【魔女の絵本⑧ とらがまおうになったひ】
【魔女の絵本⑧ とらがまおうになったひ】
傷ついた犬。
血塗れの狼。
無表情な兎。
艶やかな猫。
何もない人。
飛べない梟。
怯えてる虎。
ピエロな猿。
汚れてる熊。
潰れてる鼠。
暴れ狂う鯱。
さいはて荘のエントランスに飾られている巨大なキャンパス。そしてその下に絵本と一緒に陳列されている、十一体のぬいぐるみ。
◆◇◆
むかしむかし、あるところにかんぺきなとらがいました。
かんぺきなとらがどれくらいかんぺきかって、なにもかもがかんぺきだったのです。かんぺきなとらはなんでもできます。どんなことだってできます。ふかのうだってかのうにできます。りふじんさえねじふせてしまえます。
だからかんぺきなのです。
なんでかって?
えらばれしものだからです。
うまれたときから、かんぺきなとらにはすべてがありました。そう、すべてです。すべてなのです。なにもかもなのです。ねこそぎなのです。ありとあらゆるもの、すべてなのです。
おうちはもちろんのこと、たべものだってよういされています。
それだけではありません。おもちゃだってなんでもありましたし、ほんだってぜーんぶありましたし、のりものだってじてんしゃからひこうきまでそろっています!
もちろん、これだけでもありません! なんと、ともだちだってよういされているのです! そうなのです。かんぺきなとらは、ともだちをつくるひつようがありませんでした。だって、よういされているから。
かんぺきなとらは、えらばれしものなのでなにもかもがよういされているのです。
うらやましいですねえ!
でも、どうしたことでしょう? かんぺきなとらはちっともしあわせそうにしていません。かんぺきなのにどうしてでしょう?
だってすべてがあるのに! すべてですよ? あそびたいとおもえばあそぶためのおもちゃと、あそぶためのなかまがよういされます。りょこうにいきたいとおもえばりょこうにいくためのヘリコプターと、いっしょにりょこうするともだちがよういされます。
それだけじゃないんです!
こいびとがほしいなあとおもえば、かんぺきなとらにふさわしい、とてもきれいなおんなのこのとらがよういされます。いいですねえ!
がっこうだってとうぜん、いちりゅうのがっこうにいきます。いちりゅうのクラスメイトにかこまれて、いちりゅうのべんきょうをすることができるよう、ぜんぶぜんぶよういされます。
すてきですねえ!
それなのに、かんぺきなとらはちっともしあわせそうにしていないんです。していないどころか、あるひとうとういえをとびだしてしまいました。
ざあざあ、ざあざあ。
あめがふっています。
かんぺきなとらのかんぺきなけがわがぐっしょりぬれてしまっています。でも、かんぺきなとらはいえにかえろうとはおもいませんでした。いえにかえればあたたかいへやと、あたたかいごはんがあるのに!
「おれさまは、なんのためにいきているんだ?」
ざあざあ、ざあざあ。
すっかりびしょびしょにぬれて、よごれてしまったからだでかんぺきなとらは──いいえ。
おびえているとらは、からだをちいさくまるめておびえました。
かんぺきなとらは、あんまりにもかんぺきすぎるせかいにおびえたのです。
かんぺきなおうち。かんぺきなりょうり。かんぺきなおへや。かんぺきながっこう。かんぺきなともだち。かんぺきなせんせい。かんぺきな、かぞく。
ぜんぶぜんぶぜんぶ、さいしょからかんぺきなものを「はい!」とだされていることに、かんぺきなとらはおびえたのです。
じゃあ、なにもかもがかんぺきなせかいで、なにもかもがかんぺきなとらは、なにもかもがかんぺきにそろっているなかで、いったいなにをすればいいのでしょうか。もうぜーんぶかんぺきなのに、なにをすればいいのでしょうか。
かんぺきなとらは、じぶんがなにをすればいいのかわからなくておびえました。だから、おびえているとらになったのです。
ざあざあ、ざあざあ。
「だいじょうぶ?」
あめがどろみずのようにざあざあふりそそぐなか、とてもちいさなこえがしました。おびえているとらがかおをあげてみると、そこには傷だらけのいぬがいました。
傷だらけのいぬは、傷だらけでした。
ちっともかんぺきじゃありません。ぼろぼろです。わたがとびでてしまっていますし、こえはとてもちいさいですし、ふらふらしています。ちっともかんぺきじゃありません。
「かぜをひいちゃうよ」
ちっともかんぺきじゃないのに、傷だらけのいぬはおびえているとらをしんぱいしてかさをさしだしました。
おびえているとらは、ふまんそうなかおをします。
だって、傷だらけのいぬはあんまりにも傷だらけで、ぼろぼろで、かんぺきじゃありません。それなのに、かんぺきなとらをきづかっているのです。
だからおびえてるとらははらをたてました。
でも、おびえているとらのふまんそうなかおに傷だらけのいぬはちっともきをわるくしません。にこにこ、にこにことわらっています。傷だらけなのに。ぼろぼろなのに。かんぺきじゃないのに。
