【魔女の絵本⑦ くまがおうをやめたひ】
【魔女の絵本⑦ くまがおうをやめたひ】
傷ついた犬。
血塗れの狼。
無表情な兎。
艶やかな猫。
何もない人。
飛べない梟。
怯えてる虎。
ピエロな猿。
汚れてる熊。
潰れてる鼠。
暴れ狂う鯱。
さいはて荘のエントランスに飾られている巨大なキャンパス。そしてその下に絵本と一緒に陳列されている、十一体のぬいぐるみ。
◆◇◆
むかしむかし、あるところにわるいわるいくまのおうさまがいました。
どれくらいわるいのかって?
「おうさま! たべものがなくてこくみんがうえています!」 「あっそう」
「おうさま! あらしがきてまちがこわれてしまいました!」 「あっそう」
「おうさま! ぜいきんがたかくてみんなこまっています!」 「あっそう」
これくらい、わるいわるいおうさまだったのです。
くまのおうさまはまいにちまいにち、あそんではねて、たべてはねて、またあそんではねて、またたべてはねていました。
そんなおうさまをこくみんがいつまでもほうっておくでしょうか? いいえ、そんなことはありませんでした。
「わるいおうさまをおいだせ!」「わるいおうさまなんかいらない!」「わるいおうさまをしょけいしろ!」「わるいおうさまをこらしめろ!」
いかりをばくはつさせたこくみんたちがおしろをとりかこみ、くちぐちにくまのおうさまへのいかりをさけびました。あたりまえですね。
そしてとうとう、くまのおうさまはつかまってしまったのです。
こくみんからいかりをぶつけられ、いしをなげられ、しばりあげられ、ろうやにほうりこまれてしまったくまのおうさまはぼろぼろになっていました。でも、どうじょうするひとはだれもいません。だってわるいおうさまなんだもの。
ぼろぼろによごれてしまったわるいくまのおうさまは、だれからもみむきされないまましまながしにされてしまいましたとさ。
めでたし、めでたし。
と、ふつうならここでおわるでしょうが、このえほんのしゅじんこうはこのわるいくまのおうさまなのでまだつづきます。
しまながしになってしまったわるいくまのおうさまは、おっと。もうおうさまではありませんでしたね。では、よごれているくまは、ぼろぼろのからだでみすぼらしくごみをあさっていました。
まいにちまいにちあんなにたべていたおいしいりょうりは、ここにはありません。あるのはごみばこのそこにある、じゅくじゅくにかびたぱんだけです。
「……ぼくは、おうさまなのに」
ぐうぐうとなるおなかをおさえて、よごれているくまはなきそうになるのをこらえながらかびたぱんをくちのなかにおしこみました。とてもまずくてくさくて、たべられたものではありません。
でも、よごれているくまがおうさまをしていたころのこくみんは、まいにちのようにこれをたべていたのです。
「…………う、うう」
ぼろりと、こらえていたなみだがこぼれます。でも、そのなみだにてをさしのべてくれるひとはいません。だって、わるいおうさまなんだもの。
「だいじょうぶ?」
なんと!
どうしたことでしょう。こんなにぼろぼろによごれていて、しかもわるいおうさまのくまにこえをかけるひとがいました。
それは、傷だらけのいぬでした。ほかに、血まみれのおおかみとおびえているとらもいます。
「おまえ、わるいおうさまだろ。おれさまはしってるぞ」
「おうさまなの? すごいね! だいじょうぶ?」
おびえているとらはよごれているくまがわるいおうさまなことをしっていました。でも、それをきいても傷だらけのいぬはにこにこ、にこにことわらってよごれているくまとめせんをあわせます。
「あのね、わたしたち、いまさいはて荘ってところにすんでいるの。よかったら、おいで!」
さいはて荘はうみをいつつこえて、やまをいつつこえて、かわをいつつこえたとおいところにあるんだそうです。
たちさっていく傷だらけのいぬたちをぼんやりながめて、よごれているくまはかんがえます。
でも、かんがえてもかんがえてもわかりませんでした。
だって、よごれているくまはおうさまいがいになーんにもしてないんだもの。
でも、よごれているくまはたちあがりました。かんがえてもかんがえてもなにもわからなかったけれど、とりあえずいってみようとおもったのです。
