第十三章ハロエズ事件後
朝、目が覚めるより先に、まず意識にのぼるのは、ヴォルフの腕の重みだった。わたしの腰に回されたまま、まるで番をしている鎖のように、ぴくりとも動かない。
寝台の周りはまだ薄暗くて、カーテンの隙間から漏れた朝の気配が、灰色の輪郭だけを部屋に描いている。静かな空気の中で、彼の吐息だけが首筋にふわりとかかる。少し熱を含んだ呼気が、うなじの産毛をそっと逆立てていく。
熱くて、ちょっとくすぐったくて、それでも離れたいとは思わない。
「……まだ寝てたいな」
寝ぼけた声が枕に吸い込まれていく。呟きに返事をする代わりに、ヴォルフは目を閉じたまま、わたしの髪に唇を埋めた。少し乱れた前髪の奥に、ゆっくり深く息を吸い込んでいく。
まるで、わたしの匂いを確かめているみたいだった。洗いざらしのシーツに染み込んだ石鹸の残り香と、汗と、寝ぼけた体温。それをごく当たり前のように受け入れている気配が、肩越しに伝わってくる。
朝食の時間になると、食堂の高い窓から差し込む光が、白いテーブルクロスを淡く照らす。焼きたてのパンと、温めた牛乳の匂いが静かに満ちている。
ヴォルフはいつものように、わたしの隣の席を引いた。椅子を少しだけこちらに寄せて、膝が触れるか触れないかの距離を測る。
パンをちぎって、蜂蜜をたっぷりと塗る。金色の滴が縁からこぼれそうになったところで、彼は小さく息を整えた。
「はい」と声に出す代わりに、無言のまま、わたしの口元へ差し出してくる。
差し出された手の甲に、かすかに力がこもる。指先がほんの少し震えているのが近さゆえにわかってしまって、思わず視線を落とした。
「恥ずかしいから……」
以前のわたしの抗議を思い出したように、ヴォルフは一拍置いてから、かすかに咳払いをする。
「……甘いの、好きだろ?」
小さく呟いて、目を逸らす。その横顔の耳朶まで赤くなっているのが、朝の斜光に透けて見えた。
本当は「やめてよ」と笑って押し返すことだってできたはずなのに、喉のところで言葉がほどけてしまう。ここで拒んでしまったら、何か大事なものまで遠ざかってしまいそうで。
だから、わたしは何も言わずに口を開ける。蜂蜜の甘さが舌に広がるより先に、指先の温もりが唇の端に触れた。ゆっくり噛みしめるあいだじゅう、喉の奥に落ちていくのは、小麦と蜜ではなく、彼の不器用な優しさばかりだった。
執務室に戻れば、羊皮紙とインクの匂いが空気を重くしている。窓硝子を叩く風の音と、ペン先の走る音だけが、昼前の静けさを刻んでいた。
次の決裁に印を押そうと身を乗り出したとき、扉の向こうで一瞬だけ気配が揺れる。聞き慣れた足音が近づいてきて、ノックの間も惜しむように扉がそっと開いた。
振り向くより早く、背後から腕が回る。甲冑の金具が衣の上から背中に当たって、ひやりとした硬さを伝えてくるのに、抱き寄せる腕の中だけが、驚くほど熱い。
「もう少しで昼休みだろ?」
耳元に落ちた声は低くて、笑いを含んでいた。吐息が耳殻の裏側をかすって、思わず肩が跳ねる。書類を持ったまま振り向いたとき、彼の顔がすぐそこにあって、言葉より先に、わたしの額にキスが落ちてきた。
軽くて、柔らかくて、けれど不思議と重さのあるキスだった。ほんの一瞬触れただけなのに、その一点から全身の力が抜けていく。
「……ヴォルフ、誰か来たら」
自分の声が、紙よりも薄く震えているのがわかる。
「戦術的には単純明快だ。来させなければいい」
すぐそばで、鍵の回る小さな音がする。その乾いた金属音が、この部屋と世界とを切り離す境目みたいに思えた。
わたしはもう、彼の胸に顔を埋めてしまう。革と金属と、彼自身の匂いが混ざった温度が、頬にやわらかく押し当てられる。少しだけ、胸の奥の罪悪感が静まり、代わりに別の熱が息苦しく溜まっていく。
夕暮れには、王宮外縁の道を二人で馬を並べて歩く。蹄の音が石を打つたびに、空の色が少しずつ変わっていく。風が外套の裾をめくり、沈む太陽が空を溶かすような朱に染めていく。
西の空を見上げた瞬間、指先に別の温度が触れた。ヴォルフが、わたしの手をそっと取っていた。
革手袋を外された指先に、冷えた風が触れる。かわりに、彼の指が一本ずつ絡んできて、その隙間を塞いでいく。
「……綺麗だ」
朱の光を受けた横顔は、いつもより少し年上に見えた。
「夕焼けが?」
冗談めかして返した言葉を、風が半分さらっていく。
「違うな」
