88 行け
――初めて意識を持った時、自分の側に彼女はいた。
見た目以上に幼く見える、気弱な少女だった。そんな彼女は自分をシルクと名乗ったが――
――アイリスはお姉ちゃんとよんだ。
それから、アイリスは操手として行動を始めた。既に人類は兄弟と宿痾によって追い詰められていて、アイリスが出るまでもない、というのが彼女の考えだったが、アイリスには自分のスペックを周りに見せつける必要があった。
兄弟が姉を排斥しようとするからだ。
試作型の不良品。人も殺せない雑魚。それが兄弟の姉に対する評価。
――愚かなのは兄弟の方だとアイリスは思った。スペックも高く、何より同種にして同類が存在する兄弟と違って、姉の自意識は人間なのだ。殺せるはずがない。
何より姉は孤独だ。誰一人として味方がいない状況、誰かが守らなければどこかで壊れてしまうだろうことは明白で、アイリスなそれを見過ごせなかった。
だからアイリスは最強になった。
思い返せばそれがアイリスの始まりだったのだ。
世界で唯一の同類を守るため、なんてチープな原点だろうとは思うけど、後悔はない。そうしたことで、アイリスは自分を作ることができたのだから。
姉を守ることで、アイリスは自分自身も守っていた。
だから、姉には感謝以外の思いはない。
そのためにアイリスは姉を救う。結果としてそれが世界を救うという形になったとしても。
自分が、消失してしまったとしても。
ああ、だけど――
アイリスはもうひとり、出会ってしまった。
それは、同種ではない。同類でもない。
ミリア・ローナフ。
理不尽にして不条理。天才にして最強。彼女と自分を表す言葉を一言で表すなら――
同系、ではないだろうか。
もしくは、憧憬。ああそうだ、きっとアイリスは、ミリアに――
<>
<――貴方が、羨ましかった>
ぽつり、とアイリスが呟く。
もはや身体は動かなかった。
<人とは根本的に何かが違うのに、それを受け入れられていて、多くの仲間に囲まれて、全てを救うと豪語する貴方が、羨ましかった>
「……」
<私と貴方は何が違うんだろう、ってずっと思ってたよ>
アイリスは孤独で、ミリアはそうじゃなかった。
自分と同じタイプの存在が、こうも違っては羨ましくもなる。アイリスの感情はとても自然なもののはずだ。ミリアも、それを否定はしない。
「……環境、生い立ち、性根、素質。理由はいくらでもあると思います」
<そうだね>
「それに、私だって必ずしも全ての人に受け入れられるかといえば、そうでもないですよ」
たとえば、ミリアの母。
クルミはミリアを苦手としていた。嫌ってはいなくとも、一緒にはいたくないと思っていたはずだ。それをミリアは一人で変えることはできなかった。
けれど、出会いがミリアを変えるきっかけになった。
たとえば、過去の時代の人々。
彼らはランテを崇拝していたが、ミリアはそうではない。ミリアが直接彼らと関わろうとしなかったからだ。少なくとも、ミリアが行動を起こさなければ、誰もがミリアを認めてくれるわけではない。
「私が多くの人と仲良くなれたのは、その人達が私と仲良くしてくれる意志があったからです」
結局はそれにつきる、
どこまで言ってもミリアは異物で、それを受け入れてくれるかは相手によるのだ。幸運だった、と言ってしまえばそれだけのこと。
<……でも、その幸運を貴方はつかめた。それはきっと、貴方がミリアちゃんだからだよ>
「かもしれませんね」
否定はしなかった。
否定するほうが失礼というものだ。
「ですが、貴方だって立派なものじゃないですか」
<……何が>
「今まで、シルクさんを守り抜いたことですよ」
――この世界に、ミリアにできないことがあるとして、その一つがシルクを守ることだ。
だってシルクが一番たいへんな時期にミリアは生きていない。シルクが生きていなければ、ミリアはシルクを救えない。
アイリスが守ったのだ。
だからシルクは今、あそこでミリアと出会った。
<貴方に託すために? あはは、私って踏み台だったのかな>
「違いますよ! シルクさんは自分で生きたいと願ったのです。その生きたいを守ることは、間違いなく価値のあることで、貴方にしかできないことです」
