赤眼のセンリ 零 「猿の手」
あたしは赤眼のセンリ、芸を売って生計に変える芸人さ。
さてさて、いきなりなんだが困った話で銭がない。あたしの芸はそいつはもうとびきり珠玉の粒種ぞろいのもんなんだが、どうにも売る場所なけりゃ慰みものにもなりゃしない。というのも初めて訪ねたこの街は大店並ぶなかなか御立派な街なんだが、それだけ芸人の仕切りにも締まりがあって、伝手なし流れの芸人に与えてくれる座敷がないときたもんだ。上がれる宴座を求めて街を回るも、どこの店にも門前払いの小蝿払いに手を振られ、空袖垂れ下げ棒足引きずるくたびれ儲けの無駄足始末だ。
しかして銭がなければ飯もなしとは、釈迦が説法するまでもない万世不朽の苦界の真理でありやがる。空き腹の鳴く音は餓鬼も憐れむ涙声。ふらりふらりと路傍に倒れ、さてぞいよいよ物乞いかと覚悟を決めたところで、この憐れな芸人に声を掛ける奇特な御仁が現れた。
「やあ、姐ちゃん。こんなところで行き倒れかい?」
顔を上げれば、そこにいたのは場数を踏んだ山師のような胡散臭い狐眼の若い男。はてさてこいつはと様子を窺うあたしの代わりに返事をしたのは「くぅぅ~」と鳴った泣きっ腹。
「なんだ、腹が空いているのか。ひとつ飯でもおごってやろうか?」
はん、この赤眼のセンリの姐さんが、そうとたやすく人様の施しなんざ受けられるかい、と見栄を張った心の声も腹の音に吹き消され、「ありがてぇ、ありがてぇ」と連れてもらった一膳飯屋で涙ながらにドンブリ飯を掻き食らったのは御愛嬌。一飯千金とはいうもんだが、やはり空き腹に落ちる飯のありがたみは黄金千両より尊いものだね。
「よほどの腹空きだったみたいだな。ほれ、茶も一杯くれてやろう」
「いやはやありがたいねぇ。捨てる神あれば拾う神あり、たいした功徳だよ若旦那。この一飯の恩義は忘れないよ」
手渡された茶をずずずとすすって感謝至極にあたしが述べると、この男は「そうかそうか」とうなずきながら、ぐいとこちらに身を乗り出してきた。
「ところであんた、流れの芸人だろう? 実は俺はここいらで芸人の差配をやっているサジってもんなんだが、あんた今日、俺の仕事を受ける気持ちはあるかい?」
こいつは渡りに船のお話だ。しかし、飯を奢ってもらってさらに仕事の面倒まで見てもらえるなんざ、鴨が葱を背負ってくるよりうまい鍋が食べれる話。こいつはなにか裏があるとあたしの赤眼にはすっかりとお見通しだ。
「まあ、急な話だ。無理にとは言わないさ、気にするな。ただ、ここで会ったのもなにかの縁、功徳を施すならケツまでと、金にも困ってそうなあんたさんに、ちいとばかり羽振りのいい話を分けてやろうと思っただけさ。まあ、一飯の恩義なんて気にするな。本当にちいとばかり大飯のひと月くらいはたんと食えるうまい話があったところに、ちょうど文無し腹空きの美人の姐さんと出会えただけだ。気にするこっちゃあ全然ない」
「まあ待ちなよ、サジの旦那」
そう立ち去ろうとするサジの旦那の袖を引いたのは、なにも欲を掻いた訳じゃない。縁を貴ぶことこそ人の道。かけた情けは水に流せど受けた恩は石に刻めと言う通り、他人の施す功徳を受けるも善行と覚えておくが仏の教え。施しを疑って一飯の恩義を無下にするは、この赤眼のセンリの姐さんの名折れになるってぇもんだ。なにもひと月くらいの大飯をたんと食べたいってぇ訳じゃない。訳じゃないぞ? 疑うな。功徳が逃げるぜ。
「あたしは赤眼のセンリ。行き倒れなんざぁ情けねぇところを見せちまったがこの赤眼、器量だけでなく芸事に関してもちいとばかり自信がある。座敷にさえ上げてもらえば、一飯の恩を三飯にでも四飯にでもして返してやるよ。で、どこの座敷に上がればいいんだい?」
指差し示した自慢の赤眼を紅玉のように閃かせ、あたしが切った啖呵にサジの旦那が破顔する。
「おっと、そいつは頼もしいな。ふんふん、赤眼のセンリの姐さんね。それじゃあ早速で悪いんだが、俺についてきてもらえないか?」
「おうともさ」
