美味しいチョコレートケーキを二人で
この豊満を自覚している体から溢れ出す情欲は、三十を過ぎて抑え難くなりつつありました。私は行き場のない愛情を消化することのできない苛立ちを、お店の廃棄ケーキで満たす他に解消する方法を思いつきません。右手にモンブラン、左手にブッシュドノエルを手でつかみ、同ジャンルの甘物の中でも甘い味とより甘い味との対比は、延々と口の中に交互に放り込ませられました。食べ終わった後は一本一本指に付いているクリームを丁寧に舐めとり、テレビのリモコンでそっと拭きます。仰向けになって寝るにはお腹の脂肪が重く息苦しいので、ソファーに座って眠り、夢の中でお菓子の国の女王となり、太らないお菓子を太るまで食べ、やがて耳障りのスマホの目覚ましが強制的に目を覚まさせました。
私の勤務している先のケーキ屋さんはラブリークッキーミックススペシャルと言います。地域住民の方々からはオレンジ色の看板を目印に、ラッキーミスと略され親しまれています。
12月の初め、世間が一体となってクリスマスムードを醸し出す頃。私は朝から寝不足の目をこすりつつ、体をタップンタップンと上下に揺らしながら、店番に立っていました。その日も洋菓子の売れ行きは好調で、商品のうち8割ほどのケーキが売れて行きました。お客さんからは、接客をしている私がふくよかな体をしているので、店員のあなた、川上さんの体と自分の体と見比べてついつい買いすぎちゃうのよねと、褒めているのだか貶してるのだか分からないお言葉をいただきました。
午後4時頃のことです。栗毛色の髪に、コートを着ている女の人がチョコレートドリームというチョコケーキを購入して行った後、男性のお客さんが入ってきました。髪の毛は赤みがかっていて、丸い髪型に整えられており、緑色のジャケットに呼び方がよくわからない茶色のズボンを履いています。ダサい服の組み合わせに見えるけれども、顔がとても良いのでかっこよく見える男性でした。
彼を例えるならば、高さ3メートルはあるウェディングケーキ。口にすることによって実際の欲を満たすのではなく、目で見ることで楽しんで欲が解消されるタイプのかっこよさ。
私はつい彼に見とれてしまっていて、よだれが一筋あごにかかってしまいましたので、ケーキを陳列するふりをしてそっと袖で吹きました。
眺めるだけでよかったのに、レジ対応するだけでもよかったのに、あまつさえ彼は私に話しかけてきました。
「あの、先ほどの栗……いや、初めまして。」
「あい、えお、とふ。どうも。」
「先ほどの女性はよくこの店に来るんですか?」
「わ!?え、あうん、まあ、ホフ。」
「来るということですね?」
私は首を3回縦に振りました。目がキラリと光ります。スマートフォンを取り出すと、私に「てかlimeやってる?」と突然聞き、ぼんやりとしている間にあれよあれよとそのイケメンと連絡先を交換してしまいました。彼は橋場というそうです。
「お姉さんの事をもうちょっと知りたいなあと思って」
そう彼は言うと、青のり一つ付いていない歯を見せてにっこり笑いました。
それからお姉さんのおすすめは?と聞かれたので、私はお店の一押しの大きな栗が乗ったモンブランケーキをおすすめし、彼はネギが挟まっていない歯を見せて二つ買って帰りました。これは後から後悔したことなのですが、彼が連絡先を聞いたということは私に対して好意をもってくれていることは明らかなのに、どうしてそのモンブランケーキ代を私が払わなかったのか、その夜悔やまれました。
しかしその軽やかに苦い後悔は、私のこの上ない幸福のむしろ隠し味となって、この寒い寒い、冬の中にぽっと生まれた暖かい春の香りが多分に私の情欲を掻き立てました。その晩、私はランランと鼻歌を歌いながらホールケーキを二つ食べ、彼の連絡先に自作ポエムでも送りつけてやろうかと悶々と過ごし、「恋愛」「若いツバメ」「うまくいく方法」の三つのキーワードで出てきた、ネットの掲示板まとめサイトを見ながら彼からの連絡を待ち続けました。
午後11時頃のことだったと思います。画面の通知欄に一件のメッセージが届いていることに気づいた私は、急いで画面をスワイプしてメッセージを開きました。それは橋場くんからのメッセージでした。
「今日は突然申し訳ありませんでした。少し強引過ぎたかもしれませんね。お姉さんとちょっと話をしたくて、勢いで連絡先を交換してしまいました。迷惑だと思われていなければいいのですけれど。」
なかなか綺麗な文章を打つなというのが私の感想でした。今時スタンプや誰かの画像を無断で使用せずに会話をすることができるなんて、なんと素晴らしい若者なんでしょう!