だからよごれているくまはうみをいつつこえました。
だからよごれているくまはやまをいつつこえました。
だからよごれているくまはかわをいつつこえました。
くたくたのぜえぜえに、くたびれてくたびれてぼろぼろのよごれているくまがようやくたどりついたそこは、とってもぼろぼろのふるびたあぱーとでした。
かつてすんでいたおしろとはくらべものにならないくらい、みすぼらしくてきたならしいところです。
「くまさん! きてくれたんだね!」
でも、そこからでてきた傷だらけのいぬはおおよろこびでよごれているくまをむかえいれました。わるいおうさまなのにです。
いいえ、ちがいますね。
傷だらけのいぬにとっては、よごれているくまはわるいおうさまではありません。
ただのくまです。そりゃそうだ。
あたりまえのことですが、よごれているくまはそのことにいま、はじめてきづいたみたいでびっくりしたかおをしています。
「そうか、ぼくはただのくまなんだ」
あたりまえのことにきづいたよごれているくまは、おおきなからだをちいさくまるめて、ぺこりとあたまをさげます。
「ぼくもなかまになりたいんだけど、いいかなあ?」
「もちろんいいよ! ね、おおかみさん!」
「うん、おいで。いっしょにくらそう」
こうして、よごれているくまはおうさまからただのくまになったのでした。
ハッピーエンドなのかって? それは、きみがいちばんよくしってるよ。
◆◇◆
「……もちょこくおーらの?」
絵本を読み終えて閉じたワタシに、巡がそれはそれは不満そうな顔で問いかけてきた。それに答えたのは、元国王だった。
「ははは。そうだよ。ぼくはむかーし、わるーい王様だったんだ」
「うちょだー」
「そう思うんだね。ありがとう」
不満そうな巡に、けれど元国王は心底嬉しそうに巡を抱き上げてよしよしとあやす。
「絵本の最後にあった言葉、きみはどう思う?」
「はぴーえーど?」
「そうそう」
「はぴーえーどにきまってゆ! もちょこーおー、めーたちとにこにこしてりゅ!」
「ははは! うん、その通りだ。ハッピーエンドだよ。ぼくは今、すごくすごく幸せだからね」
そう言ってむぎゅー、と巡のもちもちほっぺに髭を擦りつける元国王は本当に幸せそうで、そんな元国王に巡も嬉しそうにはしゃぐ。
「ブラーボー、相変わらずステキな絵本を描くね、魔法少女ちゃん」
「あれ? 元王子どうしたの?」
しとしとと雨がふりしきる昼下がり。
お客様のいない〝元王様のパン屋さん〟で、ワタシは巡と一緒にだらだらと時間を潰している。元軍人が畑の肥料を買い出しに出かけるのに紛れ込んでやってきたのだ。帰りも元軍人が拾ってくれることになっている。
お客様がいたら帰ろうと思ってちらりとパン屋を覗いたら誰もいなくて、おいでおいでと手招きされたので遠慮なく入り込んで、今に至るというワケだ。
そこにひょっこりと元王子がやってきて、自然とバカルテットが完成──いや、違う。バカルテット違う。
「パンを買いに来たんだよっ。キミらがいたのはちょうどいい。報告したいことがあったんだ。ここに来る前、大家さんにはもう報告したんだけどねっ。──ホーリィガールと清き正しき交際を始めることになったよっ」
そう言う元王子は柄にもなく照れていて、だからなのか、何故だかワタシまで照れ臭い心地になってしまう。
「おや、やっとかい。おめでとう」
「こーさー?」
「おつきあい、ってこと。きみのお父さんとお母さんみたいな感じかな」
「おー! ちゅきちゅきね!」
「そうそう」
「よしてくれたまえよ、照れるじゃないか」
困ったように照れ笑いする元王子は本当にいつものおちゃらけた元王子らしくなくて、だから余計にこっちまで照れ臭くなってしまう。
「……てか、結構間が空いたね? バレンタイン……から」
「ん、まあいろいろあってね……いろいろというか、主に彼女が何も知らなさ過ぎて、というか」
元王子はやはり、元巫女からあのチョコレートを手渡された日に好意をがっつり自覚したらしい。したというか、無視できなくなったんだって。
