8 導なき暗闇の中を
アマネセルは、外を眺めていた。
雨が降っている。
窓から見える景色。安宿に響く雨音。
ざあざあと、地を叩く雨粒達。ガラス一枚隔てた向こう、内側と外側ではまるで別世界。
彼女は手帳とペンを取り出した。
空っぽの彼女は、いつもその中身を満たそうとしている。考えたことは、全て手帳に書き込んでいくのだ。《想星石》を作る訳でもないのに、ただ書き連ねていく。
――ここは《悲劇に沈む町・レーゲングス》。北の果てにある《監獄迷宮・アンフェル》から、王国を経由して南下した先にある海沿いの町だ。
この町は、かつて《巨大種》との戦いにより大半が水底へ沈んでしまった。
巨大種は退けられ、町の北にある《嘆きと迷いの森》へ封じられたが、今も影響は残り、常に天候が不安定になっている。
この町を滅亡の危機から救ったのが《四聖剣》が一人、レイン・トラジェディ。
彼女は、アマネセルの師であった。
(レイン様……私は、一体どうすれば……。私が信じてきたものは、真実は、正義は……)
アマネセルは思い悩む。
ここへ来ることになったきっかけ。
ここへ来るまでに見てきた出来事。
今まで信じてきたものが崩れていく恐怖。
今まで信じてきた正義が壊れていく絶望。
なにから語ればいいのか。
師に再会した時、なにを問えばいいのか。
ぐちゃぐちゃになった思考を紐解き、整理しなくてはならない。
まずは、あの戦い――、
復讐鬼と探求者が紡いだ、凄惨な戦いの結末を追想しよう。
そこで少女は知った。
――自身が信じていた正義の裏側を。
◇
アンフェルでのヒギリとフルグルの戦い。周囲は血みどろで、ヒギリやフルグルの血、フルグルが撃ち殺した囚人達の流した血で真っ赤に染まっていた。
アマネセルはこんな光景は許容できない。
そもそも戦い自体を憎んでいるというのもあるが――それよりも。
戦いに無関係な人々を巻き込んだフルグルを、少女は許せなかった。それは誇り高き《四聖剣》の在り方ではない。民を守るための剣が、何故このような凶行に及ぶのか。
「どうして、こんな……」
「何がだ? 人が死ぬことが、そんなにおかしいか?」
「魔の溢れたこんな時代です、人は死にます……ですが、こんな死に方はあんまりじゃないですか! ここには正義がない! こんなことは、許されていいはずがありません!」
魔物に殺されたのですらない。
フルグル――《四星剣》という、民を守るための存在によって、容易く命が散らされた。
「正義なんてどこにもねえし、お前が許さなくても人間は無価値に死んでくよ」
「貴方は……、貴方には、人の心はないのですか? 心まで、その腕のように異形と化しているのですか?」
怒りのままに、そう口にしていた。
いくら《神因》を宿しても、彼は神ではない。全てを救えない。
それでも、憤らずにはいられなかった。彼は《星導騎士団》の敵だ。
この世界で最悪の大罪人、《炎獄の凶手》だ。
そんな者に、被害の配慮をしろ、戦う相手が出す犠牲にまで気を払えなどとは無理な注文だろう。
だとしても、フルグルを殺して、たくさんの命が失われた後に、それをなんとも思っていないような態度を取ることは、アマネセルにはどうあっても許せなかった。
「……はは……はははっ! さあ、どうだろうな? 一体、人間らしくねえのはどっちだか……」
誰にでもなく呟いて、男は異形の腕で顔についた血を拭う。
「どういう、意味ですか?」
「――見せてやるよ、正義ヅラしてるお前にな。……どれだけこの世界がイカれてるかを」
◇
階段を降りていく。地獄の先でも目指すかのように。
ヒギリが幽閉されていた場所よりもさらに下――そこに、真実は眠っていた。
『この下……何か、強大な魔力を感じるのですが、一体なにが?』
『アァ、デスからこの下ですよ――件の《炎獄の凶手》を幽閉しているのは』
おかしいとは思っていた。ヒギリは確かに強大な魔力を持っているが、それでは説明がつかない。一人分の魔力ではなかったのだ。そんな簡単なことに気づく余裕すらなかった。
そして――、
ソイツは、そこで眠っていた。
――――巨大種。
通常の魔物とは桁違いの大きさ、保有魔力、強さを持つ怪物。
全身を幾重にも鎖で戒められた、三つの頭を持つ犬。
「これは……一体……いつから、いつからここに……?」
アマネセルは戦慄く唇で必死に言葉を紡いでいく。
あり得ない。魔物化した鼠を放置するのとは、訳が違う。この巨大種が暴れ出せば、先刻の比ではない死者が出る。あまりにも危険過ぎる。そもそも、この巨大種は、フルグルがかつて倒したはずだ。少なくとも、少女はそう聞かされていた。
「さあな。随分前からじゃねえのか? 少なくとも、俺よりは古株だぜ、こいつ」
「どうして、こんなことが……?」
「ここが《不浄》が溜まりやすい場所ってのはわかるよな?」
「……え、ええ……」