サジの旦那はあたしの名前を覚えながら手招きをして、街の大路からだいぶ離れた山手の閑静な屋敷街へと連れていった。
「……はぁ、こいつは大層に羽振りのいい門構えの御屋敷で」
着いた先で見上げたるは、高さ二間半はあろうという銀瓦で葺いた唐破風造りの御立派な大門だ。ふーむ、唐破風の兎の毛通しを飾る彫刻に伊勢海老と松、屋根の棟を飾る瓦に鶴と亀とは、ちょいと変わった家主のこだわりを感じるね。なんにしろ門だけ見ても阿呆でもわかる御大尽の御屋敷だ。こいつはいわくありの仕事だとあたしの赤眼にゃお見通し。なにしろ漂う空気がただならぬ。
「ここいらでは随一の豪商と名高い、木ノ下弥右ヱ門の大旦那の御屋敷だよ。まあ、粗相のないように気をつけてくれな」
「へぇ、そりゃまた大層な御大尽で」
廻船問屋の木ノ下屋といえば、あたしのような流れの芸人でも聞き覚えのある大商人の御名前だ。当主の弥右ヱ門は目鼻の利くやり手の商売人で、一代で巨万の富を築いたとはかねがねに聞いている。さてさてそんな御大尽に伝手を持ち、こんな身元も知れない行き倒れの芸人なんぞを紹介するとはこのサジという男、狐眼の面相通りになかなか喰えない奴であるらしい。
怪しむ内にサジは門番に取り次いで、大門の潜り戸を開けてもらっていた。案内されるままに門を潜り、松木の並ぶ庭に敷かれた飛石道を進んだ先にある、二階造りの豪壮な母家へと連れていかれる。ここまで進むと怪しむ以上に怖いもの見たさが湧いてくるから不思議なもんだ。はてさて噂の御大尽はどんな御仁やら?
「では、こちらでお待ちくださいますよう、お願い致します」
案内の使用人にそう言われ、通された座敷でサジと並んで畳に座る。
「見れば見るほど豪華な屋敷だね」
「そうさ、こいつはたんと食えるうまい話であるからな」
座敷を見渡せば、それだけでここの家主の財力がどれだけあるか見えてくる。見上げれば迫力ある欅の一本丸太の大梁だ。さらに天井板は小梁の区切りごとに、一枚一枚木目と色合いの異なる板木を張り並べた美しい格子天井。目線を下ろせば床の間の柱と違い棚を彩る白黒斑は、高級貴重と噂に聞く黒柿か。襖には素人目にも見事と見える名のある絵師の作であろう鶴と亀の縁起絵が描かれ、欄間の方に目を移せばこれまた見事な名のある職人の手であろう伊勢海老や松の透かし彫りで飾られている。しかし鶴亀海老松と表の門でも見た顔ぶれが並んでいるが、ここの主人のこだわりはちいと面白い方向に曲がっていやがるみたいだね。
「待たせたな」
サジと贅を尽くした豪邸の内装について話していると、奥の襖が開かれて噂の主人が姿を見せた。
「これは弥右ヱ門の大旦那。ご機嫌麗しゅうございます」
サジが畳にぬかずいたので、あたしも三つ指ついて頭を下げる。
「それが今日の芸人か。どれ、顔を上げてみろ」
なかなかに尊大なお声。なるほど、一代でこの家を建てた御仁にふさわしい、才気と自信に溢れたお声だ。どれどれこちらも御顔を拝見。
「赤眼のセンリと申します」
「ふむ。見目は上等」
大旦那の御眼鏡にかなったようで恐悦至極。ではさてこちらも品定め。ほうほうなるほど、これは確かに羽振りの良い御大尽だ。眼光鋭く凛とした尊顔に清雅に整った天神髭を生やし、御立派な紋付の羽織袴を恰幅良く着こなす旦那姿の堂々たるは、立っているだけでも威風辺りを払う厳かさ。さすが一代で億万の財を築きらした御大尽でいらっしゃる。
「では、早速に頼もうか。ついてこい」
はいはいよろしくございますぜ大旦那と立ち上がると、そこでサジに肩を叩かれた。
「センリの姐さん、俺はここらで退散だ。まあ、気をつけてよろしく頼むぜ」
