ヴィルとユベルとカテリーナと
時系列
本編より二十年以上前
登場人物
ユベル・グロンダイル
ヴィル・ブルフォード
カテリーナ・ウイントワース
若き日の出会いと三人の関係形成
ユベル
リーディス王国軍の銀翼騎士団右翼翼長。高い責任感と完璧主義で常に自ら前線に立ち、心身を削って任務を遂行する。表面的には冷静だが、内側には焦燥と孤独を抱えており、無理を押し通す危うさを持つ。
ヴィル
当時二十代、右翼翼長副官。放浪の末に軍入りした叩き上げで、実務能力と行動力に優れる。ユベルの危うさをすぐに見抜き、「この人を支える」という意識を強く抱くようになる。夜食や茶を運び、マッサージや愚痴聞きなど、仕事外でも支える存在に。
カテリーナ
十代半ばで情報部に所属した有能な若手。知恵が回り、物怖じしない性格で、時にずけずけ物を言う。年齢差や立場を超えて二人と行動を共にし、悪友のような距離感に。ユベルに恋慕を抱きつつも、ユベルとヴィルの間に流れる空気の特別さを敏感に察知し、複雑な感情を抱く。
藍色の静寂
羽根ペンを握るユベルの指が、わずかに震えていた。
インク壺に映る面差しは、濃い隈に彩られ、焦点がかすかに揺れている。
「……あと三件」
掠れた独白は、自らを叱咤するように小さく響き、紙をめくる音にさえ押し負けそうだった。
軋む扉。
「茶だ。冷める前に飲め」
肩越しに差し出された湯気が、ユベルの眉間の皺をほんの少し緩める。
「ヴィル、仕事は終わったのか」
「帳簿なら昼間に片付けた。量は少ないが、数字が並ぶと頭が痛む」
「また端数を切り捨てたのか……。いいから置け。礼は言わん」
素直に湯呑を置き、背後に回って肩へ親指を沈める。
「ッ……だから余計なことをするなと言った」
「おまえがこわばっていると、兵まで固くなる。……俺のためだと思え」
反論しかけた唇が閉じられ、瞼がゆっくり降りた。
指圧の確かさを知るがゆえに、抗う理由を失っていく。
崩れる砦
午前二時。
書類の山はまだ高いが、ユベルの瞼は限界を超え、机に伏した。
「……またか」
呟きと同時に外套を剥ぎ、肩を抱えて立たせる。
意識は朧でも、体は素直に支えを許した。
寝台までの数歩で、靴が抜かれ、第一ボタンが外される。
「昨日より軽い。……昼を抜いただろ」
「副長のくせに、細かい」
「細かくしないと、おまえが死ぬ」
濡らした蒸し布が首筋をなぞり、白い肌に滲んだ紅潮が引いていく。
ユベルが目を閉じたまま動かないのを確かめ、腰掛けを引き寄せた。
膝に足を乗せ、足裏からふくらはぎへ、掌で熱を込める。
「……ん」
漏れた息に合わせ、力加減を微調整する。
やがて呼吸が整い、寝息が穏やかに落ち着いたころ――
「……いつも、任せっぱなしで悪い」
とぎれとぎれの寝言。
手が止まり、夜の静寂が胸の奥で脈打った。
「謝るくらいなら、頼れ」
言葉は届かない。
毛布を掛けるとき、口元にだけ小さく笑みが浮かび、それもすぐ闇に溶けた。
扉の影
部屋を出ようとしたとき、通路の曲がり角に若い騎士がふたり、ひそひそと。
「毎晩、副長が翼長の部屋に泊まり込みだって」
「そりゃ……そういう仲だろ」
「やっぱり? だから翼長は独身貴族なんだ」
「じゃなきゃ、この時間に男の部屋から――あっ」
闇から長身の影が現れた瞬間、ふたりは石像のように固まった。
「……消灯時刻はとっくに過ぎている。明日の巡察は倍だ」
「失礼しました!」
小走りに去る背を見送り、肩を竦めて扉を閉じる。
誤解――それでユベルの重荷が一つ減るなら、それでいい。
けれど背後で、眠る翼長が微笑んでいるような気がして、胸の奥にぬくもりが残った。
静けさの行き先
夜明け前。
自室の机に向かい、苦手な帳簿をもう一度開く。
数字が滲むたび、幻聴のように「また間違ってる!」が蘇る。
それでも、ペンを置く気にはなれなかった。
――自分にできることは少ない。
だからせめて、彼が抱えた空白をひとつ埋めたい。
たとえ明日、訂正印で真っ赤にされても。
紙面に、藍色の静寂が少しずつ沈んでいく。
ユベルという砦を支えるための、名もない礎石として。
◇◇◇
陽がまだ白い息の中に溶けている頃、廊下の先に影が立った。
肩に薄手のマントを掛け、髪先に夜露を抱いたままのカテリーナだ。
丸い銀縁の眼鏡の奥には、硝子細工のように整った顔立ち。
口をきかなければ、絵画から抜け出した姫君のよう――口をきかなければ、だが。
