人間と、夕日の戯れ
和服は寒いから好きにはなれない。隙間は大きいから風はどこからでも入ってくるし、おまけに薄い。冬に向いているとはとても言えない。
だけどセーターなんて今どきどこにも売ってないし、作る人もいない。羊毛が手に入らなくなって、作っていた人も作らなくなった。...こうは言うけど、私も実は今までにセーターなるものを着たことは一度もないので、本当にあったかいのかは正直不明。
そんな訳で風通しの良い和服をみんな着てるけど、結局対策次第で寒さはどうにでもなる、っていうのが本当のところ。私だって寒い寒い言っているだけじゃなくって、ちゃんとインナーも着てるし羽織はこないだ分厚いのを新調したばっかりで、それなりに防寒できている。
......それでも、三墨村の冬、その夜ともなると、この装備の防御力はいささか不安を帯びてくる。
・ ・ ・
さ っ っ ぶ い ! !
赤く染まり始めた西の空。小さな工房からの帰り道、小声で叫んだはずだったけど、道の側で農作業中のおばちゃんには聞かれてしまったらしく、
「ほんと、寒いわねぇ」
と可愛らしく返された。おばちゃんの帽子からはツノが2本突き出していて、夕日の逆光で黒く光った。
聞かれたことはちょっと恥ずかしかったけど、反応してくれたことが同じくらい嬉しくて、やっぱりさぶさぶ言いながら帰路を急いだ。
早くしないと、あれが帰ってしまうかもしれない。
・ ・ ・
西日が差し込む二階の小さな和室。香炉を添えた小さな祠がある、元寝室、現両親の部屋。名前も知らない冬の虫が細い音を響かせ、大地は空より一足先に墨汁色に染まっている。
そしてやっぱり、それはそこにいた。
半透明の体を持つ、腕くらいの大きさの浮かぶ魚。
両親の名前が刻まれた木板の前、供えられた緑色野菜をついつい齧っている。整列した複眼から後方に伸びるように通るピンクの筋。やっぱり、いつものあいつだ。
このところ毎日、お供物を食べに来る。安全な食事場ができたと思っているのか、それとも何か他に理由があるのか分からないが、私に取っては絶好のチャンスだ。
...私はその空魚を脅かさないように、そっと、ゆっくり、肉片を摘んだ手を差し伸べる。
半透明の体が小さく揺れ動くたび、その体に橙の夕日がちらちら反射して目に焼き付く。
興味は野菜からすぐに移ったようで、仕切りに匂いを嗅ぐような動きを見せる。空魚は訝しみながら何度も食べるような素振りを見せるが、しかしそのたびにぱっと引いてしまう。
「安心していいよ」
小声で囁く。
そう、取って食おうってわけじゃない。ただ、もう一人くらい、家族がいてもいいと思っただけだから。
空魚は声に驚いて畳の敷かれた部屋の隅までヒレを振って退がったが、その開いたガラス戸から逃げようとはしない。しばらく待っていると、今の事を忘れたように、また戻ってくる。敵意がないことを察知したようだ。
私の意思を汲み取るように、数秒おきに何度か私の顔と差し出された肉を交互に見るような仕草をした。そして...
そっと、食いついた。肉を持つ指がくいと引かれる。
ーーー成功だ。
「ふぅ」
ため息を静かにこぼす。その小さな音にも反応し、また少し引いたが、逃げるつもりはやはりないようだ。
指先から肉をふいと奪い、ちょいちょいと食べている空魚に手を伸ばす。
冷たくて心地よい水の肌が、ちゃぷんと指を飲み込む。空魚はくすぐられた子供のようにその身をくねらせ、また肉を齧った。
空魚の目は物を写すだけでなく、人の目には見えないさまざまな物を感じるという。
相手の考えていることも、そのうちの一つらしい。喜び、悲しみ、憤り、敵意、そして好意。
ーーー今私が考えてること、当ててみる?
空魚は、興味ないよ、と言ったふうに、首を小さく傾げた。