気をつけてとは喉に小骨の気持ちの悪いもの言いだ。こいつめ、やっぱりなにか隠してやがるねと訝しんでいる内に、弥右ヱ門の大旦那が座敷の外へと出て行っちまいやがった。慌てて大旦那を追いかけて廊下を進むと、庭奥にある閑雅な数寄屋造りの離れへと行き着いた。ほうほう、今日の座敷はこちらかい。人払いされたかのように小間使いの影も見えない離れ座敷を主人自ら案内する。なるほど、こいつはいけないねぇ。なにがいけないってこの離れ、あたしの赤眼が門前で見たただならぬ空気がいよいよ濃い。さて、この気配はどこからか――なんて思っている間に大旦那、連れだって入った座敷の襖と障子を全部閉めると、おもむろに床の間に近づいて、その横壁の板をぱかりと開けた。
「入れ」
なんともいかがわしい隠し戸の奥は地下に続く階段で、さすが大金持ちの趣味と趣向は手が込んでいらっしゃるとため息が出ちまったが、さてさてと思う間もなく大旦那があたしの背中に冷たいものを突きつけた。
「余計なことは考えず、この先にいる御方を喜ばせろ」
抜き身の白刃が背中に回れば、誰も彼も否も応もありゃしない。大旦那に促されるままに板敷きの階段をぎしりぎしりと降りていく。しかしこの地下から流れてくる気配、なるほどなるほど後ろの大旦那より大層な御方がお待ちになられていらっしゃるようだ。
「ほう、今日も懲りずに楽しませてくれるようだな」
地下に降りると、低く掠れた響きに傲慢と嘲笑を混ぜ込んだ不気味な声が出迎えた。地下室の左右に置かれた行燈の揺らめく光陰のむこうに祭壇があり、そこになにかが祀られているのが見える。声はそこから聴こえた。あたしは赤眼を凝らしてその正体をじっと見据える。
「へぇ――これは無支祁の手かい」
祭壇の上に奉納されていたのは、青い毛に覆われた一本の猿の手だった。木乃伊のように干乾びたその手が、あたしの言葉にむくりと起きて、その掌にぱくりと大きな一つ目を開き、こちらをぎょろりと睨めつけてきた。
「ふむ、一目でわしの正体を見抜くとは、今日の芸者はなかなか見所がありそうであるな」
にたりと目だけで微笑む一つ目は、無支祁と呼ばれる齢数千歳、史書にも名を刻む伝説の大妖だ。なるほど、この屋敷に漂うただならぬ空気を思えば納得の正体だね。無支祁とは青い身体に白い頭を持つ大猿だが、首が百尺伸び、額に獅子鼻、口には白銀の雪牙が並び、その顔のまん中には火眼金睛の瞳が一つきりに見開かれているという異形の怪物だ。その力は万の大象が暴れるにも勝るといわれ、その身のこなしは風より速く人の眼では捉えることすらかなわなかったと伝え聞く。かつて唐土の古の聖王である夏の禹王と死闘を演じ、ついに敗れて鉄鎖と金鈴で緊縛されて亀山の麓を流れる淮河の底に封じられたそうだが、いつしかその手だけが封印から漏れ出して、とある風聞とともに海内を渡るようになった。曰く――、
「“この手の持ち主となった者は、その願い事を三つ叶えることができる”とは、そこそこ知れた無支祁の“猿の手”のお話だが、まさかこんなところで拝見するとは瓢箪から駒が出るより意想外の成り行きですぜ。さて、あなた様ほどの大妖が、どうしてまた人間風情の芸者なんぞをお求めで?」
「それはわしの持ち主の心尽くしという奴じゃ。なあ、弥右ヱ門?」
「お前が素直に私の願いを叶えればよいものを」
話を振られた弥右ヱ門の大旦那は、苦々しげにそう吐き捨てる。ふむふむ、これは事情がありそうだ。不機嫌な大旦那の様子とは反対に、無支祁の手は嬉々とした笑い声を上げる。
「ききき、おのれの願い事が人の身で不遜にも不老不死を望むから面倒なことになるのだ」
「はあ、不老不死」
なるほど、そいつで合点がいった。この屋敷にやたらと鶴だ亀だ松だ伊勢海老だと不老長寿の縁起物が飾られていたのはこの大旦那、財は飽かせど死ぬのは惜しいという口の御仁かい。
「そうだ。しかしてさすがのわしとて不老不死は簡単に叶えられる願いではない。だが三つの願いを組み合わせれば、その不遜な望みも叶えることができるだろうと言ったのだ」
「はてそれで、どうして芸者が必要になるんですかい?」
なかなかに饒舌な無支祁の手は、あたしの問いに「まあ待て」と上機嫌に話を続ける。