「……また泊まり込みか。あんたも好きだねぇ」
「翼長に倒れられては困る。副長としての務めだ」
歩調を崩さず答えると、彼女は真横に並び、冷えた硝子のような視線を寄越す。
「ねぇ、どうすれば、あの顔を私に向けさせられると思う?」
「……顔だと? 話しかけりゃ、向くだろ」
「とぼけないで。ユベルがあんたに笑う時の顔よ。全然違う。特別なんだ」
「はぁ? 何を言っている」
「思い出すたびに苛々して……昨夜なんて眠れなかった」
足が半歩止まる。
袖口越しに触れるような視線が絡み、丸いレンズが朝の光を鋭く弾く。
「俺には意味がわからん。そうは思わない」
「あんたはわからないだろうね。鈍感で馬鹿だし。けど……私には、わかる」
吐息が耳朶をかすめ、眼鏡の奥の瞳が鋭く刺す。
その温度に、昨夜の湯気や寝息が胸の奥で疼くように蘇った。
「……くだらん詮索はやめろ。俺とユベルはただの仲間だ。お前もその一人だろう」
「だって、あんたは――」
その先を飲み込んだ唇が、意味ありげに緩む。
丸いレンズの縁だけが光を残し、彼女は踵を返した。
残された空気は、微かに藍の香りを滲ませていた。
◇◇◇
カテリーナ視点追補
昼間の会議で、彼の隣に座る。
丸いレンズ越しに覗いたユベルの横顔は、昨夜の温もりをまだ抱いていた。
わかる――額の皺が、ほんのわずかに伸びている。
あの硬い肩も、今朝はどこか緩い。
誰がそうさせたのかなんて、言うまでもない。
羨ましい? ええ、そうよ。
私がどれだけ言葉を尽くしても、あの笑みは向けられない。
あの人にとって私は、からかい半分に肘で突く相手でしかない。
でも、彼は違う。あの強面の砦を、ためらいもなく支えられる。
――あの笑顔を、私に向けさせる方法?
簡単じゃない。だから聞いたの。
答えなんて、最初からわかっていた。
彼はあいつしか見ていない。
だから私がすべきことは、間に立って、ときどき揺らすこと。
そのときだった。
議長の声が途切れる一瞬、ユベルが視線を横に滑らせ、隣のヴィルを見た。
刹那、口元がわずかに緩む。
その笑みを受けたヴィルの表情は変わらない――けれど、私の胸の奥に、冷たい棘が沈んだ。
ねぇ、ヴィル。
私はあんたが羨ましい。
◇◇◇
会議後の廊下(ヴィル視点)
議場の扉が静かに閉まる。
人のざわめきが遠ざかり、石造りの廊下には靴音だけが残った。
「……助かった」
背後から呼び止める声。
振り向けば、書類を抱えたユベルが足を止めていた。
「何がだ」
「おまえが横にいてくれると、変な沈黙が生まれない」
それだけ言って、小さく息を吐く。
光の射し込む窓辺で、彼は束の間、視線をこちらに向けた。
昼の陽が瞳に映り、口元がわずかに緩む。
昨夜の寝息と同じ温度が、その笑みに宿っていた。
「……昼は食ったか?」
問いかけると、ユベルは肩を竦めた。
「おまえこそ」
すれ違いざま、袖がかすかに触れる。
その一瞬の接触を、なぜか忘れたくなかった。
二〇年以上前のユベルとヴィル — 肉体ではなく魂の伴侶
若き日のヴィルとユベルは、軍の右翼翼長と副官として行動を共にし、任務と私生活の境がほとんどないほどの密な時間を共有していました。
ユベルの危うさ
ユベルは過剰な責任感と完璧主義を抱え込み、心身を削っても周囲を守ろうとする人物でした。無理を押し通す危険な働き方は、常に破綻の予兆を孕んでいた。ヴィルはそれを間近で知り、ただの部下や友人ではなく、「この人を支えるためにここにいる」という意識に至る。
魂の伴侶的な結びつき
物理的な恋愛関係はなかったが、行動や感情の呼吸は完全に噛み合い、互いの思考や体調を言葉にせずとも察するレベルに達していた。「藍色の静寂」に描かれたような、無言のまま介抱する時間は、この時代に幾度も積み重ねられたものの延長線上にある。
その二人の間にあったカテリーナの複雑な思い
当時まだ十代だったカテリーナは、情報部の有能な若手であり、理想を語り合う仲間として、二人と共に行動することが多かった。彼女はユベルに恋慕を抱き、同時にヴィルとも悪友的な関係を築いていたが、ヴィルとユベルの間に流れる空気の特別さを敏感に察していた。
外から見える「特別」
ユベルがヴィルに向ける微笑みや、二人だけで通じる言葉の端々。自分には向けられないそれらは、カテリーナにとって羨望と嫉妬の混ざった感情の源だった。
ユベル失踪後の空白
