44 その次
<んふふー、楽しかったなぁ……そう思わない? お姉ちゃん>
<ひ、う……え、えっと……そ、そうね……>
アイリスと、お姉ちゃん――宿痾操手“姉”は本拠地で会話していた。アイリスは楽しげに、姉はビクビクしながら、それに受け答えていた。
とはいえ、感じていることはある。二人になった宿痾の本拠地。随分と、静かになったものだと姉は思った。
数十年。それだけの時間を共にした相手がいつの間にか消えて、姉はそれに実感が追いついていない。
<……んー? お姉ちゃん、なんか心ここにあらず、って感じだね。どうしたのー?>
アイリスは当然のようにそれを察知する。この少女の底は未だ見えていない。少なくとも、姉に見透かすことなんて不可能だ。
姉は、そんな大した存在では決してないのだから。どころか、弟たちに虐げられやくたたずと罵られてきたような存在なのだから。
そしてそれ故に――
<……ほんとにいなくなったんだ、あいつら……って>
姉は、それに喜ぶべきか否か、わからなくなっていた。
正直なところ、いなくなると思ってもみなかったのだ。ずっと自分は彼らにバカにされていくだろうと思っていたし、自分にはそれを改善することは無理だと思っていた。
実際になにもできないんだから当然なんだと、そう思ってきたから。
<あはは、お姉ちゃんは心配性だねぇ。あれはもうどこにもいないから、お姉ちゃんは何も怖がる必要はないんだよ?>
<……っ、そ、そうね>
――恐ろしい存在なら、目の前にいる。
アイリスが恐ろしいのは、弟たちとは意味が違うのだからなおさらだ。弟たちは自分を嫌ってバカにしているだけだ。何を考えているかは透けている。
アイリスは何もわからないのだ。弟たちと違って、姉のことをどう思っているか姉にはこれっぽっちもわからない。
何より、弟たちは姉を罵倒するが、アイリスはそんなこと一切しない、どころか今もそうしているように抱きついて、こちらを愛でるようにしながら楽しげに話をするのだ。
自分のような存在に話しかけて、一体何が楽しいのか? 姉はそう思うことしかできなかった。とはいえ、聞くのが怖すぎて口に出しては居ないが。
まぁ、そもそもアイリスがそれを見透かしていないとも、思ってはいないのだが。
<……ね、ねぇ。これから、どうするの?>
そして、姉の意識は“これから”へと移っていく。当然だ、これまでの宿痾操手の方針は兄と弟の命乞いによって決定していた。アイリスが殺すといったのはこの二人で、姉はそれに含まれていないが、それはそれとして姉も立場としては兄弟に近い立場だろう。
だから、いらない存在なのだ、姉もまた。
<これからって、変わらないよ? 月光の狩人を回収してから、人類を滅ぼす。宿痾の大方針でしょ?>
<そ、そうじゃなくって、もっと直近の……ミリアに遊びに行く……とか、言ってたわよ、ね?>
<ああ、そういうことぉ? お姉ちゃんは心配性だなぁ>
妹は、すりすりと体を姉に押し付けながら、困った様子で笑みを浮かべて、それから姉を抱きしめて頭を撫でる。思わず弟たちのことを思い出して姉は身をすくめてしまうが、アイリスは構わずに続けた。
<お姉ちゃんはあのいらない奴らとは違うんだよ? だから見てるだけでいいの、後は全部私がやってあげるから、お姉ちゃんはここにいるだけでいいんだよ>
<そ、う……>
わかってはいたことだが、アイリスは姉と兄弟の対応が違う。兄弟は必要ない存在としているのに対し、姉は必要だと言って守ろうとしてくる。
まぁ、兄弟の罵倒を止めてくれるわけではないのだが。
――勝手に兄弟がアイリスが来たらそれを止める、とも言う。
<何度も言ってるでしょ? お姉ちゃんは試作。あいつらは途中経過。お姉ちゃんは創られたことに意義があるけど、あいつらは私が完成したら役割を終えちゃうんだよ>