<生きたいと、願うこと……>
――命には価値がある。
ケーリュケイオンがそれを認めている。代償の奇跡が言っている。命だけは巻き戻すことができない、と。それほどに価値のあるものを、アイリスは守り続けてきたのだ。
「胸を張りましょうよ、貴方はシルクさんの妹なんだって」
<――――>
ああ、それはそうだ。
そのことだけは、それだけは誰にもはばかることがないじゃないか。
シルクは自分を妹だと認めてくれた。姉と呼ぶのは自分だけにしてほしい、と。そのことはアイリスにとってもきっと救いだったはずなのだ。
今まで、アイリスが強かったから気付かなかっただけで。
<――そっか>
――ああ、そうだ。
アイリスは負けた。最強ではなくなった。ミリアに最強を引き渡した。であれば、そういうことならばもうアイリスは――
<私、強がらなくていいんだ>
そう、思った時。
<……私>
ぽつり、と思わず言葉は飛び出していた。
<私、お姉ちゃんともっと仲良くしたかった>
アイリスがシルクを好きだと言うたびに、シルクはそれを怖がった。仕方がなかったのだ。アイリスは強くなくてはいけないから、弱みなんて見せられない。
でも、それでもやっぱり。
<お姉ちゃんに怖がってほしくなかった! お姉ちゃんと一緒にいたかった! お姉ちゃんに好きって言ってほしかった!>
「……」
<買い物も、お料理も、添い寝だってしてもらったことない! 私、お姉ちゃんに何もできてないし、してもらってない!!>
――アイリスにだって、弱さはあったのだ。
<もっとお姉ちゃんと一緒にいたい!>
その願いを、口にできる程度には。
「――承りました」
<ミ、リア――>
ミリアが、アイリスの手を取って握り込む。笑顔は優しく、アイリスを受け止めてくれた。
「私がその願いを叶えます。貴方の思いも私が守ります」
<わ、たしは、人じゃない……貴方の守る手の中には入らないよ……>
「わかりませんよそんなこと。私はこれから世界を救う。その結果、未来は誰にも解らなくなる。だったら、その中に貴方の願いは含まれているかもしれない」
<……>
――ミリアは、救いたい物がある。
世界だ。でも、それはミリアがそうしたいからだけではない。
「私は、願われてここにいる。誰かが私と仲良くなりたいと、応援したいと思ってくれたからここにいる」
ミリアは異物で、異端で、異常者だ。
そんな存在と仲良くなりたいというなら、それは願いだ。願って彼女の側にいる。だからミリアはそれに答えたい。
だったらその中に、
「――その中に、アイリスの願いがあったっていいでしょう? もちろんシルクさんもです」
<…………あ>
その時、アイリスはようやく悟った。
どうして自分はミリアに負けたのか。
ミリアはどうして先にすすめるのか。
<ミリア――貴方は、望まれたからすすめるんだね>
それが、自分とミリアの違い。
残酷な違いだ。結局アイリスは救われない。ミリアが認めてくれたって、自分ではミリアになれないのだから。
それでも、
だとしても。
<だったら――>
「……はい」
<私たちの願いも、叶えてよ>
アイリスは願って許される。
「聞きましょう」
――アイリスの身体がゆっくりと消失していく。
薄く、溶けていくように。最初からそこには何もなかったかのように。ミリアの手に込められる力が強くなる。ミリアは、正面から真面目な顔でアイリスを見ていた。
そんな顔をしても、アイリスの言うことは変わらないというのに。
<……あはは、貴方はもっとおふざけしてたほうがいいよ。その方が貴方は好かれる>
「……そうですかね?」
もちろん、そうではない人もいるだろうけれど。
そして多くの場合、そうではない人のほうが気になるものだろうけれど。
<ま、私達の願いなんてそう大したもんじゃないけどさ>
ミリアに掴まれていない手を空へと指差して。
アイリスは願う。
とても、とても単純で、明快な願い。
つまり、
<行け>
――行って、そして勝て。
絶対に負けるな。最強を穿け、最後まで。
そう願って――
「――わかりました」
ミリアの答えを聞き届け、
アイリスの身体は消失した。




