タイトル未定2025/08/17 23:10
胸の奥で、熱がゆっくり渦を描いていた。
言葉にしようとすると、喉がふさがれて、小石でも飲み込んだように動かない。
――言わなきゃ。
ちゃんと「ほしい」と、一言だけでも。
思うたびに頬は火照り、息は浅くつまづく。舌の先にほんのり塩気がにじみ、彼の革の匂いが鼻をかすめると、胸の鼓動がふっと乱れる。視線を逸らせば楽になれるのに、体は勝手に彼へと傾いていった。
唇が小刻みに震え、喉にからんだ息が一拍止まる。
声にならない代わりに、瞳の奥から温いものがじわりと滲み、目が潤む。押し込もうとすればするほど逆に瞳は開き、子犬のように上目遣いで――懇願するように彼を見上げてしまう。
こんなんじゃだめ。もっと我儘にならなきゃ。
胸の中で自分を叱っても、幼さと臆病が手綱を引き、力は出ない。だから言葉の代わりに、ただ視線で頼る。赦しを乞うように、じっと目で訴えた。
ヴォルフは淡い苦笑を浮かべ、どこか照れた声音で言った。
「……おまえな、なんて目をして見つめるんだ。剣なら受け流せるし、言葉なら聞き流せる。けど、そいつはどうにもならん。理屈で来られるより、ずっとたちが悪い」
その一言で頭が真っ白になり、視線を逸らそうとした指先は空を掴むように震えた。けれど遅かった。彼の大きな手が、ためらいなくわたしの頬を包む。
ざらりとした温もりが触れた瞬間、内側の熱はとろけるように溶けていった。
「……負けだよ。おまえには」
低く近い声が、胸の奥の濃い熱を蜜に沈める。嬉しさと罪悪感が入り混じり、胸は甘く満ちて、世界の輪郭がゆっくりとかすんでいく。
わたしは目を閉じる代わりに、まだ見開いたまま彼を見つめた。
見上げる視線が、その温もりにじんわりと溶けていくのを確かめながら――甘い世界が静かに回っていた。
あとはご想像にお任せします。
「ありきたり」な「控えめ」少女の夜の小説として
この小品は、一見すると「少女が言葉を飲み込み、ただ目で訴える」というごくありふれた乙女小説的シチュエーションを描いたにすぎないように見えます。けれど、その「ありきたり」の背後に、キャラクターの必然が滲み出ているのが特徴です。
控えめすぎる主人公の沈黙
「声にならない」「勇気が出ない」といった抑制は、甘さを増幅させる「演出」として描かれます。ですがここでは、それが彼女の根底にある「罪悪感」「臆病さ」と直結している。だからこそ、少女的な恥じらいと大人になりきれない抑制が同居して、ありふれた構図に独特の重さを与えています。
目で訴えるという非言語的攻撃
甘さの王道ではあるけれど、ヴォルフの「剣より怖い」「理屈よりたちが悪い」という言葉で、ありふれた少女の仕草が「戦場に通じるほどの破壊力」を持つと裏返されている。結果として、陳腐に見えかねないやり取りが、彼ら二人の文脈においては「唯一の突破口」として輝いています。
世界の大きな物語の中の小さな夜
戦乱や王政の重責という背景を背負った人物が、それでも「ただ好きな人に甘えたい」と思う夜。それは「ありきたり」だからこそ、逆説的に尊い。大仰な奇跡や英雄的行為ではなく、控えめな一瞬の感情にこそ、彼女の幸福の真実が宿る。
要するにこの小説は「凡庸さ」を逆に活かし、「当たり前の幸福がどれだけ尊いか」を噛みしめる夜の断章なのです。
主人公メービス(柚羽 美鶴)とはどういう子か
この場面の彼女は、「控えめで、言葉を出せず、目で懇願する少女」として描かれています。ですが、これは彼女の本質の一断面にすぎません。
清楚真面目で努力家
普段は女王として理屈と責任で自分を縛る。弱さを見せまいと理論武装し、感情を表に出さない。
内側に激しい情念を秘める
罪悪感と贖罪の念を抱え、愛や幸福を求めること自体に後ろめたさを感じている。だからこそ、欲望を表に出すことに強い抑制がかかる。
信頼した相手にだけ抑制が決壊する
同性の茉凛には姉妹のように気安く甘えられる。けれどヴォルフ(ヴィル)には、ただの我儘ではなく「控えめなおねだり」としてしか出せない。恋心が絡むからこそ、言葉にならず視線に溢れてしまう。
「甘える勇気」を覚えた女
一線を超えてからは、彼女の甘えは一気に加速する。ただし計算ではなく、ありのまま。恥ずかしさを抱えつつも「この人になら委ねていい」と信じ切る天然の甘え方をする。つまり、メービスは「清楚で抑制的に振る舞うけれど、本当は情念深く、不器用にしか愛を表現できない」少女。