「どうぞ」
傷だらけのいぬはにこにこえがおでかさをおびえているとらにもたせて、ふりふりとてをふりながらおそらくは、なかまなのであろう血まみれのおおかみのもとへさっていきました。
そうして血まみれのおおかみのとなりにたって、血まみれのおおかみがさしているかさにいっしょにはいって、ふたりでならんでたちさっていくのをみて、ふしぎとおびえているとらはうらやましくなりました。
あのふたりはきっとこれから、おうちにかえるのでしょう。
そしていっしょにごはんをたべて、いっしょにねるのでしょう。あしたになればいっしょにおきて、またいっしょにりょうりして、いっしょにごはんたべて、いっしょにおでかけをして。
おびえているとらは、それがうらやましくてうらやましくてしかたなくなりました。
そして、けついしたのです。
「そうだ……ほしいなら、てにいれればいいんだ」
おびえているとらはたちあがり、さけびます。
「おれさまはなにをおびえていたんだ! かんぺきなおれさまがなぜ、たにんによういされたものにあまんじなければならない? おれさまのほしいものは、おれさまじしんでてにいれる!」
フハハハハハハハ!!
──と、たかわらいしながらおびえているとらはさっそうと傷だらけのいぬと血まみれのおおかみがすんでいるさいはて荘にのりこんで、どきどきしながらじぶんもなかまにくわわることをつたえたのでした。
こうして、おびえているとらはさいはて荘のまおうになったのです。
◆◇◆
ゆうべ、社長の胡坐の中でごろごろしている巡に読んであげた絵本を、社長がそれはそれは嫌そうに顔をゆがめて聞いていたのを思い出してワタシはつい、くすりと笑う。
「どれみさま、おかわりはいかがいたしますか?」
「あ、いただきます。ありがとうございます、藤沢さん」
「いいえ。たいへんお疲れでございましょう。どうぞごゆっくり」
社長の秘書、藤沢さんにココアのおかわりを貰って、ずずずと啜る。
ここはJJC本社、つまりは社長の勤務先。そう、魔王城。
そこで何をしているのかって、社長の隣にいただけ。社長に言われた通り、背筋を伸ばして、胸を張って、顎を落とさず。社長から差し出された腕に手を添えて、ただ前だけを向いて歩いた。
ただ、それだけ。
挨拶とか表明とかはしていない。記者っぽいのがいた気はするけれど、そちらに視線は一回も向けなかった。ただ社長の腕を取って、正門からJJC本社大エントランスを通り抜けてエレベーターホールに入って、エレベーターに乗って社長室までやってきた。それだけ。
それだけで、十分らしい。
名を売りたいならまた話は別らしいけど、表に出ないアーティストってのは珍しくないから、これで十分なんだって。ただ、天才画家佐々呉どれみの行方を知らしめただけ。その上で、天災画家黒錆どれみが一体誰の庇護下にあるかを植え付けただけ。
テレビに出ることはおろか、記事になることもない。ただ一部の、佐々呉どれみを探っているジャーナリストやアーティスト、コアなファンに知れ渡るだけ。これで、余程頭の悪い輩でもなければワタシを探ろうとすることはなくなるらしい。
ただ、好き勝手囁かれるだろうとは言っていた。
幼い天才、佐々呉どれみの突然の消息不明。親元を離れ、行方不明になっていた佐々呉どれみが今度は、黒錆どれみという名前で──しかも戸籍を一新する形で、JJCの庇護下にいる。口さがない輩は好き勝手嘯くだろうと、社長は言っていた。
気にならないといえばウソになるけれど、大丈夫。
だって、社長がいるから。
「……うん」
ワタシにとって社長は何においても信頼できる〝他人〟だ。
大家さんと元軍人は誰よりも信頼できる〝両親〟で、社長は何よりも信頼できる〝他人〟──うん、そうだ。
昔から、出会った時からずっとワタシの保護者のような立ち回りだったけれど、親じゃない。とか言って兄でもない。あんな兄ちゃん嫌すぎる。
ワタシにとって、社長は何よりも信頼できる〝他人〟──そう。
それ以上でも、それ以下でもない。
「蓮さまは」
ふいに、藤沢さんがワタシの前にティラミスを置きながら、静かに口を開いた。あんまりにも唐突だったものだから少し驚いてしまったけれど、ワタシに構わず藤沢さんは言葉を続ける。
「蓮さまは、ずっと孤独でございました」
「……」
「ですがそれを、一切自覚しておられませんでした。環境が環境であるがゆえに」
選ばれた人間。
選ばれた人間であり。
人間であることを否定された人間。
「そんな蓮さまが孤独を自覚し、人を恋しむようになったのは……いつのことだったでしょうか。そのころからでございました。〝帰る〟という言葉を口にされるようになったのは」
──ああ。
たぶん、大家さんと出会ったころだ。
「蓮さまがお小さいころより世話役を仰せつかっていた身として、この上なく嬉しい出来事でございました。最近はそれに加えて、執心なされるお人がおできになって」
「……執心?」
社長が、執心する人間?