「願いは持ち主が言わねば叶わぬ。その三つの願いがわかれば不老不死になれるのに悲しいかな、この男にはその三つになにを願えばよいかがわからぬのだよ。まったく、願いを一つ使えば答えなどすぐに教えてやるぞといつも言っておるのに」
「それでは不老不死の願いが叶わぬではないか」
笑う無支祁に大旦那が苛立たしげな声を出す。確かに不老不死になるには三つの願いが必要なのに、それを聞き出すのに願いを一つ使っては元も子もない。わかってそう言う無支祁の手はさすがは大妖、タチの悪さも相当なもんであるようだ。
「ききき……大人しく他の願いにすればいいものを」
「人の世の大概のものは財力があれば欲しいままだ。そして私の才覚があれば財などいくらでも手に入る。避けられないものは老いと死だ。他に望むものなどありはしない。なんのために八方手を尽くして貴様を手に入れたと思っている」
大旦那が傲然と言い放った言葉に、あたしは内心に諸手を上げた。まったく人の欲とは業の深いものでいらっしゃる。それは無支祁も同感だったらしく、面白げに笑いをこぼしている。
「どうだこの男、面白いだろう? 絆されたわしは仕方なしにこやつが答えを見つけるまで付き合ってやることにしたんだが、しかしわしも何千年と封じられていてずっと暇だったからな、ちょいとこの男に言ってやったのだ。余興で機嫌を良くすれば、うっかりと答えを漏らしてしまうこともあるやも知れん、とな」
そこで話が見えてきた。なるほど、目の前の不老不死に手が届かず八方塞がりの大旦那は、この猿の手の戯言に乗せられて、こうして芸者を連れ込んでのもてなしを始めたという訳かい。
「はて、では機嫌を損ねちまった場合はどうなるんだい?」
あえて訊ねると、この猿の手はこれまた嬉しそうに、その火眼金睛の一つ目を細めて言った。
「お帰りになってもらえばいいだけなのだが、どうにも今のわしの持ち主は、わしがここにいることを外に知られたくないようでな。殺してしまおうとするから捨てるものならもったいないと、わしがその度に喰ってやっているのだ。まあ、そういうことだ。期待しておるぞ、赤眼の小娘」
そして瞬きすると、その目は一瞬で雪牙の並ぶ大口に様変わりしてにやりと笑った。これだから力のある妖怪というのはタチが悪い。まったくサジの野郎め、このうまい話は裏どころか黄泉の下へとつながる不帰の道、たんと食える話どころかたんと喰われる話じゃないかい。こいつはちいとばかりけじめをつけてもらおうかね。
「心得ましたぜ、無支祁の旦那。あたしも芸人の端くれだ、見手を心ゆくまで楽しませるが芸者の正道という奴ですぜ。しかしてあたしの得意の舞に小唄にゃ、囃子の三味が欲しいところ。ひとつ心当たりがありまして、無支祁の旦那もお気づきでしょうが、ほらそちらの階段の上に潜む男を一人、連れてきては下さいませんかい?」
「もちろんだ。余興は賑やかな方が良いからな」
あたしの言葉に「なに?」と驚く大旦那をよそに、うむと応じた無支祁の手が人差し指と親指をつまむように合わせると、くいっと手前に引っ張った。するとドタドタと誰かが階段から落ちてきてごろりと地面に転がった。
「貴様はサジ!? どうしてここに!」
大旦那が叫ぶ。そこで頭をさすりながら顔を上げたのは、当然ながらあたしをここに売ったサジの野郎だ。
「いやいや、やるねぇセンリの姐さん。いつから気づいていたんだい?」
「あたしの赤眼は不思議な眼でね、そのくらいは見りゃわかる。あんた、端からあたしをダシにして、ここを探る肚だったろう?」
あたしが横目睨みに見下ろすと、サジの野郎はその細い狐眼をへらりとさせて、いけしゃあしゃあと事情を話し始めた。
「こうなったら言い訳もありゃしないな。この屋敷に差配した芸人が何人もそのまま姿を消しちまってね。こいつは裏を押さえとかにゃあ、こちらの身も危うくなりそうだと探りを入れたら、まさか無支祁の手なんて大層な代物が隠してあるとはねぇ」
「それで消えちまっても痛手の少ない、あたしみたいな訳知らずの流れの芸人をここに叩きこんだのかい。まったく、とんだ畜生だね」
