表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
テスト  作者: ひさち
5/16

R15です。

『月光の聖餐』

序章 潤む瞳の合図


 その夜もまた、王宮の、俺たち二人だけの寝室は、深い湖面のような静けさに満たされていた。就寝前に、いつものように暖炉の前で並び、ワインを傾けながら一日のことを語り合う。それはもはや、互いの心を確かめ合う儀式のような習慣だった。


 彼女――メービスは、昼間の会議でラズロー公を理路整然と論破した顛末を、楽しげに語っていた。その横顔は気高く、理知的で、女王としての矜持に満ちている。

 俺は相槌を打ちながらも、彼女の言葉そのものよりも、笑みの端に浮かぶ小さな影や、声に滲む誇らしさの方に心を奪われていた。


 暖炉の炎が、白い頬を薔薇色に染める。

 その一瞬、会話が途切れ、熾火がぱちりと音を立てた。


 視線を戻すと――メービスの瞳が、ほんの少し潤んでいた。

 光を受けてきらきらと揺れるその変化は、他の誰にも気づけないだろう。だが、俺には分かる。その奥に渦巻く熱を。言葉にできない、けれど確かに俺を求める心を。


 彼女は、決して口にしない。

 女王としての気高さと、いじらしいほどの恥じらいが、それを許さないのだ。

 ただ瞳で訴え、俺が読み取るのを待っている。


――ああ、本当に、しょうがないな。


 この、どこまでも不器用で、愛おしい女王様は。


 俺はゆっくりとワイングラスを置き、彼女の隣に身体を寄せた。

 肩が小さく震えるのが分かる。

 その潤んだ瞳を見つめ返し、耳元に唇を寄せ、低く囁いた。


「……メービス」


 名を呼ぶ声に、熱を込める。


「そういう目つきは反則だぞ。……これからお前がどうなっても、俺はもう知らん」


 俺の囁きに、彼女の肩が小さく震えた。

 潤んだ瞳が驚きと羞恥を湛えて見開かれ、頬には瞬く間に薔薇色が差していく。

 それは、王座にある女王の顔ではなく、俺だけが知るいじらしい少女の横顔だった。


 彼女は慌てて視線を逸らし、空を探すようにまばたきを繰り返す。

 その仕草のひとつひとつが、言葉より雄弁に「迷い」と「求め」を語っていた。

 俺は静かに彼女の手からグラスを外し、卓に戻す。

 宙を泳いだ彼女の指先は所在なく揺れ、やがて膝の上でぎゅっと握られた。


 その両頬を両手で包むと、彼女は逃げ場を失ったように俺を見上げた。


「……ヴォルフ……」


 か細く掠れた声で、俺の名を呼ぶ。

 その響きに、俺の胸の奥が熱くなる。


「もう、逃がさん」


 独占欲に満ちた囁きを置き、俺は彼女の唇を塞いだ。


 最初は驚きで固く閉ざされていた唇。

 だが、何度も重ねるうちに、その硬さがほどけ、おずおずと、それでも確かに応えてくる。触れるだけの口づけから、小鳥がついばむような浅い口づけへ。そして、ためらいを溶かすような、深く長い口づけへ。

 彼女の吐息が、胸の間に熱い霧のように広がる。


 どれほどそうしていただろうか。

 ゆっくりと唇を離すと、彼女は夢見心地のまま瞼を閉じ、頬を染めていた。


「今夜は、煩わしいことは何もかも忘れろ」


 囁く声は、命令でもあり、願いでもある。


「女王じゃなくて、ただ俺の女でいてほしい」


 彼女は言葉を失い、ただ小さく頷いた。

 子どものように素直なその仕草が、俺の最後の理性を断ち切った。


 俺は彼女を抱き上げた。


「きゃっ……!」


 小さな悲鳴が、俺の胸の中で甘く響く。

 軽すぎるほどの身体を、宝物を運ぶように抱きしめ、寝台へと歩を進める。


 天蓋の影の下、白いシーツの上にそっと彼女を横たえる。

 暖炉の炎と月光が混じり合い、彼女の輪郭を真珠のように照らしていた。

 その光景は、神殿に捧げられた聖なる供物のようで――けれど、これは俺だけの女王だった。


 天蓋の影の中に横たえた彼女は、シーツを握りしめ、落ち着かないまなざしで俺を見上げていた。その小さな手の震えも、唇の端のかすかな強張りも、すべてが「怖い」と「待っている」の狭間に揺れている。