私はそれだけで彼のことがますます好きになってしまいます。私は口の端に付いたクリームをスマホのカバーで拭いて、
「迷惑だなんてそんな。むしろ私と話そうとしてくれたことがとっても嬉しいです。どんな話がしたかったんでしょう?」
そうやってメッセージを送り返すと1分もしないうちにメッセージが返ってきました。
「お姉さんは24日空いてるんですか?」
「ええまあ。どうしてでしょう?」
「映画とか見に行くかなあと思って。」
「私とですか?」
橋場くんははそれに対してメッセージを返すことはなく、
「僕の前に来た栗毛色の髪の彼女は何を買って行ったんでしょう?」と返信してきました。私というお姉さんに核心を突かれて、恥ずかしくなっちゃったのかしら?可愛い~。今頃顔真っ赤にしているんだわ。そこまでの駆け引きをもう少し楽しまなきゃいけないみたいね。
「あのお客様はチョコレートドリームをよく買って行かれますよ」
「よくということは、よくお店に来るんですね?」
「毎週金曜日の18時頃には必ず」
「そうなんですね、ありがとうございます!」
「私は24日の午後空いていますよ」
「ではまた僕から連絡しますね」
そう送ると彼は寝てしまったのか、それ以降メッセージが来ることはありませんでした。
24日がだんだん近づいてくるにしたがって、心はだんだんと高ぶっていきました。なんせ今年のクリスマスは一人じゃないかもしれない。彼からの連絡はいつ来るのかと胸がドキドキし、こちらから連絡をすることによって、もしサプライズでも用意をしていた時には彼との関係性が崩れると思った私はこちらから連絡できず、彼からの連絡を今か今かと待ち続けました。彼はあれ以来お店には来ていません。
彼から連絡が来ずにとうとう23日になりました。
明日1日シフトを開けてもらっておいたので、今日は夜遅くまで働いておりました。21時になって、雪がふらふらと降り出しました。私はぼんやりと外を見ながら、橋場くんとの明日を夢見ます。多幸感に満ち溢れ、夜の喜びのことを想起し、私は思わず、よだれをお腹の形に伸びきったエプロンで拭きました。
そろそろ閉店作業をしようと思ったその時、一人の男性と一人の女性が入店してきました。橋場くんだ。あの彼です。彼の姿を見た途端、明日のお誘いをしに直接来てくれたんだと思い、空想上の彼に王子様の格好をさせて、高鳴る胸の脂肪を押さえ付けていましたが一つ違和感を覚えました。なぜか彼はもう一人の女性、栗毛色の常連さんの手を握ってるのです。恥ずかしそうに頬を赤くしながら、「チョコレートドリームを今日は二つ」と私に言いました。
彼は、彼は、彼は、私と目すら合わせません。もしやお母さんか妹か、いとこかおばさんか、おばあちゃんか孫かお子さんか。きっとそのどれかだれかに違いない。違いないわ。そうして、高い血圧がさらに高くなったことを実感しながらも、いつのまにか無意識に二人のレジを済ませてしまっていました。彼女たちはお店の前に出ると、ケーキを口移しでもしてるかのように口を合わせました。私の体感時間で3日ほど経った頃、二人は手をつないで、夜の街へ消えていきました。レイトショーに行くのかな。
お幸せに!
その言葉を見えなくなってしまった二人に投げかけ、いつもの虚脱感が私を襲います。そのまま店じまいを終えると、私はすぐに家に帰って苦くコーヒーを入れました。そうして机の上に、ショートケーキを置きます。橋場というネームプレートが刺さったショートケーキをへらで崩し、ブラックコーヒーに入れて飲み干します。コップの側壁にこびりついたケーキは、ひとしずくの涙で底の方にこ削ぎ落とされた後、二粒目の涙で溶け出しました。私のスマートフォンの通知欄に待ちに待った彼からのメッセージが来ており、見ると、「ありがとうございます!あなたのおかげで僕たち幸せを掴むことができました。本当にありがとうございました」と書かれたメッセージは私の暗い部屋に次の日も一日中チカチカと輝き続けていました。
秋桜みりや(@mrycs0219)さんとの執筆企画です。ご覧頂きありがとうございました。