「いやいやでもな、いざとなったら助けるつもりでここの上に隠れてたんだぜ?」
あたしのなじりにサジはいやいやと手を振るが、そんな話を聞いてやってる義理はない。あたしは髪から簪を一本引き抜くと、赤眼をきらりと閃かせ、それをサジにむかってぶんと振る。
「言い訳はないんだろが。そんな無駄口叩く余裕があるなら、こいつでちょいと働きな」
すると簪はたちまちに一棹の三味線に様変わり。なに? どうやったとは無粋な問いだね。芸人に芸のタネを訊ねるのは御法度と知りなせぇ。あたしは懐から撥を取り出し、驚くサジに三味線と合わせてぽいと投げ渡す。
「芸人の差配屋なら三味のひとつも弾けるだろう? こちら無支祁の旦那の機嫌を損ねたら、あたしらぺろりと喰われるそうだ。ここが冥途の入口となるかどうかはあたしらの見せる芸次第。頂く見料は自分の命と気張ってやりな、サジの旦那!」
「はっ、こんな大妖怪相手に座敷芸とは、正気の沙汰とも思えねぇな!」
そう言いながらサジの野郎が撥を奮って三味線を掻き鳴らす。なんだいなんだい、なかなかいい三味じゃないかい。いいよ、これは乗ってきた。あたしは帯に挿した商売道具の朱染めの扇子を引き抜き開き、無支祁の旦那にむかって見得を切った。
「ではではどうぞ御刮目! これより魅せるは赤眼のセンリ、一世一代の舞い芸だ! その一つ目にとくと焼き付けて御覧なせぇ!」
開いた扇子の朱色に踊るは、あたしのかわいい白文鳥だ。あたしは赤眼をきらりと閃かせ、扇子を一振り空を薙ぐ。すると白文鳥が飛び出して、あたしの踊り袖の動きに続いて宙を舞った。
「ききき、良いぞ良いぞ。得意の舞とは言ったものだ」
無支祁の一つ目が感心に細まった。だがねぇ旦那、あたしの舞い芸はここから本番。さらに赤眼をきらめかす。さあさあ、踊り扇子が朱色の帯を引き、その軌跡はたちまちにこの薄ら暗い穴蔵を、夕暮れ空の茜の色に塗り替える。
「それ御覧じろ。見上げれば茜に染まる雲の群れ、その下に広がるは斜陽にきらめく夕染めの海原だ!」
「くきゃきゃ! やりよるやりよる! 次はなにを見せてくれるか!?」
さて、辺りを見渡せば、ここは紅波の打ち寄せる砂州の長浜。そこを天地自在に踊り飛ぶは、あたしのかわいい白文鳥。あたしの舞いに合わせて空を翔ける白文鳥を、ここでくいと掌返しに海へと落とす。
「さあさ、こちらがお待ちかねの次の演舞“飛魚の群れ舞”とあいなりますぜ!」
水飛沫を上げて海面から躍り出た白文鳥のあとを追い、次々と飛び出したるは夕映えに赫と輝く飛魚の群れ。続々と波間から跳ね飛ぶ飛魚たちは、空を海よとあたしの舞わせる扇子に応じて泳ぎ踊る。ほれ、扇子を「えい!」と振り上げれば昇龍かくやと舞い上がり、扇子を「それ!」と振り下げれば瀧落としに舞い下がる。その軌跡をきらめき飾るは夕陽に輝く飛魚たちの銀鱗。
「おお、おお、見事見事!」
「なぁに、あたしの舞はまだまだこれから」
無支祁の嬉声に、あたしの舞は一段と熱を増す。ぐるりと扇子とともに身体を回せば、飛魚の群れも円を描いて渦を巻き、徐々に小さく毬のように丸くなる。さあさ、細工は整った。あたしは扇子が地面に触れるほどに下へと舞い下げ、そこから一気に跳ね上げる。
「これぞ秘奥の舞い芸、鯨飲の舞!」
ドンと海を割って飛魚の群れへと突き上がったは、大口開いた黒鯨だ。黒鯨は一呑みに飛魚の群れを喰らい尽くし、そのまま空高く雲の上へと昇り上がる。そこであたしの扇子がくるりと一転。ゆるりとした線を描いて舞い下ろすと、黒鯨もゆったりとした動きでその巨体を翻し、ゆるゆるとこちらへと下りてくる。
「ほうほう、そう来るか」
「――ななっ!」
「いやいや待ちな、センリの姐さん! 鯨がこちらに降ってくるぞ!」
無支祁の旦那はさすがの泰然だが、弥右ヱ門の大旦那とサジの野郎がやいやい騒ぐ。ええい、うるさい奴らだね。
「座に上がった芸者の技を疑うのは無粋というもの。黙って御覧が粋と知りな! ここからがあたしの鯨飲の舞の本領だ!」
