70 私を、殺して。
――シルク、美しい絹のような名前は、彼女にとってお気に入りだった。
別に、自分で考えたわけではない。最初からシルクはシルクという名前だったのだ。誰が決めたのか、どうしてそんな名前になったのか。
シルクはそれを知らないけれど、間違いなく自分の名前は誰かから与えられたもので、自分は誰かに名前を与えられ、呼ばれる存在なのだということが、シルクにとっては唯一と言ってもいい救いだったのだ。
二人の弟と、一人の妹がいた。
弟たちはシルクのことを失敗作だと蔑み、シルクを遠ざけようとした。シルクはそんな二人のことが苦手で、そして自分も二人に対して歩み寄ろうとはしなかった。
妹は――アイリスはどうだっただろう。
アイリスも苦手だ。ただそれは、アイリスが自分を否定するからではなく、アイリスが何を考えているかわからないから苦手なのだ。だから、弟たちとは別の意味でアイリスが苦手だったし、自分がアイリスのことが好きなのか嫌いなのか、それもよくわからなかった。
弟たちは苦手で、嫌いだ。罵倒しかしてこない相手を好きになれる人間はいない。その罵倒が正しかろうと正しくなかろうと、だ。
しかしアイリスはそうじゃない。シルクを責めたりはしないし、貶したりもしない。ただ、どうしてそんなふうに考えるのかがわからない。
嘘ではないのだろう。本気でシルクを愛しているんだろう。シルクと自分だけの世界を築きたい、本当のことなのだろう。ただ、どうしてそう思うかを彼女が語ったことはなかった。
シルクは察しのいい人間じゃない。語ってくれなきゃわからない。アイリスへの苦手意識と、弟たちへの苦手意識が同じものかどうかすらもわからない。
そもそもシルクは自分がわからない。
それは、結局アイリスの元を逃げ出したって変わらなかった。
否、変えてはいけなかったのだ。
最初から、シルクに自由なんてなかった。お父様――トリスメギストスは自分のことを利用して、世界を壊そうとしてくるし、そもそもどうして世界を壊そうとするのかもわからない。
アイリスが解らなければ、トリスメギストスもわからない。
――わからない自分が、わかろうとしたからこうなった。
ランテ達は自分が変わるまで待つと言ってくれた。これから変わればいいと言った。その結果がこれだ。自分は結局誰かに否定しかされないじゃないか。
誰も自分に、正しいことを教えてくれやしないじゃないか。
ああ、だったら――自分のことを大切だと言ってくれる人のためにも、
自分はここで、死ななきゃいけないんじゃあないだろうか。
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“私を殺して、この世界から私を取り除いてよ、アイリス。ランテちゃん”
――その言葉に、二人の少女は絶句していた。
ランテは優しい少女だ。先程まで、明日に希望をいだいていた少女が、今に絶望して死を望む。その感情に心を揺さぶられて、口元を抑えている。
アイリスはワガママな少女だ。自分が愛する姉が死を望む現実を許容できず、唇を噛んで手を握りしめていた。
互いに抱く感情は正反対なのに、起こす行動は同一だ。
言葉に迷っている。ここで否と言わなくてはいけないが、であればどのように言葉をかけるべきだろう。アイリスはシルクに逃げられたから。ランテはシルクのことを一日しかしらないから。
互いに、迷いが沈黙につながっていた。
「……本当にそれを心から望んでいるんですか?」
最初に口火を切ったのはミリアだった。
誰よりもまっすぐ、死を望むシルクに問いかける。
“そうだって言っても、信じてくれるの? 貴方がそうであるように、私も貴方を知らないの。その問答は、無意味よ……”
「であればいいましょう、貴方は心の底から死にたいなんて思っているはずがない! 断言します、アツミちゃんじゃなくたって、貴方の心は分かります!」
――この場において、アツミは間違いなく切り札になる存在だ。コミュニケーション能力が高く、相手の心を読むことのできる彼女なら、きっとシルクの心を解きほぐすことができるだろう。
だが、それをアツミはしなかった。
必要がなかったからだ。
「死にたくないに決まってます! 生きていいと誰かが言ってくれるなら、貴方は喜んで生きることを選ぶでしょう!」
“そんなことないわよ! 私は自分に自信がない。自分が生きていいのかすらも、自分自身で決められない!”
「だとしても――!」
ミリアは正面から、一刀両断切り捨てる。
「死ぬのは怖いでしょう。シルクさん!」
“……っ”
怖い、そうだ。
確かに怖い。死にたくない。死んだらどうなるか解らない。それが怖い。
でも、
“……だとしても、それは“今”も、“これから”も変わらないわ!”
今――アイリスを見た。
これから――ランテを見た。
直接それを確認したわけではない、だが間違いなくシルクはその言葉のときに二人を意識した。
アイリスに縛られた今。ランテの期待を背負わなくては行けない未来。
“私を安心させてくれるのは、過去だけよ! 既に起きてしまったこと。もう過去でしかない事実だけが私を慰めてくれる!”
「その過去は、本当に幸せなものなんですか!? 肉親とされる存在に虐げられて、得体のしれないものにまとわりつかれるだけの過去を、貴方は本当に幸せと言えるんですか!?」
<えたっ!?>
あまりにもあまりな物言いに、思わずアイリスが素で驚いてしまっていたが、それはそれとして。
“幸せじゃなくたっていい! もう何も考えたくない! お父様は私から全てを奪ってくれる!”