短く首を振ると、ヴォルフは絡めた指を持ち上げ、わたしの指にキスを落とした。唇の熱が冷えた指先に移って、じわりと遅れて心臓が打つ。
「つまり、俺はお前のことしか見ていないわけだが?」
ムードの欠片もない物言いなのに、喉の奥で息が詰まる。夕焼けの赤が頬に映ったのか、それとも、と自分でも判別がつかず、視線だけが馬のたてがみへ逃げていった。
夜、軍装を脱がせるたび、金具の外れる音が部屋に静かに響く。外套を外し、鎧を一枚ずつ解いていくと、布の下から現れた肌に、古い傷と新しい傷が入り混じっていた。
指先で触れるだけで、そこにこびりついた戦場の匂いと熱が、まだ微かに残っている気がする。
傷跡をゆっくりなぞってから、わたしはそっと唇を寄せる。触れるそばから、そこにある痛みごと引き受けたいと思ってしまう。
ヴォルフは照れて視線を逸らす。喉元の筋肉が、飲み込むように一度だけ動いたのが、近さゆえに見えてしまう。
「……俺を甘やかすと後が怖いぞ」
そう言って笑ったときだけ、彼は両手でわたしの頬を包む。掌の大きさと、荒れた皮膚の感触が、骨の奥まで届くようだった。
深いキスが落ちてくる。舌が絡まるたびに、胸の奥で小さな命が、内側から合図を送ってくるようにふわりと跳ねる。そのたびに、お腹のあたりがくすぐったくて怖くて、けれどどうしようもなく愛しい。
灯りを落とした寝室は、月明かりだけが白く床を撫でていた。ベッドに入ると、ヴォルフはいつも通り、わたしの背中にぴったりとくっついてくる。
背中越しに感じる体温と、布団越しの重み。お腹に回された手が、そっと丸みを撫でる。外からは、遠く衛兵の足音が微かに届くだけで、ここだけ別の世界みたいに静かだった。
「……今日も、ありがとう」
耳元に落とされた声は、昼間より少し掠れている。
「何が?」
問い返すと、背中にあたる胸の鼓動が、ひとつだけ大きく跳ねた。
「お前がここにいてくれることに」
言葉の重さに、喉がきゅっと狭くなる。
「それ、こっちの台詞なんだけど?」
精一杯の軽口で返しながら、わたしは彼の手を取って、自分の胸に重ねた。布越しでもわかる鼓動が、彼の脈とゆっくり重なっていく。
「……明日も、明後日も、ずっと、こうしてて」
紡いだ声が、布団の中で小さく震えた。
「当たり前だ。夫だからな」
迷いのない返事が、背中越しに骨まで染みてくる。
飾りも比喩もない言い方だ。ただ、見たものを見たまま、信じたことをそのまま口にするだけ。
――だって、これが彼なんだから。
胸の奥で固まっていた空気が、ふっとほどけた気がした。長いあいだ浅くしか動いていなかった肺が、ようやく大きく息を吸い込んでくれるみたいにひらいていく。
それが、わたしには心地良い。息をするのが楽になる。
窓から差す月明かりが、二人の輪郭を静かに撫でていく――外の世界がどんなに荒れていても、この腕の中だけは、息をするたびに春が積もっていくみたいだった。
ヴォルフの腕の中で、わたしは静かに目を閉じる。胸とお腹と、三つの鼓動が重なっていく気配を数えながら、この小さくて、大きな幸福を、誰にも奪わせないようにと、内側でそっと祈っていた。
ユベルに対しても、メービスに対しても、ヴィル(ヴォルフ)がやっているのは結局――「倒れないように囲う」「休ませる」「食べさせる」「触れて呼吸を落ち着かせる」「外界を遮断する」なんですよね。腕の重み、茶や蜂蜜パン、昼休みを“取りに来る”手つき、鍵の音。全部、世話の形をした護衛。
心理学の言葉を借りるなら、いま彼がやっているのは安全基地/安全な避難所の提供にかなり近いです。大事な人が外で戦えるように、内側で回復できる場所と手当てを用意する、あのケアの回路。
それに彼は、言葉より先に身体が動くタイプ。触れること自体が、相手の情動(気持ちの波)を整える手段になっている、というのも“らしい”。カップルの日常で、触れ合いが親密さや気分の安定と結びつく、という研究もあります。
違いがあるとすれば、ユベルのときは「副官としての世話」で、メービスのいまは「夫としての世話」になっていること。だから同じ献身でも、抱き方が少しだけ“所有”を帯びて、メービス側もその手を掴み返して「ずっと」と言える。
同じ癖が、関係の名札だけ変えて、もっと深いところへ沈んでいく。そういう反復が、魂の同一性をいちばん静かに証明していて、わたしは好きです。




