38 独善
――それは、クロアとアツミが院にやってきて、数年が経った頃だった。
院には既にすっかり馴染んで、二人の周りには友人がたくさんいる。クロアは引っ込み思案で、文字でしか会話ができないけれど、持ち前の優しさは、荒んだ少女たちの心を癒やした。
院の関係は傷の舐めあい、そう囁かれることもある中で、アツミが紡いだ院の絆は、間違いなく本物だっただろう。
『お姉ちゃん、私、もうすぐ喋れるようになるんです』
クロアはある時、アツミにそう切り出した。調整の終了。特異が暴走ではなく正しい形で使用できるようになれば、少女たちは晴れて院を卒業だ。といっても、学園に入学するまでは、院での生活を続けるが。
他の者達よりも遅れてやってきたアツミとクロアは少しそれが遅かった。周りの子供達が調整を終える中で、終わっていないのは自分とそしてクロアだけ。
そんな状況で、クロアはようやくそれを切り出せたのだ。
「それはよかった。クロアの声を、アタシはようやく聴けるんだな」
今よりも少しだけ穏やかな声音で、アツミはそう答える。顔には、自然と笑顔が浮かんでいた。ミリアたちがみればびっくりするほど、柔らかい笑みだった。
『どんな声なんだろうね。自分でも、ちょっとだけ楽しみ』
「きっと、クロアに似合うカワイイ声だろうさ」
そう言われてクロアも笑みを浮かべながら、何かを会話に使うボードに書き込んでいく。ぱっと、華やぐように少女はそれを掲げる。
『それでね、ちゃんと話せるようになったら、お姉ちゃんに言いたいことがあるの』
「お、なんだなんだ? 今話しちゃくれないのか?」
『今は、秘密』
口元に人差し指を添えて、秘密のポーズ。
そうしてから、二人は笑った。クロアは声なく。
そこに、
「アツミ! クロア! ここにいたの!」
――院の仲間たちがやってきた。
アツミはそれに気がついて手をふる。クロアも、小さくちょこんと手を降った。そうして二人は立ち上がる。クロアがなにかボードに書き込むが、アツミがそれより早くに仲間たちに応対した。
それをクロアは、どこか寂しそうに見つめる。
申し訳無さそうに、クロアと仲間たちの間に立つアツミを見ながら、クロアは手にしたボードをぎゅっと抱きしめる。
そうしないと、ボードに今の気持ちを、書いてしまいそうでならなかったから。
――アツミはずるい。
何でも一人でやってしまう。一人でできてしまう。だから自分はアツミにとってはいらない子。自分じゃなくても、きっとアツミは幸せに、誰とでも仲良くなれるだろうと、そう思ってしまうのだ。
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そこは、地獄だった。
多くの人が死に絶えて、そこにあった建物は見るも無残に崩壊していた。空には宿痾、ケタケタと、その様子を楽しげに嗤いながら見下ろしている。
生き残っているのは、二人だけだった。
クロアとアツミ。
二人は生き残った。
<んー、面白そうなのはこいつらだなぁ。この特異、生まれてすぐに回りに気付かれなかったんだろうなぁ。楽しそうだ>
そして、
宿痾操手。
戦姫の体を操る悪魔。
今も、見知らぬ戦姫を操りながら、クロアとアツミを品定めしている。楽しげに、愉しげに。
あざ笑いながら、
見下しながら。
アツミは、読心で否応なくその内心を垣間見た。
異常。異形。異種。自身とは異なる種族の考えは理解できない。どうしてそんなことをするのかと、問いかけてしまいそうなくらい、アツミは“そいつ”が理解できなかった。
<おいおい、今の状況理解できてるんだろ? わかってるよな? ボクはお前たちの“どっちか”の肉体を貰ってやる。つまり、よくあるだろ? ――どっちかだけは助けてやるよ。ほら、どっちが助かりたい?>
宿痾操手、“弟”は煽るように言った。