突然の失踪は三人の関係を断ち切り、カテリーナにとっては「答えの出ない問い」を残す。以降ヴィルと会っても、その間にユベルの影が横たわり続け、気安さは失われていった。
ヴィルの経験が後のミツルへの対応を可能にした理由
ユベルの危うさと、それを支えるために必要だった“距離感と手の差し伸べ方”を、ヴィルは若い頃から実地で学んでいた。そのため、その娘ミツルと関わるようになった時も、彼女の危うさ(自己犠牲・責任感・無理の積み重ね)に対して、過干渉にならず、しかし必要な時にはためらわず踏み込むという対応が自然にできた。ユベルにしてきたこととほとんど同じ手つきであり、その自然さこそが、ヴィルのミツルへの信頼の形でもある。
第四章でミツルを見たカテリーナの感覚
ミツルの顔立ちはユベルとはまったく似ていない。それでも、カテリーナは会った瞬間に「あの二人だけの空気」を感じ取る。
仕草、視線の送り方、呼吸の間合い——そうした非言語的な部分に、自分がかつて間近で見てきたユベルとヴィルの呼吸の一致が重なった。
特にヴィルがミツルに向ける時の眼差しのやわらぎは、ユベルにだけ向けられていたものと同じ質を帯びている。それは本人たちが否定しても、カテリーナには“見えてしまう”領域。この直感は、彼女の過去の痛みと羨望を呼び起こし、ミツルへの態度にも微妙な棘や揺さぶりとして現れる。それは「藍色の静寂」の翌朝、ヴィルに投げかけた挑発的な問いにも通じている。
時系列
1. ユベル失踪前
カテリーナは10代半ばの若手情報部員。聡明でずけずけと物を言う性格で、20代のヴィル、30代のユベルとよく行動を共にしていた。ユベルは国の未来を憂い、カテリーナと情報面で協力。カテリーナはユベルに恋慕を抱くが、彼は政務や軍務に没頭して応えない。ヴィルは二人の仲を取り持とうとするが実らず。
2. ユベル失踪と関係の断絶
ユベルがメイレア王女を拐い突然消息を絶ち、お尋ね者に。ヴィルは独自に捜索のため騎士団を離れ、各地を放浪。カテリーナも軍を抜け情報屋として動くが、ユベルの足取りは掴めなかった。ヴィルと王都で再会することもあったが、会話の背後には常に「ユベルの影」が横たわり、かつての気安さは戻らない。
3. 二十年後の手紙
ヴィルからの手紙が届く。内容は衝撃的だった。
ユベルの死。
その娘ミツルの存在。
その母が攫われたはずのメイレア王女であること。
カテリーナは二重の衝撃を受ける。さらに追伸で、
「ミツルには、俺たちが大好きだったあいつの魂が受け継がれている」
と記されており、胸に波紋が広がる。
4. 再会と初対面(玄関)
西の町外れ・第六地区の住宅街で、ヴィルがミツルを伴ってカテリーナの家を訪れる。玄関先で厳しさと呆れの混ざったやり取り。ミツルを「こんな小さな子を」と呼びつつも、ヴィルが「俺の大事な仲間」と言うのを聞き、条件付きで受け入れる。
5. 食堂でのやり取り
食堂でカテリーナが杯を揺らしながら、ヴィルに「今夜はずいぶん静かじゃないか」と問いかける。ヴィルが「昔を思い出してな……」と答えると、会話は自然とユベルを含む三人の過去に触れる。ミツルが勇気を出して「付き合っていたとか…」と尋ね、カテリーナがむせる場面は、読者に二人の距離感と親密さを印象づける。
ヴィルが「あの頃は俺も若かった。お前も、
《《あいつ》》もな……」と口にし、カテリーナも「楽しかったさ…」と懐かしむ。カテリーナは最後にミツルに向かい、「あんたの素性は手紙で分かってる。家に帰ってから話そう」と告げる。
6. 室内での対話リビング
本や書類に囲まれた部屋で三人が腰を下ろす。ミツルがウィッグを外し、黒髪と瞳を見せる。カテリーナはメイレア王女の面影を認めつつ、「ユベルには似ていない」と言う。視線は容貌ではなく内面を探っている。ミツルが「父は間違いなくユベル・グロンダイル」と断言し、カテリーナは「いいね、その強さ」と応える。ヴィルも「剣を交えた俺が理解している。その意志は確かに受け継がれている」と断言し、カテリーナと共にその強さを認める。
カテリーナは「知らない方が幸せなこともある」と前置きし、ミツルは「すべてを知る覚悟があります」と応える。三人の間に、覚悟と信頼が芽生える。
カテリーナは二十年の空白と未練を抱えたままミツルを受け入れた。容貌は似ていなくても、「ユベルの魂」が息づいていることを直感で感じ取っている。三人の間には、過去の絆を継ぐ新たな関係が静かに形を取り始める。