「いろいろ悩んだよ。つまらない矜持やくだらない恐怖でね。いやはや、ボクもまだまだ青い」
「ふふ。それで、確かホワイトデーには帯飾りをあげたんだよね?」
「そうさっ。ボクなりにいろいろ考えたんだよ、これでも」
赤い撫子の帯飾り。
花言葉は、〝純粋で燃えるような愛〟──いやはや、ど・ストレートである。
「魔法少女ちゃん、キミが教えたんだろう? 花言葉」
「まーね」
「気付いてくれなくてもよかったんだ。速かれ遅かれ、ちゃんと伝えるつもりだったから。でも──気付いてくれて、彼女から話してくれて嬉しかったよ」
──あの後、ちゃんと元王子に話したんだね元巫女。
「ただ、ボクも想定外だったんだけどねっ。いやはや、あんなチョコレートを寄越すものだからすっかり勘違いしてたけれどね。どうも彼女、恋をしたことがないらしくてね」
「でしょうね」
「わからないなりに彼女が自分の気持ちを素直に吐露してくれるもんだから、ボクもすっかり茹で上がっちゃったものさ」
ああ……うん。そっか、元巫女ブチ撒けたのか。うん、たぶんドキドキするとか体が熱くなるとか、いろいろ素直に、それはそれは馬鹿正直に話したんだろうな。うん。そりゃ茹で上がるわ。
そういうわけで元王子は恋情を理解していない元巫女のために、ゆっくり進んでいくことにしたらしい。そこらはさすがに詳しく教えてくれなかったけれど。
そうしてつい昨日〝不束者ですけれど〟と、ずっとそばにいたいことを告げられたんだそうだ。このあたりで、ワタシはいよいよカッカッと顔がヤバいことになってきたので巡を抱き上げて顔を隠した。いやもうほんと。ンンンンンン!! って感じ。
「ははは。魔女くんったら真っ赤」
「おや、刺激が強かったかい?」
「うるへー」
でも、そっか。
元王子と元巫女、付き合うことになったのか。
「おめでとう。あんま元巫女を振り回さないようにね」
「ありがとう。気を付けるよっ」
うん、そっか。
恋人、になるのか。
なんだろう、なんだか。なんだか……不思議な気分。大家さんと元軍人が付き合うようになった時とは、なんか違う気分。見ていて、こう、ンンンンン!! なのよ。わかるかな~。ああ、語彙不足……ってか、この場合経験不足?
「……そういえばさぁ、元国王」
「ん?」
「お蝶とはどうなったの?」
ワタシの言葉に、元国王はほんの一瞬目を見開いて──けれどすぐ、柔和な笑顔を浮かべた。
「そういえばこの間、見られていたねぇ。何ともないよ。いつも通り」
「いつも通り、なんだ」
「うん。いつも通り、やられたらやり返してるよ」
「そっかぁ、やられたらやり返……えっ?」
やられたらやり返す? おい待て、なんだその関係性。知らねーぞそんな関係性。ほのぼのとした笑顔でさらっと言うんじゃねえ。
「ははは」
はははじゃなくて。
あれ? 思ったよりも元国王腹黒い? 悪王だからか? 元悪王だからか!?
──と、顔を引き攣らせているワタシとは対照的に、元王子は平然とした顔で悪い大人だねぇと笑っている。
「そう、悪いおじさんなのさ。彼女もなかなかに手練れではあるけれどね、まだまだ若い」
「で? キミはフェアリーをどうこうするつもりはないのかい?」
「うーん。どうなんだろうねぇ……この年になると、感情的になかなかなりにくいね」
そう言って穏やかに微笑む元国王を見て、ふと脳をよぎったのは──涙を流す元国王の、姿だった。
幸せそうに笑うウエディングドレス姿の大家さんと、照れ臭そうに笑うタキシード姿の元軍人。
それを見て、涙を流す元国王。
「──どうして?」
「ん?」
気付けば、元国王に問いかけていた。これは元国王のプライベートゾーンだ。元国王の中だけに秘めておくべき、モノだ。それはわかっている。わかっている。わかっているはずなのに。
ワタシの口は、止まらなかった。
「──どうして、切り替えられたの?」
失礼だ。
とてつもなく、失礼だ。失礼なことを聞いている。わかっているのに。わかって、いるのに。
「──どうやって、切り捨てたの?」
「切り捨てていないよ」
ワタシの静かな問いかけに、元国王は先ほどと変わらぬ穏やかな微笑みで答えた。
「そして、切り替えてもいない。ぼくは今でも大家さんのことが好きだよ」
