夜に咲く、名もなきもの
【キャラクター紹介】
・綾
壊れた心を抱え、仕えるためだけに生きてきた少女。
幼い頃にすべてを諦め、感情を封じてきたが、
鈴藍と出会い、
静かに、名もなき温もりに心を震わせはじめる。
・白蘭 鈴藍
清廉なる白蘭の血を引く、若き姫。
冷たさと優しさを併せ持ち、
壊れた綾の心を静かに見つめる存在。
言葉よりも、そっと寄り添う温もりで、
綾の心にふれていこうとする。
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今は遠き東の地に、
霧に沈む白蘭の国ありき。
蒼天を映す湖、銀砂の庭、
時に沈む宮殿の奥で、
ひとつ、名もなき温もりが芽吹こうとしていた。
これは、ふたりの心に生まれた、
名もなき温もりの記憶──
夜空は薄く、頼りない光を湛えていた。
半月が、雲に滲んだ銀の輪郭を残しながら、
静かに、地上のすべてを淡い霧のように包んでいる。
石畳の坂道は、しんと静まり返り、
足音ひとつさえ、夜に溶けて消えていった。
その中を──
一人の少女、綾が無言で歩いていた。
裸足に近い足元は冷たく、
風が薄衣をかすかに揺らしても、
彼女は何ひとつ感じていないようだった。
その目は虚ろで、
ただ命じられたとおり、石段を上がり続ける。
坂の頂に建つのは、青磁色の宮殿。
水墨画のようにぼやけた輪郭の中で、
それだけが異様なまでに輪郭を持って浮かび上がっていた。
この宮に君臨するのは、
白蘭 鈴藍 。
清廉なる血を引く、若き姫。
夜気を割くように、扉が音もなく開かれる。
玉座に座す少女は、
墨を溶かしたような黒髪を流し、
蒼い衣に身を包んで、こちらを見つめていた。
その顔には、微笑も、怒りもなかった。
ただ、厳かに 、
この世ならぬ光を纏って、そこに在った。
「……名を、告げなさい」
澄んだ声が、夜を震わせた。
それは、命令ではなく、儀式のようだった。
綾は、膝をつき、深く頭を垂れた。
感情の波は、その胸中に一切起こらない。
ただ、言葉だけが、形だけで口からこぼれた。
「・・・綾、でございます」
鈴藍は、わずかに瞼を伏せた。
その目は、まるで星を映す湖面のように、
静かに、綾を映していた。
「今日より、私の侍女となりなさい」
鈴藍の声は、冷たくもなく、あたたかくもなく、
ただ事実だけを、
月の光のように、世界に落とした。
綾は再び頭を垂れる。
無表情のまま、声も発さず。
それは、人形のような、機械のような──
それでいて、どこか儚さを宿していた。
ふいに、鈴藍は立ち上がる。
歩み寄り、綾の前に膝をついた。
──その仕草は、王たるものがするには、あまりに無防備だった。
「顔を上げなさい」
その命に、綾はほんのわずかだけためらった。
けれど、次の瞬間、忠実に従い、
無垢な瞳をまっすぐに向けた。
鈴藍は、綾の顎に、そっと指先を添えた。
細く、冷えた指だった。
けれどその微かな体温が、綾の肌に触れた瞬間、
胸の奥に、見えない水面がさざめく。
小さな、小さな震え。
それに気づいたのは、鈴藍だけだった。
綾自身さえ、まだ知らない。
この夜──
薄月夜に宿った、微かな命の芽吹きを。
静かに、静かに、
夜は深まっていく。
名もない始まりを迎えた小さな命を、
薄月は、何も言わずに照らしていた。
出逢いから、静かに三日が過ぎた。
綾は、命じられるままに動き、
感情を滲ませることなく、鈴藍に仕えていた。
朝には香を焚て。
昼には衣を整え、
夜には静かに盃を運ぶ。
何一つ、不備はなかった。
けれど、鈴藍は知っていた。
この少女は、何も感じていないわけではない。
ただ、感じることを、どこかで諦めてしまっただけなのだと。
──今宵。
庭に、ひときわ冴えた月が浮かんだ夜。
鈴藍は、内庭へ綾を呼んだ。
風は凪ぎ、
柳の葉がわずかに擦れる音だけが、夜気 を震わせていた。
池のほとりに立つ東屋の中、
綾はひざまずき、
うつむいたまま、鈴藍を待っている。
しん、とした空気。
鈴藍はその静寂の中に、
ゆっくりと、歩み寄った。
青磁色の袖が、月明かりをはらみ、ふわりと静かに揺れる。
綾の頬にかかる一筋の髪を、
鈴藍は、指先でそっとすくい上げた。
指がふれる。
瞬間、夜のすべてが、ぴたりと止まった。
水も、風も、雲も──今、夜の世界で、時間を持っているのは、ただ二人だけだった。
綾は動かない。
しかし、肌の下、心臓の奥で、小さな、小さなさざ波が、そっと広がった。
──温かい。
それは、確かな温もりだった。
掌ではなく、指先だけ。
