【両親と書いてふたおやと読む】
【両親と書いてふたおやと読む】
傷ついた犬。
血塗れの狼。
無表情な兎。
艶やかな猫。
何もない人。
飛べない梟。
怯えてる虎。
ピエロな猿。
汚れてる熊。
ワタシの部屋の押入れの下段にある九体のぬいぐるみ。
さて、今日はどうしようかな。
「入るぞ魔女~」
ゴンゴン!
気のせいだろうか。ドアが開く音がした後にノック音が響いた気がする。ずかずかと無遠慮に上がり込んできたのは案の定、お蝶。無遠慮の塊、お蝶。でもそのくせ人が傷付く領域には決して上がり込まないという器用さを見せるお蝶。姐御!
「どうしたの?」
「ほれ、これやるよ」
そう言ってお蝶がワタシに差し出したのは、化物だった。
「なにこのバケモノ」
二頭身のキャラクターっぽいのは辛うじて分かるけれど、顔が潰れてひしゃげている。真っ赤な──たぶん舌だと思うけど、どう見ても吐血にしか見えない赤い布がだらりと垂れ下がっていて、目がぎょろって飛び出しているのもあいまって頭を潰されて撲殺されたような惨状だ。胴体の方もいびつな形をしていて手足らしきものが飛び出た内臓にしか見えない。いや、ほんとなにこのバケモノ。
「何って、ハムスターだよハムスター。ほれ、そこのぬいぐるみ──魔女だけいないだろ? だからアタシが作ってやったんだ。魔女ってなんかハムスターっぽいからな!」
「なんてひどい所業」
このバケモノがワタシ!?
「裁縫は苦手だからな──ちっと崩れちまったが、アタシにしてはなかなかの出来だ!」
最悪です。
「……ありがとう」
礼を言えるワタシ大人。
お礼に後で呪ってあげよう。
最近肩がだるいって言っていたから肩あたりを重心的に呪ってあげよう。うん。
「そういえばさぁ、お前はどこで大家さんに出会ったんだ? この間、アタシの話に共感していたからお前も似たような出会いだったんだろ?」
「…………」
大家さんとの出会い。
それはワタシにとって、幸せへの道だった。一筋の光だった。最後のチャンスだった。
「……うん、そうだよ」
ワタシとお蝶は似たような境遇だ。
両親から虐待を受けていた。端的に言えばそれに尽きる。
「浴場の脱衣室にさ、あるでしょ? ガラスのケースに飾られた絵」
外にある共用の浴場。そこは元軍人がこだわりにこだわり抜いた浴場で、最新式のシャワー設備にひのき風呂というさいはて荘のオンボロ具合には超似合わない贅沢な造りになっている。脱衣室もとても綺麗で、壁には一枚の巨大なキャンパスが飾られている。元軍人の計らいでガラスのケースに保護されているその、絵。
「ああ、あれね。すっげぇ絵だよな──初めて見た時感動しちまった。大家さんが持ってきたんだったけ?」
「あれ、ワタシが描いた絵」
「へっ!?」
なんか照れ臭いな。
浴場に飾ってある絵はワタシが五歳の時に描いた──お父さんやお母さんと一緒に見た、視界いっぱいに聳え立つ巨大な御神木。ただただ圧巻しかされないその木にワタシは──魅せられた。樹齢三千年とも七千年とも言われているその御神木の雄大さに息をすることを忘れてしまい、窒息死しかけたのはいい思い出である。
──そしてワタシは家に帰った後、お父さんにねだって大きなキャンパスを誕生日に買ってもらって……一心不乱に、描いた。書いた。貼った。張った。削った。梳った。彫った。掘った。捻った。捩った。塗った。縫った。切った。伐った。ありとあらゆる絵具で。ありとあらゆる素材で。ありとあらゆる道具で。ありとあらゆる手法で。
ひたすら、描いた。
そうして出来上がったのが──あの御神木の絵なのである。平面的であり、立体的であり、抽象的であり、写実的であり、概念的であり、具体的であり──“形”のない絵。そう言われたっけな。
「──佐々呉どれみ。知ってる?」
「うん? ──聞いたことあるなァ……幼き天才画家だったか──あ、まさか」
「そう、ワタシ」
ここさいはて荘では不思議なことに、誰も本名で呼び合わない。住人全員の本名を知っているのは大家さんただひとり──いや、社長もか?
