相討ち
誤字報告ありがとうございました。
「では、リュウ先生。木刀でお願いします」
士郎さんから『リュウ先生』と呼ばれた。つまりはこれから、それだけ重要な一手を披露する、ということだ。
拵えに木刀を差し、六歩の間合い。そこで蹲踞、両手の指先をつく礼。立ち上がって互いに木刀を抜いて、中段に取ってから八相。
士郎さんからはなんの指示も無い。ならば、一歩、二歩、三歩。一足一刀の間合いだ。白樺女子たちが見ている。若い連合メンバーたちも、ヒロさんや緑柳師範も、壇上のトップ二人も、固唾を呑んで見守っていた。
「そのまま、袈裟にお願いします」
うむ、大体の想像はついているが、草薙神党流の一手体験させていただく。含み気合い十分、思い切って士郎さんの袈裟を斬る。生か死かという緊張の中、私の太刀が士郎さんに届く。そして士郎さんの太刀もまた、私の袈裟を打っていた。
「相討ち!」
緑柳師範の鋭い声。双方下段に構え、三歩退く。相討ち、これが草薙神党流の一手である。木刀を腰にあてがい、蹲踞。片手の指先をついて一礼。
「相討ち、遅れもせず先走りもせず。これが君たちに覚えてもらいたい一手だ。もちろん私たちは木刀、君たちは手槍。技のアレンジは許す」
相討ち、これをもって良しとする。新選組局長近藤勇が納めていた、天然理心流の極意である。士郎さんの草薙神党流は理心流と同じ、神道流系統の流派だ。似通った技が存在していてもおかしくはない。
そして剣に対する取り組みが、似ていたところで不思議は無い。そしてこの相討ちという技術、ただの死に芸と思われては困る。敵より太刀が遅ければ犬死に、早ければ敵に躱される、変化される。
つまり、相討ちでなければならないのだ。そして相討ちを覚えてから、次の技へと進むこともできる。進むこともできる、おそらくはキョウちゃん♡とユキさんの二人もかなりの高練度で、この技を納めているのだろう。
士郎さんは木刀を外し、手槍に得物を変えた。私もそうする。
「一応、手槍ですための例をお手本として見せておこう」
右手右足を前に、士郎さんが構えた。私もそうする。ほぼ完全に半身となった構えだ。そこから間合いを詰めて、穂先が交差したところから……互いに脇腹を突き合う相討ち。見事なまでに相討ち、完璧な相討ち。これを見せられて、私の胸に恐ろしさがよぎる。
よもやこれまでの士郎さんとの手合わせ、彼の主導で終わらされた相討ちではあるまいか?
いや、それはないと否定する。過去数回の手合わせにおいて、士郎さんもかなりの必死であったはずだ。
公平に見て、どうにか相討ちまで持ち込んだ、というのが本当だろう。しかし、改めて考えれば恐ろしい手ではある。
どれだけ果敢に、勇気を振り絞って打ちかかっても、相討ちの引き分けにされるのだ。そのうち精魂尽き果てて討ち取られるのは、対戦相手である私なのだから。
もしかすると読者諸兄の中には、「そこは華麗な技で討ち取ってこそじゃないの?」と思われる方、あるいはこうした技術を嫌悪される方々もいよう。しかし戦闘技術というものは、必ずと言って良いほど『相討ち』は通過しなければならない、と私は考えている。何故なら以前にも述べた通り、『剣術』というのは命のやり取り。嫌な言い方をすれば『いかに効率よく相手を殺傷するか?』の集大成なのである。
ならば『自分も命を失う覚悟』という段階は、体験しておかなければならないだろう。同時に、私が気安く動画サイトなどに柳心無双流の技術を公開しない理由が、察していただけることと思う。
「よし、連合メンバーは手槍を持て! 白樺女子たちに思い切り突き込むんだ! 白樺女子は遅れず先走らず、相討ちでもってこれを極めろ!」
メンバーということで、ヒロさんも緑柳師範も手槍を持った。災害先生たちが稽古をつけるのは、剣道部や薙刀部たち。いわば『見込みのある連中』である。先にこれを鍛えて、技術を持って帰らせるのだ。そうすれば自分たちだけでも『相討ち』の稽古ができる。
しかし私の経験だと、それだけでは足りない。相討ちを身につけるためのコツを、剣道部主将にそっと耳打ちしてやった。
