フジオカ先生
「嗚呼!!花のトヨム小隊、壁役のセキトリと申す。一手御指南をいただきたい」
おや、いつの間にかセキトリが柔道着を着て蹲踞している。変わり身が速いというのは表現が違うだろうが、気の早い男というか瞬間ガス湯沸かし器というか……。すっかりスイッチが入ってしまっている。まあ相撲と柔道は、力道山と木村政彦の時代からの天敵といえば天敵。セキトリのスイッチが入ってしまうのもわかる。
「鬼神館柔道、ナンブ・リュウゾウ。御相手仕る」
ようやく若者は名乗った。そしてトヨムの言う通り、鬼神館柔道である。
まあ、若者というものは闘いたがるものである。例え闘う理由が無くともだ。理由が無ければ作れば良い。私としてはその気持ちがよくわかるので、止め立てするつもりはまったく無い。止め立てしたところで、どうせ出雲鏡花が立ち合いの場をお膳立てするに決まっている。今日私たちが集まったのは、それが目的だからだ。
では、と言ってセキトリは相撲の立ち合いの構え。すなわち大きく股を割り、片手を着いている。そして鬼神館柔道の若者、ナンブ・リュウゾウは柔道の構え。こんどは開いた両手を高く掲げている。さあ来い! とはナンブ・リュウゾウが入れた気合の掛け声。すり足で左へ左へ、反時計回りしながら間合いを詰めてゆく。左へ左へ、しかしセキトリは微動だにしない。故にナンブ青年はセキトリの後ろに回り込んでしまった。ナンブ青年の動きが止まる。
狙っているな……。私にはわかる。そしてセキトリは不動、明らかにナンブ青年を誘っていた。動かざること山の如しとは信玄公だが、さらにセキトリは波立たぬこと凪の如し、というところであった。
ナンブ青年の目に、今のセキトリはどのように映っているのか? 静かなること林の如し、だろうか? とにかくセキトリは落ち着いていた。そして見えない触覚を音もなく動かし、見えない場所にいるナンブ青年の気配を探っている。あれほどまでに情熱的だったナンブ青年が、静かに前に出た。つまりこの男、こういった場数を踏んでいる、ということだ。そしてその右手は開かれていたのだが、帯や柔道着を取るための開き方ではない。手刀を作り、それを肉の城に突き刺すための開き方だ。
ナンブ青年の殺気が響いた。私にまで伝わってくる。だからこそ、勝負は決まったとわかる。
影のように迫ってきたナンブ青年の股間を、セキトリは蹴り上げたのである。
空手の後ろ蹴り。というか柔道の内股に近い。それがナンブ青年の急所に滑り込んだのである。
反則打ではあるが、バイタルにまともに入った一本である。武闘派柔道の若者は撤退を余儀なくされた。
「いや〜〜参った参った! まさかあれだけ気配を消されるとはな!」
復活してきたナンブ青年は、頭を掻いて竹を割ったように笑った。まるで柔の道に命を捧げた故の、自分の命への興味の無さだ。
「あぁ、最後にワシの命を狙ってくれたからのう。それで気配が知れたんじゃ。っつーかアンタの存在にワシゃ肝を冷やしたぞい」
セキトリは前腕を差し出した。
「見ろやリュウゾウさん。まだ寒イボが立っちょるぞ! アンタがウチの先生に鍛えられたら、来月の今頃にゃワシャ勝てんくなっとるのう」
「聞いてるぜ、アンタの先生はリュウ先生ってんだよな? あの坂本龍馬だろ?」
「そうそう、ソレ! 今はマグロみたいな顔晒してボンクラの振りしとるが、ひとたび立てばまさしく飛騰する龍の如しじゃ!」
「なるほどそれはわかるがセキトリ。あの先生、本当に大変な先生なのか?」
ボソボソ声を使っているつもりだろうが、丸聞こえである。
「ほ、そりゃどういうこったい、ナンブどん?」
「見た感じ、スケベにしか見えん」
だから聞こえとるっつーに、柔道のサル。
しかしウチのセキトリも、柔道のサルに負けず劣らずの快男児。太鼓腹をゆすって大笑いである。
「ケッコーケッコー! 男子たる者、少々スケベに見えるくらい精力的でなくてはならんわい!」
そうかセキトリ、私がスケベというところは否定せんのだな?
