帰ってきたあの男
みなさまお待たせいたしました。あなたのリュウが帰ってきました。狼牙棒が装備されたり、鬼神館柔道が目立ちまくったり、若者たちがジタバタと足掻いていたり。なかなかに忙しい昨今ですが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか?
『まほろば』勢力の一員としての私は、あれこれと周りに稽古をつけたり相談に乗ったりと忙しいですが、ログアウトしてしまえば私だけの時間。稽古着に着換え木刀を持ち、ローンの残るマイホームの狭い庭先で、ひとり誰にも見せない稽古に入る。
いや、月が見ている。星が見ている。私を包み込む『夜』が、私の稽古を知っていた。宗家を名乗る身分となっても、なお続ける自分稽古。それは奴がいるからなお、神棚の下でふんぞり返っていられないのだ。
草薙士郎。
家伝の草薙流を継承する男。そして令和の御代にありながら、斬ることのできる男。
迫りくる夏イベントでは、いよいよ奴と敵同士となる。冬イベント後に立ち合ってみたが、お互いにまったくの互角。だからこそ、稽古を積まなくてはならない。奴の前でだけは、だらしない自分を晒すことはできないのだ。
木刀の切っ先を伸ばす。夜の闇に向かって。奴が幻となって浮かんでくる。和装に総髪、前髪を一条するりと垂らした男前。栗塚旭顔の堂々たる剣士である。
私は木刀、しかし幻の奴は真剣白刃を抜いてきていた。
斬るつもりなのである、奴は。剣士としての誇り、尊厳、そしてこれまで積み重ねてきた努力のすべてを賭けて、私を斬ろうとしている。負けるものか。
私も木刀の切っ先に気迫を乗せた。幻の草薙士郎、さらなる気迫で私にのしかかってくる。
負けるな、私。飲まれたら一気に出てくるぞ。私も自分を励ます。闇の背後に、荒ぶる合戦の風景が見えてきた。奴は、この立ち合いにそれほどまでの意気込みで挑んでいるのだ。ならば私も……。どこから矢が飛んでくるかわからない。私の命を奪うのは、もしかしたらつまらない鉛玉かもしれない。だが、それらのすべてを避けるのだ。そうでなければ、戦場で生き残ることはできないのだから。戦場に望む気迫が、毛穴という毛穴から吹き出している。まさに、合戦の場である。私の自宅の庭先が。
そんな古戦場に在る私と奴だが、肩すかしでも食らわせるかのように、奴は殺気をおさめてしまった。
何事?
訝しむ私に、奴は薄笑いのひとつもよこさない。それまで無尽蔵に放出していた殺気を、いや、気配すら消してゆく。む、一段高みへと登ったか、草薙士郎。すぐにわかった。幽玄の領域。いうなれば、ここからが本物の草薙神党流というやつだ。これまでの草薙士郎は、免許皆伝あるいは宗家、総伝にありながら殺気遊びを楽しむわらべのごとく振る舞っていた。それが、いよいよ真髄を発揮してくれるようだ。
何故それが分かるのか? それは柳心無双流もまた、免許皆伝から印可、総伝へと登りつめてゆくに従い、その幽玄の境地へと足を踏み入れてゆくからだ。
中国拳法において、実戦技あるいは流派の必殺技とも呼ぶべき技を『絶招』などと呼称するそうではないか。その絶招は日本武術においては免許技である。そして流派の必殺技はひとつではない。いくつもある必殺技を皆伝えたぞ、ということで免許皆伝。もちろんそれは無双流の基準に従った呼称。諸流派において『免許皆伝』の意味合いが違う場合もあるので、異を唱える方はどうぞ私のいない場所でお願いしたい。
無双流における併伝武術というのは、理合の似通った武術を納めることになっている。様々な武器、あるいは体術を体験することにより、武芸十八般も可能になるし、なにより『無双流』に対する理解がより深まってゆく。『無双流』の併伝武術というのは、〇〇が苦手だから△△流で補って『個人が試合で勝てるようにする』ためのものではない。
そもそもが日本武術というものは巨大な学習カリキュラムなのだ。まるで理路整然とした数学の考え方をもって、理路整然とした法学を学ぶというのに似ている。そして古武道において最終的に行き着く場所というのは、「自分ではどのように生きてゆくか?」、あるいは「無双流を学んだことで自分がどのようになるか?」を問いかける場所なのである。