啖呵とともにあたしは赤眼をきらめかす。さあ、落ちてくる黒鯨の大口が蝦蟇口のように広がって、砂州ごとあたしらを呑み込んだ。
「さてさて、呑み込まれた鯨の中に広がるは、玄気満ちたる水の中。無支祁の旦那には慣れ親しんだ場所でしょう?」
そう、ここは水の中。上を見れば波に揺れる水面から木漏れ日のように伸びる明かりの帳、下を見ればどこまでも深く暗い青の色が導く闇の淵。なぁに息は吸える。ここはそういう場所なのさ。さて、そこに浮かぶはあたしとサジの野郎と弥右ヱ門の大旦那、そして――、
「ききき……そうだな。数千年と実に見慣れた光景だ」
水面から続く巨大な岩に鉄鎖と金鈴で四肢を縛られた一つ目の大猿――無支祁の旦那の本来の御姿だ。身体は青く頭は白く、その額には潰れた獅子鼻があり笑う口には雪牙が並ぶ。当然にその顔のまん中に見開かれるは火眼金睛の一つ目だ。伝承通りの雄々しい姿にあたしはにこりと微笑みかける。
「あたしの舞を楽しむなら、やはり直に見るのが一番だ。どれ、その無粋な鎖も引き千切って、ともに一期の宴を楽しみましょうや!」
「きゃきゃきゃ! 殊勝な誘い、是非とも乗ろう!」
破顔大笑にぶちぶちと鎖を引き千切った無支祁の旦那が水中を泳ぎ出すと、あたしもくるりと身体を一転、着物の裾を魚の尾鰭に転じさせ、人魚の姿で連れ泳ぐ。ぐいぐいと首を伸ばした無支祁の旦那は、解放された四肢の喜びを満喫するように手足を振り回して暴れるように泳ぎ踊る。
「おいおいどうした、三味の兄ちゃん。せっかくの旦那の遊舞の座興に音無しとは無粋の極み。ほれほれ、手を休めずに弾いた弾いたぁ!」
呼ばれたサジが泡を吹きながら慌てて三味線をべんべん弾き出す。さて、ここらであたしも旦那の座興の華添えに小唄のひとつも唄うかね。
――野暮な鎖を振り払い
身は軽々と粋男
亀山淮河の獄の門
千秋万歳、出でれば浮世の浮かれ唄
融通無碍に踊れや踊れ
ここではしゃがにゃ、どこにてはしゃぐ
恥じなど忘れて唄えや唄え
この世の全楽ここにあり!
「ならば、わしも一芸を披露しようぞ!」
あたしの小唄にさらに興乗る無支祁の旦那が大音声にそう言い放つと、腕を振って巨体を回し、猛流怒涛の大渦を巻き起こした。
「いやはやこいつは見事な芸だ! 旦那もやるもんだねぇ!」
「言ってる場合か、巻き込まれるぞ!」
「うおぉぉぉぉっ!?」
囃すあたしも悲鳴を上げるサジも大旦那も、みんな仲良く大渦の奔流に巻き込まれて木の葉の如くに弄ばれる。
「どうした小童ども、わしの芸はここからぞ!」
さらに激しく螺旋を描く大渦の中心で踊る無支祁の旦那はそう笑うと、むんずと渦の玄気を綱の如くに両手で掴み、独楽でも回し投げるようにあたしらともども渦の波濤を水面の上へと放り投げた。
「きゃきゃきゃ! どうだ、わしの芸は!」
「あっぱれ見事の言葉なしでごぜぇますや!」
打ち上げられた玄気に満ちる黒渦の飛沫は、ばっと花火の散華のように広がって、瞬く間に無窮の虚空を星彩きらめく天河の夜空へと塗り替えた。もはや悲鳴もない男衆とそこに見たのは、欠けたることもなきと思えし望月を背に、大口開けて笑う無支祁の旦那の満悦の貌だった。
「久々に四肢を伸ばす感覚は、幻なれどなかなかに楽しかったぞ、赤眼の小娘!」
そこで無支祁の旦那が両手を強く打ち鳴らした。ぱんと響く大音が鼓膜を打ったと思った瞬間、あたりは一転、元の陰気な地下の穴蔵に戻った。呆気にとられて転がるサジと大旦那を尻目に流し、あたしは木乃伊のような猿の手に姿を戻した無支祁の旦那へと、三つ指ついて頭を下げる。
「お褒めにあずかり光栄至極」
呵々と上機嫌の旦那は「顔を上げい」と告げて、応じたあたしの赤眼をしげしげと値踏みするように覗き見た。
「なるほどなるほど、よく見ればその赤眼、驥山の仙狸のものか。あやつが人間の小娘をかわいがっているとはどこよりか伝え聞いたことがあったが、それならば納得の瞳術であるはずだ」
