第十一話 帰宅する
眠れないまま、夜が明けた。
寝室を出てリビングを覗いても、もちろん彼女はいない。空っぽのベッドが、ピアノの下にあるだけだ。
もし、これから毎日この光景を見なくてはいけないのだとしたら。
そう考えて、胸が締め付けられる思いだった。
たった二ヶ月、共に過ごしただけのことだ。それなのに、私は随分彼女に絆されていたようだ。あちらの心の傷を癒してやっているつもりが、居なくなってみればこちらが寂しくて仕方がない。胸にぽっかりと穴が空いたような、なんて、本当にそんな表現が当てはまるような感覚があるのだという事を、初めて知った。
彼女は今どこにいるのだろう。お腹を空かせてはいないだろうか。怯えては居ないだろうか。冷たい檻の中、独りぼっちでいたりしないだろうか。
そう考えるだけでも苦しかった。
しかし、もし元の飼い主や別の人間に大事にされていて、私のことなど忘れて心地良い暮らしをしているのだとしたら。
そう考えれば、今度は自分自身が不憫だった。そんなのは理不尽だ。彼女と暮らしていた私はどうなる。せめて、どうしてこんなことになったのかぐらい、私は知る権利があるだろう。
どちらにしても暗い気持ちのまま、私は静まり返った家の中、一人立ち尽くしていた。
ポロンと、スマホの天気予報の通知音が鳴った。
私は、朝食も取らずに家を出た。
◇◇◇
一日中気落ちした様子の私を同僚達は訝しがったようだが、この頃はまだ私に気安く話しかけてくるものは居なかった。調子でも悪いのかと聞いてきた者には、心配無いとだけ言って会話は終わっていた。
私は、どうって事は無いのだと、必死で自分に言い聞かせていた。
そうだ、どうって事は無い。以前の状態に戻っただけだ。
長い一人暮らしに、たまたま同居人ができた。こちらに文句の一つも言わない、都合のいい同居人だ。話しかければ何も言わずに、くだらない話を延々と聞いてくれる。そんな存在に、愛着が湧いてしまっただけだ。
そうだ、そんなに犬が気に入ったのなら、また別の犬を飼えばいい。迷い犬はシェルターで保護されているというから、また引き取ってもいい。いや、元の飼い主のことを心配したくないならブリーダーから買ったっていい。そうすればまた、家に帰れば出迎えてくれる存在ができて……
帰りの道、そんな事を考えながら自宅に向かって車を走らせていた。一人きりの家に帰るのは、彼女がいないこととまた向き合わなければいけなくなり、恐ろしかったのかも知れない。
他の犬を飼う?
その考えに、私は自分で眉を顰めた。
ちょうど、夕暮れ時の薄明かりの中、愛犬の散歩をする御婦人とすれ違った。真っ黒な大きな犬だ。グレートデンとかいうやつに違いない。私は、ハニーを飼い始めてからというもの、犬という種族に関して随分と詳しくなっていた。グレートデンは体重は婦人と変わらないのでは、と思うような大きさだったが、行儀良く主人の隣を歩いていた。
あの犬は、ドッグフードを食べるだろうか?それとも市販のものには一切手をつけず、手作りしか食べなくて、私の手を煩わせるだろうか?
あの犬は、散歩中に用を足すだろうか?それとも人間のように、家の中のトイレを上手に使って見せるだろうか?終わった後は電気まできちんと消すだろうか?
あの犬は、私のいないすきにソファーで眠るだろうか?それとも私の部屋に入るのさえ躊躇い、呼ばれればそっと足元に寄り添って眠るだろうか?
あの犬は、無条件に私を信頼するだろうか?それとも用心深く、少しずつ私に心を許していくだろうか?