片方を見捨てることで、もう片方を助けると約束している。アツミが読心できるゆえに、その言葉が嘘ではないことをアツミもクロアも理解した。
――弟は特異を持つ戦姫の肉体を使うのが好きだった。特異は他にはない独自の魔導が多い。思わぬ魔導の使い方に、興味をそそられることがある。
それになにより――調整されていない特異たちが集まる院を襲撃すると、効率がいい。
何より弟は収奪の能力を持つ。隠蔽が非常に楽なのだ。兄と違って、気にせず集落を襲うことができる。それ故に弟はこの方法で肉体を集めるのが性に合っていた。
そして何より――こうして二人の特異に持ちかけると、反応が面白いのだ。
片方を見捨てて命乞いをするものもいるが、その例は少ない。この世界の人間は全員が終末を間近に感じていて、命を捨てることにためらいがない。
だから多くの場合は、双方が双方を庇うのだ。
その上で、弟の言葉を信じられないもの。弟の言葉を信じた上で抵抗を諦めないもの。信じて全てを投げ捨てるモノ。
その反応の差異がまたたまらなく面白い。
だから弟は定期的に院を襲う。今回は院にいるもの全員を殺したが、誰も殺さず、記憶を奪うだけで済ませる場合もあった。全ては気分だ。
今回はその中でも中々に興味深い個体。こちらが気分でものを言っていることを解る人間が相手。とすれば、どう出る?
――答えは単純だった。
「アタシを、連れて行け」
当然のようにアツミは言った。
臆することなく、されども覚悟に満ちた瞳で。――彼女はこちらを挑発もしなければ命乞いもしない。ようするに、クロアを守るために全力で弟の機嫌を取ることにしたのだ。
心が読めなくても、弟にはそれくらい解る。
兄と違って、こうして命の危機に人間を追いやることで、人間観察をしてきた経験故に。
<ふぅーん>
だからこそ、弟はそれを受け入れるはずもなく、クロアへと近づく。
「な、あ、ク、クロア!!」
クロアは答えない。答えられない。
もともと彼女は口が聞けない。だから、彼女はこの場で名乗り上げることができないのだ。そして、行動で示そうとしてもすぐにアツミは気がつく。
――クロアに、身代わりを名乗り出ることは不可能だった。
不可能故に、弟は気がついた。
<――お前、そいつに何か言いたいことがあるのか?>
クロアの心の奥底を、弟は偶然にも見透かした。
だから――
<じゃあ、口をきけるようにしてやるよ>
クロアの『静寂』だけを奪った。
「あ――」
そして声が漏れる。
クロアの口から、喋ることのできなかった少女から。
イメージどおりの、優しい声音が漏れた。
声の出せない少女が喋れるようになって、いきなり喋れるのは普通ではない。しかしクロアのそれはあくまで特異によるものであり、クロア自身はずっと喋ってきていたのだ。
それが誰にも聞こえなかっただけで。クロアにすらも。
だから、声は漏れ出した。
そしてその声で、
「おねえ、ちゃん――」
クロアはアツミを呼んだ。
驚きと、そして絶望に満ちた声で。
“弟”に肩へ手を載せられて、
泣きそうになりながら、見た。そして“弟”はクロアににこりと笑いかけた。心を読むまでもなく、言っていた。
言え、と。
「――ごめん、ね。お姉ちゃん」
そう、クロアはアツミに謝って――
「く、クロア……!」
「わたしを、使ってください」
涙を流して、弟に体を明け渡す言葉を告げた。
弟は満足しながらうなずいて、それから手を大きく広げてクロアに促す。
<そら、最後の別れだ! 言えよ、聞けるようになった口で、お前の本音を、さもなくば――!>
「て、めぇ!!」
激昂するアツミはしかし、動けないことがわかっていた。
もしも動けば、弟は即座にクロアの命を奪う。心のなかで、わざわざそう告げてきたのだ。
それがクロアにも伝わってしまったから。
そしてクロアは、そんな状況で、
伝えてしまうような感情を、抱えていたから。
「お姉ちゃんは、ずるい――」
