将棋の必勝法
量子コンピュータの実運用が開始されて20年余りが経過しようとしている。その間に世の中は大きく変化した。良い面としては、シミュレーションの計算速度と精度が格段に向上したことによって、天気の変化が一分単位で正確に分かるようになったことや、またシミュレーションを用いて設計された機械の性能や安全性が大幅に改善したことなどがある。一方、悪い面としては、素数を用いたセキュリティ管理が事実上、意味を成さなくなりセキュリティ管理システムの変更に巨額の費用を要したことや、データ通信量が膨大となり電気使用量が急激に増えてしまったことなどがある。
そんな中、世間の話題を集めたことの一つに、量子コンピュータ上で動くAIが将棋の必勝法を発見したことがある。しかし、これを必勝法と呼べるのかという解釈にあたっては、量子コンピュータの研究者やAIの研究者、またプロ棋士の間でも賛否分かれており、まだ結論は出ていない。
この将棋必勝法(の可能性のあるもの)を発見したのは量子コンピュータ研究所の青塚教授らのグループである。教授は従来のAIを量子コンピュータ上で効率良く動かせるための研究を行っていた。そして、教授のもとで研究していた立石助教は将棋用AIの研究を行っていた。AI同士を幾度となく対局させてAIに学習させて棋力を向上させていたのだ。
研究を進めていたある日のこと、立石助教は奇妙な事象を目にした。対局を何度も行わせていると、AIが投了する手数がどんどん少なくなっていたのだ。投了した局面を見ても、まだ詰みがありそうには思えない。そして、対局数を重ねていくと、長考の末、なんと初手から投了してしまったのだ。それ以降は何度対局させても初手から投了してしまった。立石助教は何か設定を間違えてしまったのだろうと思い、調べてみたが間違いが見付からない。プログラムを調べても問題なさそうだった。間違いを見付けることが出来なかったので、ひとまず、設定を少しだけ変えてもう一度、最初からAIの学習をやり直してみることにした。それまでの対局で蓄積させた学習を一度消去して、最初から学習させてみることにした。そしてAIの学習を再開させると数日後、前回と同様にAIが投了する手数がどんどん短くなっていき、再び初手から投了するようになってしまった。
「またか……。どこを間違えたんだろうか?」
立石助教は頭を抱えた。学会での研究成果の発表の時期が迫っているのに思うような結果が得られていないのだ。そんな様子を見ていた青塚教授は立石助教に声を掛けた。
「立石君、研究は順調ですか?」
立石助教は青塚教授に相談してみることにした。
「実は研究が上手く行っていないんです。AIに対戦で学習させていると投了するまでの手数がどんどん少なくなっていって、初手から投了するようになってしまうんです。プログラムのどこを間違えているのか分からないんです」
「そうですか……。それは変ですね。AIに投了させないようにして詰みまで将棋を指させるようにしてみてはどうですか?」
「なるほど。AIの投了の判断の部分に何か問題があるのかもしれないですね。教授の言われる様に投了させずに詰みまで指させるようにして学習をさせてみます」
立石助教は青塚教授に言われた通りにしてみることにした。それまでの対局で蓄積させた学習を再度消去して、投了をさせず詰みまで指させるようにして最初から学習させることにした。
その後、AIの学習は特に問題無く進んでいた。安心した立石助教だったが、再び奇妙な事象を目にした。学習を進めて一週間程経つと常に後手が勝つようになってしまったのだ。不思議に思った立石助教は再度、青塚教授に相談してみることにした。
「学習を進めていくと常に後手が勝つようになってしまうんです。やはり学習のプログラムの中に何か問題があるのでしょうか?」
青塚教授はしばらく考えてから話はじめた。
「以前、AIが初手から投了するようになってしまったと言っていましたね。そのことと後手が常に勝つようになったということは何か関連があるのかもしれません」
「教授、それはどういう意味ですか?」
「AIは学習を進めていくと将棋というゲームは後手が常に勝つということに気付き初手から投了しているのかもしれません」
「つまりAIが将棋の必勝法を見付けてしまったということですか?」
「その可能性はあると思います」
立石助教は興奮した。
「教授、それが事実なら大発見ですね」
青塚教授は落ち着いて応えた。
「プロ棋士の方に相談してみましょう」
青塚教授は量子コンピュータが運用され始める前に将棋用のAIについて共同で研究を行ったことがある岡田六段に相談してみることにした。岡田六段は状況を知ると非常に興味を示し研究室を訪ねた。
「青塚教授、ご無沙汰しております」
「岡田六段、良く来てくれました。お忙しいところありがとうございます」
「いえ、最近は対局数が少なくなってしまって暇ですから」
プロ棋士はタイトル戦の挑戦などで勝ち進めば対局数が増えるのだが、早めに負けてしまうと対局数が少なくなってしまうのだ。岡田六段は近年調子を落としており対局数が減っていた。このAIの研究の成果を自分の対局に活かせないかと期待していたのだった。
「岡田六段、早速ですがAIの学習進度と対戦結果についてご説明します」
立石助教が研究の概要について説明を行った。
「我々の研究で用いている将棋用AIは、まずは従来のコンピュータのAIと同様に、指し手の評価関数をプロ棋士の棋譜を基に学習を行いました。評価関数は、駒の損得や駒の働き、玉の危険度などを総合的に評価して点数付けを行うという従来のものと同じです。その後、対局を通して評価関数のチューニングを行っていきます。このとき、従来のコンピュータのAIでは30手程度先の局面まで読んでいました。しかし、我々は量子コンピュータの圧倒的な計算能力を活かして、一つの局面で可能な全ての指し手について詰みまで全通りの検討を行わせて、その中から最適なものを選択させるようにしています」