「っ……」
「魔女くん、一緒にしちゃいけない。ぼくときみは違うし、大家さんと彼は違う」
「…………」
何も、返せなかった。
返せず、俯くワタシに構わず元国王は優しい声で続ける。
「そういえば、人生に──人間に必要なものは何かってみんなに聞いてるんだってね。じゃあ、ぼくの答えを教えておこうか」
〝愛情〟だよ。
そう言って、元国王はやはり穏やかな顔で──無尽蔵の愛情に満ち溢れた顔で、微笑んだ。
「ぼくはね、きみたちを愛しているんだ。愛してやまないんだ。あの日、大家さんに声を掛けられて……さいはて荘に住むようになった瞬間から、ぼくはさいはて荘のみんなが愛しくて仕方ない」
大家さんも、元軍人さんも、お蝶くんも、爺さんも、社長くんも、元巫女くんも、なっちゃんも、元王子くんも、暴くんも、魔女くんも。
みんな、愛しくて仕方ない。
「愛しいもののためなら頑張れる。生きようって思える。幸せにしたいって思える。なんて素敵なんだろうってさいはて荘に来てから思ったよ」
おはようからおやすみまで。外にいる時も。パンを作っている時も。楽しい時も辛い時も。そう、辛い時も辛い時も。
「〝愛情〟ほど心を満たしてくれるものはないって思っているよ」
だから、と元国王はワタシの頭を撫ぜて大家さんへの気持ちを昇華できたのだと語る。
「ぼくは大家さんを愛している。そして、元軍人さんも愛している。それ以上に、一緒にいるふたりを愛してやまない。それだけのことさ」
だからぼくときみは違うんだよ、と元国王はまた言った。
「〝愛情〟は人によって形が違う。当たり前のことだけれどね」
大家さんの、無条件の愛情。
元国王の、無尽蔵の愛情。
社長の、無言の愛情。
元軍人の、厳かな愛情。爺の、穏やかな愛情。お蝶の、豪胆な愛情。元巫女の、清らかな愛情。元王子の、煌びやかな愛情。なっちゃんの、何もしない愛情。
「人によって違うし、相手によっても違う。これも、当たり前のことだけれどね」
例えば元軍人。
元軍人が大家さんに向ける愛情と、ワタシや巡に向ける愛情は量こそ同等であれど質は違う。
「彼のことでいろいろ考えてしまうのはわかるよ。彼には立場があって、地位があって、権力があって、人望もあって、将来もある。でも、彼は彼だ。ぼくじゃないし、大家さんでもない」
同じに考えちゃだめだよ、とまた繰り返す。
ワタシは、何も答えられない。
「焦らなくていいんだよ。大丈夫。今すぐ答えを出す必要なんてない。ぼくみたいにやる必要だってこれっぽちもない。だって、きみとぼくは違うんだから」
ワタシは、やはり何も答えられない。
「ぼくと大家さん、ぼくとお蝶くん、元王子くんと元巫女くん。それに大家さんと元軍人さんもだね。それぞれ、形がだいぶ違うだろう? 当たり前だ──みんな、他人なんだから。だからね魔女くん、わからなくて当たり前なんだ」
悩んで当たり前なんだ。
迷って当たり前なんだ。
「〝愛情〟に定型文はない。だからね、きみはきみなりに彼と向き合うしかないんだ」
ぼくらを参考にしちゃいけない。
きみが見ているのは、ぼくらではないのだから。
「……でも」
ぎゅ、といつの間にか手汗でびっしょりになっていた手を握り込む。
「……でも、アイツにとって特別なのは〝さいはて荘〟で」
いつだって、そう。いつだって。
いつだって、あの人は何よりもさいはて荘を大切にしていた。している。
そう、あの人にとって大切なのは〝さいはて荘〟であり、〝さいはて荘に住むみんな〟だ。そう、みんなだ。
「そうだね。彼はさいはて荘のためになら努力を惜しまない。彼ほど、さいはて荘のために動いている人間もいないだろうね」
当たり前だろ? と、元国王は俯いているワタシの前に跪いて、ワタシと視線を合わせた。
「ぼくらがさいはて荘を大切なのと同じくらい、彼もさいはて荘が大切なんだから。そして、彼にはさいはて荘を守れるだけの力があった」
けれど、と元国王はなおも言葉を重ねる。紡ぐ。
「さっきも言ったように、〝愛情〟にはいろんな形がある。彼がさいはて荘に向ける〝愛情〟を、彼が持つ〝愛情〟の全てだと思ってはいけないよ」