掌の目を細めて笑う無支祁の旦那は、そこで視線をあたしの後ろに転がる弥右ヱ門の大旦那にじろりとむける。
「さて、この赤眼の座興のおかげでわしもずいぶん上機嫌だ。これはうっかりと要らぬことを漏らしてしまうかもしれんなぁ」
それと聞いた大旦那はがばりと跳ね起きて、無支祁の旦那の手の元へと這うように走り寄った。
「ま、まことか!?」
「ききき……うかと聞きそびれるなよ?」
もったいぶる無支祁の目が大旦那を見下しながら、ぽつりと一語、言葉を吐いた。
「三猿」
そいつはこれまた謎掛けだった。さすがは大妖怪の無支祁の旦那。意地の悪さも筋金入りだね。哀れなのは再び答えのわからぬ謎を投げられた弥右ヱ門の大旦那。威風堂々の天神髭も見る影なく、頭を抱えて唸り出しちまった。
「三猿ってことは不老不死になるための願いは“見ざる、言わざる、聞かざる”ってことになるがセンリの姐さん。こいつがいったいどう不老不死につながるんだい?」
ここでようやく大渦で回した目から立ち直ったか、サジの野郎が起き上がってあたしにそう訊いてきた。
「なんであたしに訊くんだい?」
「うん? あんな大妖怪と渡り合えるあんたなら、その赤眼でなんでもお見通しかと思ってな。そうかわからないのか。そいつは残念。まあ、どんな天才にもわからないことはあるからな。ああ、悪かったぜ、気にするな」
あん? 誰にむかって言ってやがる。この程度の謎掛け、あたしにゃ先刻お見通しだよ。意地の悪い答えにあえて黙っていただけだが、そうと煽ってくるなら口に出さなきゃならないね。
「老も死も、生があるから避けられないとは御釈迦様も言っている、この世の不可避な理だ。それなら生を見ざる、言わざる、聞かざると、遠ざけちまえば不老も不死も手に入るって寸法だろうさ」
「明察なり!」
サジにむかって言ったあたしの答えを、無支祁の旦那が大声で諾った。そうなれば顔色の変わるのは弥右ヱ門の大旦那だ。抱えた頭をばっと上げ、確かめるように無支祁の一つ目を窺い見る。
「さあ、願うがいい弥右ヱ門よ!」
実に楽しげな目でそう告げた無支祁の旦那に、大旦那はついに不老不死を叶える願いを口に出して言っちまった。
「生を見ざる! 生を言わざる! 生を聞かざる! さあ、この願いを叶えてくれ!」
「きゃきゃきゃ! その願い確かに叶えてやるぞ! 老いも死もなければ生もない、生きているか死んでいるかもわからない、この世の理から外れた不老不死なだけの何かになっ!」
まったく意地の悪い謎掛けだね。生死は陰陽と同じに分かち難いものである。生きているから老いて死ぬのが道理なら、老いて死ぬから生きられるのもまた道理。老死だけを遠ざけて生きられるなんざぁ、うまい話がある訳ない。
無支祁の旦那の哄笑に謀られたと気づいたか、弥右ヱ門の大旦那の顔色は見る間に蒼白になり、大慌てに嘲う無支祁の手へと縋りつく。
「ま、待て、今の願いは取り下げだ!」
「残念だが、お前はもう三つの願いを口にした。望みの不老不死を与えてやろう。生を忘れ、老いも死も忘れた不老不死となるがよい!」
無支祁の旦那は一笑に、その人差し指を大旦那の額にむけて突き指した。すると哀れ大旦那、あっと言う間もなくその身体がぴたりと止まり、そしてそのままの縋る姿勢で石像か何かのように動かなくなってしまった。
「生は歩みなり。老死はその形なり。生を忘れれば動く能わず。即ち石のように固まるのみ」
無支祁の旦那は動かなくなった弥右ヱ門の大旦那にそう言い捨てると、にたりと微笑む一つ目を動かして、あたしとサジの顔を交互に見た。
「さて、わしの機嫌はまだまだ良い。願えばお主らのどちらかをわしの新たな持ち主と認めるが……どうだ、わしに叶えてもらいたい願いはあるかね?」
笑う無支祁の旦那のありがたい提案に、あたしとサジは顔を見合わせると、揃って首を横に振った。
「人の願いは人の手で叶えるが人の本分だ。ちょいと遠慮しておくよ」