それを聞いて驚いた岡田六段が話し始めた。
「将棋は、一つの局面で可能な指し手は平均して80通りと言われて、将棋一局の平均手数は115手と言われています。つまり、80の115乗ほどの指し手が存在すると言われています。これはおよそ10の220乗という途方もなく大きな数です」
立石助教がその情報に追加した。
「ちなみに、宇宙が誕生してから138億年が経過したと考えられていて、これを秒に直すと10の17乗秒ほど、そして宇宙に存在する原子の数は10の80乗ほどと考えられています」
そのことについては初めて知った岡田六段は感心した。
「将棋の世界が如何に広大かが分かりますね。その全てを計算するということは量子コンピュータには可能なのですか?」
青塚教授が答えた。
「はい、可能です。もちろんAIのプログラムによりますが、長年に渡って量子コンピュータ上でのAIのプログラムについて研究して来ましたので、かなり効率的に局面の評価や学習が行える様になってきたと考えています」
「そうですか……」
岡田六段は驚きながら答えた。立石助教は説明を続けた。AIが学習を進めていくと初手から投了するようになってしまうこと、投了をさせないようにして対戦を続けていくと常に後手が勝つようになってしまうこと、AIが将棋の必勝法を発見したのではないかという仮説について、一通り説明を行った。そして、立石助教は岡田六段に質問した。
「将棋は先手の方が有利と聞いたことがあります。しかし、AIの学習を進めていくと常に先手が投了するようになってしまいます。これは何故だとお考えですか?」
岡田六段はしばらくの間考え込み、ゆっくり話し始めた。
「一般的には将棋は先手が有利なゲームと考えられています。交互に指していって相手より早く相手の玉を詰ませれば勝ちなので、先手の方が後手よりも常に一手先にさせる分、先に詰ませる可能性が高いためです」
一息ついて岡田六段は続けた。
「一般的に、強い人同士の対局では一方的に相手をねじ伏せて勝つというケースはあまりありません。しばらくは均衡が保たれて形勢も互角な状態が続きます。しかし、どちらかが小さなミスをしたり、あるいは陣形のバランスが崩れた時、対戦相手がそれを上手く咎めることが出来ると形勢が動き、一気に勝敗が決することがあります」
立石助教は尋ねた。
「そのこととAIが初手から投了してしまうのはどういった関係があるのでしょうか?」
岡田六段は少し考えて、ゆっくりと口を開いた。
「これは仮説ですが、最もバランスの取れた陣形がまだ何も指していない状態だとAIは判断したのかもしれません。そして何か一手指すということは、そのバランスが崩れることになり、後手はそのバランスの崩れた状態を咎める様に指すことで優勢に指していって勝つことができる。そのことに先手のAIが気付いたので初手からAIが投了したのではないでしょうか」
青塚教授は頷いた。
「なるほど。その仮説は説得力がありますね」
立石助教が質問した。
「これはAIが必勝法を見付けたと言えるのでしょうか?」
岡田六段は応えた。
「分かりません。しかし、AIは先手が初手に何を指しても後手が勝つと考えているのなら必勝法といえるのかもしれませんね」
立石助教が質問した。
「このことが世間に知れ渡ると人間同士が指す将棋に価値を見出されなくなるのではないでしょうか?」
岡田六段は応えた。
「私はそうは思いません。必勝法の存在が明らかになっても人間同士が指す将棋は相変わらず価値があると思います。例えば、人間よりも速く移動する機械は車や飛行機などこの世の中に沢山存在しますが、人間の肉体の限界を追求する陸上競技は相変わらずスポーツとしての価値がありますね。それと同様に、将棋はマインドスポーツというスポーツの側面があるので、将棋も人間の限界を追求するところに価値があると思います」
教授と立石助教は納得した。岡田六段は質問した。
「AIが具体的にどの様に指したのか見せてもらうことは出来ますか?」
「もちろん構いません。ぜひご意見を伺いたいです」
岡田六段は少し悪い考えを持っていた。このことが世間に発表される前にAIの考えた手筋を自分のものに出来れば勝てるようになると考えたのだ。しかし、その期待は裏切られた。立石助教に見せられた資料を見て愕然とした。
「これは……、ルールを覚えたての子供同士が指した将棋にしか思えないのですが……。AIがどの様な手筋を考えていたのかも見せてもらえませんか?」
「AIが検討していた全ての手筋を見ることは出来ません。何しろ10の220乗通りも計算しているので、それだけのデータを保存しておくだけの記憶装置が存在しないのです。ただし、有力な候補手としてAIが検討していたものに限ればデータを取ってあります」
「ぜひ、それを見せてください」
その候補手も岡田六段が想像していたものとは全く違っていた。人間が指した将棋とは全く違う将棋と思考がそこでは行われていたのだった。
「これは……、AIが何を考えているのか全く分かりません。これが将棋を指し続けた先にある究極の姿なのだろうか……」
しばらくして、この研究成果は学会で発表された。将棋の必勝法ということで一時的に世間は盛り上がり、研究者間、プロ棋士間でも議論され、将棋の必勝法について賛否様々な意見が上がった。しかし、AIの指し手を誰も理解できないため、結局、将棋の必勝法の話題は少なくなっていった。そして、プロ棋士同士の対局もそれまでと何も変わらず、ファンはプロ棋士の将棋を楽しんだ。
量子コンピュータ上で動くAIは究極の頭脳によって、将棋以外にも人間には到底たどり着けない様な答えを導き出してくれた。それによって人間の生活が豊かになることもあれば、人間の存在を脅かすこともあった。また、時には知らなければ良かった様なことまで答えを出した。しかし、この究極の頭脳から導き出された答えを正しく解釈し、使いこなすためには、我々人間がもっと賢くなる必要がある様だ。 (終)