三十代の頃、私も師に問われたものだ。
「お前は平成日本で役にも立たない剣術を納めて、どうなりたいのかな?」
私は答えた。
「幸せになりたいです」
意外そうな顔を、師はした。そのことは草薙士郎にも話したことがある。そして奴もまた、父親である師匠に同じく問われたそうだ。そしてあの男もまた、同じく「幸せになりたい」とこたえたらしい。もう付き合いも長くなってきたので、もしかしたら私の記憶違いかもしれない。だが、もしもこの会話が事実であったとしたら、キョウちゃん♡に対する歯がゆい思いというのも納得できる。
武は現代社会においては、斬る、殺す、闘うために学ぶものではない。いかに生きるべきか? どのように生きれば「よく生きられるか?」を学ぶものなのだ。
そして剣士が最終的に行き着く場所というのが、この幽玄の領域なのである。斬ればうらまれる。斬れば憎まれる。斬れば敵を作ってしまう。ならば最終的にはなにもかも捨てて、神の遊ぶ庭にしか住まえなくなる。痩せて、枯れて、地位も名声も捨てて慎んだいきかたへと帰結する。
人間兇器となってしまった者は市井の中にはいられない。一度鬼となった者は、人と共には暮らせない。
読者諸兄は強さというものを、鐘捲流に変わったり地位を手に入れたり、女にモテるための道具と思ってらっしゃるかもしれない。もちろんそうした一面もある。しかし武は刃だ。ヤイバはひとを傷つけ、ときには生命……すなわちそのひとつの何もかもを奪ってしまう。だから面白半分で身につけるべきものではないのだ。
『責任』。かつて私は、そのような単語を使って語ったかもしれない。力を持った者には力を持った者としての責任がある。強い者には強い者としての義務がある。腕力をひけらかして悦に入る、などとやっている場合ではないのだ。
幽玄の境地というものを語っていた。『強さ』。これをいつまでも捨てられない者は、死ぬまで、いや死んでからもなお、人と争い傷つけ続けなければならないという生き地獄が待っている。そう、死んでからもなお戦い続けるというガッツやファイトはおもしろい。しかし生きているならば筋力は衰える。目も視力が衰えてくる。あしはヒザが伸びなくなり、歩くだけで息は切れ、昨夜食べた晩飯の記憶も定かではなくなってくる。
そうなって衰えたとしても、君は闘うのか?
朝起きて布団をはぐって起き上がることさえ億劫になった老人になっても、意気軒昂、精力横溢という若者たちを迎え撃つとでも言うのか?
だから静かな幽玄の境地というものが必要になってくる。
私も四十を越えた。彼もまた。そろそろ私たちも、今まで歩んできたものとはひとつ違う段階へと登らなければならないようだ。
教伝としては印可技、総伝技は知っている。だが今までは、その必要性をあまり感じていなかった。しかしもう、私も奴もごまかしは効かなくなってきたのだ。
幻の草薙士郎に対して、下段をとる。無双流印可技、鷺である。凛々と殺気を孕んでいながら少しもそれをもらすことなく、ジッと佇み水底の魚を狙うところからこの技は生まれたという。さり気なく立つ、何気なく立つ。しかしそよと凪ぐ風の気配すら見逃さぬ。そして事象のすべてを野生の勘でとらえるのではなく、人の叡智で計算し尽くす。
幻の草薙士郎は正眼。刀を地面と水平に構えてジリジリと出てくる。奴もまた私の変化、あるいは起こりを探っている。そうした意味では、奴もまた『鷺』の技を用いていた。
鶺鴒の尾、珍しく奴の切っ先が誘うように揺れ始めた。一度「こう!」と決めたら頑として聞かぬ男だというのに。いや、幻の草薙士郎もまた、私の『鷺』に迷っているのだ。どのように出てくるか?
何をしてくるのか? それを掴めずにいるらしい。しかし、迷いは消えたようだ、細かく震えていた切っ先がピタリと止まった。
繰り出してきたのは、死に技である『突き』であった。そして私もかわしながら突く。どちらも無効、有効打と判定はされず。そして二人でどっと大きくため息をつき、今夜の稽古はお開きとした。