「へへへ……あっしも旦那ほどの大物を扱える器量はないと、身の程はわきまえていますんで……」
「ききき……それは惜しいな。残念至極よ」
しおらしく言ってやがるが、どうせ欲に駆られて自分を巡って争う人間たちが見たかっただけだろうに。数千年を水底に封じられて暇をしている大妖にとっちゃ、人の世の事なんぞすべてはちょんの間の退屈しのぎ。御釈迦様の手の上で踊る猿を見るが如くに、三つの願いの欲に憑かれて猿の手の上で踊る人間を眺めるのが、今のこいつの唯一の娯楽なのだろう。至極タチの悪い趣味である。
「となると、もはやここにいても詮は無し。また浮世をさまよって、新たな持ち主との邂逅を待つとするか」
無支祁の手はそう独りごつと、すっと宙に浮きあがった。そしてあたしとサジを見下ろして、戯れのように手を振った。
「ではさらば。縁があればまた会おうぞ。特に赤眼、お前は実に気に入った。再会の日を楽しみにしておるぞ」
「そんときゃ、ちゃんとした見料をお願いするぜ、無支祁の旦那」
あたしの返事ににんまり笑う無支祁の旦那は、そのまま虚空に滲むようにして溶け消えた。いやはや、たいした客に目を付けられちまったもんだねぇ。
「さて、それでどうするね?」
無支祁の旦那の気配が完全に消えたところで、あたしはサジの野郎に話を振る。
「そうだな。まったく困ったもんだ」
そう言い合う視線の先には石の如く固まった不老不死の弥右ヱ門の大旦那。
「まあ、ここは三猿しかあるめぇな」
「そうだねぇ。それしかないだろうねぇ」
見ざる、言わざる、聞かざるとは、さすが古来より伝わる至高の金言。ここはこの隠し部屋の戸を厳と封じて、そっと立ち去るのみである。そうとなればとあたしとサジはうなずき合い、数十年来の知己の如き息の合った手際の良さで、ぱぱっと隠蔽を終わらせると、さも大旦那様の座敷から上がりましたという顔で使用人に帰りを告げて、正面の大門から堂々と屋敷の外へと抜け出した。
「しかし助かった。あんたなかなかやるもんだねぇ」
大路に戻り、ふうと一息ついたところでサジの奴がそう礼を言ってきた。
「言ったろうがい。一飯の恩を三飯にでも四飯にでもして返してやるってね。この際さね、あたしをダシにしたことも忘れてやるよ」
「そいつはありがてぇな。じゃあ返礼にもう一飯でも奢ってやるよ」
きっぷよく返してやると、サジも気前よく今度は一膳飯屋よりも立派な小料理屋での御相伴とあいなった。並ぶ料理に舌鼓を打ち、サジの注ぐ酒でほろ酔いに機嫌のよくなった頃、さてさてとサジがなにやら話を切り出してきた。
「ところで無支祁の旦那を唸らせた姐さんの芸、実に見事な手前だったが、どうだい? ひとつ俺の差配で働いてみる気はないかい?」
口説かれるのは悪くないが、生憎あたしの赤眼には見る目って奴も備わっているんだよ。初見の相手を騙し誘って危地に連れてくような男と長い付き合いをするような馬鹿じゃない。
「残念だが――」
「なぁに姐さんは俺の命の恩人だ。悪いようにはしやしねぇよ。ほれ、ここの飯代とは別に、こいつは今日の場代と謝礼を合わせたもんと思って取っといてくださんな」
つれなく返事をしようとした出鼻に、サジがすっとあたしの袖に銭袋を捻じ込んできた。ふん、このあたしがそんなはした金で動くとでも――いや、結構ずしりとくるね。仕方ない、枚数ぐらいは数えてやるかい。どれ、ひい、ふう、みい……――、
「いいだろう! この赤眼のセンリの姐さんが、至芸を尽くしてこの街の座敷という座敷を芸の華で埋め尽くしてやろうじゃないかい!」
「よっ、姐さん! その意気だ!」
これが一生の不覚になろうとは、あたしの赤眼でも見抜けなんだな。行く先より来たし道を振りむけば、余計なことは見ざる、言わざる、聞かざるが、やはり金科玉条の至言だったと知ることになるんだが――……と、残念。もうここらでお暇の刻限になったようだ。
ではでは、続きは次の座敷で語りましょうや。またのお呼ばれを楽しみにしておりますぜ、旦那さま?