私は溜息をついた。
きっと世界中のどの犬も、ハニーの代わりにはならない。
あんなに行儀が良くて、頭も良くて、いじらしくて可愛らしく、手がかかってこだわりを持った犬は他にはいない。
彼女には、やはり帰ってきてもらわなければ困る。
もし元の飼い主の元に行ってしまったのだとしても、こちらから一言物申しに行くことぐらいは許されるだろう。なんせ相手は私の家に忍び込んだのだから。それに一度彼女を置き去りにしているのだ。なんなら訴えてやってもいい。あわよくば、彼女を奪い返せるかも知れない。
私は強気な想像を巡らせて、彼女を見つけ出すために出来るだけの努力をする事を決意し、自宅のある通りに車を走らせた。そうだ、フェンにも声をかけよう。あいつなら手がかりを見つけられるに違いない。指令以外の労働なんてと渋るだろうが、無理矢理にでもやらせてやる。私は迷い犬の張り紙を作ってプリントして、出来るだけ広範囲で貼って回って……
そう考えながら、自宅のドライブウェイに乗り上げた時だった。
スマホが着信を知らせる通知を発して、私は一番奥まで車を進めないままブレーキを踏んだ。画面を見るが、番号は非通知だ。慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし?」
返事はない。
「もしもし?」
もう一度声をかけるが、やはり返答は帰ってこない。かすかに人の呼吸音がして、たしかにそこに誰かがいるのだと言うことを示していた。私の心臓が早鐘を打ち始めた。吊り目の刑事のダニーが言っていた言葉が脳裏に蘇る。
『万一身代金の要求なんてあった場合も、必ず私達に連絡を。』
途端に、テレビドラマで見るようなリアルタイムで逆探知を行うチームの姿が思い浮かんで、微かに腹がたった。全力で取り組むなんて行っておいて、所詮は「盗難物」扱いだ。これが人であれば、今頃警察は私の家に張り込んでいるはずなのに。
「ハニーは、そこにいるのか。」
私はなんとか会話を伸ばそうと、返答をよこさない通話相手に語りかけ続けた。会話を録音できるアプリを探しておくか、いつだったか買ってから一度も使っていないレコーダーを持ち歩いておくべきだったと後悔した。
「そこにいるんだろう?何が望みだ。」
やはり返事はない。だが息を潜めてそこにいる気配がする。
「金か?それとも、君が元の飼い主か。」
私の電話番号を知っているのなら、いつだったか頼んだピザの出前か、それともゴミに出した光熱費の請求書に書かれていたか……
「彼女は、ちゃんとご飯を食べているかい?私のところでは、私が作ったものでないと食べなかったんだ。」
「鶏肉と、キャベツや人参なんかを茹でてやると美味しそうに食べたよ。さつまいもも好きなようだった。オーブンで焼いて一緒に食べたことがある。」
「私の家の近くに自然公園があるだろう。あそこでの散歩がおすすめだよ。水鳥にとても興味を持っていたから、長いリードで追いかけさせてやったら良いかも知れない。」
「彼女は寂しがりやだと思うんだ。私は仕事が長くて一人ぼっちにさせてしまうことが多いから、もし君が世話をするのなら……なるべく側にいてやってほしいんだ。」
とりとめのない話題で、私は話し続けた。それでも。相手は一言も言葉を返してこなかった。
「頼む、教えてくれ。」
しびれを切らした私は、正体のわからない電話口の相手に、すがるような気持ちで語りかけた。いつの間にか、私はギアをパーキングに切り替えた車のハンドルに、頭を預けてうずくまっていた。頼む、お願いだ。そう祈るような気分だった。
「ハニーは、元気にしているかい?」
また沈黙が続く。
「頼む。お願いだ。もう一度だけでいいから……彼女に会わせてはもらえないだろうか。」
返事はない。ただ、人の気配だけが伝わってくる。
「お願いだ。彼女は……彼女は私にとって、とても大切な存在になったんだ。」
ぷつりと、電話が切れる音がした。
私は絶望に飲み込まれ、そのまましばらく、そこから動くことが出来なかった。
◇◇◇
翌日は休みだった。
張り紙を作ろうと決めたのに、私は何をする気にもなれなかった。私はシャワーも浴びずに、ただリビングのソファーに横になって天井を眺めていた。昨日の電話のことも、ダニーとゲイブにはまだ連絡を入れていなかった。なぜだかそんな気にならなかった。
あの電話は、本当にハニーを攫った犯人からだったのだろうか。それとも、単なるいたずら電話だったのだろうか。だとしたら、私は随分な醜態を晒したものだが。
だがなんとなく、あれはハニーと一緒にいる人間からだったような気がしていた。単なる予感でしか無かったが。
