表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
テスト  作者: ひさち
13/16

藍色の静寂

藍色の静寂


 羽根ペンを握るユベルの指が、わずかに震えていた。

 インク壺に映る面差しは、濃い隈に彩られ、焦点がかすかに揺れている。


「……あと三件」


 掠れた独白は、自らを叱咤するように小さく響き、紙をめくる音にさえ押し負けそうだった。


 軋む扉。


「茶だ。冷める前に飲め」


 肩越しに差し出された湯気が、ユベルの眉間の皺をほんの少し緩める。


「ヴィル、仕事は終わったのか」


「帳簿なら昼間に片付けた。量は少ないが、数字が並ぶと頭が痛む」


「また端数を切り捨てたのか……。いいから置け。礼は言わん」


 素直に湯呑を置き、背後に回って肩へ親指を沈める。


「ッ……だから余計なことをするなと言った」


「おまえがこわばっていると、兵まで固くなる。……俺のためだと思え」


 反論しかけた唇が閉じられ、瞼がゆっくり降りた。

 指圧の確かさを知るがゆえに、抗う理由を失っていく。



崩れる砦


 午前二時。

 書類の山はまだ高いが、ユベルの瞼は限界を超え、机に伏した。


「……またか」


 呟きと同時に外套を剥ぎ、肩を抱えて立たせる。

 意識は朧でも、体は素直に支えを許した。


 寝台までの数歩で、靴が抜かれ、第一ボタンが外される。


「昨日より軽い。……昼を抜いただろ」


「副長のくせに、細かい」


「細かくしないと、おまえが死ぬ」


 濡らした蒸し布が首筋をなぞり、白い肌に滲んだ紅潮が引いていく。

ユベルが目を閉じたまま動かないのを確かめ、腰掛けを引き寄せた。

膝に足を乗せ、足裏からふくらはぎへ、掌で熱を込める。


「……ん」


 漏れた息に合わせ、力加減を微調整する。

 やがて呼吸が整い、寝息が穏やかに落ち着いたころ――


「……いつも、任せっぱなしで悪い」


 とぎれとぎれの寝言。

 手が止まり、夜の静寂が胸の奥で脈打った。


「謝るくらいなら、頼れ」


 言葉は届かない。

 毛布を掛けるとき、口元にだけ小さく笑みが浮かび、それもすぐ闇に溶けた。



扉の影


 部屋を出ようとしたとき、通路の曲がり角に若い騎士がふたり、ひそひそと。


「毎晩、副長が翼長の部屋に泊まり込みだって」


「そりゃ……そういう仲だろ」


「やっぱり? だから翼長は独身貴族なんだ」


「じゃなきゃ、この時間に男の部屋から――あっ」


 闇から長身の影が現れた瞬間、ふたりは石像のように固まった。


「……消灯時刻はとっくに過ぎている。明日の巡察は倍だ」


「失礼しました!」


 小走りに去る背を見送り、肩を竦めて扉を閉じる。

 誤解――それでユベルの重荷が一つ減るなら、それでいい。

 けれど背後で、眠る翼長が微笑んでいるような気がして、胸の奥にぬくもりが残った。



静けさの行き先


 夜明け前。

 自室の机に向かい、苦手な帳簿をもう一度開く。


 数字が滲むたび、幻聴のように「また間違ってる!」が蘇る。

 それでも、ペンを置く気にはなれなかった。


――自分にできることは少ない。


 だからせめて、彼が抱えた空白をひとつ埋めたい。

 たとえ明日、訂正印で真っ赤にされても。


 紙面に、藍色の静寂が少しずつ沈んでいく。

 ユベルという砦を支えるための、名もない礎石として。

 

◇◇◇


 陽がまだ白い息の中に溶けている頃、廊下の先に影が立った。

 肩に薄手のマントを掛け、髪先に夜露を抱いたままのカテリーナだ。

 丸い銀縁の眼鏡の奥には、硝子細工のように整った顔立ち。

 口をきかなければ、絵画から抜け出した姫君のよう――口をきかなければ、だが。


「……また泊まり込みか。あんたも好きだねぇ」


「翼長に倒れられては困る。副長としての務めだ」


 歩調を崩さず答えると、彼女は真横に並び、冷えた硝子のような視線を寄越す。


「ねぇ、どうすれば、あの顔を私に向けさせられると思う?」


「……顔だと? 話しかけりゃ、向くだろ」


「とぼけないで。ユベルがあんたに笑う時の顔よ。全然違う。特別なんだ」


「はぁ? 何を言っている」


「思い出すたびに苛々して……昨夜なんて眠れなかった」


 足が半歩止まる。

 袖口越しに触れるような視線が絡み、丸いレンズが朝の光を鋭く弾く。


「俺には意味がわからん。そうは思わない」


「あんたはわからないだろうね。鈍感で馬鹿だし。けど……私には、わかる」


 吐息が耳朶をかすめ、眼鏡の奥の瞳が鋭く刺す。

 その温度に、昨夜の湯気や寝息が胸の奥で疼くように蘇った。


「……くだらん詮索はやめろ。俺とユベルはただの仲間だ。お前もその一人だろう」


「だって、あんたは――」


 その先を飲み込んだ唇が、意味ありげに緩む。

 丸いレンズの縁だけが光を残し、彼女は踵を返した。

 残された空気は、微かに藍の香りを滲ませていた。


◇◇◇


 カテリーナ視点追補


 昼間の会議で、彼の隣に座る。

 丸いレンズ越しに覗いたユベルの横顔は、昨夜の温もりをまだ抱いていた。

 わかる――額の皺が、ほんのわずかに伸びている。

 あの硬い肩も、今朝はどこか緩い。

 誰がそうさせたのかなんて、言うまでもない。


 羨ましい? ええ、そうよ。

 私がどれだけ言葉を尽くしても、あの笑みは向けられない。

 あの人にとって私は、からかい半分に肘で突く相手でしかない。

 でも、彼は違う。あの強面の砦を、ためらいもなく支えられる。


――あの笑顔を、私に向けさせる方法?


 簡単じゃない。だから聞いたの。

 答えなんて、最初からわかっていた。

 彼はあいつしか見ていない。

 だから私がすべきことは、間に立って、ときどき揺らすこと。


 そのときだった。

 議長の声が途切れる一瞬、ユベルが視線を横に滑らせ、隣のヴィルを見た。

 刹那、口元がわずかに緩む。

 その笑みを受けたヴィルの表情は変わらない――けれど、私の胸の奥に、冷たい棘が沈んだ。


 ねぇ、ヴィル。

 私はあんたが羨ましい。


◇◇◇


会議後の廊下(ヴィル視点)


 議場の扉が静かに閉まる。

 人のざわめきが遠ざかり、石造りの廊下には靴音だけが残った。


「……助かった」


 背後から呼び止める声。

 振り向けば、書類を抱えたユベルが足を止めていた。


「何がだ」


「おまえが横にいてくれると、変な沈黙が生まれない」


 それだけ言って、小さく息を吐く。


 光の射し込む窓辺で、彼は束の間、視線をこちらに向けた。

 昼の陽が瞳に映り、口元がわずかに緩む。

 昨夜の寝息と同じ温度が、その笑みに宿っていた。


「……昼は食ったか?」


 問いかけると、ユベルは肩を竦めた。


「おまえこそ」


 すれ違いざま、袖がかすかに触れる。

 その一瞬の接触を、なぜか忘れたくなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