元軍人とかは大家さんとふたりきりの時は名前で呼んでそうだけど、ともかくここさいはて荘ではみんなお互いを通称で呼び合っている。どうしてかって? そっちの方が落ち着くから。そういう人たちが集まっているから。
ワタシもさいはて荘の住人の中で本名を知ってるのは大家さんと元軍人のふたりだけだ。社長は前に聞いた気がするけど忘れた。
──っと、話が逸れた。ワタシの本名は佐々呉どれみ。以後一切出ないからもう忘れて構わない。
その名でワタシは幼き天才画家として生きていた。さいはて荘に来るまで。
「六歳になる前かな。あの絵を描き上げて──そして、終わったの」
家族が。
そうぽつりと零したワタシにお蝶は頬杖をつきながら欲に目がくらんだのか、と問うてくる。その通りである。
「ワタシの絵をコンクールに出すところまでは普通だったと思う。娘の絵がすごい! コンクールに出そう! ってきっと他の親も考えることだろうしね。でも──そのコンクールでワタシの絵を見た富豪が高値で買いたいとコンタクトを取ってきたところで、壊れてしまった」
その後は細かく言わなくても分かるだろう。お約束のような流れというやつである。
金の生る木だと知った両親はワタシに絵を描くことを強制するようになった。最初の頃はワタシが嫌がったり泣いたりすれば引いてくれていたけれど、ワタシの描いた絵が売れれば売れるほど強制力は増していった。
絵を描き終えるまで遊んではならない。
売れる絵でなければゲームは買わない。
絵を描き終えるまで外に出るのはだめ。
売れる絵でなければ描き直しをさせる。
絵を描き終えるまで誰にも会わせない。
売れる絵でなければ無価値なゴミクズ。
絵を描き終えるまで部屋から出さない。
売れる絵でなければ厳しい躾をします。
絵を描き終えるまで食事はありません。
売れる絵でなければ殺してやるぞゴミ。
──そんな風に、エスカレートしていった。
だからワタシは十一歳だというのに八歳くらいの身長しかない。最近は少し伸びてきたし体重も増えてきたけれどまだまだガリガリだし、体力も人並み以下である。
「あれは両親なんかじゃない。両親だ」
“親”という続柄があるだけのふたりの人間。
そこに絆なんてひとかけらも存在していない。
「なるほどねぇ。お前も苦労したな~」
よー頑張ったなー、と軽く言ってお蝶は笑いながらぐりんぐりんと頭を乱暴に撫で繰り回してきた。痛い。
「そんで大家さんとはどう出合ったんだ?」
「あ、うん。えっとね、個展があったの。ワタシの個展」
勿論両親が勝手に開いた、ワタシの意思なんてどこにも存在していない金を集めるだけの個展だ。
その時のワタシは両親に病弱な子ってことにされていて、悲劇の幼き天才画家っていうシナリオを社会に売り出していた。抵抗する力なんて当然、なかった。ごはんもろくに食べさせてもらえなかったしね。
「両親に描かされた絵がずらーり並んだ個展。タイトルも由来も描くに至った流れも、ぜーんぶ両親が決めた個展」
「そこに大家さんが来たわけだ。絵本作家だもんな」
「そう。その日、ワタシはサイン会のイベントがあったから個展にいたの。車椅子に座ってね、ぼんやりと個展を見て回るお客さんたちをドアの隙間から眺めてたの。ワタシが描かされた絵を見て、感動する人間たちをね」
描きたくない。
もう嫌だ苦しい。
誰か助けて逃げたい。
そんな悲鳴、誰にも届かなかった。誰もがワタシよりも両親を信じた。
そしてそんな両親がワタシに描かせた絵に──感動する人間どもが、どうしようもなく憎かった。
両親と同じくらい、憎くて仕方なかった。
「──呪詛を心の中で吐いている時にね、大家さんが来たの。ひとりだった。白杖でゆっくり歩きながら個展の中を見て回ってて……見えないのに見えるのかなって最初は変に思った」
白杖=全盲って、当時のワタシは思ってたからね。弱視の人や夜盲症の人も白杖を使うっていう考えに至らなかったんだよね。そこは反省している。
「そしたらね、あの絵の前で止まったの。浴場に飾ってある、あの絵の前で」
ワタシが唯一“描きたくて描いた”絵。初めての──絵。
両親はプレミアがつくからとその最初の絵だけはワタシの象徴として残しておいていたのだ。いずれきっと数億の価値になる、とか言って。親心? それに対する期待なんて八歳の時に棄てた。
「最初はたまたまだろうって思ってたんだけど……大家さん、あの絵の前から動かなかったの。時々他の絵を見て回ることもあったけどすぐあの絵のところに戻って、ずっと、ずーっと……見ていたの」