――死ねと言われて、シルクは納得してしまっているのだ。ただ、それで誰かに迷惑をかけたくないから、殺してくれと嘆願しているだけで。
「……だったら」
大きく息を吐いて、ミリアはすこしだけ目を伏せた。
――これがシルクの主張だ。シルクは生きているくらいなら、死んだほうがもう怖くなくていいからマシだと言う。それをひっくり返すことが、生存を望む者たちに叶えられるか?
「ランテちゃん、アイリス。本当にそれでいいとおもいますか?」
ならば自分のやるべきことは一つ。
心の底からシルクの今とこれからを願う少女に、発破をかけてやることだ。
「……そんなの、思わない。思わないよおねえちゃん!」
<でも、お姉ちゃんは心の底から死を望んでる。貴方だって説得は無理だったじゃない、ミリアちゃん>
「かもしれません」
望んだって、叶わないことはいくらでもある。
シルクさんだってそうなんだろう。今のランテちゃんとアイリスだって変わらない。無理だと諦めている。諦めてしまったほうがいいと、そう感じている。
「でも、ですよ」
だからこそ。
「あなた達は、それでも救いたいと願ってるんでしょう?」
私は指摘しなきゃいけない。
シルクさんを救えないこと、ではない。
「あなた達がシルクさんを救いたいのは、あなた達が救いたいからじゃないんですか?」
自分がどうしたいのかだ。
「でも……でも!」
「それがシルクさんの迷惑になるかもしれない。確かにそう思う気持ちは分かります。もう一度逃げられたら、きっとアイリスも耐えられないでしょうね」
<……ふんっ>
だが、だからこそ救うのは自分の意志じゃないとダメなのだ。
「シルクさんのために、シルクさんを諦めることは簡単です。少なくとも、それでシルクさんが眠りにつけば、シルクさんが文句を言うことは金輪際ないでしょう」
死人に口なし。だからこそ、許されることはないが、責められることもない。
しかし、
「じゃあ、“これから”のあるあなた達はどうなんですか? 一生後悔を抱えて、生きていくというんですか?」
――それがまた、別の後悔につながるかもしれないというのに。
人は後悔を続ける生き物だ。失敗続きで、後悔を抱えながら生きていく存在だ。でもそれは、できなかった後悔が原因で、諦めた後悔が原因じゃない。
不可能だったものを不可能だったと認めることは、成長につながる。けれど、一度でも諦めてしまったら、それはもうその後悔に押しつぶされるしかなくなってしまう。
だったら、
「だったら私はあがきます。もう無理だってなるまで、できることは全部します」
――それが、ミリアの結論だった。
「……お姉ちゃん」
「大丈夫です。――聞いていましたか、シルクさん。あなたは死にたいと言った。しかし、その死は諦めによるものではないんですか? 自暴自棄になっているだけなのではないですか?」
“……”
「――死を選んでしまって、そのことを周りに押し付けることに、あなたは耐えられるんですか!?」
沈黙した。
ワガママだったのは、シルクさんの方なんだ。
周りに自分のわがままを押し付けようとしていたのだ。だから、私はランテちゃんとアイリスのワガママを引き出すことにした。
二人分のワガママを受けて、それでもなお自分のわがままを貫き通せるか。
――シルクさんの人間性を見れば解る。
“……無理、よ”
彼女に我は通せない。
“そんなワガママを見せられて、自分を言葉にできるわけない。私はそういうやつなのよ……だからっ”
――そうなってくると、彼女は今度は二人分のワガママに流される。
生きたくなくても、生きたいと言葉にしてしまう。ああ、もちろんそれは絶対にだめだ。しかし、ミリアはそこに口を挟まない。アツミがそうであるように、もう言葉をかける理由はなくなったと思ったからだ。
“私は、あなた達の言う通りに――
<――うるさいなぁ! 勝手に決めないでよ! それも結局お姉ちゃんのワガママじゃん!>
叫んだ。
アイリスが、怒りを込めてシルクへ。
“ひぅっ! ご、ごめんなさい……!”
<謝らなくていいよ、怒ってるけど責めてるわけじゃないもん。私がいいたいのは、私達の言葉もちゃんと聞いてよ、っていいたいの!>
――結局。シルクはミリアの言葉に流されそうになっていた。それでは今までと何も変わらない。変えるには、きっかけが必要だ。
それは、そう。
「――ねぇ、シルクちゃん。私達に“チャンス”をちょうだい?」
チャンス。そう呼ばれるものでもあった。
<そもそも、今の状況でお姉ちゃんを殺さずに救えるかなんて、私達にもわからないんだよ。だったら、救えたら救う。救われるなら救われる。それでいいじゃん>
「だから、私達は全力でシルクちゃんを助ける。シルクちゃんはそれを、どう思ってもいい。諦めたって構わない。でも、見ててほしいの」
――そして最後に。
もしも自分たちの手に、シルクの手が届きそうならば。
――私に、救わせて。
二人は同時に、そういった。
“…………考えてみる”
「……そーだな、考えなきゃ何の意味もねぇ、お前は考えろ、考えて考えて考えて答えを出せ」
「そのための手段は……」
アツミとシェードが、ミリアを見た。
「私達が、確保します」
そしてミリアが、力強く頷いて。
――こうして、シルク奪還作戦は、始まった。