「おい、何を話している」
社長室の扉が乱雑に開かれた、かと思えば不機嫌そうな社長がわざとらしく足音を立ててやってきた。
「いいえ、ただの昔話でございますよ」
「……余計なことは話していないだろうな?」
「とんでもございません。さ、蓮さま。いつまでもどれみさまを放っておかれますな」
「わかっている。下がっていろ」
「畏まりました」
恭しく頭を下げて社長室と隣接している秘書室に下がっていく藤沢さんをぼんやり眺めているワタシの視界に、社長の体が割り入ってきた。
「おい、何も言われていないだろうな?」
「え? ううん。別に何も……藤沢さん、悪い人じゃないでしょ?」
「そういうことじゃない。余計な事を──ああ、いや。いい。何でもない。それよりもお前、大丈夫か?」
「え? 大丈夫って……何が?」
社長が何を言っているのか本気でわからなくて、きょとんとするワタシを見下ろして社長ははあっと大きなため息を吐いて、ワタシの隣に座り込んだ。
「悪かった、無理させた」
「へ?」
……あれ? 謝った今?
……んん? 謝ること自体にもびっくりだけどワタシ、一体何を謝られたんだ? 心当たり……ありすぎるわね。
「昨日の夜、ワタシのプリン食べたこと?」
「そんなわけあるか。貴様のものは俺様のものと相場が決まっている」
決まってねえよ!! どこのガキ大将だ!!
「少し打算が過ぎた」
「ん?」
打算……って、今回の一件のこと?
天才画家、佐々呉どれみと天災画家、黒錆どれみの。
「別に……歩いただけで何もしてないし、何ともないわよ」
「嘘つけ」
アイアンクローからのバスターッ!!
いきなりがっと顔面を掴まれたかと思ったら、首がねじれる勢いで引っ張られてしこたま腰を痛めた。グキッといった。逝った。何すんのよアンタッ!!
──と、掴まれた衝撃でじんじん痛む顔面を上げようとして、けれど後頭部をがっちり押さえつけられていて動かないことにさらに腹を立てたワタシは暴れる。もがく。ってか鼻先が何かに押し付けられていて息もままならないっ! 何!? 何が起きたの!?
「悪かった。焦りすぎた」
その声は、ワタシの鼻先を圧し潰している何かを介して響いてきた。そう、ワタシの鼻先を圧し潰している何かから、直接響いてきた。直接──直接?