「しかしナンブどん、あんたが大先生というのではあるまい? 鬼神館柔道、まだまだ奥の手があろう?」
「それよ、相撲の大将。ウチの先生も奥に挨拶行ってて、まだ帰って来ねえのよ」
そこだ。こんな危険な柔道を授けている男。そこに私も興味があるのだ。
すると、抜き身の刀のような気配が、背後からした。刺激せぬよう、ゆっくりと振り返る。西郷さん、というには愛嬌の無い眼差しだ。しかし眉は墨で描いたように太く濃い。髪も刈り上げてはいるのだが、頭上でおのずと炎のごとく渦を巻いている。顔も鼻も眼差しも、すべてが太い男であった。そして、濃い。さらに、熱い。
まるでたった一人、この世の何かを守り通してきたような、そんな来歴を感じる。
やるな、この男。
それが私の感想だった。
「これ、リュウゾウ。また暴れたのか、お前は」
声もまた、やはり太い。
「いえ、フジオカ先生。新顔ということで先輩方にカワイガってもらってました」
「嘘を申すな、玄関先でみんな伸びてるぞ」
すると他の門人たちが口を揃える。
「はい先生! ぜんぶナンブがやりました!」
「僕たちはなにもしてません!」
「そりゃもう、ナンブひとりで群がる相手を千切っては投げ、千切っては投げ!」
「僕たちは悪くありません!」
「ちょ、先輩! ひでぇッスよ!」
もちろん冗談で言っているのだ。みんな笑っている。そして柔道の大将フジオカ先生もまた、豪快に笑っていた。
「バカモン! リュウゾウひとりでこれだけの仕事ができるか! 俺の目を節穴と一緒にするな!」
殺人柔道の親玉も、またイイ男のようだ。
「しかし……」
フジオカ先生の眼差しがギラリと光る。
「鬼神館柔道を前にして、まだ立っている者がいるな」
「セキトリ、ちょっと引っ込んでてくれないか?」
「おう、小隊長。行くんかい?」
「まあな、セキトリはもう鬼神館柔道を経験したろ? だったら次はアタイの番だ」
柔道着のトヨムが前に出ると、鬼神館柔道指導者フジオカ先生は目を丸くして驚いていた。
「おう、あんた女かい!? ずっと小僧だと思ってたぞ」
トヨムはベリーショートの短い髪。そして顔立ちも少年風だ。間違えるのも無理は無い。そしてトヨムもまた、そんな評価はまったく気にしない。
「女の子だからって手加減は無用だよ、フジオカ先生。アタイも鬼神館柔道の噂を聞いてからこっち、ずっと気にしてたんだから」
もう、フジオカ先生と闘う気でいる。
「ふむ、女子との対戦は想定してなかったが、何事も経験だな」
フジオカ先生、身長は一八〇センチはあろう大柄な中年男性。筋骨たくましい体型である。対するトヨムは身長など一五〇センチを切っていよう。痩せ型の体型で体重も四〇キロ無いのではないかと思われる。
「正統派、表柔道だな? ……いや、それだけではなさそうか?」
裏講道館とも呼ばれる場所に追いやられたような実力者は、恐ろしいほど静かな眼差しでトヨムを観察していた。
「小娘、名は何と言う?」
「トヨムさ、響って書いてトヨムってんだ」
「覚えておこう」
覚えておくだけの価値が、トヨムにあるというのか?
いや、聞くだけの話では現在のトヨムのファイトスタイルは、正しく鬼神館柔道の有り様そのものだ。トヨムの立ち姿、表情を見ただけで、それを見抜いたか、この男。
チビで痩せ、とトヨムをあなどることなく、フジオカという柔道家は殺気を放った。いや、警戒心とでも言おうか。
「じゃあ、始めるかい?」
「もう始まってるよ♪」
無遠慮そのもの、トヨムは左を放った。それも開手、細長い指でフジオカの目を狙う。しかしトヨムの指先が届く前に、カン! と乾いた音がした。トヨムの顔が仰向いている。大変にコンパクトな動作で、裏拳を叩き込んだのだ。それも人中の急所とかアゴ先ではなく、眉間に一発入れただけ。そして隙だらけのトヨムを一気に攻略するでなく、フジオカは間を取った。
「危ない危ない、遠慮のない小娘だな、まったく」
野太い声で言うが、表情は嬉しそうだ。目を細めている。そして余裕綽々だ。
「ヘッ、そいつぁこっちの台詞だよ。女の子の股間を蹴り上げようだなんて、癖の悪い足じゃないか」
トヨムの柔道家の下衣、右ヒザの内側が切られたように裂けていた。褐色の肌が覗いている。
「それを難なく防ぐ辺り、君はどうかしてると俺は思うぞ」
またまた柔道家フジオカは嬉しそうに目を細める。
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