そして彼もしくは彼女は、身代金は要求してこなかった。と、いうことは、ハニーを攫ったのは彼女自身が目的だったということなのではないか。
だとしたら、彼女が戻ってくる可能性は低いのではないか。
私はため息をついて、腕を組んで90度の寝返りを打った。
しかし、だとしたら何故犯人は私に電話を掛けてきたのだろうか。どうして何も言わなかったのだろうか。―――あまりにも必死な私が、気の毒になってしまって何も言えなかったのだろうか。
ふと見れば、ピアノの下の持ち主のいなくなった大型犬用のベッドが目に入る。空っぽなその空間が、また私の胸を締め付けた。
たまらなくなって、私はまた寝返りを打った。180度転がって、ソファーの背に額を擦り付けるようにして呻く。
「帰っておいで、ハニー……」
誰かに聞かれたらさぞかし情けないだろう声音だった。私は、なんてみっともない男だったのだろう。飼い犬を失って、こんなに哀れな状態になってしまうなんて。
だが知ったことか。ここには誰もいない。
私には、しばらく一人の時間が必要なのである。
なにか物音が聞こえたが、私は無視をした。
今は何も考えたくない。
また同じ物音。
私は眉を顰めた。それは聞いたことのある音である気がしたのだ。
風や小鳥の起こす物音ではない。自然ではありえない音。だが「彼女」のいない今、その音が聞こえるわけはない。
私は頭を持ち上げて、耳を澄ませた。まさか。
かし、かし、と、玄関のドアを引っかく音。
私は、ばっと半身を起こして玄関の扉を凝視した。確かにそこから音がしたと思ったが、まだ信じられなかった。幻聴ではないのかと、私は自分の耳を疑った。
うぉん、と、高音で控えめな鳴き声。
私は玄関の扉に飛びついてドアノブをひねった。
急に開いた扉に、彼女は驚いたようだった。数歩後ろに飛び退る黄色い身体。そして、とろんと垂れた目で、私を見上げてきた。
「ハニー!」
細められた目が、パチパチと瞬いた。その背後で、尻尾が微かに左右に揺れている。
ハニーだ。確かにハニーだった。
私は思わず膝を着いて両手を広げた。
その中に、彼女は軽やかな足取りで包まれに来てくれた。
「ハニー……」
私は彼女の柔らかくて暖かい毛並みと身体を思い切り抱きしめて、その存在をしっかりと確かめたのだった。
◆◆◆
「じゃあ、あの後ちゃんと、戻って来たんですね。」
テーブルの反対側に座った女性は、両手の間に紅茶のカップを挟んで言った。
「よかった……」
テーブルに視線を落として、微かに微笑みながら彼女は呟いた。その様子に、私は確かに見惚れていたのだと思う。
今は私の昼休憩で、どういうわけか、私と、節操の無い患者に絡まれていた不運な女性とは、病院近くのカフェでテーブルを挟んで腰掛けていた。
女性は、クリスティーナと名乗った。そして彼女こそ、私がハニーを探して奔走していた際に、道端で無理矢理引き止めてしまったあの女性だったのだ。
彼女はずっと気にかけてくれていたらしい。そして今日私を見て、すぐあの時の男だと気付き、結局飼い犬は見つかったのかと声をかけて来たのだ。
私は、あの時の自分の取り乱しようをそれなりに恥じていた。通りすがりの彼女にほとんど掴みかってしまったのだから、随分と驚かせてしまったに違いない。その詫びと、状況の説明をしようと、私はランチをご馳走する提案を思いついた。だが–––
彼女には近づくべきでは無いと、私の本能が–––いや、本能よりもほんの少しだけ理性に近い部分が、警告を鳴らしていた。
私の本能そのものは、むしろ彼女を欲していたのだ。
もっと端的に言えば、彼女の血を。
それは、紛れも無い吸血欲求だった。
私は混乱していた。
どうしてだ。出血している様子など見られない。血の匂いすらもしない。なのにどうして。何故私は煽られているんだ?
女性特有の月一の生理現象は、血の匂いに敏感な私には分かってしまう。だがそれが私の欲求を煽ることはほとんど無く、ここのところやけに頻繁になったと思う禁断症状は、いずれも視覚的刺激からだった。いつだって匂いそのものよりも、見た目の影響の方が私には大きかったのだ。
それが、どうして今。
彼女と対面した時から感じている、甘い匂い。
あの時は香水の匂いだと思ったそれは、人工の香りなどではないということが今なら分かる。そしてそれは、何故だか私の唾液腺を刺激して止まなかった。このままでは危ないと、理性では分かっているつもりだった。
あの時の犬は見つかりましたよ、迷惑をかけてすみませんでした。仕事がありますのでこれで。
それだけ言って立ち去るべきだった。
しかし、気がつけば私は、カフェでのランチを提案していたのだった。