 俺は、あえて急がなかった。衣擦れの音すら乱さぬほどに、ひとつひとつの仕草を確かめるように重ねていく。肩に触れれば、彼女の体は小鳥のように跳ね、耳朶に唇を寄せれば、堪えきれぬ吐息が漏れる。

 それでも彼女は「いや」とは言わない。ただ、羞恥に赤くなりながらも、俺に寄り添ってくる。


 やがて彼女は、顔を両腕で隠してしまった。

 真っ赤になった頬を見られるのが、どうしようもなく恥ずかしいのだろう。


「……メービス」


 俺はその腕に口づけを落とし、囁いた。


「隠すな。俺を見ろ。……お前をこんなにも愛している、男の顔を」


 その言葉に、彼女はおずおずと腕をずらし、潤んだ瞳をこちらへ向けた。

 その視線に応えるように、俺は再び唇を重ねる。

 深く、けれど優しく。彼女の震えを確かめながら、ゆっくりと。


 彼女の反応は、まるで固い蕾が少しずつ開いていくようだった。

 最初は身を強張らせていたのに、触れ合うたび、息遣いは柔らかくなり、身体の力が少しずつ抜けていく。

 俺にしか見せない、いじらしく、可憐な反応――それが、この上なく愛おしかった。


 彼女は、必死に声を堪えていた。

 白い喉が細かく震え、唇はきつく結ばれている。

 吐息だけがかすかに零れ、それすら恥ずかしそうに飲み込もうとする。


――らしい、と言えばらしい。


 公の場では毅然と語り、決して隙を見せぬ女王が、こうして俺の腕の中では臆病な乙女に戻る。そのいじらしさに、胸の奥が熱で満たされていく。


 俺は彼女の頬に手を添え、耳元で低く囁いた。


「……我慢するな。お前の声が聞きたい」


 その言葉に、彼女の肩がぴくりと震える。


「こ、声なんて……」


 小さな否定の声は、かえって懇願のように甘く響いた。


 俺は静かに、けれど逃さぬように視線を絡める。


「言ってごらん。……気持ちいいなら、気持ちいいって」


 彼女はしばらく躊躇した。羞恥に頬を覆い、瞳を潤ませ、喉を詰まらせながら。

 けれどやがて、抑えきれずに零れる。


「……きもち……いい……」


 掠れるような、小さな告白。

 その一言は、どんな褒美よりも甘美だった。


「そうだ……いい子だ」


 俺は彼女の髪を撫でながら囁く。

 その瞬間、彼女の表情は張り詰めた糸を解かれたように和らぎ、胸の奥から溢れる声をもう隠そうとはしなかった。

 女王の仮面を脱ぎ捨て、ただのひとりの女性として、俺に全てを委ねる――

そのいじらしさと勇気が、何よりも愛おしかった。


◇◇◇


 長い夜の熱が、ようやく落ち着きを取り戻したころ。

 寝台の上には、汗と涙と、互いの温もりが残っていた。


 メービスは小さな吐息を繰り返しながら、俺の胸に額を預けている。

 その黒髪はしっとりと汗に濡れ、頬に張りついていた。

 俺は指でそれをそっと梳き、髪の根元を撫でながら整えてやる。

 すると、彼女は猫のように目を細めて、小さく身を寄せてきた。


「やっぱり……恥ずかしい」


 布に顔を隠した声が、震えながらも微かに笑っている。

 俺はその黒髪の上に手を置き、そっと撫でながら口を開いた。


「恥じらうことなんてない。今夜のお前は……どんな勲章よりも誇らしい」


 口にした途端、我ながら場違いな喩えだと思った。

 まったく、気の利いた言葉ひとつ言えない自分が情けない。

 けれど、それが今の俺に出せる精一杯の真実だった。


 布の下で彼女が小さく息を呑むのが分かる。

 やがて「なにそれ……」と、くぐもった声が零れた。

 笑っているのか、泣き出しそうなのか、判別がつかない。

 それでも――その頬がさらに熱を帯びているのは、手のひら越しに伝わってきた。


 俺のつたない言葉が、彼女を困らせ、同時に喜ばせている。

 その事実が、胸の奥をどうしようもなく熱くする。