<それ、は……>
よく、わからない。
自分は試作だと言うが、そもそも宿痾操手は下に行くほどスペックが高い。姉よりも兄が、兄よりも弟が、そして完成品として名前を与えられたアイリスがいる。
最初に創られた、というだけの姉に、そんな価値があるとは思えなかった。
<第一、人間を甚振って殺すっていうのが、趣味が悪いの。私達は操手であって、宿痾じゃないんだよ?>
<あ、う……>
<あはは、ごめんごめん。お姉ちゃんはそれ以前の問題だよね。大丈夫だよ。お姉ちゃんはここにいるだけでいい>
アイリスはそう言って、姉を慰めるように抱きしめて、
<人類の敵は私一人いればいいの。私が人類を殲滅するから、お姉ちゃんはそれを見ててほしいな>
私の側で、
――その一言に、更に姉は身をすくませた。
恐ろしい。姉はそもそも、人を殺すということが恐ろしくて仕方がない。あの時以来、姉はそもそも外に出ようと思っていない。
だから、それを何気なく言ってのけるアイリスもまた、恐怖の対象であるのだ。
ともあれ、アイリスは語りかけてくる。
姉のことをどう思っているのか、読み取れない瞳で。
<現状、私達が人類を殲滅するために排除しなきゃいけない最大の障害は、言うまでもなくミリアお姉ちゃんだよ>
話を、ミリアへと移す。
ミリア・ローナフ。人類の救世主、どこから現れたのかもわからない、バグのようなアホにして天才。姉もアイリスも、とてもとてもよく知っている――宿痾にとっての疫病神だ。
とはいえ、姉は、そこまでミリアに悪い感情を抱いてはいないが。
<ミリアお姉ちゃんがいる以上、普通に宿痾を全部人類の生存圏にぶつけるだけじゃ、私達は勝てなくなった。人類のほとんどは殲滅できるけど、代わりにこっちもやられちゃうね>
痛み分けだぁ、とアイリスは楽しげだ。
何が楽しいのだろう、自分たちも人類も負ける、何の成果も得られない最悪の結末ではないか。
<しかも人類はミリアお姉ちゃんに命運を託しながらも、まだ生き残ることを諦めてない。今後は守りを固めて、お姉ちゃんを中心にじっくりこちらを攻略しようとするだろうね>
<ミリアを一箇所に釘付けにして、その間に別の場所を攻撃するとか……>
姉は、ふとそう提言する。
帰ってきた答えは、そこまで良いものではなかった。
<それだとこっちが負けるかなー。今の人類は、決して弱い訳じゃない。お兄ちゃんたちがヘタにちょっかいを駆け続けたから、その度に色々とパワーアップしちゃってる>
兄弟のしたことは余計だったとアイリスは言う。彼らのしたことと言えば人類を散発的に襲撃し、自分たちの存在を知られないようにしながら、肉体を確保すると言う行為。
姉とアイリスには必要ない行為だ。兄弟が乗っ取った戦姫は生きているので、何れその身体は力尽きる時が来る。そのときに別の肉体が必要なのは、兄弟の明確な欠陥と言えるだろう。
<私達みたいに、元の肉体を失わなければそんなことにはならなかったのにねー。ふたりともうっかりやられちゃうんだから、二人が悪いよー>
<……>
やられた、というなら姉だってそうなのだが、あの時は色々あったのでそういえば肉体は失わなかったな、と思い出していた。
<上お兄ちゃんなんて、そもそもやられたことを下お兄ちゃんに記憶奪われて忘れちゃうんだもんねぇ。アハハ、あの二人全然仲良くないよね>
<そ、そうね……>
そもそも宿痾操手に仲のいい存在はいない、と姉は思ったが絶対に口には出さなかった。今、姉はアイリスに抱きしめられているのだから。
なお、兄は弟と姉しか人類に敗れたことはないと思っているが、兄も人類に敗れて肉体を失っている。それを弟が記憶を奪って隠しているのは、肉体が必要だという兄弟同士の前提が、兄を操作する時に便利だと判断していたからだ。