それでも、確かに、「誰か」が「自分」にふれている。
綾は、気づかぬうちに、
浅く、呼吸を吸い込んでいた。
その微かな動きを、
鈴藍は見逃さなかった。
鈴藍の指が、もう一度、
綾の頬を、そっとなぞる。
まるで、氷の上に咲く、かすかな花を傷つけないように。
「……冷たく、ないのね」
鈴藍は、ほとんど囁くように言った。
それは、綾への問いかけではなかった。
誰にも、聞かせるためのものではなかった。
ただ、この夜の、たったひとつの確信を、
そっと心に刻むための言葉だった。
綾は、瞳を伏せたまま、
ただ、そこにいた。
けれど、月明かりに照らされたその睫毛は、
微かに、微かに震えていた。
その震えを、鈴藍は、宝物のように胸に抱きしめた。
ふたりを包む夜の庭には、
ひとひらの花びらさえ落ちなかった。
ただ、銀の光だけが、ふたりの影を、そっと重ね合わせていた。
それから、静かに日々が過ぎた。
綾は変わらず、
朝に香を焚き、
昼に衣を整え、
夜に静かに盃を運んだ。
その仕草は、欠けることなく、
その瞳には、まだ光がなかった。
けれど──鈴藍は、知っていた。
この少女は、感じることを忘れたわけではない。
ただ、
それを思い出す術を、知らないだけなのだと。
今宵もまた、
銀色の月が静かに降り注いでいた。
柳がわずかに擦れ、
水面 に、静かな波紋を描く。
庭の東屋に綾を呼び寄せ、
鈴藍は、ただそこに座して、綾を待った。
盃 を差し出す綾の手が、
わずかに止まった。
──小さな、小さな戸惑い。
それを逃さず、
鈴藍は、そっとその手を取った。
掌がふれる。
その瞬間、世界が静止した。
夜風も、水の音も、すべてが、ふたりを包む静けさに沈んだ。
鈴藍は、綾の手を、
ふわりと覆うだけで、
無理に引くことはなかった。
ただ、存在を重ねるだけ。
そっと、
指先をなぞるように──
綾は、動けなかった。
けれど、
感じていた。
肌に宿る、かすかな温もり。
血の気がにじむような、微かな熱。
胸の奥で、
何かが静かに、震え始めていた。
──逃げたくない。
ふと、そんな感情が、
言葉にもならないまま、
綾の胸をかすめた。
鈴藍もまた、
綾の手から伝わる震えを、愛おしく感じていた。
言葉にすれば、
この儚いものは壊れてしまう。
だから、何も言わない。
ただ、夜に身をゆだねる。
指と指、
掌と掌が、
微かに、しかし確かに、呼吸を重ねる。
肌に触れた月の光が、銀色の紐のように、ふたりをつなぎとめる。
どれくらい、そうしていただろう。
夜が深まり、水面に霧が立ちはじめても、ふたりは離れなかった。
綾は、そっとまぶたを伏せた。
怖くなかった。
不思議な静けさの中で、
初めて、誰かと呼吸を合わせていることを、
心のどこかで、確かに感じていた。
鈴藍もまた、
その綾の震えを、ただ優しく包み込んでいた。
言葉も、誓いもない。
けれど、たしかなぬくもりが、
ふたりの間に、静かに流れていた。
そして、
夜の庭を渡る風だけが、
ふたりの影を、静かに撫でていった。
出逢いから、いく夜が過ぎた。
鈴藍の側に仕える日々の中で、
綾の仕草は、何ひとつ変わることがなかった。
けれど、鈴藍の目には、確かに映っていた。
──指先の震え。
──呼吸のわずかな乱れ。
──盃を運ぶとき、ほんの一瞬だけ、ためらう視線。
それは、誰にも気づかれないほどの、小さな波だった。
けれど、鈴藍は、そのすべてを見逃さなかった。
今宵、月は濃く、
庭にかすかな霧が漂っていた。
柳 が湿った風に揺れ、
水面には、静かなさざめきがひろがる。
東屋 に呼び寄せた綾は、
いつものように跪き、
頭を垂れて待っていた。
──ただ、今夜は違った。
鈴藍は、そっと、綾の横に座った。
それだけで、綾の肩が、わずかに震えたのを、感じた。
夜の冷たさではない。
それは、心がわずかに震える音だった。
しばらく、ふたりは沈黙していた。
何も語らないまま、
月の光だけを分け合い、
静かな呼吸だけを重ねる。
鈴藍は、手を伸ばした。
その指が、綾の髪に、ほんの少しだけふれる。
──逃げなかった。
綾は、
わずかに身を固くしただけで、
その場にとどまっていた。
鈴藍の指先が、
そっと髪をなでる。
水面に指を沈めるように、
柳 を撫でる風のように、
おだやかで、やさしい動きだった。
綾の睫毛が、震えた。
でも、それでも、動かなかった。
──怖い。
──でも、もっと、ふれてほしい。
そんな矛盾した感情が、
綾の中で静かに、静かに波打っていた。
鈴藍は、知っていた。
この夜、何も口にしてはいけないことを。