柑橘系の、涼しい香り。
カッと、一気に体温が上がった。
「お前があんなに──あんなに、自分を殺せるとは思っていなかった」
ワタシの鼻先を圧し潰している、温かくて硬くて、おおきなおおきな、元軍人や元国王に比べればずうっと薄くてちいさいはずなのに、ワタシの痩せぎすの体をすっぽり包め込めるほどにおおきなおおきな──社長の、胸板がしんしんと響く。
後頭部は相変わらず社長の手が押さえつけていて動かない。
ただただ、社長の温もりが。匂いが。ぬくもりが。においが。
熱が、上がる。
「っ……な、によいきなり……そんなの、覚悟、したんだから当たり前、でしょっ。社長がワタシのため、に打ってくれた一手だも、の」
声が、上がる。上擦る。掠れる。落ち着け。落ち着け、ワタシ。
「違う」
しゃべるな。喋らないでほしい。アンタが喋ると、響く。しんしん、響く。熱がまた、上がっていく。
「違う……お前のためじゃない。本当にお前のためを想うなら……俺は、全てを握り潰すこともできた」
「……どういう、ことよ?」
「全ては……俺のための打算だった、ということだ。俺の打算のためにお前を付き合わせた。悪かった」
「……意味が、わかんない、わよ」
離して。お願いだから離して。これ以上。これ以上は。
「あんたのための、打算ってどういうことよ? つか離しなさ、い。あんたの、ビジネスの利益のため、ってこと?」
「違う。……いや、それもあるのか」
ふー、と社長が大きく息を吐いて、その拍子に鼻先を圧し潰している胸板がかすかに沈む。とくとくと、社長の静かで規則的な鼓動がすることに今さら気付いて、社長も人間なんだなって意味不明なことを考えてしまう。
「俺の立場に、お前を付き合わせてしまった」
「……?」
「すまん」
お前に自分を殺させるつもりなんかなかった、そう言って社長がため息を吐くのを聞きながら、少し落ち着いてきた思考で整理する。
社長の謝罪、それはワタシに無理をさせたことへのもの。それは、なんとなく理解できた。うん、〝自分を殺す〟っての、確かにその通りだったもの。〝JJC代表取締役社長〟の隣を歩くというのは、かなりの重圧だ。いくらそれが〝社長〟神宮寺蓮だとわかっていても、JJC本社の中だとワタシの知っている〝社長〟神宮寺蓮が消えてしまう。いなくなってしまう。
だから、少しでも恥ずかしくないようにと矜持を保った。少しでも社長の周りにいる人たちに見劣りしないようにって、虚勢を張った。
……それが、気付かれてたってことなんだと思う。
でも、ワタシはそれを嫌だとは思っていなかった。だって、社長がやっているのってワタシのためのことなんだもの。天才画家・佐々呉どれみを追う口さがない人たちからワタシを守るために社長が打った一手、なんだもの。だからワタシは頑張らないとって、社長がワタシのために手を尽くしてくれているんだからワタシも頑張ろうって、想っていた。
……んだけど。
さっき、社長はそれを否定した。
ワタシのためなんかじゃなくて、社長自身のためだって、言った。
ワタシのためじゃなくて、社長自身のため。
天災画家・黒錆どれみを抱え込むことが社長としてのステータスになるから? ありえなくはない、けど。
なんか社長らしくない。
〝打算〟……そう、打算。社長はこの一手を打算だって、前々から言っていた。
何の打算? 天災画家・黒錆どれみを社長の庇護下に置くことで、社長が得すること。黒錆どれみというアーティストを独占できるステータス。でもそれって大した付加価値にはならないはずだ。第一、社長らしくない。
じゃあ何?
ワタシと社長が契約することで、天災画家・黒錆どれみが神宮寺蓮のお抱えになる。そのことで生ずる、社長の利益。
「……社長は、ワタシに何をしてほしいの?」
「……そのままでいてほしい、だな」
意味がわからない。
天災画家・黒錆どれみとして活動することは望んでいない? うーん。そもそも、天災画家・黒錆どれみから得られる利益を求めているなら個人契約じゃなくてJJCとの契約になるはずよね。
……社長が求めているのは、〝天災画家・黒錆どれみ〟じゃない?
じゃあ、社長が求めているのってなに?
──俺の前では、作ってくれるな。
ふと、鴨そばを食べに行った時の社長の言葉が、脳裏をよぎる。
あれと、同じだ。ワタシが自分を殺すことについて過剰に嫌がる。じゃあ、やっぱり社長はワタシに〝天災画家・黒錆どれみ〟なんて求めていない。
──また連れてってやる。
これは……そうだ、鴨そばの味を覚えていないワタシに言ったヤツ。
あれ、でも。
でもその前、社長は──お蝶に、確か、もう連れてきてやらんって。
──うまいぞ。
これは、そう、何回も聞いたことがある。何回も。
いつだって〝まあまあだな〟としか言わない社長の奇跡の、セリフ。あれ? でも、ワタシ何回も、何回もこの言葉。
何回も、ワタシはこの言葉を聞いている。
ぐっと、呻き声が零れ落ちるくらい顔が熱くなる。顔どころじゃない。喉も痛い。指先も震えている。感覚はないのに、熱い。不自然なほどに熱い。胸は、よくわからない。どっどっどっどっ、と脈打っているような気がするし、熱すぎて心臓の表面が煮立っているような気もする。みぞおちのあたりもずくずく痛くて、下腹部だって熱い。すごく熱い。熱すぎて溶けるんじゃないかってくらい、熱い。
「──おい、魔女? どうした、大丈夫か?」
ワタシの様子がおかしいことに気付いたのだろう、社長が珍しく切羽詰まったような声で語りかけて来た。
いつの間にか後頭部の手は外れていたらしい。ワタシはのろのろと、社長の胸板から顔を上げる。思ったよりも社長と近くて、今にも鼻先が社長の顎先にくっつきそうで、そのことにも熱が上がる。
「────」
そんなワタシを見下ろして、社長の切れ長の目がこれまでにないくらい大きく見開かれる。見開かれて──見る見るうちに、紅潮した。それはそれは、真っ赤に。
しばかれた。
「べぶぅ!!」
しばかれたってか、ほっぺたを張られた。パァンって両手で勢いよく挟まれた。痛い。痛い!!