「道場の稽古だけでは、この技を身につけることはできない。飯を食ってる最中、登下校の最中、風呂に入っているときも寝ているときも、二十四時間相討ちを意識するんだ」
「はい」
まるで秘術を授けられたかのように、剣道部主将は小さく答えた。もちろんほかの者にも耳打ちするし、見てみれば士郎さんやヒロさん。緑柳師範にいたるまで、白樺女子たちに耳打ちしている。
真実というものはコッソリ、耳打ちで伝えられるもの。どこかで聞いた話だが、その通り。本当の技術は内緒話のように、ひっそりと教えられ、「他言するなよ」と口止めされるものだ。
それを不公平と感じる方もいよう。しかし稽古の達していないものがこれを聞いても、精進の妨げにしかならない(理由1)。そして誰が聞き耳を立てているかわからないものだ(理由2)。
そして古流という技術は、平和と平等が約束された令和日本に生まれたものではない。平和な時代こそ江戸期に長く続いてはいたが、不満と不平等は現代の比ではない。
そんな令和日本に恐竜や妖怪が生き残っているようなもの、それが古武道なのである。
とはいえ何から何まで当時のままに稽古していたのでは、身がもたない。ということで最初はゆっくりとした動きで立ち合わせる。のだが……。私たちが担当する『見どころのある連中』でさえ、上手くいかない。
相討ちとなるより先に『避けたり』、相討ちというには遅い反撃ばかり目についた。特に突かれまいと先に避けてしまうケースが、多く見られた。
先に避けるくらいなら、逃げずに突かれてから反撃の方が、この技の稽古としては上なのだ。先に逃げる、先に攻撃をする、ではいけない。胆が座っていないからだ。相討ちを稽古する目的のひとつは、この胆を座らせることにあるからだ。
気力胆力、精神力に勝る者の太刀は、それだけで違う。現代トレーニングで言うならば、競技の練習に入る前の筋トレ走り込み、いわゆるフィジカルトレーニングとでも言うべき部分と感じていただきたい。
それなのにそれなのに、話を戻そう。度胸づけという目的も見えずに要領だけで、先に動いて処理。先に突いて処理、では困るのである。
「ダメだダメだ! そんな猪口才を駆使していては、稽古にならん!」
改めて檄を飛ばした。
「もっと胆を据えて当たれ! 胆を据えて!」
士郎さんも呼応してくれた。その上で説明をする。
「精神論だけで言うなら、根性を据えろというところさ。だが技術論で言うなら、君たちが先に躱したり突きを出したら相手が変化してたちまちやられてしまうぞ。やはり相討ちは相討ちでなくてはならないんだ」
特に王国の刃というゲームシステムでは、キル相当のダメージをうけてからほんの一秒程度。わずかな時間ではあるが反撃有効なラグタイムが存在する。私はそのラグタイムのせいで、カエデさんにイッポンを取られたことがある。これを活かさない手は無い。必死になれ、白樺女子よ。イベントまで残された時間は、あとわずかしか無いんだ。
現実世界でも時間は経過して、いまはもう網戸でさえ暑気は払えず。いよいよエアコンの登場だろうか?
というほどに気温が上がっていた。梅雨も迫っている、私は王国の刃を終えてシャワーを済ませ、枝豆を缶ビールで楽しんでいた。
目を閉じて思い返す。相討ちという技。生きるか死ぬか、という技ではない。死を決めて臨む技である。
そのような技をおいそれと、年若いお嬢さん方に伝えて良いものか? いや、良くはないだろう。普段の私ならば絶対に伝えない。
それを伝えるのは事態が事態だからだ。
彼女たちも『大切な何か』を賭けて、戦いに臨んでいるのだ。そうなると女だ子供だ、などとは言ってはいられない。剣士として扱わなければならないだろう。
剣士として扱うからこそ、その精髄とも呼べるこの相討ちを伝えるのだ。
同盟メンバーにも女の子たちはいる。彼女らはどうなのか?彼女らの場合は、勝手に習い覚えてしまった、と言い訳させていただきたい。
面白がって一緒に鍛え遊んでいたら、いつの間にかあんなことになっていたのだ。白樺女子だけでなく、同盟メンバーや小隊メンバーの練度を確認してから、パソコンの電源を落とす。
間近に迫る決戦を予感しながら、その夜も眠りについた。