監獄という場所の性質上、負の想念の溜まることは避けられない。
不浄が溜まれば、魔物化が起こる可能性も高まる。
「大きな不浄を抱えたモノってのは、他の不浄を食らうんだよ。巨大種ともなれば、ここの不浄を全部こいつが食らってたんじゃねえか? だから、そこらの鼠が不浄に侵される程度で済んでた。恐らくだが、こいつを殺せばここは瞬く間に獣の檻に変わるだろうな」
「そ、んなこと……私は……騎士学校でも、そんなことは……」
「ま、学校じゃ教えねえだろうな。この事実を囚人どもが知ってもまずいんじゃねえか? それだけで、ビビって魔物化するやつが出そうだ」
「あなたは……どうして平気な顔でそんなことを……っ!」
淡々と語る男に、思わず八つ当たりしてしまう。
少女だって、理解しているはずなのだ。
彼だってここへ繋がれていた者であり、巨大種を繋いだのは彼ではないというのに。
「……知るか。これが……こんなものが、あの男の言う、理想なんだろうよ」
あの惨劇の夜を思えば。
男にとって、この程度のことは動じるに値しない。
確かにザフィーアは英雄なのだろう。これで誰かを救えているのだろう。事実、この処置によって監獄内の魔物化は抑えられているはずだ。
どれだけ危険を伴い、非人道的で、真実が表に出ればそれだけ災厄が起こり得るような方法だとしても――それでも、現状だけ見れば、そこまで間違っていることをしているとは思わない。
「だったら、私がこれまで信じていたものは……」
フルグルという男の狂気。隠されていた真実。信じ続けた正義の裏側。
ずっと、光に向かって歩いていると思っていた。
光への道は突然閉ざされて。
――――少女は、真っ暗な闇の中へ放り出された。
◇
「――これからどうするつもりだ?」
「……私、は……」
失意に沈む少女。
常識が壊れた直後に、未来のことなど考える余力がないとわかっていて、ヒギリは選択を突きつける。
「俺とお前は、赤の他人だ。俺達はまったく関係ない。そして相容れない。だが、俺の目的のためにお前の協力が必要だ。それに……お前のこれからに、俺の目的は役に立つはずだ」
彼はなにが言いたいのだろうと、ぼんやりとした頭で考える。
遅れて言わんとする事を察した時には、その言葉が告げられていた。
「仲間になれなどとは口が裂けても言わない――だが、利害は一致してるだろ。だから俺について来い」
「そんなこと、できるはず……ッ!」
「お前……いつも、まず感情で反発してくるな……まあ、全て理詰めで動くよりはまだ好感が持てるけどな」
憎悪という感情で動きながら、その目的のためには冷徹な理屈で動く男は、少女のことをそう評した。
ヒギリの今の言葉は、巨大種による《不浄》を抑制するシステムを揶揄してのものだろう――ひいては、その方法を選んだと思われるザフィーアを、だろうか。
自分だって、大勢の死を冷徹に処理しているくせに……と少女は反射的に内心で男をなじるが、それよりも今は、相手の言葉を咀嚼するのが先だと気づく。
――ついていく?
――《四聖剣》であるこの私が?
世界を守るための存在が、世界に仇なす男についていく。あり得ない、なにが起きてもそんな展開にはならないはずだ。
だが、あり得ないことなら今日は既に山程経験してしまった。
――――これまでの道を想う。
記憶がない、空っぽの少女。しかしその器には、何かの残滓があった。
少女に残った衝動。
なにもないはずの自分が求めるのは。
正義を成すこと、誰かを守ること、英雄を目指すこと。
声も顔も思い出せない誰かに守られた記憶。その誰かに憧れて、そんな曖昧なモノに縋って進み続けた果てに、ここにいる。
《炎獄の凶手》。この男は、明確な悪だ。人殺しだ。そんな男についていくのは、アマネセルの中の正義が許さない。
だが、この惨状はなんだ?
この真実は、何を意味している?
アマネセルが信じた正義は――ザフィーアという、英雄の理想は、本当に正しいのか?
アマネセルがザフィーアを盲目的に心酔せず、疑いを持つことができたのは、彼女の中に二つの憧憬があったから。
ザフィーアへの憧憬。
そして、記憶の中の誰かへの憧憬。
確かめなければならない。何が本当に正しいのかを。
今はまだ、わからないことだらけだが、恐ろしくてたまらないが、それでも、怯えているだけでは、なにも成せない。
迷いの末、少女は決意した。
自分は、見極めなければならない。
ヒギリ・シラヌイという復讐鬼を。
ザフィーア・グラキエスという英雄を。
全て自分の目で確かめてから、何が正しいのかを、自分で決める。
「――で、どうすんだ?」
「いいでしょう……。ですが、勘違いしないでくださいね。騎士団の正義を疑ったところで、貴方のすることに……悪に加担するなど、ありえませんから」
もしも星導から外れるのだとしても。
それでも、どこかに目指した正義があるはずだと信じて。
――――暗闇の中を、少女は歩き始めた。