 俺は片腕で彼女を抱き寄せ、もう片方の手で細い指を包み込む。

 その指は力なく、それでも確かに俺の掌を握り返してきた。


「もう離さない」


 低く告げると、彼女は小さく頷き、目を閉じる。


 暖炉の炎はすでに静まり、部屋には月光と二人の鼓動だけが残っていた。

 やがて窓の外がわずかに白み始める。

 長い夜を越え、穏やかな朝が近づいている。


 けれど俺にとっては――

 この腕の中で安らぎを得た女王の寝息こそが、何よりも確かな夜明けだった。


◇◇◇


ヴィル・ブルフォード手記(番外編)

(封蝋済み・絶対秘匿。女王陛下閲覧厳禁)


 俺は長く生きてきた。

 酒場の女も、戦の果ての慰めも、社交界の艶めいた戯れも、ひと通り見てきた。

女という生き物の「仕草」や「計算」には慣れているつもりだった。


 だが――メービスは、すべてをひっくり返した。


一、計算のなさ

 あの女王は「演じる」ということを知らん。

 恥じらいの所作も、甘えた声も、彼女の中には型がない。

 あるのはただ、不器用で本気の反応だけだ。

 だから俺は、一挙一動に心を撃ち抜かれる。


二、臆病さと不器用さ

 触れれば小鳥のように震え、口づければ息を止める。

 声を堪えて、頬を両手で覆ってしまう。

 あれが「演技」でなく、初めての戸惑いそのものだと知ったとき――俺は正直、目を見張った。


三、強烈なギャップ

 昼間は老獪な公爵を理路整然と論破する、堂々たる女王だ。

 その同じ女が、夜になれば頬を染めて「……ヴォルフ」と掠れ声で名を呼ぶ。

 これ以上の落差がどこにある?

 戦場で槍を受けたより衝撃だった。


四、無自覚さ

 一番厄介なのは、本人がまるで自覚していないことだ。

 「男を惹きつけよう」と思ってやっている仕草がひとつもない。

 ただ必死に隠そうとする――その臆病さが、かえって俺にはたまらなく愛らしい。

自覚のない罪は、一番手強い。


五、箱入りの純真さ

 俺の目から見れば、メービスは「恋」というものを物語の中でしか知らない娘に見える。

 現実の男女の駆け引きも、計算も、身につけていない。

 だからこそ、どこまでも危なっかしく、そして守りたくなる。

 社交界で磨かれた女たちとは、まるで別物だ。


六、魂の直球

 何よりも俺を狂わせるのは――彼女が隠そうとしても、瞳の奥から「求め」が溢れ出てしまうことだ。

 潤んだ琥珀の瞳で見つめられると、剣も鎧も盾も捨てて、ただ抱きしめたいと願ってしまう。

 あれはどんな計算でも装えない、本物の魂の輝きだ。


 ……こうして書き連ねてみると、俺がどれほどやられているかがよく分かる。

 正直、こんな手記を本人に見られたら命はない。

 「王配殿下は、こんなものを地下に隠していたのですか」と睨まれた瞬間、俺は心臓を突かれて果てるだろう。


 だが、それでもいい。

 俺は記しておきたい。

 黒髪の女王メービスは、俺が生涯で出会った誰よりも――いや、世界でただひとり、可愛らしく、いじらしく、そして愛しい存在なのだと。


 ……俺はもう、どうしたって抗えない。

 彼女が笑えば、それだけでこの世の全てを手に入れた気がする。

 彼女が涙をこぼせば、それだけで世界のすべてを敵に回せる。

 黒髪の女王は、俺にとって「生きる理由」そのものだ。


 だめだ。

 彼女のことを考えると、ペンが止まらん。

 戦場の記録なら数行で済むのに、メービスの笑みひとつで一頁を費やしてしまう。

 どれほど綴っても足りない。

 黒髪の女王は、俺のすべてを侵食する――

 いや、俺という男そのものを、既に塗りつぶしてしまったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