無題
――どうして。
どうしてわたしは、あんなことを言ってしまったのだろう。
かつて、大切なものを幾度も取りこぼしてきた。
その記憶が、理屈を越えてわたしの口を動かしたのだ。
知識ではわかっている。
けれどあの瞬間だけは、頭より先に心が祈ってしまった。
ひとしずくさえ零れ落ちないで、と。
愚かだと自分でも思う。
恥ずかしくて、顔を上げられない。
それでも、あふれ出た声は本当の気持ちだった。
問い詰められるかと息を詰めたのに、彼はなにも言わない。
ただそっと笑って、黙って包んでくれた。
圧することも、急かすこともなく。
――どうして。
なにもかも見抜いているくせに、追い詰めようとはしない。
わけのわからない願いさえ、そのまま赦してしまう。
情けなくて、涙が滲む。
でも、そんなわたしを抱きとめてくれる人は、どこにもいなかった。
……本当は知っている。
わたしが怖いのは、零れることそのものじゃない。
「失う」ことだ。
だからこそ、ほんの少しの間でも、幸せを手放したくなかった。
掌に掬った水のように、零れる前に抱きとめていたかった。
それが愚かでもいい。
祈りのように震えた声は、涙とともに彼の胸へ届いてしまった。
……それでもいい。
怖くても、恥ずかしくても、わたしはやめられない。
欲しい。欲しくてたまらない。
あなたといる未来も、温もりも、すべて――ぜんぶ、失いたくない。
そして、彼の腕の重みを感じながら、わたしの呼吸は次第に落ち着いていく。
高鳴っていた脈も、ようやく静けさを取り戻して。
その安らぎの中で、愚かな祈りごとが、そっと眠りに変わっていった。