基本的に、兄と弟では弟の方がスペックもヒエラルキーも高い。兄は気付かず載せられていたが。
<だからまぁ、大切なのはどうミリアお姉ちゃんを殺すかだよ。お姉ちゃんさえ殺しちゃえば、月光の狩人が私達に勝つ可能性は万に一つしかなくなるんだから>
もっといえば、ケーリュケイオンも破壊できれば言うことはない。
ミリアにケーリュケイオン。絶対に握らせてはいけなかった、最悪の組み合わせだ。アイリスはケーリュケイオンを破壊したが、人類に持ち帰らせてしまったのは失敗だったということになる。
<でも、どうやって殺すかは悩ましいんだよねぇ>
<……なんで? アイリスなら普通に殺せばいいんじゃないの?>
――姉はアイリスが楽しげながらも悩ましい様子に小首をかしげた。なぜだ? アイリスは絶対的な頂点。いくらミリアといえど、アイリスに勝つなんて――
<だって私よりミリアお姉ちゃんのほうが強いんだもん>
<――――は?>
――理解できないことだった。
姉にとって、アイリスこそが世界の頂点。最強なのだ。そんな存在が勝てないという存在がこの世にいる? そんなはずはない。
もしもいるのだとしたら、それは一体どんな化け物だ?
特に先程、ミリアが奇跡を起こさなければできなかった操手の消滅を片手間でやってのけたアイリスは、ミリアに劣るとはどうしても思えない。
<ほんとだよぉ。ミリアお姉ちゃんはそれだけすごいの。正面からやりあったら、完全に力負けしちゃうね>
――いや。
この場合、恐ろしいのはミリアだけではないのではないか?
<私の戦術が全部ハマって、戦略で勝てれば勝率六割くらい? 結構厳しいねぇ、どうやってここまで持っていこうかなぁ?>
圧倒的な超越者でありながら、それをまったく歯牙にもかけず、相手をここまで警戒するアイリスも、どうだ?
これが――力を持った小物でしかない兄弟と、アイリスの違い?
<ねぇねぇ、お姉ちゃん。どうすればいいと思う?>
<え。いや……そんなこと言われても>
姉は答えられなかった。
戦術なんて、戦略なんて、実戦経験が一度しか無い姉に解るはずもない。しかもその一回は本当に散々な結果だったのだ。
だから姉は答えられない。
答えられないがゆえに、別のことに思い至った。
<あ、そうだ……>
本当に何気なく。
何の意識もせずに姉は、
<……ミリアのこと、お姉ちゃんって呼ぶのやめてほしい、かな? お姉ちゃんは私だけ、だし>
――――今度こそ、空気が停止した。
姉は首を傾げる。あれ? アイリスが驚いている?
――呆けて、こっちを見上げている?
何で?
<――――ぷ>
姉は本当に理解できなかった。
<あはは、あはははははははは!! お姉ちゃん。お姉ちゃんそれ最高! ほんっとお姉ちゃんって面白い!!>
<え……>
だって、当然のことじゃないか。
姉と呼ばれているのは、姉として存在しているのは自分だけ。アイリスの姉は自分だけだ。
何か、おかしなことを言っているだろうか。
<うーん、お姉ちゃんのそういうところ、大好きだよ!>
<え、えっと……ありがとう?>
――アイリスは、ひとしきり笑っていた。
アイリスはたしかに超越者だ。宿痾操手の頂点にして、実質的な宿痾の頂点。恐ろしい存在だと姉は思っている。そんなこと、アイリスだって承知の上。
であれば姉をアイリスが偏愛するのはなぜか。
その理由がこれなのだ。
姉はアイリスが自分の妹であることに疑問を思っていない。
思うことすらありえない。
――ああ、まったく。
どれだけ被害者のような立場に見えても、貴方も異常な立場なんだよ?
それこそ、自分やミリアのように。
アイリスは、きょとんとしている姉を見ながら、そう思わざるを得ないのだった。