クロアの口を、止めることは誰にもできなかった。
「なんでも自分で一人でしちゃって、ずるい」
「クロ、ア――」
「私にも、やらせて、よ。お姉ちゃん一人で、抱え込まないでよ――」
ずるい、自分勝手。
そんな想いを、ずっとずっと心の底に抱えてきて。
――アツミは、思い出してしまっていた。
『それでね、ちゃんと話せるようになったら、お姉ちゃんに言いたいことがあるの』
決してクロアのいいたかった言葉はこんなものではなかったはずなのだ。
きっと、もっと希望に満ち溢れて、誰かを幸せにする言葉だったはずなのだ。
それが、そんな未来が、打ち砕かれていく。
悪意によって、書き換えられていく。
そして――
「私、お姉ちゃんにありがとうって、言われたかったんだよ」
――そう、クロアが言葉を残して。
弟とクロアは、アツミの前から姿を消した。
――クロアという存在。そして最後の言葉、その記憶すらアツミから奪われて。
そして今、アツミのもとへと、戻された。
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「クロ、ア――」
<ハハハ、ハハハハハ! すごい顔してるね、お姉ちゃん! どうしたのどうしたの!?>
「や、めろ……やめろ! クロアを返せ――返せよ!!」
<ばぁああか! 今更どの口が言うんだよ、てめぇがあの時、何もできなかったからこうなってるんだろォ!>
弟は笑っていた。
ようやく取り戻した記憶。もとより大切な記憶だ、アツミがそう反応するのも無理はない。しかし自分が記憶を奪い、今までその存在すら認識させずに生活させたがために、
今のアツミは白々しい。
それが面白くて仕方がない。
<独り善がりの自分勝手な偽善が、こいつの心に塵を積もらせた! こいつにずるいって口に出させた! お前の罪だ、アツミィ!!>
「やめろ、やめろやめろ!」
<記憶を失っても、お前の人間性は変わらなかったんだろう! 自分勝手に、周りを纏めて、その役割を奪う! 無駄足を踏ませて、自分だけ成果を得る!! 楽しいだろうなぁ、リーダーごっこってやつはよぉ!!>
「……やめ、ろ!!」
――否定は、できなかった。
違うと口には出せなかった。
むしろ自分が否定してきたのだ。相手を、必要ないと。
そう思ってしまうから、アツミはただやめろと叫ぶことしかできなかった。
<どの口がミリア・ローナフの代償を否定する! お前も同じ穴の狢じゃないか! どころか、お前の方がより酷い。何の成果もお前は出しちゃいないんだから!>
「……っ!」
――ミリアに、奇跡の代償のことを問いかけたことを知っている。ここは精神の世界だと弟は言った。ならば、弟はアツミの記憶を覗けるということだろう。
悪趣味にも、弟はアツミの模倣をしていた。
<今に見ていろ、ミリアはお前を救うために一人でここに乗り込んでくるぞ。ああ、あの時と同じだ。今度はお前を奪ってやろう。そうすれば、ミリアは果たしてどう思うかな!>
「…………やめ、ろぉ!」
そう、叫ぶことしかアツミにはできなかった。
否定できなかったから。
肯定してしまうから。
きっとミリアは一人でやってくる。
そのときに、アツミを目の前で殺されて、果たしてミリアは正気で居られるか? 自分の死を彼女は背負えるか? 無理だ。アツミには解る。
なぜなら自分がそうだから――!
<そうだ、外の世界の様子をお前に見せてやろう。さて、さてどうなっているかな? そろそろこっちに乗り込む算段をつけたところか?>
パチン、と弟が指を鳴らす、モニターが出現し、外の世界の様子を写す。
アツミに現実を教えるために。ミリアが一人で全てを背負うと見せつけるために――
『あそーれ、ミリア音頭でぽんぽがぽん!』
『ぽんぽがポーン!』
『ぽんぽが……私達なにやらされてるの!?』
――アホがいっぱい、そこにいた。