「──いきなり自覚するな!!」
そして、叫ばれた。
若干上擦った声で、らしくなく紅潮しきった顔で、怒り心頭とばかりに、けれどそれよりも今すぐ穴に入りたいといった感じで。
叫ばれた。
いきなり頬を張られて、いきなり叫ばれて。
さすがのワタシもちょっとムカッときて、叫び返した。
「何よその言い草ッ!! わた、ワタシだって好きでっ、好きでこんなっ!!」
「うるさい! 何も言うな!」
「何よそれっ! 散々人を振り回しておいてっ!! そんな顔を赤くしちゃってさ!!」
「お前こそ茹でタコそのものじゃないか!! いいから黙っていろ! それ以上何も言うな!!」
「何もって、何よ!! 人を振り回した末に言うセリフがそれ? わた、ワタシはねぇっ!! ずっと、ずっと! ずっと考えてて!! ただ、ただ考えてっ!!」
「何も言うな!! 何も聞くな!!」
抱き締められた。
元軍人に抱き締められた時とは違う。全然、違う。元軍人に抱き締められた時の、あの大きくて安心できる感じとは全く違う。ぜんぜん、ちがう。
おとこのひとの、からだ。
「頼む……今は、まだ何も言うな。何も聞くな」
耳元で、社長の少し掠れた、低いこえがする。
「……なんで?」
「俺が大人で、お前が子どもだからだ」
だから今は何も言うな。何も聞くな。
俺の打算に巻き込んで悪かった。お前に無理をさせて悪かった。
そう続けて、社長がはあっとため息を漏らして、その吐息が耳に入り込んできてぞくぞくと肩が震える。
それからしばらく、時間が止まった。
ううん、ちゃんと時間は進んでいたんだろうけど。でも、ワタシも社長も、動かなかった。動けなかった。動きたくなかった。動いては、いけなかった。
どくどくと滾っていた心臓はきっと収まらない、と思っていたけれど気づけば、社長のとくとくという鼓動に合わせてリズムを刻んでいた。
それを見計らって、そうっと口を開く。
「……〝打算〟ってのは、アンタにとって利益になる、都合のいい立場にワタシを引き込むことよね」
「そうだ」
「そのくせ、ワタシが子どもだからって何も言うな、何も聞くなって言うのね」
「そうだ」
「散々人を振り回しておいて、好き放題しておいて、そのくせワタシには何もするなって言うのね」
「そうだ」
「……ずるい」
「知っている。悪いが、俺の矜持に付き合え」
そう言って体を離されて、ふうっと吹き込んできた隙間風になんとなく寂しさを感じながら社長を見上げると、社長の切れ長の目とかち合った。憎らしいことに、社長の顔からもう赤みは引いていて、いつもの社長の顔をしていた。
「……何も聞くなって言ったけどさ」
「ん」
「これは他のみんなにも聞いてるからさ、聞いておきたいんだよね。──人間に必要なものってなに?」
「〝故郷〟」
実に社長らしい、社長でなければ出ない答えだ。
そう思って、さっきよりもずいぶん落ち着いた心地で微笑む。
「社長にとっての〝故郷〟ってさいはて荘よね」
「そうだ。大家さんがいて、元軍人がいて、お蝶がいて、アレがいて、爺がいて、元巫女がいて、元国王がいて、元王子がいて、巡がいて──お前がいるさいはて荘だ」
社長にとって何よりも大切で、何よりも特別な場所。
〝故郷〟──〝帰るところ〟
社長にとっては、それが何よりも大切なんだ。
「いずれ、もうひとつの〝故郷〟になってほしい存在がいる」
〝帰るところ〟とは別の。
〝帰り着く人〟が。
とくんと、胸が甘い疼きに脈打って、けれどきゅうっと締め付けられて苦しくなる。
社長は決してそれ以上何も言わない。固有名詞を決して口にしない。絶対に、口にしない。一線を決して超えようとしない。境界線の向こうで、矜持を守る。
──やっぱり、ずるい。
【故郷】