あの時の気持ちは、言葉にするのがとても難しい。
ワタシの最初で最後の“絵”の前でただ静かに、ただじっと見つめているだけの大家さんの姿は未だに目を閉じるだけで思い出せる。
あの焦がれるような気持ち。
胸がちりちりと焦がされていくような、なんとも言えない感情。
喉がひりつくように渇いて、呼吸ができなくなって、叫びたいのに叫べなくて。
呼吸をしようにもしゃくりあげるように吸い込むだけで息を吐き出すことができなくて。
声を出そうにも焼け付くように熱い喉が空気を通すばかりで音をまともに変換してくれなくて。
ただ、苦しかった。
「気付いたら……大家さんの手を掴んでいた」
驚いたようにワタシを見下ろす大家さんの丸い目。
ワタシのガリガリに細くて冷たい手とはまるで違う、とても温かくて優しい手。
立っているのもやっとで、ほんの十数歩歩いただけだというのに心臓が破裂しそうなほどに脈打っていた。
その時のワタシと大家さんの間に会話はなかった。
あったのはワタシからの一言だけ。
──たすけて。
その一言の後は、覚えていない。──気絶したからである。
「気付いたら病院にいた」
「なるほどねぇ……その後はあれだ、アタシの時と同じだろ? 社長が暗躍した」
「うん。気付いたら後見人が大家さんになっていた。いや、社長なのかな? そのあたりはよくわかんないけど……」
──もう、だいじょうぶ。
「そう、大家さんに病院で言われた時……やっと解放されたんだって分かって、むちゃくちゃ大泣きしちゃった」
あの時ほどの安心感ったら、本当にとんでもない。
それ以来両親とは会っていない。会いたいとも思わない。未成年だから両親が警察や司法機関に訴えたら連れ戻されるんじゃないかって社長に聞いたことがあったけど、社長には“その可能性はない。お前は何も考えず大家さんに甘えてろ”って言われただけだった。社長が言うんだからそうなんだろうってことで両親のことはもう捨て置いている。捨てて、棄てた。
曲がりなりにも産み育ててくれたのにって言う人もいるかもしれないけれど、そんな人たちに言えるのはこれだけだ。
あれは両親なんかじゃない。両親だ。
それが分からないのなら黙っていろ。
以上!
「まー、要するに大家さん大好き! 社長何者だよ! ってことだな!」
こいつ、ワタシの話を二言にまとめやがった。いや、その通りだけどさ。
「ひひひ。そっかー、お前もかー」
唐突に奇妙な笑い声を上げ出したお蝶にワタシは思わず引いてしまう。そんなワタシに気付いてかお蝶はにかっと歯を見せて笑ってきた。
「お前にとっても大家さんは“お母さん”なんだなあって思ってな」
「──、……“お母さん”」
「そう、お母さん」
「……お母さん」
──ああ、そうか。
──だからワタシはあんなに。
「まー、アタシは大家さんと年が近いからよ。姉妹色の方が強いけどなー。でもお前にとっては確かに“母親”だろ」
「……うん」
すごく──合点がついた。
すとんときた。ごとんって落ちた。すぽんって抜けた。バリンって割れた。
納得。全力で納得。そりゃそうだ。だからワタシは大家さんに幸せになってほしいんだ。
大好きなお母さんだから。
「……変なの。大家さんは赤の他人だし、出会ってからまだそんなに時間経ってないのに」
「人の想いに時間と理由は関係ねぇんだよ」
ワタシを優しく見下ろしながらそう言ってお蝶は、微笑んだ。
その顔はなんだかとっても、お姉ちゃんっぽかった。実姉はいないけれど、そう思った。
「……今は、絵なんて大っ嫌いだし描きたくないけど」
「ん?」
「ここにいたら……描きたいと思える時がいつか来る気がする」
「ほーかほーか、じゃその時大家さんにクレヨンでも絵の具でもねだれ。てか別に絵じゃなくてもいいんだぜ? そこにこだわる必要はねぇんだ。才能はあるんだろうが、それだけだ。好きじゃないんならつまりお前に合わねぇってこった。ぬいぐるみ作りでも呪い道具作りでも、好きなことをやれ」
やりたくないのにやるのは趣味とは言わねぇ。好きじゃないのに好きだと思おうとするのも趣味とは言わねぇ。
そう言ったお蝶にワタシは頷いて、笑った。すごく安心する、言葉だった。
「さー、今日は大家さんとこでアタシも食べることになってんだ。行こうぜ」
「そうなんだ。今夜はクリームパスタだって言ってた」
「そりゃうまそーだ」
──ワタシは、幸せだ。
【無趣味】