言葉にした瞬間、
この小さな温もりが壊れてしまうことを。
だから、何も言わずに、
ただそっと、綾の耳元に顔を寄せた。
息がふれるか、ふれないか──
綾は、ぎゅっと、指先に力を込めた。
でも、それは拒絶ではなかった。
怖さを超えた、もっと無垢な、
ただ「今」を受けとめようとする震えだった。
ふたりは、
柳 が揺れる音の中で、
ただ、夜気に抱かれるように、佇 んでいた。
名もない。
言葉もない。
けれど、確かにそこに在るもの。
それが、
ふたりの間に、
静かに、しっかりと息づき始めていた
夜が、静かにほどけていく。
銀の霧をまとった月は、
少しずつ、淡い青へと溶け始めていた。
空の色は、まだ夜の名残をとどめながら、
それでも、確かに新しい一日の気配を孕みはじめている。
東屋 の中、
鈴藍と綾は、
ただ静かに座っていた。
言葉もなく。
動きもなく。
けれど、ふたりを包む空気には、
確かに温度があった。
綾は、顔を伏せたまま、
そっと掌を重ねるように、
静かに呼吸していた。
胸の奥で、
言葉にならない何かが、
ほのかに、確かに、脈を打っていた。
──鈴藍さまの、
──この手の温かさを、忘れたくない。
そんな想いが、綾の中で小さな灯のように灯っていた。
鈴藍もまた、
隣に佇む綾のかすかな震えを、
静かに、静かに受け止めていた。
彼女の瞳は、
まるで水面に月を映すように、
揺れることなく、ただ綾を見つめていた。
──もうすぐ、夜が終わる。
その事実が、
ふたりの胸に、
じわりと滲んでいた。
綾は、そっと顔を上げた。
朝靄の向こうに、
かすかに朱い気配が滲みはじめていた。
「……参りましょうか」
小さな、小さな声で、
綾は言った。
それは、誰よりも自分に言い聞かせるような言葉だった。
この温もりに、まだすがりついていたかった。
けれど、侍女としての自分が、そっと背中を押した。
鈴藍は、何も言わなかった。
ただ、手を伸ばして、綾の袖を一瞬だけ、そっとつまんだ。
それは、
「行かないで」でもなく、
「いてほしい」でもなく。
ただ──
「あなたを覚えている」という、たったそれだけの、小さな、けれど確かな合図だった。
綾は、胸の奥で、名もない痛みが静かに広がるのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
柳が、朝の風にそよぐ。
水面には、やわらかな光の波紋が広がる。
綾は一礼し、
鈴藍に背を向けた。
けれど、背中には、
確かに感じていた。
鈴藍の視線と、ふたりで過ごした夜の温もりを。
──たとえこの手が離れても、
──この心の灯りだけは、消えない。
そして、鈴藍もまた、
静かに、静かに、
その小さな誓いを胸に抱いていた。
それぞれの部屋に戻ったあとも、
夜の温もりは、胸の奥にひっそりと息づいていた。
綾は、
小さな寝台の上で膝を抱え、
ただ静かに目を閉じていた。
朝靄はまだ地を這い、
窓の外では鳥たちがかすかに囁き始めている。
けれど、
綾の耳には、何ひとつ届かなかった。
胸に手を当てる。
そこにある鼓動が、ただの生きた証ではないことを、綾は、薄々感じていた。
──なぜ、こんなにも、離れたくなかったのだろう。
仰向けになり、
掌を見つめる。
そこには、まだ、鈴藍の指の温もりが、うっすらと、息づいている気がした。
目を閉じると、あの夜の空気が蘇る。
月の光、
柳の揺れる音、
水面を撫でる風、
そして──ふたりだけの静かな時間。
それらすべてが、
胸の奥で、じわりと広がっていく。
──壊したくない。
──でも、名を与えてしまえば、
この儚い温もりも、形を変えてしまう。
綾は、両腕をきつく胸に巻きつけた。
まるで、
まだ名もない感情ごと、
自分を抱きしめるように。
静かな朝。
でも、心だけは、静かにざわめいていた。
一方、鈴藍もまた、
まだ仄暗い自室で、
寝台に腰かけたまま、
じっと掌を見つめていた。
指先には、綾の、震える温もりが、まだかすかに残っているようだった。
──あの時、
もう少し、手を伸ばしていたら。
そんな考えが、胸の奥に小さな疼きを生んだ。
けれど、鈴藍はそれを振り払った。
言葉にすれば、すべてが壊れると、本能で知っていたから。
名を持たない想いは、
名を持たないまま、
そっと胸に抱きしめるしかない。
朝の光が、
うっすらと障子を透かしてきた。
新しい一日が始まろうとしている。
──けれど、あの夜だけは、
まだ、胸の中で、静かに息づいていた。
誰にも、言葉にも、触れられぬままに。




