みたいなものだからね。特にそれ以上の感慨はなかった。
だからぼくの感情が大きく動いたのはその後のこと。
いきなり泣き出したんだ。彼女が。中3の女の子が。
もうどうすればいいのか、本当に途方にくれたよ。
趣味を聞いただけなんだけど。
学習机に座る彼女からはしっかり距離を取ってたんだ。怪しい素振りもしてない。
「ああ、その……他意はないよ? ただ、下川さんのことを知りたいと思ってね。これからのために」
思春期の女子にとって趣味を聞かれるとはそれほどまでに辛いことなんだろうか。それともまだ神経過敏が落ち着いていないのか。
いずれにしてもぼくの家庭教師生活はこれで終わりだ。アルバイト退職最速チャレンジ堂々の1位。スコアは5分。
立ち尽くすぼくに、しかし彼女は涙の上を行く意外な行動を見せた。
突如立ち上がってね。
なぜかぼくの胸に顔を埋めて泣き出した。
あー。これは調べなければいけないね。条例を。
ぼくは当時21歳。つまり実名報道だ。
「その……下川さん?」
「茉莉。……茉莉」
「ん?」
「茉莉って……呼んでください」
「ああ、はい。分かった。じゃあ茉莉さん。今日はその、英語だよね。どうだろう。単語とかちょっと忘れているかもしれないから、ちょっとテストを……」
抱きつかれているという状況を断固無視してぼくは授業を始めた。
ショートボブの髪が揺れる。
ぼくの言葉に頷いてる茉莉さんなんだけど、どちらかというと頷くというより押しつけてるんだよなぁ。顔を。ぼくの胸に。
実名報道か……。
15分ほどそうしていた。
1コマ60分だから、4分の1をぼくは給料泥棒して過ごしたことになる。
落ち着きを取り戻した彼女は真っ赤になった目元をティッシュで何度も拭いて、椅子に座り直してテキストとノートに向かう。
残りの45分、彼女は別人のように真剣に取り組んでくれた。ありがたいことに。
授業の終わり、ぼくは最後の挨拶をする。
これはもうお断りするしかないからね。実名報道の危険をはらんだ職場は。
「お疲れ様。茉莉さんは頑張れば絶対成績が伸びると思うよ。こんなに早く進むとは想定外だった。だから、これからも自分の能力を信じて頑張って欲しい」
掛け値無しの本音だった。
不幸にも心のバランスを崩し躓いてしまった彼女だけど、人生はまだまだ長い。ゆっくりと立ち直って再び楽しい生活を送って欲しい。そう思った。
「……来週も、来ていただけますか?」
茉莉さんがじっとぼくを見る。キリッとした顔は驚くほどに大人びている。
「ああ、うん。茉莉さんを教えるのはぼくもとても楽しかった。でも、やっぱり女の先生が合っているんじゃないかな。ほら、茉莉さんも男の先生だとちょっと抵抗があるでしょ?」
「いいえ」
即答だった。
ここで一つ面白いことがある。普通このパターンって、年上の大学生に女子高生、あるいは女子中学生が一目惚れするようなアレだと思う。塾講師の友達から聞く限り、やっぱり時々あるみたいだね。
でも、予想に反して茉莉さんの態度にはそういう色恋めいた雰囲気が全くなかったんだ。
彼女はクールだった。クールというか、堂々としていた。
6つの年上のぼくが気圧されるほどに。
就活の面接かな?
茉莉さんは右の側髪を耳にかけて一言、断固として言い切った。
「いなくならないでください。私のところにいてください。……先生」