──そう思いたいのはわかるけれどね。
付け加えるように言って、元国王は元王子に視線を寄越した。
「傷付くのは誰でも、怖いからね」
「──そうだね。不思議なことに、こういったセンシティブな事柄にはなおのこと、臆病になってしまう。ボクもそうだったし、かつての大家さんとラストサムライもそうだったね」
清廉潔白で純粋無垢な元巫女が友人以上の意味合いで元王子を見つめていると、とても思えなかった──そう言う元王子に、ワタシは思わず怪訝そうな顔をしてしまったらしい。ワタシを見てくすくすと笑いながら、元王子はそういうものさと語った。
「はたから見ればわかりやすかったらしいねっ。でも、ボクにはとてもそう思えなかったんだ。いや──ボク自身、〝もしかしたら〟っていう予感はあった。もしかしたら、彼女もまた特別な気持ちを抱いてくれているんじゃないか、とね」
でも、と元王子は細く息を吐いて髪を掻き上げた。
「勘違いかもしれない、って怯えたんだ。いざ想いを告げて、けれどそれがボクの単なる自惚れで、実らなかったらどうしよう、って恐れたんだ。──誰だってそうなるんだよ」
「…………」
「ま、だからね。今すぐ答えを出す必要なんかないのさ。テディベアも言ったろ?ボクらときみらは違う。きみらがボクらのような過程を辿るって、どうして言えるんだい?」
ワタシは、やはり何も答えられない。
「大丈夫、と言っても今のきみはちっとも大丈夫じゃないんだろうけどね。でも、大丈夫さ。それはぼくらが保証する」
「……どうして、わかるの?」
「他人だからさ」
〝愛情〟ってのは、時には当人よりも第三者の方がよく見えたりしてしまうもんなんだ──そう言って元国王はくすくすと笑って、ぽふぽふとワタシのほっぺたを挟み込むように叩いた。
「ま、にっちもさっちもいかなくなったらぼくらに言えばいいよ。それか、もう直接彼にブチ撒けて思いっきり呪ってやるとかね」
「…………」
「そうは言うけれどねテディベア。ボクからしたらキミもいい加減観念したらいいと思うよっ」
矛先が自分に向かうとは思っていなかったのか、元国王がぱちくりと目を丸くしてぼく? と自分を指差す。そうキミさ、と元王子が巡を抱き上げて巡の指先を元国王に付きつける。
「とは言っても、キミが何もしなくともそのうちフェアリーがどうにかするだろうけどねっ」
「……お蝶くんが?」
「そう。フェアリーさ。キミ、何故ボクが彼女をフェアリーと呼ぶか知っているかい?」
いや、と答える元国王に元王子は目を細めて笑う。
「そもそも妖精ってのは元々、ケルト神話の神々だったんだ。ケルト民族はね、書物で伝承を遺すことを決してしなかったんだ。口承のみで神話を語り継ぎ、やがて侵略され呑み込まれたケルト神話は薄れ……忘れ去られた神々が妖精となった、と言われているんだ」
ケルト神話の神々には自由奔放な性質の者が多いのだけれど、その反面、愛する者や信条とするもののためならばどんなことだってする苛烈さを持ち合わせているんだそうだ。時には凶暴にさえなる熾烈なまでの熱情で、ひたすら目的を追う。──ああ、こう聞いてみると確かにお蝶だ。
「若いってのは時にとんでもないエネルギーを発揮するものだよ、テディベア」
「……そんなものかねぇ」
「そんなものさっ」
ふたりの会話を聞きながら、ワタシはぼんやりと自分の手のひらを見下ろす。
アイツとは全く違う、小さくて頼りない手。こんな風に、気付けばいつだって思考にアイツが出てくる。意識しているわけじゃないのに、いつだって比較対象にアイツが出てくる。意図なんてしていないのに、いつだって脳裏にアイツの背中がよぎる。
それくらい、ワタシの思考にはアイツがつきまとっている。
つきまとっているんだ。つきまとっているのに。
それなのに、思考ができない。
アイツについて思考しようとするたびに、さざ波が脳を攫って何も考えられなくなる。
〝考えたくない〟という名の、さざ波に。
〝今のままでいい〟という名の、さざ波に。
今だってそう。
ホラ、元国王や元王子と散々話したのに。
思考が、やはりさざ波に攫われて止まる。
──ワタシは。
ワタシは。
ワタシは。
【愛情】




